山岳小説(新田次郎)
−詳細データ・1976〜79年−
 
 
 
作 品 名
「聖職の碑」 (1976年)
あらすじ
 長野県中箕輪尋常高等小学校長赤羽長重は、若い教師たちの間で白樺派の影響を受けた理想主義教育が流行ていることに困惑していた。白樺派の文学は確かに面白かったが、それがなぜ教育に結びつくのか理解できなかった。赤羽は、理想主義教育も良いが、実践的教育にも重きを置いていた。
 そんな折、例年恒例となっている駒ヶ岳登山のシーズンになり、赤羽校長は白樺派教師の反対を押し切って、登山を実行することにした。赤羽校長ら引率教師3名、青年会員9名に25名の少年が出かけることになった。
 入念な事前準備を行い、天気予報を何度も確認したにも係らず、登山途中から雨が降り始め、しかも一行が宿泊を予定していた伊那小屋に着くと、小屋は火事で無くなっていた。赤羽校長は石とハイマツ、着茣蓙で仮小屋を作り、全員を眠らせないようにしながら雨風を凌がせた。しかし、体調の悪かった古屋時松が死んだのを契機に不安が広がり、青年会員を中心に我先にと下山し始めた。
 赤羽校長がいくら止めても抑えは効かず、一向はバラバラになりながら麓を目指した。暴風雨、疲労、により、倒れるもの、道を間違えるものが相次ぎ、救援隊の活躍もむなしく、赤羽校長他11名が命を失った。
 白樺派であった有賀喜一は赤羽校長の実践教育に感銘を受け、赤羽校長の遺志を伝えるために、遭難記念碑建設に奔走した。もともと体の弱かった有賀は、遭難の後処理と記念碑建設活動による疲労のため命を落とした。
感 想 等
( 評価 : B )
 私が中学生だった頃のこと、鶴田浩二主演の同名映画を見たような記憶があり、新田次郎氏の作品の中では馴染みのあるものだったが、改めて読んでみるとこういう話だったのかと感動する。思想的な背景があったということもおもしろいが、当時の教師という職業の崇高さを見るにつけ、今の教育の荒廃が情けない。
 遭難の記録として、人間的な物語として感動するのもさることながら、巻末の取材記が付いていることによって、小説作成に至る取材記録や構想の練り方までわかっっておもしろい。
山  度
( 山度 : 70% )
 木曽駒ヶ岳登山。今の木曽駒からは考えられないような山の厳しさが描かれているが、これが自然と言うものなのだろう。

 
 
 
作 品 名
「鷲ケ峰物語」 (1977年)
あらすじ
 霧が峰北部の鷲ヶ峰にハイキングに来た掘海亘、伊都子ら会社の同僚7人は、その記念に山頂にケルンを積んだ。その山頂に石地蔵が2体あり、佐町悦男と千滝利夫の2人が、掘海や伊都子が止めるのも聞かず、それを持って帰ってしまった。
 そのすぐ後に会社が倒産し、7人はばらばらになった。掘海の紹介で不動産会社に勤務し始めた伊都子は、2年後、掘海と結婚した。ところが、結婚して3ヶ月経つ頃、掘海が青い顔をして帰ってきた。会社の接待で行った料亭の庭にあの石地蔵があり、料亭に聞いたところそれを持ち込んだのはやはり佐町で、彼は鷲ヶ峰に一緒に行ったみさと結婚したのだが、新婚旅行で2人して交通事故死したという。
 石地蔵のばちが当ったと思い込んだ掘海は次第に塞ぎ込むようになり、ついには精神的に参って入院してしまった。入院により病気は治ったものの、石地蔵から解放されるために、2人は石地蔵について調べ始めた。
感 想 等
( 評価 : C )
 山に関連するもの、関係ないもの等織り交ぜている短編集「鷲ヶ峰物語」に収められている表題作。
 鷲ヶ峰山頂から石地蔵を持ち帰ってしまったことから、数奇な運命に巻き込まれるというややオカルトチックな物語。単なるオカルトで終わらないところが新田次郎とも言えるが、ラストの結びつけは強引という感じがしないでもない。
山  度
( 山度 : 20% )
 山、登山は出てくるものの、山岳色は薄い。本書に収められている作品のうち、山関連は表題作の他は「谷川岳春色」程度か。

