「クライマーの自然誌」とは、なんだかハテナな題名だけど、ロクスノ107号「クライミングと環境問題」にも書いた通り、クライマーは普段から「自然」というものに意外と密に接している。はずだ。で、そうした「自然」に対して、クライマーはクライマーなりの目線というものを持っている。はずでもある。それを、クライミングの様々なエピソードを通じて記してみようとしたものです。
 もともとは白山書房で一時期出していた『山の本』という雑誌に「フリークライマーの山」という題名で連載していたものですが、まあ、クライマーはそんな本、読みませんわね。そこでここではそれを改めてクライマーの人達にも読んでいただけるように書き変えてみました。クライミングのもう一つの味として、まあ、よろしければ。



〈 Contents 〉
春一番の岩肌
小川山のカゲロウ
海の歴史
照葉樹林の輝き
瑞牆山のハヤブサ
我王の山

幕岩のノスリ(2016年5月30日更新)
天空の花(2016年7月2日更新)
氷壁の生涯(2016年7月2日更新)

キャンプ4ウォールのハチドリ(2016年7月11日更新)



春一番の岩肌

 子供の頃、蝶の採集をしていたもので、「四月」と聞くと今でもピクっとくるものがある。今のそのピクはもちろん、小川山、瑞牆山など奥秩父西域でのクライミングだ。
 クライマーならわかってくれると思うが、花崗岩のあのザラついた感触、ややこしい壁をカムやナッツに頼って進んでいく職人的味わい、森を遥か下に見下ろす開放感、などなどは、思い出すだけでも心が浮きたってくる。
 そんな季節初め、決まって足を向けるのが瑞牆山の末端壁だ。ここの数あるクラックはシーズン初戦としてはやや手ごわいものばかりなのだが、この時期になるとどうしても行かずにはいられなくなる。

 四月の頭、久々の長いアプローチをこなしていつものテラスに着くと、これまたいつもの前傾壁が、相変わらずの迫力で威嚇してくる。テラスのまわりの木々はまだ冬枯れのままで、それが何気にこちらの弱気を曝している。
 毎度ながらの無駄な駄弁りをひとしきりした後、壁に日が当たってきたのを見計らってスタート。最初の目標はここの“顔”ともいえるルート、「春うらら」だ。
 が、本当に登り出すにはまだまだ“儀式”をこなさなければならない。まずは出だし前傾部分のできるだけ高い所にカムをセット、いったん降りてロープでそれをテスティング、ギアを揃え直し、もう一度手にチョークを塗りたくる、などなどといったことだ。それらをもったいぶって済ませてから、ようやく登り出すことになる。
 最初のボルダームーブは毎回手順が定まらないが、ここは抜けの隠れガバさえ知っていれば問題ない。さらに登って左右の壁が狭まってくれば、そこが核心だ。
 安定した体勢からブリッジングで外に出て、上の細まったクラックにフィンガーロック。を決めればいいのだが、ここにはクラックの縁に邪悪なでっぱりがあって、これがいつも痛い。しかし左足もとにわずかな岩の膨らみがあるので、それに上手く乗れればなんとか耐えられる。
 年々硬くなる体に内心驚きながらコーナーまで足を引き上げれば、核心は終わり。あとはこの長いコーナーをひたすら登るだけだ。

 それにしても振り返れば今まで何度、ここでこうして登ってきたことか。ここに最初に来たのはもう30年以上前で、その時はこのクラックに指の皮も心もボロボロにされて終わりだったのだが、それから本当にしつこく、ここには通ってきた。そして、利かないジャミングに悪態をつき、滑るフットホールドにいらいらしながら、ここの底意地の悪いクラックと何度も対峙してきた。
 それはしかし、思えば我々の、一つの山との付き合い方といえるものなのかもしれない。指や手の甲に残ったジャミングの痛み。体全体を覆う嫌になるほどの疲れ。これらは確かにそうとう変わったものではあるものの、これはこれで、我々なりの得難い“自然体験”といえるものではあるような気がする。

 コーナーはすでに天中近くまで上った日に照らされて、岩のフリクションが悪い。そこをランナウトにも耐えつつ終了点のテラスまで登り切れば、今度は眺めが素晴らしい。正面には大面岩やカンマンボロンなどの岩峰が巨大なドームとなって連なり、その遥か先にはまだ雪を抱いた八ヶ岳が、まるで気抜けでもしたかのように早春の高原の上にゆったりと横たわっているのが見える。
 なんだかもう、今日はこの景色を見られただけで満足だ。そうなることは半分わかってはいたが、それもまた、良い春の一日というものではあるような気がした。

