
| 「私には人より歴史を重んじるところがあるのかもしれません」(ピーター・クラフト) この言葉をホットロックスでも紹介して、カッコイイ、なんて感想を述べたけど、歴史を知るってやっぱ大切だよね。ダグ・スコットも『ビッグウォールクライミング』(1977年、山と溪谷社)の中で、「この時代の人を知ることは、現代のアルピニズムをより深く理解することに通ずる。明晰な洞察を得ることにつながるのである」と述べていて、それはまったくその通りだと思います。 私事でいえば依然『日本50名ルート』(2022年、白山書房)という本を書いた時も、それをつくづく感じた。わけなんだけど、その本も版元が無くなったため、入手できなくなってしまいました。 そこでここでは日本のクライミングの歴史を、改めて、多少の私見も交えながら書いてみることにしました。なんかちょっとジジイの歴史オタク趣味に見えるかしれないけど、まあ、そこは気にせずに。 Contents 1)そもそもの登山の始まり 2)近代以前の「近代登山家」たち 3)ウォルター・ウエストンの遺産 4)「近代登山」から「アルピニズム」へ(7月2日更新) 1)そもそもの登山のはじまり 登山はまず狩猟や宗教などから始まった、というのは世界共通のものだろうが、それが個人の趣味として行なわれるようになったというのも、歴史の中では重要、かつ大きな転換点になるものだ。これは「近代登山」と称され、登山史というと通常はこれを記すことになる。 で、その最初のものは、1786年、ジャック・バルマとM・G・パッカールによるモンブランの初登頂。というのが通説なのだが、それよりずっと前の1336年、フランチェスコ・ペトラルカなるイタリア人学者・詩人も南フランスのモン・ヴェントー山に登っており、これもその先駆としてよく挙げられている。 とはいえこの山は標高1912m。写真を見る限りでは山というより丘で、正直パッとしない。しかしこれを、単に登りたいという理由だけで登った、というのが決め手で、それゆえこれは「近代的な自己」を追及した「ルネッサンスの精神を象徴する出来事」とも言われている。こうなるとややこじつけ的な気もしないではないが、それでも確かにこれは、非常に早期の「近代登山」と言っていいものだろう。 で、一方の日本の登山はどうかというと、こちらは周知の通り、完全に宗教がその形成の大部分を占めている。 ただしその歴史は世界的に見ても相当に古い。早くも7世紀の飛鳥時代には修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ 634〜701年頃)が全国各地に多くの開山伝説を残している。もちろんこれらはそのほとんどが造説だが、その後多くの修験者たちによって実際に多くの山が開かれている。その中には立山、白山、富士山などかなり本格的な山も含まれており、これらは充分立派な登山の歴史といえるものだ。 また14世紀室町時代以後は、立山参り、富士講など一般庶民レベルでの登山=山岳詣でも盛んに行なわれ、これも登山史上外せない。その規模は、江戸時代の最盛期で、年間あたり、富士山約1万5千人、立山約6千人、相模大山に至ってはなんと20万人がこれに臨んでいたという(住谷雄幸『江戸人が登った百名山』小学館文庫より)。 さらにこうした宗教登山とは別に、我が国では軍事や行政目的でも古くから多くの本格的登山が行なわれていた。天正12年(1584年)の佐々成政による冬期北アルプス横断はあまりにも有名だし、その後寛永年間(1640年頃)以降の加賀藩による黒部川全流域の警備、いわゆる奥山回りも、北アルプス深部の山々(薬師岳、三俣蓮華岳、鹿島槍ヶ岳、白馬岳など)にすでに確実に足跡を残している(山崎安治『日本登山史』1969年、白水社より)。 なお、このうち白馬岳に関して、拙著『日本50名ルート』には初登頂は1883年(明治16)、地元長野の教員、窪田畔夫と渡辺敏らによると記したが、実際はその200年以上前の元禄10年(1697年)に太田本江村宗兵衛と下梅沢村市郎右衛門がすでに登っていたようだ(『日本登山史』より)。ちなみには当時この山は上駒ヶ岳と呼ばれていたという。 まったく驚くべき登山の歴史といえるものだが、しかしこれらはもちろん「近代登山」といえるものではない。その動機が「個人の趣味」ではないからだ。が、そうは言ってもこうした行為がそう単純に分けられるものか?とも個人的には思わなくもない。 というのは、なににせよ人が何かしらの行動を起こす場合、その動機には表面的な建前とは裏腹に、意外な本音も隠れているのが普通だからだ。 