旧掲示板のログです。
オレが話そうとしていたのは、「コリバがなぜ、教養ある人物でありながら、狂信者になったか」という部分です。
急に話を変えたのが敗因か。でも、これは思いのほか重要だという気がしてきたんだよね。
> 要点は「伝統の美」なんですか?
いや、「日本的、という言葉の裏に隠された欺瞞」の方だったのです。
ここから「キクユ的、という言葉の裏に隠された欺瞞」の話に持っていこうかと。
> しかし、そういう問題ならなおさら、「生活の実際が魂を下ろしている美」と「伝統の美」との
> 対立の中で、両者が同一ではなくなったという事が言えるのではないでしょうか。
「両者が同一ではなくなった」という云い方は、ちょっと引っ掛かります。「両者は事の始めから同一ではない」と考えてみたい。「昔は同一だった」わけではないんです。実際、安吾に則していえばそういうことになりませんか(とりあえず、不都合が指摘されるまでは安吾の考えを使っていってみる、ということで)。
それから、別に「対立」もしてない。オレが思うに、そういう「対立」があるかのように言い出すときには、ほとんどの場合、なんらかのイデオロギー的な、あるいは政治的な思惑があるのだと思います。これはコリバの場合にも当てはまりそうです。
「伝統の美」は、欺瞞です。と、いうか、わざわざ思いだしたり「発見」したりしなければならないようなものなんです。
コリバが「キクユ的」であることにこだわるためには、どこかで「キクユ」を「発見」しなければならなかったはずです。
コリバは、「ケンブリッジ大学を優等で卒業してからイェール大学で二つの博士号を取得した」(p39)、このとき、コリバは「(ケニヤ人としての)生活の実際」の外部にいたはずです。
日本人が西欧的知見を獲得することなくしては日本の「伝統の美」を再発見できないように、コリバもやはり、同じような過程を経て「キクユ的」なるものを発見したのではないか。
だから読者は、コリバは十分な教育を受けた、にもかかわらず「狂信者」になった、と読んでしまいそうになるが、ほんとうは、だからこそと読まなくてはいけないのかも知れない。
もちろん、こういうことが作品中に明記してあるわけではないので、未来永劫仮説のままかもしれないんですが、この仮説を信じてみるとコリバの人物造形はなかなかに巧みであることだなあ、と思えるわけです。
本来は、この仮説の傍証となりえるような部分を作品中から探す作業をしなくてはならないわけだが、いつのことになるものやら。
もうちょっと書かなきゃならないことがあるような気がするのだが、眠い。
中途半端ながら、このへんで。文章が縒れてたらゴメン。
要点は「伝統の美」なんですか?
しかし、そういう問題ならなおさら、「生活の実際が魂を下ろしている美」と「伝統の美」との対立の中で、両者が同一ではなくなったという事が言えるのではないでしょうか。そうすると、やはりその両者を同一たらしめなかったのが、私がもう一ヶ月ぐらいこだわっている「技術」という代物ではないのでしょうか。
うーむ。ヒントの出し方が悪かったのか。
> コリバが、彼の理想とする伝統を取り戻そうとすればするほど、
>どんどん彼が目指す伝統の精神から離れていってしまうということでしょうか?
>そこに彼はいらだって、あんなにかたくなになってしまったということでしょうか。
>コリバが軽蔑する伝統の精神ををうしなった(とコリバの思っている)
>ケニアの人々の方が、伝統の精神的な部分をより強く持っているということでしょうか。
どうしてこういう答えになるのかさっぱり解りませんが、ま、そこはそれ、人それぞれに思うところもありましょう。
できれば、「日本文化私観」を読んでみて、もう一度考えてみてね。
別に、無理にとは言わない。
夜にでも、また続きを書きます。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/fk2001/
おひさしぶりです。管理人です。
相変わらずの亀レス、お許しください>ALL
あと、掲示板システムの変更もしばし、お待ちを>ふぢーさん
さて、とりあえずふぢーさんからの宿題ですが安吾の文を変換するとこうなりますか。
しかしながら、コリバがケニアを発見し、その伝統の美を発見したことと、ケニアの人々がケニアの伝統を見失いながら、しかも現にケニア人であることの間には、コリバが全然思いもよらぬ隔たりがあった。
コリバが、彼の理想とする伝統を取り戻そうとすればするほど、どんどん彼が目指す伝統の精神から離れていってしまうということでしょうか?