 瑞牆山十一面岩末端壁のクライミング





小川山のカゲロウ

 ある夏の日、古い友人のKくんと、小川山のある岩峰を登りに行った。
 そこのクラックルートはこの地の大クラシックで大昔に登ったことはあったのだが、なにしろアプローチが遠く、今はめったに行く人はいない。しかしその話をしていると、知り合いのAさん夫妻がつい先日登りに行ったという。それならオレたちも、ということになり、2人して30年近くぶりになるこの岩峰に、勇んで“遠征”を出すことにしたのだ。
 しかし実際に行ってみると、相変わらず遠い。もともと歩きづらかったガラ沢は荒れに荒れてさらに歩きづらく、日差しの強さも、近年の地球温暖化そのままに、尋常ではない。
 しかも岩場に着いてようやくそのルートに取り付いても、これがまた悪い。階段状だったはずの出だしが崩れて露出感むき出しなっており、その上のクラックも記憶にないくらいに立っている。
 「こんな難しかったかな?」
 「難しかったんだなあ」
 ああだこうだ言いながらそれでもなんとか登り切り、帰る段になって、来た時とは違う尾根道を下りてみようということになった。あの荒れたガレ沢を下る気にはとてもなれなかったからだ。
 しかしそこから尾根までが予想外に悪く、なんとか尾根道に出てからも、嫌になるほど長い。おまけに夕方近いというのにまだまだ暑い。結局、半分ほど先の開けた所で岩の上にザックを投げ出し、へたり込んでしまった。

 と、まさにそのとき、谷を隔てた向かいの黒い大きな岩峰から、無数の光る粒が宙に飛び出してきた。
 「なんだあれ?」
 どちらが先に気がついたか覚えていない。最初は何だかわからなかったのだが、逆光にキラキラと光るそれはよくみると虫(カゲロウ?)の群れで、その光る粒が徐々に数を増しながら深い谷の空間を埋めていく様は、まるで巨大なCGのようだ。
 「すげえな」
 私とKくんとは最初はただ茫然とそれらを眺めていただけだったが、その正体がわかってくるにつれ、さらに驚き、つくづくと見入ってしまった。

 たぶんこれは、この虫が習性として毎年繰り返している営みの一つなのだろう。テレビのドキュメンタリー番組で似たようなのを見たことがある。ある種の虫は、毎年同じ場所で卵から孵り、同じ場所で幼虫として過ごし、同じ場所で羽化して、いっせいに飛び立ってゆく。そして最後は再び同じ場所に戻ってきて、またそこで卵を生む。そうした種の存続のための営みを、何代も何代も、延々繰り返す。そんな感じのものだ。
 それが今まさにここで行なわれている。それはしかし、我々にすれば確かに初めて見る驚きの光景かもしれないが、この虫たちにとっては何世代にも渡って繰り返してきた日常茶飯事にすぎないものなのだろう。当然それは、我々がこの山に通い始めるずっと前から、どころか、おそらく人間がこの世に現れるずっと前からのことだったに違いない。
 「たいしたもんだなあ」
 「まったく」
 光の乱舞はしかしほんの一瞬で終わり、気がつくと谷の向こうに聳える岩峰は、再び黒々とした沈黙の中に戻ってしまっていた。
 振り返って尾根の反対側を見ると、深い緑の谷が緩やかにせり上がって高い稜線へと続き、その上に湧き上がる雲が、空の広さをいっそう際立たせている。いつもの景色ながらそれを見ていると、なんだか夏は永遠に続いていくように思えた。

 矢根岩からの夏の金峰山





海の歴史

 クライマーにとって冬の定番といえば、やはり城ヶ崎だろう。ここの暖かさ、ルート数、アプローチの良さ、などなどは、冬の出不精な体を動かすに充分なものがある。だがそれに加えてもう一つ、“海”というのもここの魅力の一つのように思えてならない。
 晴れた日曜日、海岸縁の松林を抜け、目の前にいきなり大きな、そして真っ青な海が飛びこんできた瞬間など、まさにそれを実感する。その大きさと明るさは改めてびっくりするほどで、その向こうに横たわる大島も、いかにも“火の島”という感じで恰好いい。「太平洋」という言葉がいまさらながらに思い出され、しばらくそれに茫然としてしまうような光景だ。

 その城ヶ崎でも特に“海”を感じさせるのが、長い海岸の真ん中あたりにある一角、岩場に砕け散る波で有名なエリアだ。ルート数が少ないのであまり人気はないが、そのワイルドさは個人的には一推しの場所でもある。
 例の「太平洋」ビューポイントから遊歩道をしばらく行き、磯に下りて、吹き出た溶岩がそのまま固まったような岩畳を越えて行くと、小さな湾の向こうにその壁は現れる。黒光りした岩に荒々しい波が常に打ち寄せ、その迫力は“あっぱれ”をあげたくなるほどだ。
 で、ここに来れば必ず登るのが、壁の左端近くにあるきれいなストレートクラック。グレードが低いのでウォーミングアップがてら、ということもあるのだが、そこだけ赤銅色の垂壁にぐぐっと切れ込むその様は、なかなかにそそるものがある。