例えば槍ヶ岳の開山で有名な播隆は、その2度目の登頂の時(天保5年=1834年)に、槍からさらに西鎌尾根を辿って、抜戸、笠ヶ岳まで縦走している。一般的にはこれは相当な信仰心から行なったものとされているが、私的にはこの解釈はちょっと疑問だ。というのも、槍から笠までを見渡した時に目の前に広がるあの魅力的な稜線。あれを見て、そこにこの山の千蹤者が、本当に宗教だけを見いだしていたとはちょっと考えにくい。むしろ単純に「登山」としてのモチベーションを抱いていたのではないかと、思えてならないからだ。 そしてそれは、他の多くの宗教登山に関してもおそらくいえる気がする。雄大な山を麓から見上げた時、信仰心の有無にかかわらず、単純にあの頂に立ちたい、あるいはこの山の懐ろに触れてみたいと思う。それはごく自然なことであって、そこに都合よく何らかの口実が味方した。そんなケースも多々あったようにも思えてならないのだ。 また逆に、個人の嗜好ということを前提にした近代登山でも、そこに有形無形の利益=名誉や記録、国家掲揚などが動機となっていることは多くある。実際先のモンブラン初登頂も、科学者のド・ソシュールが懸賞金をかけたとされており、こうなると先の定義もだいぶ曖昧なものになってくる気がする。 しかしいずれにしろ言えるのは、人はごく自然な欲求として山に登る。そして魅力的なその山と、なんとか関係を持ちたいと考える。それが「登山」という文化の、単純にして根本的な下地であろうと、市井の一登山者としては思うのである。 2)近代以前の「近代登山家』たち そうはいいつつも、日本での前記旧登山=宗教登山、他と、明治以後のいわゆる「近代登山」=趣味としての登山では、その目的も形も、やはり大きな違いがある。で、その「近代登山」の日本での始まりについては、拙著『日本50名ルート』にも書いた通り。明治初期の外国公使やその後に続くお雇い外国人によるものと、一般的にはされている。 その最も初期のものは、万延元年(1860年)の、初代イギリス公使ラザフォード・オールコックらによる富士登山だ。これは内実は外交的な意味合いの強いものだったともいわれているが、それでも当時、すでに登山というものに親しんでいた西洋人たちの興味を大いに引いたことは事実のようで、以後、明治8年(1875年)までに富士山に登った外国人は、女性を含め100人に達したという(布川欣一『明解日本登山史』ヤマケイ新書より)。 その後明治10年頃からはお雇い外国人の活躍となり、ここで改めて「登山」というスポーツが一般庶民にも認知されることになった。 この「お雇い外国人」というのは欧米の技術や学問導入のために政府や民間が招聘した外国人のことで、その数はのべ千人近くに上ったとされている。当然、彼らの登山は当初は学術研究を目指したもので、有名なものとしては、ジョン・ミルン(イギリス)の火山調査や、エドモンド・ナウマン(ドイツ)の地質調査(フォッサ・マグナの発見)などがある。 一方、本来の「近代登山」=趣味としての登山を彼らの中で最初に行なったのは、イギリス人外交官のアーネスト・サトウと、同じくイギリス人冶金技師のウィリアム・ゴーランド(ガウランドとも記される)だ。 彼らはいずれも日本各地で、当時としては相当本格的な山(針ノ木岳、間ノ岳、農鳥岳、日光白根山など)を登った他、E・サトウは明治14年(1881年)に『Hand book for Travellers in Central and Northern Japan(中部および北方日本旅行案内)』というガイドブックを編纂してヨーロッパに広く日本およびその文化などを紹介。ゴーランドも明治10年(1877年)に外国人として初めて槍ヶ岳に登頂した他、この山脈を「日本アルプス」と命名したことでもよく知られている。 以上が日本での(近代)登山の始まりとされるものだが、しかしこれ以前にも日本人自らが個人的な趣味として登山を行なっていた例も、実は多い。 中でも多いのはやはり歌人、俳人だ。彼らはそもそもが自然を主な題材にしているだけに山に登ることも珍しくなく、早くも14世紀室町時代(1484年?)には道興という歌人が、白山、立山、日光白根山などに「諸国遊歴」として登っている。 さらに江戸時代に入ると、まず芭蕉が「奥の細道」の道中(元禄2年=1789年)に月山に登っていることはよく知られた通り。しかしそれ以上にすごいのは同じ元禄時代の大淀三千風という俳人で、彼は白山、立山はじめ、富士山、阿蘇山、湯殿山、戸隠山などにも登っている。