 
 
 
作 品 名
「谷川岳春色」 (1977年)
あらすじ
 千原章子、秀沢一道、若原順平、森崎達也、典子の5人は、20年前に谷川岳一の倉沢中央稜を登攀中に雪崩に遭って死んだ千原和雄の遭難碑へと向かっていた。千原和雄が雪崩に遭った時のパートナーだった秀沢は、遭難死から2年後に千原の妻とし子が病死すると、6歳だった章子を引き取ることにした。典子は秀沢との結婚を望んだが、章子が反対したため秀沢は諦めざるを得なかった。
 若原と森崎は章子の会社の同僚で、2人とも章子にプロポーズしているという。千原和雄の遭難碑の前まで来て、章子が秀沢と2人で話がしたいといった。その内容は、秀沢にとって驚くべき内容だった・・・。
感 想 等
( 評価 : C )
 谷川岳での遭難劇に起因するその後の物語。男女の仲というものは、実に他人からは窺い知ることのできないものなのだ。
山  度
( 山度 : 20% )
 谷川岳山麓での物語。登攀シーンはわずか。

 
 
 
作 品 名
「山霧の告知」 (1979年)
あらすじ
 小説家の柿沢九郎は、案内人の佐田勝雄と一緒に上高地から蝶ヶ岳・常念岳へと縦走していた。柿沢はいつもなら何も考えずにぼんやり歩くのが常だったが、この日は徳沢園で見掛けた長い髪の女性のことが気になっていた。ロンドンで会った冬野春子に似ていたのだ。
 春子は、ロンドン在住日本人向け文芸講演会に参加していたが、亡き夫が柿沢のファンだったという理由で柿沢のことを研究しているという不思議な女性だった。
 縦走していた柿沢は、しばしば不思議な感覚にとらわれていた。誰もいないはずなのに誰かが後ろから着いてきているような足音が聞こえたり、深夜に窓ガラスを叩く音が聞こえたりしたのだ。佐田に相談すると、それは山で遭難して行方不明になった人からの「知らせ」だという。常念小屋の主人によると、昨年6月に新婚山行にきていた夫婦のうち奥さんだけが不行方不明になったという。
感 想 等
( 評価 : D )
 新田次郎の作品の中で、数は多くないものの山での怪奇現象、怪談を取り扱ったものがある。山では何があっても不思議ではないとはいうものの、それら作品群は小説としては今ひとつ(好みの問題かもしれませんが・・・)。
山  度
( 山度 : 60% )
 上高地から蝶ヶ岳、常念岳へ。

 
 
 
作 品 名
「富士、異邦人登頂」 (1979年)
あらすじ
 万延元年(1860)、英国大使のオールコックは江戸幕府に対して富士登山を要求した。オールコックの身に万が一のことが起こるのを恐れた幕府は、なんとか思い留まらせようとしたが、彼は頑として聞き入れなかった。修好条約により、幕府がその要求を断ることができないことも明らかだった。江戸幕府はやむを得ずオールコックの富士登山を認め、警備に念には念を入れて準備した。
 小田原の大久保藩や富士宮浅間神社にもきつくお達しを出し、オールコックの富士登山は万難を排して実施された。道中、民情を視察して回ったオールコックは、日本人の勤勉さや幕府の政治が行き届いていることを目にし、逆に日本に対する理解を深めることとなった。
感 想 等
( 評価 : C )
 さすが日本一の山・富士山。それに相応しい数々の歴史があるのだと改めて感じさせてくれる出色の作品。
山  度
( 山度 : 20% )