 しかしウォーミングアップといっても、いざ取り付くとなると緊張感はそれなりだ。まず出だしのかぶり気味の箇所がシオシオなうえにノープロテクションだし、その上のカンテを回り込んだ先に現れる例の赤光りした壁も、間近で見るとけっこう立っている。そこに切れ込むクラックも、そこからだとやたらに細く見える。
 高鳴る心臓を抑え込みつつクラックのできるだけ高い位置にナッツをセット。しようとしても、これがなかなか決まらない。あれこれしているうちに真下の波の音が徐々に遠のいていく。というのがいつものパターンだ。

 そこにある時、すぐ上をカモメが飛んできてその羽がやけに大きく見え、それをぼんやり眺めていたら、自分が今ここにこうしていることがなんだかとんでもない奇跡のように思えてきた。と、同時に、これはこれで必然でもあるように思えたことがあった。
 しかしまあ、考えてみればそれはそうかもしれない。遥か昔にこの海の中で生物というものが誕生して、それが気の遠くなるような年数を費やして進化を遂げてきた。そのまさに末端の末端たるひとつの生き物が、今、これまた地球が何億年もかけて作った岩にしがみつき、上へともがいている。それは一見とんでもない確率のすえの出来事のようにも思えるものだが、逆にこの長い海の歴史の中ではあるべくしてあったという気もしないではない。フナ虫が磯を這うのと同じと言ったらあんまりだが、まあ、それと似たようなものだろう。

 沖を見ると、海鳥たちが三々五々、岩場の少し先にある岩礁を足場に、波の上を飛び交っている。これもいつもながらの実にのんびりした光景だが、彼らからしたらこちらはどう見えるんだろう? やっぱり同じような、いつもの風景に見えるんだろうか? そんなこともこの時、気になって仕方がなかった。

 城ヶ崎クライミング風景





照葉樹林の輝き

 冬の景色というとクライマーは城ヶ崎の海。というのが定番だろうが、個人的には伊豆城山からの照葉樹林の眺めも外せない。
 特に南壁マルチピッチの終了点あたりから見下ろすそれは素晴らしい。壁のまわりは小さなウバメガシがチカチカ輝き、その下方では鬱蒼とした常緑の木が、これまた絶妙にテカっている。何度見てもため息が出てしまうような光景だ。

 こうした風景はしかし、単にきれいというだけでなく、妙な懐かしさもある。自分が育った横須賀、三浦半島の山というのが、ちょうどこんな感じだったからだ。
 横須賀というといかにも都会というイメージだが、実際は山ばかりで、そこに細かい谷(谷戸、とこのあたりでは呼んでいた)が無数に食い込んでいる。その奥はたいてい常緑樹の森になっていて、そうした森が、小さな半島とはいいながら、意外に深く続いている。特に子供の頃はそれは果てしなく思え、しかもその中はいつも暗くて、正直気味悪く感じたものだった。
 しかし歳がもう少しいって、近所の鷹取山によく行くようになってからは、そんな外の世界もだいぶ感じが違ってきた。どういうきっかけだったか、ここに数多あるそこそこの規模の壁を、一人でロープも付けず登ることに、夢中になってしまっていたからだ。

 しかし今思うと、どうしてあの頃、あんなことに夢中になってしまったのか、というよりできたのか、不思議でならない。自分はもともと人一倍の怖がりで、幼稚園の頃は滑り台の上にすら登れないような子供だった。また、少し大きくなってからは人は死んだらどうなるかということが怖くて仕方なく、幾晩も眠れない夜を過ごすというような(よくいるという話だが)子供でもあった。
 だからそんな自分が、なぜあの頃、あんなことをするようになってしまったのか、まったくわからない。しかしとにかくその頃、こうした“素登り”がやめられなくなっていたことは確かで、それは今思い出してもかなり強烈な体験だった気がする。

 中でも覚えているのは、長らく気になってはいながらなかなか手を出せなかったあるルートを登った時のこと。
 それはここのメインエリアからちょっと隠れた所にある20mほどのルートで、下から仰ぐと凸凹した垂直のチムニーが空に向かって突き抜けた感じが、実に魅力的に見える。
 だがそこには壁の中間部に嫌な感じのハングがあって、そこがどうしても越えられない。そこをある時ついに越え、上部チムニーに体を進めてしまったのだ。
 こうなるともう戻れない。心臓を爆発させそうになりながら必死で抜け口を目指したのだが、その時ふと横に目をやると、視界に入ってきたのは、まさにこの半島の山々の風景。驚くほどに深い山々がすべて照葉樹に覆われ、その樹冠が日に照らされて、一面きらきらと輝いている。
 そんな光景が、あの時の心臓の高鳴りとともに、いやにはっきりと頭の中に残っている。ような気がする。

 だから今でもこうして高み登って、あの時と同じような照葉樹の広がりを見下ろすと、なんともいえない気持ちになる。恐怖と眩暈が入り交じった感覚に、どこか懐かしさを感じ、安堵感すら抱いてしまう。
 しかし思うに大昔、人々を取り巻く世界というのは、こんな感じだったんじゃないだろうか。世界は恐怖に満ち満ちていて、同時にそこにはこんな眩暈のような恍惚感も、きっと漂っていたに違いない。そしてそこを、何か絶対者のようなものが支配していたのだろう。高みからこの景色を見下ろすと、そんな気がして仕方ない。