これらは一応修験道や講中登山として開かれた山ではあるものの、明らかに「遊行」目的で登ったものであり、この時代としては相当な旅行家、というよりすでに登山家といえる存在だろう。 しかし本当に“近代登山”が始まった頃、明治初期の邦人独自の登山家としてその名を挙げるべきは、松浦武四郎(1818〜1888年)だ。 松浦は「北海道」の名付け親、さらにはアイヌ文化の紹介なども含めた彼の地のオーソリティーとしてあまりにも有名な人物だが、同時に、日本全国で多くの登山を行なったことでもよく知られている。そのリストには16歳の時(1833年=天保4年)に登った戸隠山と木曽御岳をはじめとして、71歳で亡くなるまでに60座以上の山が挙げられている。それらはしかし必ずしもすべて登ったというわけではないようだが(日記には「登頂」の他、「参詣」「通過」「上がる」などと記されているものもあって、実態がわかりづらい。詳細は渡辺隆『江戸明治の百名山を行く―登山の先駆者 松浦武四郎―』北方新書)、その多くは今の日本百名山にその名が挙がるような本格的な山で、さらに本業の北海道でも、羊蹄山、前富良野岳、雌阿寒岳など30座の山に赴いている。また晩年は当時交通事情もままならなかった大台ヶ原に何度も赴いてここの詳細な調査をしている。これらはすべて日本の近代登山史の中で特記されるべきことだ。 またそれ以外のこの時代(明治以降)の“近代”登山者としては、漢学者の高橋白山、小杉復堂、中国文学者の久保天随なども挙げられる。彼らの登った山のリストには富士山、立山はじめ、甲斐駒ヶ岳や白馬岳などもあってそれだけでもなかなかなものだが、さらに注目されるのは、久保は明治33年に『山水美論』を著して、その中で登山の意義や自然に接することの素晴らしさなどを説いていることだ。 曰く、個人的な登山というのは生業や学問のためにやるものではなく「造化の大きな秘密を探り、非常なすばらしさを悟る」ためにやるものであって、そこでは「緑の山の色彩のみごとさ、曲がりくねっている渓泉のおもむき、花や木のすばらしさ」が味わえる。と、今読んでも実に登山の神髄に触れるような言が記されている。これを見てもこの時点で邦人の間にも完全に「登山」の気概があったことは明らかといえる。 3)ウォルター・ウエストンの遺産 こうして「近代登山」は明治時代の我が国に確実に根を下ろしていったわけだが、それをさらに発展させたのが、ウォルター・ウエストン(1861〜1940年)だ。 ウエストンはイギリス人宣教師として、明治21年(1888年)から大正4年(1915年)の間に都合3回、足掛け16年、日本に滞在して多くの山を登った他、それを『MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS(日本アルプスの登山と探検)』として諸外国に発信した。また明治38年の日本山岳会設立の推進役になったことでも我が国の登山界に大きな足跡を残している。 「日本近代登山の父」とも称される人物だが、氏が登山史上重要なのは、単に上に述べただけのことではない。さらに注目されて然るべきは、「登頂」ということだけが目的だった当時の旅行的な登山に「バリエーションルート」というスポーツ的な概念を持ち込んだことだ。 そのバリエーションルートとは、具体的には大正元年(1912年)の槍ヶ岳東稜と奥穂南稜。両者とも単なる登山ではなく明らかな“登攀”、つまり「ロッククライミング」の範疇に入るもので、これは当時たいへんに珍しい(それ以前の明治37年に鳳凰山地蔵岳の頂上オベリスクにも登っているが、これは5mほどの岩を投げ縄で登ったという程度のもので、正式なクライミングとは言い難い)。 もともとウエストンという人は英国山岳会にも所属する正真正銘のアルピニストで、マッターホルンなど多くの高峰にも登っていた。それがこのように登山の必然的な流れ=より困難なルート、という発想にごく自然につながったのだろう。なお、氏の奥穂南稜初登時の日記には「多分、より変化に富んだ登攀が、この穂高山塊の胸壁の尖峰でなされることになろう。(中略)この穂高山塊は尖塔が集団でそびえているので、人びとが何週間もあきずに登攀をすることができる」(『日本アルプス登攀日記』1995年、平凡社より)とあり、この時代に今とほぼ同じクライマー感覚を持っていたことが伺い知れる。 ところでウエストンというとよく言われるのが、名案内人、上條嘉門次との長年にわたるパートナーシップだ。これは世の登山史には必ず出てくるものだが、上に挙げた2つの登攀を改めて見た場合、それ以上に重要な人物として挙げられるのが、根元清蔵だ。 根本はもともと妙義山の案内人で、嘉門次より30歳近く若い。