そこに彼はいらだって、あんなにかたくなになってしまったということでしょうか。
コリバが軽蔑する伝統の精神ををうしなった(とコリバの思っている)ケニアの人々の方が、伝統の精神的な部分をより強く持っているということでしょうか。
なんか違う気がするけど。どうでしょうか?>ふぢーさん
ところで、おくのくんはこのふぢーさんの書き込みにたいしてどう考えてますか。
よければ、書き込みよろしくおねがいします。
でわ
> そこで彼が持ち出した理論が「ンガイが復活をお許しになった」なんですね。
> 技術は西洋のものでも、その背後の思想を変えてしまったのです。
ああ、この例で、おくの君の、思想、という言葉の使い方のキモが少し解った気がします。
> 結局のところ、負の面でも大きな力を発揮する技術ではあるけれども、それを捨て
> ることはできない、という話なのではないでしょうか?
いや、いや。キリンヤガは「という話」ではないのでは。「キリンヤガ」はそんなに単純な話ではないのじゃないですかな。ま、もちろん「という話」もエピソードとしては描かれてるのはたしかなんですけど。
ただし、この件については、古凡君が宿題を提出してから。
安吾から連想したこと
>ちょっと坂口安吾はネタが簡単過ぎましたか。うーん、底が割れたって感じ。
>かなり朧気な記憶だったりするのですが、坂口安吾が「京都や奈良の文化資産なん>てどうでもいいけれど、路面電車が走らないのは困る。それが文化だ」みたいなことを言っていたと思います。
あ、それは俺にバレルのは当然ですね。俺が唯一まともに読んでる文学は安吾だけだし、『日本文化私観』を頭の片隅に思いだしつつ、『キリンヤガ』を読んだりしていたので(邪道?)。
たぶん、おくの君が触れてるのは、『日本文化私観』の最後のあたりですね。
法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、必要ならば、法隆寺を取り壊して停車場をつくるがいい。(中略)ここに我々の生活の実際が魂を下ろしているかぎり、これが美しくなくて、何であろうか。(さらに略)そうして真に生活するかぎり、猿真似を羞じることはないのである。それが真実であるかぎり、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。
安吾は、「日本人はどうして和服を着ないのだろうといって」「欧米化に汲々たる有り様」を嘆くタウトやコクトオにずいぶん腹を立てていて、「祖国の伝統を生むものが、又、彼等自身にほかならぬことを全然知らないようである」と皮肉を言っています。
安吾は、日本的、という言葉の裏に隠された欺瞞をざっと批判した後、こんなふうにいっています。
しかしながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることの間には、タウトが全然思いもよらぬ隔たりがあった。
さて、この一節の[タウト]を[コリバ]に、[日本]を[ケニヤ]に置換してみると、「おや?」と思ったことがあるんですが、それは一体なんでしょう。>古凡君、宿題です。
ヒントとしては、俺の、発言のうち、以下を撤回します。
> 本の中には、彼が狂信的ともいえる復古主義者になったいきさつははっきりとは書
> かれてないと思います。
> だから、あまり実のある話には……。
なあんだ、簡単な話だったじゃないか、なぜ解らんか、オレ。って感じだなー。こうしてみると。アホです、俺は。
うーん、コリバに対立するキャラクターにこのくらいのことを言わせれば、もすこしメリハリの聞いた話になったんだけど……。たとえばエドワードとか。やっぱし、どーにも歯がゆいんだなあ。
俺が「キリンヤガ」をある程度評価しながらも、小説としては……、といってしまうのは、その辺なのか。好みの問題といえばそれまでという気もするが。
(ちょっと長いかな? 続く)
ちょっと坂口安吾はネタが簡単過ぎましたか。うーん、底が割れたって感じ。
かなり朧気な記憶だったりするのですが、坂口安吾が「京都や奈良の文化資産なんてどうでもいいけれど、路面電車が走らないのは困る。それが文化だ」みたいなことを言っていたと思います。
コリバは技術を導入すべきだった、と書きましたが、この小説中では彼はそれをしなかった訳ですし、それに文句を言ってもしょうがない訳です。
が、しかし、コリバも最後には西洋の創り出した(西洋文化のというよりはこちらが正しいと思う)技術を認めざるを得ない状況になっています。それが象のアハメドではないでしょうか?
