死海文書
クムラン教団
パレスチナの死海北西岸に残るクムランは、エッセネ派クムラン教団と呼ばれる古代ユダヤ教徒が共同体生活を営んだ集落遺跡である。近くの洞穴から、最古の「旧約聖書」の写本などを含む死海文書が発見されたことで世界的に知られた。この共同体は前135年ごろから後68年ごろまで続いた。
死海のほとりのクムラン
死海のほとりのクムラン
  1947年の春、ムハメッド・エド・ディブというベドウィン族の少年が山羊の群れの世話をしているとき、死海北西部に位置する洞穴の中に石を投げた。石が何かに当たった音がしたので、中に入って調べてみると、そこには何本ものヘブライ語の巻き物文書が大きな壷に収められているのが見つかった。これはこれに続くいくつかの歴史的大発見の最初であった。
  学者たちにはすぐに、これらが66〜70年のユダヤ戦争でのローマ軍によるエルサレム包囲以前に隠された古文書であることがわかった。この「死海文書」の発見は、1世紀のユダヤ教およひ初期キリスト教の研究にとって非常に大きな意味を持つものであった。
これらの文書が、新約聖書の時代に生きたユダヤ人の世界観を示しているからである。また、これらはイエスやパウロが読んでいたのとは異なる内容のユダヤ教の聖書を含む文書である。クムランの文書中には、エステル記を別として、ヘブライ聖書正典の各巻の、全f本または少なくとも一部分が見つかっている。さらに重要なのは、数多くの聖書注釈書の発見である。これらの文書を書き残した人ぴとの共同体である修道院の遺跡が、死海を見下ろす台地、クムランのワジ近くで発掘され、その名をとってこの一派はクムラン派と呼ばれるようになった。
クムラン共同体の人びとは自分たちを神に選ばれた真の民と考えて、きたるべきこの世の終末と神の裁きへの覚悟をしていた。この共同体はそこにはいっている人びとがこの目的にそって日常の生活が送れるようにという意図で設立された。したがって、設備のゆきとどいた貯水池と水道網、祭儀用浴場、およぴ灌激用水路は、ここの人びとの物質的必要と宗蜘勺目的の両方を考えてつくられたものである。乾期のあいだ数百人のための需要を満たすに十分な水を備蓄することができた。
しかし、彼らはイエスや彼の信奉者たちとは異なっている。イエスは、女たちや身体の不自由な者、病人らを迎え入れたが、クムラン派はそのような人びとを排除した。そしてクムラン派が仲間同士の愛と敵に対する憎悪を強調したのに対し、イエスは敵も含めて、すべての者に対する愛を説いた。この「死海文書」の研究は、ユダヤ教とキリスト教の起源の諸問題についてさらに多くの光を投げ続けるだろう。
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