山岳小説(国内)・詳細データ
〜瓜生卓造〜
 
 
作 品 名
「単独登攀」 (瓜生 卓造、1957年)
あらすじ
 ヘルマン・ブールは若い頃からイタリア・ドロミテなどを中心に岩壁登攀を繰り返し、職を転々としながらも実績を積み上げて行った。映画のバイト中にピッツ・ベルニナ6時間登頂などの伝説を残し、その時の賭けで資金を作り、クーノー・ライナーとともにグランド・ジョラス、ウォーカー・バットレス第七登。さらに、アイガー北壁をドイツ隊、フランス隊と一緒になりながら、常にトップで完登した。
 それらの功績が認められてブールは未踏峰ナンガ・パルバット遠征隊のアタック隊員に選ばれた。しかし、遠征隊長が山の素人であったことから、隊は当初から多くの問題を抱え、一時は退却も止む無しとなった。しかし、モンスーン直前に好天に恵まれ、ブ−ルら登攀隊はベースの退却命令を無視してアタックをかけた。最終キャンプからブールとケンプターがアタックしたが、ケンプターがついてこれない。ブールは止む無く単独行を決行し、幻覚に悩まされながらもついには初登頂を果たした。
 ブールの単独行は登山界に大きな波紋を呼んだが、これを契機に小規模登山隊によるヒマヤラ挑戦へと時代は移っていった。さらにブールは、未踏8000m峰のブロード・ピーク初登頂を成し、その足で未踏7000m峰チョゴ・リザへとアタックした。
感 想 等
( 評価 : B )
 ナンガ・パルバット、ブロード・ピークの初登頂者であり、若くして夭逝した天才クライマー・ヘルマン・ブールの伝記小説。登山するものなら誰もが知っているであろうブールを、その死後すぐ後に描いた伝記小説で、ブールの知られざる一面を描き出した小説として面白い。
 新田次郎が先人をモデルに独自のストーリーを創作する作家であるならば、瓜生卓造はむしろ事実に忠実に、かつリアルに描こうとしているのではないかと思われる。これを読むとブールの「8000メートルの上と下」を読んで見たくなる。
山  度
( 山度 : 90% )
 ナンガ・パルバット登頂シーンなど山岳描写が豊富であることは言わずもがな。伝記小説としても、山岳小説としても楽しめる作品であること請け合い。

 
 
 
作 品 名
「遠い湖」 (瓜生 卓造、1958年)
あらすじ
 朋友製薬の若社長である純一は不倫相手である美智子、彼の大学スキー部後輩で弟のような存在である岩瀬徹、徹の恋人・和代の4人で、雌阿寒岳に冬山スキーをしにきていた。しかし、純一は事業に失敗し、また妻にも背かれており、気分は憂鬱だった。
 悪天のため湖畔にある温泉宿で停滞した4人は翌日雌阿寒岳へと向かった。天候はあまり良くなかった。純一は行ける所まで行けば良いと考え、頂上まであと40分というところで引き返すよう提案したが、折角ここまで来たのだからという女性陣の言葉に押されて頂上まで向かうことになった。
 ほどなく頂上に到着したが、天候が悪く展望は効かない。到着後すぐに退却することとなり、一行はスキーで下り始めた。小屋を過ぎてしばらくすると、道がおかしい。迷ったようだ。吹雪になり視界がきかない。
 次第に薄暗くなり、とうとう雪洞を掘って一晩過ごすことになった。純一は徹に女性2人を任せ、救援を呼ぶため麓を目指した。しかし行けども行けども着かない。次第に純一の足も覚束なくなり、幻覚を見るようになっていった。
感 想 等
( 評価 : C)
 バックボーンとして描かれているストーリー部分の重みについてはやや難があるかもしれないが、メインに描かれている冬山の世界は、瓜生氏の真骨頂というところだろう。
山  度
( 山度 : 80% )
 冬山、雪山が荒れた時の恐さ、これはもう遭難ものを数多く手懸けている瓜生氏得意の分野であり、存分に描かれている。

