旧ユーゴスラビア小史
第一次世界大戦以降のユーゴスラビアの歴史を振り返る。
1916 セルビア民族主義者によるオーストリア皇太子暗殺を機会に第一次大戦勃発
1918 「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」
1929 アレクサンダルは国王独裁政をしいて、国名をユーゴスラビア王国と改名
1941 第2次大戦勃発直後、ヒトラーの圧力の前に日独伊三国同盟に加盟。クロアチア人共産主義者チトーのパルチザンは侵略軍とクロアチア傀儡政権と戦う
1942 パルチザンは事実上ボスニアを制圧し、第1回人民解放反ファシスト会議を招集
1945 チトーを首班の連立政府が成立。王政は廃止され、国王はひきつづき亡命
憲法制定議会の選挙で新議会はユーゴスラビア連邦人民共和国の宣言
1946 経済の諸分野で国有化を実施し、カトリック教会に制限
1953 新憲法でチトーは大統領となる
1963 憲法改正では国名をユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称.
1965 企業経営を全面的に自主管理に。政府補助金にたよらない企業間の競争を奨励。消費財生産をふくむ工業総生産は顕著な発展を示し67年までに価格も安定
1980 チトー死去
1987 民族主義的なミロシェビッチがセルビア共和国幹部会議長に選出。民族主義政策をとる
1991 クロアチアとスロベニアの議会が独立宣言を採択
クロアチア・セルビア衝突、内戦状態に
1992 EUはスロベニアとクロアチアの独立を承認
ボスニア・ヘルツェゴビナのユーゴスラビアからの独立の宣言。5月、セルビアの干渉に対して国連は経済制裁を課す。
セルビアとモンテネグロの両共和国はみずからをユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)と宣言
1993 国連はマケドニアの国連加盟を承認
1995 クロアチア内のセルビア人地域をクロアチアへの統合を定めた和平協定が調印
NATOはセルビア人勢力に対して大規模な空爆。これに対し、セルビア人勢力は国連平和維持軍300人以上を拘束
9月、米でデイトン仮調印(合意)、12月、パリで正式調印
 ボスニア・ヘルツェゴビナは単一国家として存続させ、内部に「ボスニア連邦」(ムスリム人とクロアチア人勢力で構成)と「セルビア人共和国」の存在を認める。それぞれの領土はボスニア連邦51%、セルビア人共和国49%とする
1996 平和実施部隊の厳戒態勢のもとで統一選挙
多く得票したムスリム人のイゼトベゴビッチが幹部会議長(国家元首)に就任
国連安保理事会で、新ユーゴが旧ユーゴを継承し、新ユーゴはボスニア・ヘルツェゴビナの統一を尊重するなどに合意し、正式な国交樹立
1998 コソボ地区でセルビア当局が大規模なアルバニア系住民掃討作戦を展開
NATO、99年3月に空爆に踏み切った攻撃はセルビア全土の軍事関連施設に拡大。セルビアがアルバニア系住民を追い立てたため、アルバニア、マケドニアなどに多くの難民が溢れ出た。
6月初めセルビアが軍隊と警察のコソボからの撤収、停戦が成立した。
2001 セルビア共和国政府は、ミロシェビッチ前ユーゴ連邦大統領を、国連の旧ユーゴスラビア戦犯国際法廷に引渡し。
起訴内容は、コソボ自治州のアルバニア系住民を対象とした暴力作戦に関与し、アルバニア系住民約74万人を強制的に追放、少なくとも600人のアルバニア系住民を虐殺
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