 伊豆城山クライミング風景





瑞牆山のハヤブサ

 瑞牆山の十一面岩に「ルート開拓」で何年間か通ったことがある。といっても実際は年に行けて数回がせいぜいだったのだが、この手の岩壁でこうした作業をやる者は当時はあまりいなくて、何かと苦労はした。
 まず一緒に行ってくれる人を探すのが難しい。結局一人でほとんどのことをやることになったわけだが、当時は固定ロープを使うという習慣もなかったため、毎回の壁の登り降りだけでも一苦労だった。
 そしてそうした仕事をひとしきり終え、壁脇のコルに降りて休んでいると、下の岩峰のどこからか、かん高い鳥の啼き声が聞こえてくる。
 ケー、ケー、ケー、ケー
 と、表現したらいいのか、キェー、キェー、キェー、キェー、か。
 いずれにしろ乾いた、しかしよく通る声で、それを聞くと、ああ、今日もいるな、と少し安心した気持ちになったものだった。

 この声がハヤブサのものだと知ったのはかなり後のことだ。あるビデオで聞こえていた啼き声からそれと知り、ほ〜、こんな所にもいるんだなあ、と最初は感心していたものの、さすがに来るたびに毎回現れると、珍しいという感じはしなくなる。さらに最初は一羽だけだったのだが、翌年くらいからは数羽の若鳥――おそらく兄弟だろう――も飛んでくるようになった。しかもこの新顔たちはやはり若いからか、こちらのかなり近くまで来るようになり、ほとんど手が届くくらいの所を、横切ったり垂直に落ちたり急上昇したり、縦横無尽に飛び回るようになった。
 これはひょっとして、遊んでいる?
 ある時突然、そう思った。
 いやいや鷹は、というよりすべての動物は、日々エサを、それこそ鵜の目鷹の目で探し回ることに精一杯だろうに。それが果たして遊ぶ? と最初は思ったが、彼らの飛び方を見ていると、遊んでいるようにしか思えない。
 しかし考えてみれば、動物も実は遊ぶものなのかもしれない。猫などを見ていればそれは充分頷けるし、小鳥や鳩などだって、よくよく見ればやってることは同じようなものだ。ある哲学者に「人間は遊ぶ動物だ」という有名な言葉があるが、その人は人間のことはよく知っていても、動物のことはあまり知らなかったに違いない。

 実際こうして壁に一人ぶら下がって作業をしていると、いろんな鳥たちがやって来てはまわりで遊んでいる。ように見える。多いのはやはりイワツバメで、彼らはこの壁の基部にある大洞穴に巣食っていて、昼間はほとんど一日中、飛び回っている。そして彼らの飛び方も、獲物を獲るというより、ほとんど遊んでいる方が多いように思える。
 そういう彼らを見ていると、羨ましくなると同時に、心配にもなってしまう。だいたいこの世は食うか食われるかの世界のはずで、それがこんな自由に、奔放に遊びまわっていていいものだろうか? 生態系の頂点にいる鷹などならそれでもいいのかもしれないが、その他のほとんどの鳥や動物にとっては、この世は常に恐ろしい、綱渡りのようなものだと思うのだが・・・。

 しかしそんなことを考えているといつも頭をよぎるのが、フリーダイビングのジャック・マイヨールがあるビデオの中で言っていたこんな言葉だ。
 「人間は、死を恐れすぎる」
 この言葉を聞いた時は正直驚いた。それは何か問題なのか? というより、悪いことなのか?
 というのも、この死を恐れる感覚というのは、そもそもの人間の人間たる所以であって、それこそが我々のこの文明の、おおもとのエネルギーであるはずだ。
 だがこのマイヨールの言葉が正しいのだとしたら、逆に動物は死を恐れていないということなのか? またそれならそれを恐れる我々は、実は間違っているのか? 間違った生き方をしている、ということなのか?

 ハヤブサが、壁のまわりを自由自在に飛び回る。その遥か上を、時折もっと大きな鷹(クマタカ?)が悠々と飛んでいることがある。下ではイワツバメが洞穴に出たり入ったり忙しい。
 壁での一日は短い。朝早くから息せき切ってガラ沢を上がり、壁の中であれやこれやをこなして、夕方、疲れきった体でまたガラ沢を急ぎ下る。
 沢の脇をやたらさえずる小さな鳥たち(なんとかガラ?)が三々五々の群れでかすめ飛び、その下の岩の間にはリスやオコジョが走りまわる。春先にはミソサザイ(?)の声も派手派手しい。
 年に数日ずつそんな日々を過ごし、結局このルートは数年越しで完成させることができた。ルート名は「アレアレア」。ゴーギャンの絵からとったもので、その意味は「気楽な時間」とある。
 この山の住人たちにとってここの時間が果たしてそういうものなのかどうか。いつか彼らに聞いてみたいと思っている。