 
 
 
作 品 名
「槍ヶ岳」 (瓜生 卓造、1958年)
あらすじ
 播隆は飛騨や美濃の山間僻地へ出向いて信者へ説いて回っていたが、彼の念願は笠ケ岳再興であった。そして、信者と共に笠ケ岳に登り無事再興を果たした播隆が見たものは、槍ヶ岳の岩峰であった。その時以来、播隆は槍ヶ岳に登ることを心に誓った。
 なかなか機会は得られなかったが、信濃では樵夫が上高地の奥深くまで入りこんでいることを知り、松本藩の鳥見役・中田九左衛門、その分家の又重郎の協力を得て、播隆は槍ヶ岳へ向かった。一夏、麓の岩小屋に篭もって登路を探したが、結局見つからずに終わってしまった。
 2年後、播隆は再挑戦に訪れ、又重郎らとともに槍ヶ岳に挑み、ついには槍ヶ岳を征頂したのだった。その後播隆は一般信者が登れるように鉄の鎖を付けるなどしたが、折からの悪政、飢饉で人々が苦しんでいたこともあり、播隆は山の神聖さを汚したとして非難を浴びる結果となった。
感 想 等
( 評価 : C )
 槍ヶ岳を開山した播隆の一代記。新田次郎の描く播隆と比べるとかなり印象が違う。瓜生氏の描く播隆はその史実に重きを置いており、槍ヶ岳開山がいかに大変であったかがよくわかる。一方、新田氏の描く播隆は、創作による部分も多いのだろうと思われるが、人間的な内面がよく描かれている。好みの問題ではあろうが、個人的には新田氏の描く播隆の方が好きである。
山  度
( 山度 : 60% )
 江戸時代の話だけに、山や山麓の様相も登り方も今とは違う。登山とはいうものの、苦行の一種という感じなのであろう。

 
 
 
作 品 名
「大岩壁」 (瓜生 卓造、1961年)
あらすじ
 大正14年8月同じ日に、2つのパーティが、滝谷初登攀を目指していた。ひとつが神戸でRCCを創設した登山界の重鎮・藤木九三と叙情詩人として知られた冨田砕花にガイド・ポーターの4人。もうひとつは、早大生の四谷龍胤と小島六郎に、ガイド・ポーターの4人のパーティー。今田館で一緒になった一行はお互いの目的が同じであることを知り、協力して一緒に登ることにした。
 翌日、藤木らはドウまで行きに天幕を張り、早大隊は槍平小屋に泊まった。翌朝はドウで7時に落ち合う約束。ドウに天幕を張った藤木らは早々に出発の準備を整え、「6時には行きますよ」と言った早大隊を待ったが、時間になっても現れない早大隊を待ちきれず7時丁度に出発。一方、小屋の後始末に手間取った早大隊は、7時過ぎにドウに到着したが、藤木らは既に30分前に出発したという。
 どちらかの時計が狂っていたのか、それとも藤木が早大隊を出し抜いたのか。わが国アルピニズムの黎明記を飾る初登攀になぜ30分の誤解が生じてしまったのか、その謎に迫る。
感 想 等
( 評価 : C )
 滝谷初登攀を巡る30分の謎を、小説の形を取りながら探っていく。瓜生氏は藤木の策略ではないかと見ている。登山家としての藤木の功績、さらには登山におけるかけひきの存在まで認めつつ、藤木がそれを明らかにしなかったことを問題視している。小説の形態をとりつつ、ラストの方はノンフィクションもののように、筆者の思いや推測が語られている。
 瓜生氏の疑問、気持ちもわかるが、今となっては解明しようもない謎。そうであるならば、仮説を仮説として、全て小説として書いてしまった方がスッキリする。
山  度
( 山度 : 100% )
 滝谷初登攀という史実上の興味、おもしろさもさることながら、作品それ自体は山の色も濃く、それだけで読み応え充分。また、大正期、今とは比べるべくもない原始的な用具による当時の登攀の様子もわかりおもしろい。

