ルーマニアの歴史から
二つの革命
永いルーマニアの歴史から近代の二つの革命について知っておきたい。スターリン主義と、チャウシェスク独裁倒しの革命に参加したリーダーの回想録から。(*2)
チャウシェスクが最後の演説をしたバルコニー
チャウシェスクが最後の演説をしたバルコニー
と手前はオブジェ
=ブカレストで
  東欧の私の世代は、歴史を前進させるのではなく後退させた二つの革命(1944年と89年)に巻き込まれた。低開発の資本主義から低開発の杜会主義へというたしかに回りくどいUターンをし、杜会主義と低開発は奇妙な仲間であつたため、われわれは間違った道を歩んでいたことを発見し、今や出発点に立ち戻ろうと努めている。
  ありとあらゆる災いをもたらした第2次大戦後の最初の革命については、そのシナリオは実際には44年10月9日にクレムリソでチャーチルとスターリンによって書かれたものであり、われわれルーマニア人に責任はない。比類なき冷笑的な調子で、チャーチルはその回顧録に「バルカンにおけるわれわれの仕事」は、会杜や銀行の資産に対する配当のように、ソ連がルーマニアの90%を、英国がギリシャの90%を取るといった調子で勢力圏の比率をめぐって論議された」と書いている。ルーマニアをこれだけくれれぼ、ギリシャはもっと渡そう、といった調子でこの厳しい取引きは行われたに違いない。
しかし、いったん取引きが済んだ後は、大衆に分かりやすいようにドラマの幕ごとに怒りを込めた抗議を突き付けて、両帝国の主はその帳尻合わせをした。英国は、ルーマニアの全野党の廃止やミハイ国王の犠牲まで受け入れ、モスクワは、ギリシャの山中で武器を求め飢死寸前だった同志マルコス将軍を見殺しにした。シヨツキングではあったが、大国間の外交史を知る者にはさほどのことではなかった。
新しいソ連の主を乳飲み子のように信じ切ったわれわれルーマニア人は、赤軍の援助をほんの少し受けたことは認めたが、自分たちで革命をなし遂げた、と誇りをもって宣言した。事実、われわれは、モスクワのシナリオで割り当てられた役割を能力のあたう限り演じた。
近代化への挑戦第2の革命に関しては事情は異なっていた。両首脳(ブッシュとゴルバチョフ)はマルタでの核兵器の大々的な取引きに没頭して、われわれをないがしろにしたため、革命は自分たち自身でやるしかなかった。89年のわが国の革命が自発的に起き、独裁者チャウシェスクを逃亡に追い込んだのは、おそらくこのためだ。革命には反共のレッテルが貼られたが、これだけでは、その杜会経済的な内容に触れておらず、古い体制を否定したというにすぎない。
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