 瑞牆山十一面岩全景





我王の山

 同じ山の話ばかりになってしまうが、瑞牆山を語るうえでやはり外せないのが、ここからの西の眺め、奥秩父西端麓の山々から野辺山ヶ原を経て八ヶ岳まで広がる雄大な風景だ。
 特に秋の夕方、どこか大きな壁を登っての帰りに見るそれは、目に映るものすべてがオレンジ色に染まって感嘆の一語に尽きる。
 体中の力を使い果たしてようやく岩場基部に帰り着き、後は下るだけのガラ沢を見下ろすと、その遥か先に、八ヶ岳の稜線が西日の中に霞んでいる。その美しい姿は何度見てもため息ものだが、それ以上に目を奪うのは、その手前、眼下に広がる前衛の山々だ。
 そこには低く穏やかな山塊が布団を敷いたようにゆったりと広がり、そこに夕日が当たって、山襞が一本一本、朱を引いたように浮かび上がっている。その光と影の規則正しいコントラストは、まるで古典絵画のようだ。

 それにしても、この景色がこんなにも心を捉えるようになったのは、いつ頃からだったかと思う。
 若い頃は、もちろんこんなものにいちいち感動はしない。どころか目に入りすらしないだろう。その日のルートのことで頭がいっぱいで、遠くの景色のことなど眼中になかったに違いない。というより、たいていは暗くなるまで登っていたから、そもそも景色など何も見ていなかったのかもしれない。
 だがいつの頃からか、この景色が目を捉えて離さなくなった。それがいつだったかは覚えていないが、まあ、歳相応に徐々に、ということなのだろう。
 実際、ここに通っているうちに、歳はとったし、いろいろなこともあった。
 一本のルートに一シーズンまるまる通いつめたこともあるし、怪我からの復帰戦でパートナーに引っ張り上げられつつ、よれよれになって登ったこともある。一緒に来る面子も世代が次々変わり、数年ごとに新顔が交じる代わりにいつの間にか山を去ってしまった者も多い。しょっちゅう一緒に登っていた友人が山で死に、その骨を家族と一緒に撒きに来たこともある。
 そしてその都度、帰りに決まってこの景色を見ては心を奪われ、その時に来た目的すらしばし忘れていたように思える。

 しかし思えば人は、こんな景色を見た時、なぜ美しいと思い、それに感動するのだろう?
 ダイヤモンドを見ても(滅多に見ないが)そうは思わない。それは所詮あとづけの価値観に過ぎないからだが、こうして夕日に輝く山々を見た時、あるいは一面に咲く花や、若葉のきらめき、澄みきった青空などを見た時など、なぜか決まって美しいと思い、それにまた感動もしてしまう。
 それはおそらく誰にとっても同じだと思うのだが、考えてみれば不思議なことだ。
 なぜそう思う? それにそもそもそう思うことに何の意味がある?
 そんなことを考えると決まって思い出すのが、手塚治虫のマンガ『火の鳥』にあった一コマだ。そのストーリーというのは我王という悪党がさんざん非道を働き、またそれと同じく自身も運命からさんざん痛めつけられるというもので、その中で最後、我王が隠遁した山の中から目の前に広がる景色を見て涙する場面がある。その時我王は生き続ける決心をするのだが、その時のその山の景色が、なんだかここからのそれにかぶって見えて仕方ないのだ。
 思い返せば昔アルパインクライミングをやっていた頃、冬目前に小川山からの帰路見た全山オレンジ色のカラマツ林もこんなだったし、一冬なんとか無事終えて春先に見た淡い芽吹きの山の景色もこんなだった。気がする。
 とにかく、こうした景色には心に訴える何かがある。この景色と一緒にありたいと思い、またそれと一緒にあることに言いようもない幸せを感じる。
 美しさに魅せられるというのは、つまりはそういうことなのかもしれない。そして、やや手前味噌な言い分ながら、クライマーが岩にしがみつくというのも、結局はその手続きの一つなのではないかという気もする。

 瑞牆山からの秋の夕景





幕岩のノスリ

 今さらながらの話になるが、自分はフリークライミングに浸る前はアルパインクライミングも普通にやっていた。というよりこの時代――70年代――は、クライミングといえばすべてアルパインクライミングで、それがむしろ当たり前だった。
 そしてそうなると当然、クライミングに対する捉え方も今とはかなり違うものになる。
 というのはやはり“冬”。この頃のこの季節というのは、とにかく暗くて緊張感に満ちたものだった。特に一ノ倉などに通っていればあの陰鬱な光景――谷は常に黒雲に覆われ、奥からは雪崩の音が頻繁に響く――が常に頭の中から離れず、何をやっても落ち着かない。日々の生活も、いきおい刹那的なものになる。
 今にして思えば、クライミングをそのように捉えるのが正しいことかどうかわからない。が、なにしろ当時、クライミングというのはそういうものだったし、“冬”というのもそういうものだった気がする。
 ところでそんな冬にも、明確な終わりの日、というのがその頃はあった。
 それは3月20日春分の日。当時の冬期登攀の記録上の最終日だ。もちろんそれで本当に冬が終わるわけではないし、この定義づけも考えてみればおかしな話だ。が、とにかく、これをもって冬は終り。また一冬生き残れたことに胸をなでおろしつつ、心おきなく他の岩場に出かけられる、という目安になっていたのだ。

