女帝エカテリーナ

嫁入りからの物語
  ドイツの小さな公家の娘として生まれたエカテリーナは、1745年に、女帝エリザベータの甥のロシア皇太子ホルシュタイン大公ピョートルと結婚。賢明で野心的でもあったエカテリーナはすぐにロシア文化を身につけ、宮廷内に支持者を獲得した。(*2)(*3)
少女の頃のエカテリーナ
少女の頃のエカテリーナ
  1762年、女帝エリザベータの死によって、夫ピョートルが、ピョートル3世として帝位を継いだ。当時ロシアはプロイセン相手の戦争中(七年戦争)だったが、ピョートルは、プロイセン国王フリードリヒ2世の崇拝者で、有利な戦況にかかわらず突然の講和を結んで、軍と貴族の反感を買った。ピョートルはまた、常々ロシアの民衆を軽蔑し、エカテリーナを離縁すると公言していた。62年7月、エカテリーナは自分を支持する近衛隊やロシア正教会を背景に、無血の宮廷革命でピョートルを退位させ、女帝の地位についた。
  エカテリーナは、フランス啓蒙主義にしたしみ、ボルテールやディドロと文通し、1773年にはディドロを宮廷に招いた。法制改革をめざして自ら「訓令」をあらわし、啓蒙思想にもとづく法治主義を表明して、各身分から選ばれた数百人の法典編纂委員会を創ったが、具体的な成果をあげることはできなかった。教育を重視し、ロシアで最初の女学校を設立、また医学校を各地に設けた。さらに、その頃、開発された天然痘予防法をいち早く取り入れ、自らロシア人として最初に種痘を受けるなどした。
晩年のエカテリーナ=夏の宮殿蔵
晩年のエカテリーナ=夏の宮殿蔵
  統治の初期には、宮廷革命に功のあった者を優遇し、爵位や官位、国有地や農奴を、惜しみなくばらまいた。農奴制への憎悪を公言していたにもかかわらず、治世の全期間を通じて、地主貴族の特権を容認し、その軍役義務の廃止を承認した。
  農民の不満は、コサックのプガチョフ率いる大規模な反乱(1773〜75)で頂点に達した。エカテリーナは、ボルガ川流域とウラルに拡がった反乱を過酷に鎮圧し、その後1775年に地方統治の改革、85年に市政改革を行って貴族主体の地方分権を推し進めた。フランス革命がおきると、エカテリーナの自由思想への敵意は強まり、農奴制を批判したノビコフやラジーシチェフは投獄された。
  エカテリーナの治世下に、ロシアの領土は著しく拡大された。オスマン帝国との2度の戦争(ロシア・トルコ戦争=1768〜74、87〜91)とクリミアの併合(1783)によって、ロシアは黒海北岸の支配権をえた。ポーランドに対するロシアの支配も大きく拡大され、3回におよぶポーランド分割(1772、93、95)によって領土は頂点に達した。1792年には、極東進出の一環として北海道の根室に親書をたずさえたラクスマンを派遣している。
  エカテリーナの統治の特徴として、愛人・寵臣たちの果たした重要な役割をあげることができる。宮廷革命の立役者オルロフは、統治の初期にエカテリーナの相談役をつとめた。ポチョムキンは国政に助言を与え、クリミア半島をロシアの要塞にし、黒海艦隊を創設した。エカテリーナの評価は様々だが、ロシアの近代化にとって重要な人物だったことは確かである。首都ペテルブルグを近代都市につくりかえ、ボリショイ劇場を創設し、エルミタージュ美術館の基礎を創ったのも彼女であった。
  残された「回想録」、書簡、文芸作品は、エカテリーナの人柄と、この時代のロシアの貴重な記録となった。
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