旧ユーゴスラビア
モザイク国家の歴史的背景
モザイクのような多民族国家の歴史を簡単に追ってみると、現在の複雑さが見えてくる。旧ユーゴはどのように統一を計り、どのように分裂していったのだろうか。(*1)

オスマントルコ帝国支配
 ロシア方面からバルカン半島にスラブ人がやってきたのは6−8世紀ごろといわれ、その後セルビア王国とクロアチア王国ができた。15世紀にオスマントルコ帝国が攻めてきて、南のセルビア、ボスニア、マケドニアは400年間トルコの支配下に入った。ただ、セルビアの山岳地帯はトルコが攻めにくかったため、その後もセルビア人の自治王国であるモンテネグロとして残った。トルコが攻め込めなかった北のクロアチアはハンガリー王国に、最北のスロベニアは神聖ローマ帝国に、それぞれ1000年近く支配されていた。

オーストリア・ハンガリー支配
 19世紀、神聖ローマ帝国とハンガリー王国は、ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国に生まれ変わり、中部ヨーロッパに強力な国家が登場すると同時に、東のオスマントルコは弱くなった。その中でオーストリア・ハンガリーは、スロベニアとクロアチアだけでなく、ボスニア・ヘルツェゴビナも領土に加えた。一方セルビアはトルコから独立し、同じく新しく独立した隣国ブルガリアと戦争してマケドニアを奪った。

ユーゴスラビア誕生(1918)

 拡大をめざすオーストリア・ハンガリーはセルビアに圧力をかけ、両国間で対立が増加、ボスニアを訪れたオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺されたことをきっかけに戦争となった。バルカン半島に勢力を拡大したかったロシアはセルビアを支援し、第1次世界大戦が始まった。 この戦争は、強大になってきた中欧の勢力(ドイツとオーストリア・ハンガリーなど)が、西欧(英仏など)とロシアの東西両面を相手に、ヨーロッパの支配権をかけて戦ったもので、結果は中欧勢力の負けだった。戦後のベルサイユ条約(1919年)で中欧勢力は解体され、いくつかの民族国家が作られた。この時に、戦勝国となったセルビアを核とするユーゴスラビアが初めて作られた(1918〜91年)。

鼓舞された民族主義
 ユーゴスラビアを構成した各国の個別の歴史的なアイデンティティ(民族意識)は、この時にはすでに生まれていた。北から、神聖ローマ帝国の一部だったスロベニア、独立国からハンガリー王国領になったクロアチア、オスマントルコ領からオーストリア・ハンガリー帝国領になったボスニアとヘルツェゴビナ、一度はトルコに支配されたが独立したセルビア、中世セルビア領のうちトルコ支配に組み入れられず自治を維持したモンテネグロ、そしてセルビアがブルガリアから奪ったマケドニアという、各国の歴史の違いがアイデンティティにつながった。

スラブ系の民族どうしで統合
 ユーゴスラビアの場合、6つの民族がばらばらに独立せず統合したのは、当時の東欧に「スラブ系の民族どうしで統合し、ドイツとオーストリアのゲルマン系の結束に対抗しよう」という汎スラブ運動が起きていたためである。この運動は、スラブ人の筆頭格であるロシアが勢力拡大の一環として展開していた。ロシアが革命でソ連になってからは、社会主義運動に取って代わられた。

セルビア人とクロアチア人の対立 
  ユーゴは一つの国家になったものの、主要な2つの勢力であるセルビア人とクロアチア人とは対立しがちだった。第1次大戦から15年後にドイツでナチスが台頭し、中欧勢力が力を盛り返して第2次世界大戦が起きると、ユーゴはドイツとイタリアに解体され、クロアチア人の民族主義者はナチスの意を受けた国を作り、セルビア人を多数殺した。これは1990年代にユーゴ連邦が解体していく際、セルビア人とクロアチア人が再び殺し合う遠因となった。

チトーのユーゴ再統一
 ユーゴ内部の民族対立は、第2次大戦後にユーゴを再統一した指導者チトーのカリスマ性と権力によって、いったんは抑え込まれ、独自の社会主義をめざす政策がとられた。

ユーゴ連邦も崩壊
 だが1980年にチトーが死ぬと、連邦を束ねていた力は弱くなった。再び各国の民族主義が強くなり、ソ連崩壊に続き、1992年にはユーゴ連邦も崩壊した。

ミロシェビッチの新ユーゴスラビア連邦誕生
  その後は、セルビアの指導者ミロシェビッチの主導により、セルビアとモンテネグロだけで新しいユーゴスラビア連邦が作られたが、ミロシェビッチが退陣に追い込まれた今、モンテネグロ国内では連邦を離脱する声が強まっており、ユーゴスラビアという政治体制は終わりそうになっている。

対  立

  ユーゴ連邦の時代には、連邦内でかなりの人の移動があり、どの共和国も多民族の色彩が強かった。特に最も勢力の大きいセルビア人は91年の時点で、セルビア本国に650万人が住んでいたのに対し、ボスニア・ヘルツェゴビナに140万人、クロアチアに60万人が住んでいた。

セルビア対クロアチア

 セルビアの指導者となったミロシェビッチは、これらの在外セルビア人を保護するという名目で、ボスニアやクロアチアに軍事介入しようとした。クロアチアとの戦争は91年から95年まで断続的に続き、最終的にはクロアチアの勝利となり、クロアチア内に住んでいたセルビア人のうち20万人が難民となり、主にセルビアへ追い出された。

ボスニアでの戦争
 ボスニアの400万人の住民のうち、イスラム教徒が44%、セルビア人が32%、クロアチア人が17%だったが、92年にイスラム教徒が主導してボスニアが連邦から独立すると、セルビア人はセルビアからの軍事援助を受け、自分たちの居住地域をボスニアから分離して「ボスニア・セルビア人共和国」を作った。そこにクロアチア人も相乗りし、クロアチア人居住地域に独自の国家内国家を作ることを宣言し、3者間で内戦が始まった。クロアチアでは殺しあったクロアチア人とセルビア人は、ボスニアでは共闘してイスラム教徒を大量虐殺する「民族浄化」を行った。NATOが介入して停戦させるまでの3年間に20万人が殺され、200万人が難民となった。

コソボ問題
  90年に民主化に踏み出したアルバニアの北東隣りのユーゴスラビアではアルバニア人が人口の90%を占める。本国のアルバニア人は約300万人だが、ユーゴスラビアには170万人のアルバニア人が住み、その120万人はコソボ住む。そのコソボ自治州で権限拡大と自立化を求める動きが活発だった。
 アルバニア人がゲリラ活動を行うようになった98年2月頃から、セルビア当局が大規模な掃討作戦を展開して多数の死傷者がでた。NATO諸国は多くの警告や制裁を行ったが、ミロシェビッチ大統領の率いるセルビア政府が聞き入れなかったため、99年3月24日に空爆に踏み切り、攻撃はコソボからやがてセルビア全土の軍事関連施設に拡大した。セルビアがアルバニア系住民を追い立てたため、アルバニア、マケドニアなどに多くの難民が溢れ出た。6月初めセルビアが軍隊と警察のコソボからの撤収に応じ、6月9日に停戦が成立した。

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