 そんな春の岩場というと、我々の地域では湯河原幕岩というのがわりとポピュラーだった。ここは今でこそ関東一の大人気エリアだが、当時はまだ地元の人しか行かないようなローカルゲレンデで、週末でも数人いるのがせいぜい。ここの“売り”の梅林も当時はまだなく、岩場の下や河原にある桜の方がむしろ目立つ存在だったように記憶している。
 よく晴れた朝、満開の桜を脇目にカヤトの中の踏跡を登っていくと、向こうに特徴的な柱状節理の岩場が見える(当時ここはこの正面壁しか登られてなかった)。その光景が、冬が終わったことへの安堵感とともに、今でも脳裏に焼き付いている気がする。
 そうしてここの名物の“クラック”を、当時はジャミングなど知りもしなかったから、縁にしがみつくだけの力技だけで登っていくと、3月だというのに体は汗びっしょりだ。

 だがそんな春の岩場通いも、ある年、いつも一緒に登っていた仲間が谷川岳で行方不明になり、その捜索でほとんど中断になってしまったことがあった。
 なんでも登攀終了後、雪庇を踏み抜いてしまったとのことで、当日現場に駆け付けた人の話では、穏やかな雪面に点々と続く足跡がちょっとしたカーブの所でポッと消えていたのだという。
 それが1月で、その捜索は結局夏まで続いた。

 それから何年たったか。自分はもうアルパインクライミングはやらなくなってしまったが、それでも春になるとここに出かけたくなるのは変わらない。
 そうして今や大勢がひしめく岩場で相変わらずの汗だくクライミングをしていると、ある時、すぐそばの木にノスリがとまっていたことがあった。このノスリはよく岩場の遥か上を跳んでいるのだが、この日は珍しく下にいて、我々が登っている岩場のすぐ脇の木にとまってこっちを見ていたのだ。
 いや、こっちなど見てはないか。だがその眼がやたら大きくぎょろっとしていて、それがこちらの無様な登りを監視しているように見えて仕方なかった。
 まわりを囲む樹々にはいろいろな鳥が飛んで来てはうるさくさえずる。日の当たった岩にはトカゲが這いまわっているし、クラックの中にはヘビもいる。
 なんとものんびりした一日だが、ノスリに狙われたトカゲやヘビにとってはそうではないだろう。しかし春はまさにたけなわで、青空は気持ちよくどこまでも続いていた。

 湯河原幕岩(正面壁)のクライミング





天空の花

 アルパインクライミング時代の話が出たついで言うと、やはり思い出すのは剱岳。広大な雪渓の上に連なる壮大華麗な岩峰群と、その一角に隠れたように控える三ノ窓での光景が、まず頭に浮かぶ。
 特に三ノ窓は懐かしい。ただでさえ近づき難い剱の稜線の中でも特にそこは孤立した感じで、それがまずクライマーにはたまらない。すぐ目の前にチンネの雄姿。真下に落ち込む雪渓の遥か向こうには、穏やかな後立山の稜線が夏の澄んだ空気の中に横たわる。天空の城という言葉がぴったりな、まさに別天地だ。
 山岳会にいた頃、ここをベースに夏合宿を何度かやった(今は幕営禁止だが)。
 中でも覚えているのは、剱の中でも特にマニアックな池ノ谷のある壁を登りに行った時のこと。その壁は三ノ窓から裏の狭い谷を下り、脇の巨大な剱尾根を側壁から乗越して取り付かなければならない。壁自体はなかなか立派なのだが、なにせそのアプローチの面倒くささから、訪れる人は滅多にいない。
 そんな壁でルートをうまく見つけられるか心配だったが、尾根の裏側を懸垂で下っている途中にそれらしいクラックがあるのを見つけ、そこからとりあえずは取り付くことができた。だが少し行った所でハングに頭を押さえられ、案の定、行き詰ってしまった。
 ハング下のビレイ点から乗り出して上を見回すと、その上のフェースはなんとか登れそうだ。が、残置ハーケンはまったく見えない。
 「ほんとうにここですかね?」
 「ん〜、そうだと思うけどなあ・・・」
 リーダーも少々頼りないが仕方ない。意を決してそのまま取り付き、どうにかそのハングを越えたはいいが、その上に出ると、いきなり露出感満点の状況になってしまった。上を見てもハーケンはやっぱり見当たらない。そのままどうすることもできずに進むうちに、さらに岩も脆くなってきた。下を振り返るとリーダーの姿はハング下に隠れ、宙に浮かんだようなやたら明るい一枚岩の上にロープが2本、途中に何もかけずにただ延びているだけだ。
 ええっ? と自分自身驚いてしまった。と同時にこの時、なぜか急に嬉しい気持ちが込み上げてきた。
 隔絶された壁の中で、脆い岩にランナウト。などというとクライミング的には最悪の状況だが、逆にそんな所だからこそ、この壁を本当に“フリー”で登っている気がして、それがなんだか嬉しく思えてしまったのだ。
 しかしそうこうするうちに今度は草付も出てきて、ますます危うくなってきた。それに足を取られないように慎重に登っていくと、そこに所々、紫色の花(〇〇シオガマ?)や黄色鮮やかなウサギギクが咲いている。こんな状況でこんな花が出てくるとは、能天気というか、ほとんどシュールとすら言える感じだ。そういえば難しいフリールートを必死で登っている時にも、ホールドのすぐ脇をテントウムシなどが這っていることがよくある。なんだかんだが自然というのは、まあ、そんなものなのかもしれない。
 さらに登るとハイマツが現れ、それを掴んで登れるようになった。今度こそ本当に安心すると同時に、松ヤニの匂いが鼻を突いた。そして背後の池ノ谷が、ずっと下に、また遠くにあるように、急に感じられてきた。
 さらにしばらく登ると尾根に出て壁は終了。遠くに三ノ窓とチンネらしきが見え、そこにうごめいている人が、まるで虫のように小さく見えた。