登山技術に長けていて人柄も良く、ウエストンは大正元年の妙義山、筆頭岩と鏡岩の初登攀の際に雇って以来、軽井沢や有明山、燕岳などへの長期旅行にも連れていくほどのお気に入りだったようだ。ちなみにこの妙義山の岩塔では下りにロープを使っていてそのこと自体も歴史的なことではあるのだが、登りでも使っていたかどうかはわからない。 そしてその直後の槍ヶ岳東稜。も、当然、清蔵は一緒で、この時は嘉門次の息子の嘉代吉と人夫の谷口音吉も加わっていたが、登攀の主力となったのはもちろんウエストンと清蔵だった。その時の模様をウエストンは「人夫たちは次第に上手になっていったが、清蔵の本当に熟達したクライミングには、だれもかなわなかった」と日記に記してる。 なお、この時はロープは持参したものの、「人夫たちが慣れていないため、それを着けるのはやめた」とある。が、「頂上に近づくにつれ岩が険しく」なり「どうしようもなくな」ったところでチムニーを見つけてそれを登ったとあるし、ウエストン自身も日記の中でこの登攀を「私が日本アルプスでなした中で、真のスポーツ登山であったといえる」と述べているほどなので、これをすべてノーロープで登ったかどうかは疑問だ。ちなみにこのルートは史実家たちによって長らく北鎌尾根の一部とされてきたが、実際は完全な独立ルートで、しかも冬期初登はあの南博人(1958年)という、かなり本格的なものだ。 そしてその3日後、今度は嘉門次、清蔵、上高地の旅館の主人の加藤惣吉の3人を伴って奥穂南稜に向かい、無事完登。これもロープについての言及はないが、さすがにここをノーロープということはないだろう。そしてこの登攀についてもウエストンは「私が日本アルプスでやった体験のうち、一番厳しいものとなった」と日記に記している。 いずれも時代に先駆けた記録といえるものだが、ウエストンと清蔵はこの後も妙義山へ帰ってさらに注目すべきことを行なっている。ひと月ほど前に登った筆頭岩の西稜の初登攀で、この時清蔵に、リード&ビレイという今とまったく同じ形のロープワークを事前に教えて臨んだと、『群馬岳連50年誌』掲載「ウォルター・ウェストンの来県と根本清蔵について」小林二三筆には記されている。 なおそこにはウエストンが「私が先に壁を登り、よい足場が見つかったら、そこで清蔵が登ってくるようにしなさい。その位置で、今度はさらに上に登る私を確保しなさい」と教えたと書かれてあるが、ウエストン自身の日記には「この先は(中略)高さが48から50フィートほどの、ほぼ垂直で岩がむき出しの、すごい形相をしている壁で(中略)清蔵は下から行く手をさぐりながら、切り立った絶壁を一歩一歩這うように登っていった。残りの者はそれを見守り励ました」とあり、清蔵がむしろトップに立ったようにも伺える。 いずれにしてもこれら一連の登攀は国内で行なわれた初の完全な形でのロッククライミングであり、その点でこの両人の業績は日本登山史に改めて刻まれるべきものだ。が、実はせっかくのこうしたクライミングも、当時はあまり注視はされなかった。これらはなにしろ一般的な「登山」からはかけ離れた行為であって、その後ウエストンが自らの講演で本場アルプスでのそれを紹介した時にも多くの聴衆からは「軽業」にすぎないものと見られたという。これはその後の日本の登攀史というものを考えると、実に残念なことだ。 4)「近代登山」から「アルピニズム」へ 「近代登山」も「アルピニズム」も、今は滅多に使われる言葉ではない。しかし登山の歴史の中で、この二つの言葉、というより概念は、やはり外せない。 このうち「近代登山」に関しては前に述べた通り。宗教や学術ではなく、個人が自主的に行なう“遊び”としての登山ということで、その背景には明治になって西洋からもたらされた近代個人主義の影響が強くある。 一方の「アルピニズム」は、それをさらに“スポーツ”として捉えたもの、ということになる。これはそもそもが(ヨーロッパ)アルプスを登るという意味の言葉で、そこには当然ながら技術的発展の必然性と、“遊び”を個人が追求すべきものと捉える文化が、色濃く含まれている。 登山にこうした方向性があるのは今なら当たり前とも思えるが、実は無くてもおかしくない。日本の普通の山をただ登るというだけなら、そこにスポーツ的な発展を求める必要は特にないからだ。実際、W・ウエストンが本場ヨーロッパアルプスのクライミングを日本に紹介した時も、ただの「軽業」と見られた、というのも前述の通りだ。 だが、明治という躍動的な時代の中で“近代登山”が発展していくと、ここにも相応の変化が見られるようになった。 