 
 
 
作 品 名
「銀嶺に死す」 (瓜生 卓造、1964年)
あらすじ
 極地法訓練ために冬の薬師岳に来た大学山岳部員13名。血気盛んな若い下級生達の勢いに押されて、リーダーの俊一もアタック敢行を決めたが、猛吹雪に遭い撤退。その途中、東南稜へと迷い込んでしまう・・・。(「薬師岳」)
 積雪期の一ノ倉沢三ルンゼ初登攀を目指した雪稜会の佐竹ら3人。途中で雪に降られ雪洞で停滞するも、矢島が衰弱し始めたため登攀を再開。その直後、安岡が雪崩に巻き込まれ、登攀用具も持っていかれてしまった・・・。(「谷川岳」)
 この他、実際に起きた遭難事件を基にかかれた「芦別岳」、「岩木山」、「北穂滝谷」など5編を集めた短編集。
感 想 等
( 評価 : B )
 作者自身これはあくまで小説であり事実とは異なると言っているが、かなり忠実に描かれているのではないかと言う感じがする。クライミングや雪山の描写はさすが瓜生氏であり、遭難の恐さがよく伝わってくる。「谷川岳」で命からがら脱出した佐竹が別パーティに出会って状況を説明する際の、意識が混濁している様などは、空恐ろしいほどだ。
山  度
( 山度 : 100% )
 全編、山、雪、岩、そして遭難。山岳小説そのものである。

 
 
 
作 品 名
「密林の迷路」 (瓜生 卓造、1967年)
あらすじ
 空木岳を目指して山に入った浜田浩平は、電車が事故で遅れたのせいもあって、その日は池山小屋泊まりとなった。そこで5人の若者と一緒になった。北島という好感の持てる青年、岩島と宮という初々しいカップル、さらに西尾とミー公という傍若無人で礼儀知らずのカップルだった。
 翌朝それぞれが山頂を目指して登り始めたが、途中で天候が悪化し始めた。一番後ろを歩いていた浜田は、残りの人達も引き返せばいいがと思いつつ戻ろうとしていると、彼女とはぐれて探し歩いている西尾とであった。北島や岩島達もミー公を探しているという。浜田は悪天を理由に山を降りるよう西尾に勧め、他の人達に会ったらすぐに下山を勧めるように言い置いて、自分は救援を求めて下山を開始した。
 下山後すぐに浜田は救援隊と共に再度山へ向かったが、5人はどこにもいない。池山小屋に戻るとなぜかミー公だけが戻っていた。
感 想 等
( 評価 : D )
 空木岳で雨に降られただけで遭難してしまうというのは、なかなか考えにくいというのが正直な思いだが、それも時代の変化のなせる技か。あるいは何が起こるかわからないのが山の恐さということか。
 話自体はあまりどうということもない。
山  度
( 山度 : 90% )
 全編山の中、であるが何か泥臭い。

 
 