 三ノ窓からの後立山連峰





氷壁の生涯

 同じくアルパインクライミング時代。その頃の冬の辛さということを前にも書いたが、その中でもとりわけ厳しい冬を、二十歳ちょっと過ぎの頃に過したことがあった。当時未登だった一ノ倉沢のある氷壁に挑んだ年のことで、その時は秋からの日々がやたら重たいものだった覚えがある。
 その氷壁というのはこの谷の目立つ壁に一直線に垂れる氷で昔から有名だったのだが、その規模と傾斜、そして出来ては崩れ、出来ては崩れする不安定さから、当時はほとんど不可能視されていたものだった。
 それに、なぜ自分があそこまで入れ込むことになってしまったのか、今となってはよくわからない。ただ、そんな話にならないような課題も、自分なりのフリークライミング的なアプローチ=ジムナスティックなダブルアックスなら登れるのではないかと考え、結局そのアイディアに必要以上に憑りつかれてしまった。というのがそのいきさつだったように思う。
 とはいえ、実際に取り付くとなると問題は山ほどあった。あれだけの氷にそんな方法で挑んで、本当に力尽きずに登りきれるのか? 登りながらアイスハーケンはどうやって打つ? 打てずにそのまま突き進んでしまったら? それにそもそもその間、氷は崩れずにいてくれるのか? などなどといったことだ
 だから冷静に考えればそのアイディアも現実的とは言い難いものだったのだが、しかし時間がたてばたつほど、逆にこれは強迫観念のように我が身に覆いかぶさってきた。そこへ来て、暮に一ノ倉沢に入った友人から今年は例の氷ができているという話を聞き、いよいよ引けない状況に追いこまれてしまった。
 今から振り返っても、その冬は本当にきつかった。夜、布団の中であれこれ考えては脂汗をかき、日中ちょっと体を動かしてはこれを失敗したらと考えて心臓を高鳴らせる。そんな日々が、胃が痛くなるくらい続いた。

 そして年明け、厳しい寒気が日本列島を覆った日を見計らっていよいよ出発となった。結局先の問題には何ひとつ答えは出せなかったが、奇跡的に繋がったその氷がいつまで崩れずにいるかということを考えれば猶予はもうない。
 山に入ると連日の降雪でラッセルがまず物凄く、なんとか壁に取り付いても氷は想像以上に薄かった。岩にへばりついたベルグラに祈るような気持ちでぶら下がりつつ進むが、アイスハーケンは案の定打てない。おまけに時折上のルンゼ状から大きなスノーシャワーが襲来して、それにも体が剥がされそうになる。結局二日間で壁の中ほどまでしか進めず、フィックスロープを残して一旦敗退。翌週出直して、計5日目の深夜、ようやく上の雪壁に抜けることができた。
 この時は雪も止み、真っ暗な雪稜に久々に座り込んで周囲を見渡すと、正面遠く、上州武尊山にスキー場の灯りが見えた。いつもは興冷めなその光も、この時ばかりはやけに温かく感じられた。

 二週間後、再び一ノ倉に赴くと、件の氷はほとんど崩れてなくなっていた。
 「ありゃ。なくなってるじゃん」
 あれから晴れの日があったのだろう。壁には落ち口に僅かに氷の片鱗が残っているだけだ。
 「ほんと、運が良かったんだなあ」
 登り終わった安心感からかまるで他人事のような言葉が出てきたものだが、その時急に、あの氷がどんなふうに始まり、そして出来上がっていくのか、それを見てみたいという思いが痛烈に湧きあがってきた。
 おそらくそれは、秋が終わり、壁が徐々に凍てついていく場面から始まるのだろう。山はガスに覆われ、降り続く冷たい雨がやがて雪へと変わる。その雪が壁のいたる所にへばりつき、壁全体が真っ白な冬の装いに変貌する。その雪溜りから日中、しずくが滲み出し、それが夜中に凍って、徐々に壁に張り付くようになる。
 そして寒さが連日、ほとんど恒久的になると、壁には一続きの見事な氷壁が形成される。
 二週間前とは打って変わって真っ黒になった壁を見上げていると、そうした一部始終を見てみたいという思いでいっぱいになった。
 そこにある日、二人の人間が取り付いて登っていく。彼らは登りきるかもしれないし、途中で落ちてしまうかもしれない。あるいはほんのわずか日が射すだけで、氷もろともすべて崩れ落ちてしまうかもしれない。
 そしてまた、それがなくなった壁に上の雪田から水が浸み出し、何事もなかったかのように新しい氷壁が再び作り上げられてゆく。
 出合の雪面に立って久々の暖かい光を浴びながら、それも自然なことのように、この時初めて思えた。