その大きなきっかけは明治38年(1905年)の日本最初の山岳会、日本山岳会の設立で、以後その会員たちによってさまざま形の登山が順次追求されていった。 それはまず、穂高剱などの比較的難しい山々への“登山者”としての登頂(明治35年小島烏水らの槍ヶ岳、39年寺島今朝一らの奥穂高岳、42年吉田孫四郎らの剱岳など)から始まり、次に縦走登山(明治42年、鵜殿正雄らの穂高連峰〜槍、大正2年、木暮理太郎・田部重治の槍〜三俣蓮華〜立山〜剱など)、さらに探検登山(大正14年、冠松次郎の下廊下完全遡行と十字峡の発見、昭和2年、剱沢大滝直下到達など)へと続く。 この3つは登山史で「探検登山の時代」と呼ばれることが多いが、その言葉はやや誤解を招きやすい。むしろ登山に、易から難へという、それまでにない発展性を求めたという点で、近代登山の「漸進的発展の時代」と括るべきものだろう。 こうした時代を経て、大正に入ると、いよいよ日本の登山界にも「アルピニズム」の言葉が登場することになる。それを促したのは3つ。スキーの普及と、各大学、旧制高校などの学校山岳部の設立、それと邦人による実際のヨーロッパアルプス登山だ。 このうちまずスキーの普及については、これが直接アルピニズムというわけではもちろんない。が、そもそもこれは、我が国にはまず山を登る手段として伝えられたということがある。明治44年、オーストリアの陸軍少佐テオドル・E・レルヒによるもので(スキーの伝来そのものは他にも諸説ある)、氏はこれを用いて富士山(八合目まで)や妙高山、羊蹄山などにも登り、結果、それまで夏期のみがその対象と目されていた日本の登山に“冬期登山”という形態をもたらすことになった。 次の学校山岳部の設立に関しては、前出日本山岳会の発足以後、学生独自のものとして各地で相次いだ。主なものは明治44年北大(スキー部)、大正2年一高(現東大)、三高(現京大)、同3年二高(現東北大)、4年慶応、8年学習院、9年早稲田などなど。 これらは学生だけに新しい知識や考え方を取り入れることに敏感で、これが結局、我が国の登山をよりスポーツ的なものへと先導していくことになった。 その最初が大学山岳部によるスキー(積雪期)登山だ。これはまず大正9年に慶応が白馬杓子岳へ、翌10年に早稲田が白馬本峰への登頂を試みたのを皮切りに、各大学がこぞって臨むことになった。特に慶応は大正11年3月に槍の冬期初登頂を果たした他、翌4月には剱岳の積雪期初登頂にも成功するなど、この分野での先駆的な成果を残している。 一方、邦人によるヨーロッパアルプス登山については、明治44年の加賀正太郎によるユングフラウ(4158m)登頂を皮切りに、辻村伊助のメンヒ(大正3年1月)、シュレックホルン(同年8月)、日高信六郎のモンブラン(大正10年)などが初期のものとしてある。中でも辻村のシュレックホルンは完全な岩登りで、これらの様相を記した『スウィス日記』は日本の登山界に、遅ればせながらの大きな影響を与えたとされている。 しかし我が国への影響という点でさらに決定的だったのは、大正10年の槇有恒によるアイガー東山稜(ミッテルレギ稜)の初登攀だ。これは現地でも長年課題視されていたもので当然大きなニュースになり、その衝撃は日本国内でも相当なものだった。そして結果、槇の所属していた慶応はじめ、多くの学生たちのエネルギーを、一気に「アルピニズム」へと向かわせることになった。 当然ながら槇はその大きな推進役となり、講演や文筆などを通じてこの方向性を強くアピールした。その方向性とは、具体的には冬期登山とロッククライミングということで、それを氏は慶応山岳部部報『登高行』に次のように示している。 「夏の山から冬の山へ向かう傾向は当然な行き方である。雪と氷の山を味わうためにはどうしても積雪期の山にゆかなければならない。夏の山でこれから開拓されてゆくのは岩登りの方向ではあるまいか。もし私たちにして先人の跡をのみたどることに満足でき、自分の新しい道を求めないものなら問題はない。しかし自分たちの前にある経験や知識の上に立って、さらに少しでも上に延びたいという望みがあるならば、いつも新しい道の開拓に私たちの試みは向かうはずである」。 これも今ならごく当たり前に思えるものかもしれないが、当時の登山の一般社会レベルでの捉え方からすれば、かなりに進んだ、かつ的確な見識といえるものだ。これを受けて日本の登山はいよいよ次の段階、ロッククライミングへと進んでいくことになる。 (to be continue) |
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