 
作 品 名
「谷川岳鎮魂」 (瓜生 卓造、1972年)
あらすじ
 慶応大学の平田恭助は、登山同好会モルゲン・ロート・コールの山行で槍ヶ岳に登った際に、浅川勇夫のガイドで小槍に登った。平田は、その時の浅川のクライミングに強く惹かれ、以来、頻繁に上高地の浅川の下に通い、客とガイドという関係を超えて仲良くなっていった。平田は浅川のことを「カモさん」と、浅川は平田のことを「ヘラ」と呼び合う仲になった。
 当時、滝谷のルートはほぼ登り尽くされており、平田は先輩の中尾から聞いた未踏のルート、谷川岳一ノ倉沢滝沢下部を登ろうと浅川を誘った。滝沢下部は、杉本光作率いる登歩渓流会も何度か挑戦して失敗している難ルートだった。平田は、滝沢偵察で登れるとの確信を持った浅川に勇気付けられて、9月下旬に決行することとした。
 取付のガリーから、草付バンド、オーバーハングを越えて第二バンドへ・・・。終始浅川のリードで難所を越えていくパーティー。こうして2人は正午前には滝沢下部を征服した。
 滝沢下部から帰った平田は、取材や講演に追われる忙しい日々を過ごしたが、逆に自分の未熟さを自覚するようになった。滝沢下部を登った後の稜線で出会った藤田という青年と意気投合した平田は、藤田とともに谷川岳へと向かい、そこで登歩渓流会の面々と出会った。自らの未熟さに忸怩たる思いを感じていた平田は登歩渓流会に入会し、これまで以上に登山にのめり込んだ。浅川や藤田とも山行をともにした。そんなある日、藤田とともに谷川岳への向った平田は・・・。
感 想 等
( 評価 : C )
 谷川岳一ノ倉沢滝沢下部の初登攀をなした慶応大学・平田恭助の自伝的小説。当時の登山・クライミングの様子がよくわかるとともに、山に賭けた平田恭助の生き様が伝わってくる。
 ただ、小説として描くのであれば、良家の出である平田の人間的な葛藤のようなものにもっとスポットを当てるとか、功成っても名をあげることのないガイドの浅川の視点を中心に据えるとか、違う描き方があったのではないかという気もする。また、ラストの方がノンフィクションみたいな感じになっていて、小説としてはやや違和感がある。
山  度
( 山度 : 90% )
 ほぼ全編山岳一色の山岳小説。山岳描写については、瓜生卓造氏らしい筆致で申し分なし。

 
 
 
作 品 名
「雪嶺秘話」 (瓜生 卓造、1980年)
あらすじ
 明治34歳、わずか9歳にして京屋吉兵衛の七代目当主となった伊藤孝一は、主でありながら何も仕事がなかった。不動産のあがりだけで暮らしていけたし、下手に事業などを興せば全財産を失う恐れがあることから、決して仕事をしてはならないというのが伊藤家の家憲だったのだ。伊藤は倦怠感にさいなまされ、酒に溺れて過ごした。その伊藤を救ったのが、山と二度目の妻・かねだった。
 伊藤は、ゴリ公こと奥村や、映写技師の勝野、赤沼千尋らとともにいつも山行を共にし、七倉岳から船窪、不動岳への縦走第三登、冬の針ノ木越え、厳寒の薬師岳登頂などを果たした。特に、芦峅寺から立山、針ノ木への縦走を撮影した映画は日本中で評判になり、宮内省へも献上されるほどだった。
 そんな折、伊藤の土地が、名古屋市の運河建設のために買収されることになり、それを引き金に伊藤は市を相手取り裁判を起こすことになった。伊藤の人生に暗雲が垂れ込め始めていた。
感 想 等
( 評価 : C )
 あまり名前が知られていないが、加藤文太郎の少し前、板倉勝重や槙有恒が活躍していた大正期に、冬の北アルプスを開拓した富豪・伊藤孝一氏の生涯を描いた作品。
 私自身、この小説を手にするまで伊藤氏のことは知らなかったし、当時の山岳界の様子もわからないが、金に飽かせてガイドやボッカを雇っての大縦走との感は否めない。その意味では、折角小説という形態を取ったのだから、伊藤氏の苦しい内面にもっとスポットを当てるべきだった気がする。また、途中に遺族を訪ねる筆者の話が挿入されるなど、やや小説なのかノンフィクションなのか曖昧な作りとなっており、その分中途半端な印象が残ってしまい残念。
山  度
( 山度 : 90% )
 富士山麓に始まり、針ノ木岳や立山、薬師岳などが舞台として登場。さらに、百瀬慎太郎氏や赤沼千尋氏などが出てきたりと、当時の山岳界の様子がわかったりする点も面白い。