 冬の一ノ倉





キャンプ4ウォールのハチドリ


 ロスアンゼルスからえんえん車を走らせ、ヨセミテ・キャンプ4の駐車場に降り立った時、まずその光の強さに面食らった。まだ4月でしかもこんな山の中だというのに、日差しは肌を刺すようで、驚くと同時にいきなりぐったりしてしまった。
 駐車場の脇には瑞々しいオーク(北米樫?)が枝をのばし、そのうしろには高さ20〜30メートルはあろうかという巨大な松や杉が、まるでトーテムポールのように屹立している。それらの梢にも光があふれ、こちらに向かっていっせいに矢を放っている。
 これは今から40年以上前のこと。冬に個人的な課題だった登攀をなんとか終え、その勢いでこのヨセミテに来ることを決めてしまったのだが、その明るさのギャップはものすごい。何もかもが光に溶けてしまったかのようだ。
 そしてそれ以上に圧倒されたのが、ここの壁のでかさだ。渓谷に入り車が森を抜けた瞬間現れたエルキャピタンがまず驚愕的だったし、谷の上方に聳えるハーフドームも、この世のものとは思えない。轟音とどろかせつつ落ちるヨセミテフォールも、信じ難いスケールだ。キャンプ場の裏にも無名の壁が何気にドカンと控えていて、それですらが高さ3〜400メートルは優にある。
 「これを登るの?」
 この時一緒に入谷したメンバーは全員、それなりの覚悟を決めてここに来たはずだったのだが、この壁の巨大さを目の当たりにすると、後悔の念しか浮かばない。まだどこも登ってもないのに早くも疲労困憊してしまって、その日はテントを立ててすぐ寝てしまったように思う。

 翌日は相当遅くまで寝過ごしてそのままだらだらと過ごし、昼過ぎになってキャンプ場のすぐ上にある、キャンプ4ウォールという岩場に行ってみることにした。
 キャンプ場の奥から例の巨木がオブジェのように林立した草地を突っ切っていくと、大きなガラ沢に出た。そこを、まだ長旅の疲れが抜けない体ではあはあ言いながら登っていくと、徐々に背後の視界が開けてきた。
 まず最初に目に入ってきたのは、すぐ目の前から広がる巨木群の樹冠の海だ。これらの木々は一本一本は呆れるほどの大きさのはずだが、この高さからこうして眺めると、まるで絨毯を敷きつめたみたいだ。そしてその向こうに、ぎらぎらと光った巨大なスラブ壁が、いきなり立ち上がっている。
 さらに登るとそのスラブ壁の奥に徐々にハーフドームが顔を出してきた。何度見ても自然のものとは思えない奇異さだが、それはしかし「自然」というより、まさに「地球」といった感じだ。
 やがて道は沢を離れ、砂地の急斜面を登っていくと、ほどなく目的の壁に着いた。
 その壁はもちろん花崗岩なのだが日本のそれと違って異様に白く、しかもつるっとしている。太昔に氷河に磨かれたからだということだが、ここまでつるつるだとフリクションはほとんど利かないだろう。そこにクラックがいくつも並んでいて、それがショートルートとはいえ、遥か上まで続いている。またまた見ただけで疲れてしまうような眺めだ。
 振り返ると例の巨木の樹海はずっと下に見下ろすようになり、向かいの岩壁群もますます威圧的に聳え立っている。
 そしてなにしろ、光が凄い。盆地状の巨大な渓谷いっぱいに光の粒子が満ち満ちていて、それらはまるで宇宙から直に降り注いできているみたいだ。
 どこからかハチドリが飛んできた。
 初めて見るその珍鳥は、緑色に光った胴体にちらっとピンクが混じっているようにも見えたが、細かい様子はわからない。気がつくとすぐ脇にいて、ほんの数秒、壁に向かってホバリングしたあと、何か忘れものでもしたかのようにすぐに飛んで行ってしまった。
 広い谷の中に、岩と、樹々と、そして光だけが残され、それらが混じり気のない沈黙の中にゆったりと横たわっている。それらをぼんやり眺めていると、これからここで過ごしていくことが、たまらなく嬉しく思えてきた。

 ヨセミテ渓谷全景





(to be continue)





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