そこで彼が持ち出した理論が「ンガイが復活をお許しになった」なんですね。
技術は西洋のものでも、その背後の思想を変えてしまったのです。これがふるぼんさんへの回答にもなると思うのですが、どうでしょう?
コリバとしては技術の水準を高めるにしても、それに必要な施設が理想のキクユの生活とはかけ離れていることから、技術のほとんどを捨てざるを得なかったのかも知れません。
けれども最後に「おまえのほうがわたしをさがすべきなのだ」(p418)とあるように、文化も、儀式や慣習を守ることで生まれてくる(文化が適合する社会を探す)のではなく、どのような技術や慣習を持とうと、こちらからその文化を支える精神を探求しなければならない、というのが、レズニックがこの作品で提示した文化観ではなかったかと思うのです。
結局のところ、負の面でも大きな力を発揮する技術ではあるけれども、それを捨てることはできない、という話なのではないでしょうか?
>遅ればせながら、ログは削除しました。
いやーしつれーしました。
話はまた後で。
>ふぢーさん
遅ればせながら、ログは削除しました。なんか管理人の仕事してるってかんじ。
ああ…。なんかくせになりそう。ドラえもんにでてきた独裁スイッチの使用感ってこんなかんじの快感なのかも。
>ええっと、作品の設定に関することで、作者が書かなかったことについては、
>「書かなくてもかまわない」「テーマには関係ない」と言う判断があるはずで、
>読者としては、あえてそういう意図から逸脱する必要があるとも思えないわけです。
たしかにその通りです。ちょっと脱線してました。
でも、そのうち「キリンヤガ外伝」ってかんじで、コリバの若い頃の話がSFマガジンに載ったりするかも。
>西欧から輸入した思想をそのまま非西欧社会に適用しようとした指導者、という意味ですか?
>よくわからないな。そうだとすると、コリバの場合とは話が違うような。
えっと、ぼくの舌足らずでうまく書けなかったんですが、
西欧に留学して、その思想を学んだバリバリのエリートが、そのまま西欧の近代資本主義思想を自分の国に持ち込むのではなく、それへの強烈なアンチテーゼとしての思想に走ったということがどこか似ているような気がするってかんじを書きたかったんですが。
文革などの共産主義思想と、コリバの復古主義は方向がまったく違うんですが。
なんか過激さの度合いが似てるような気がしたもので。
ただ、文革やクメール・ルージュのようなどこかに強烈なルサンチマンを感じさせるものとは、コリバの思想は違いますね。むむむ。
>ようは、そういう話をしても、無用に話題が拡散するだけか、と。
たしかに。ちょっと先走りすぎでしたか。
さて、お話を元に戻して、おくのくんの書いてた
>しかし、その漢方は現在の技術レベルでもってできる限り最高のものでなくてはならない。
>と思うのです。つまりは、技術の背景にある思想を書き換えなければならないわけです。
ここらへんが分かりにくいので、もうちょっと詳しく書いて欲しいと思いました。
おくのくん、どうでしょうか?
>>加えて、私個人の意見としては現在の日本を<西洋>に侵食された、とは考
>>えていない。これが日本固有の文化なんだと思っている
>ちょっと坂口安吾みたいで、いいね、それ。
なるほど、このへんは分かったかも。
つまり、どんなにうわべは変わって、古い遺跡や伝統は破壊されたように見えてもその根底にある思想は保持されているってかんじですかね?
むやみに伝統の形にこだわるより、外来のものもしたたかに利用して自らの思想の糧にするってかんじか。ちょっとちがう気がするけど。
コリバの態度は、ただかたくなに西欧的なものを拒絶する態度なのでいつかは破綻するだろうなと思って読んでました。
でも、その破綻の不安を抱えた強烈な思想にこだわって、それに殉じようとするコリバにはどこか男の美学をかんじてました。
また脱線気味ですな。
新管理人氏の就任挨拶も終わったことですので、また話をつづけましょうか。
古凡さん
>とりあえず、コリバが過激な復古主義をとるようになったきっかけは
>おそらく彼の留学体験にあるのではないか。
>もっとも強烈に進歩主義思想にふれたもののなかから、反動分子は
>うまれてくるのではないか。
ああ、そう考えても悪いとは思わないけど、本の中には、彼が狂信的ともいえる復古主義者になったいきさつははっきりとは書かれてないと思います。
だから、あまり実のある話には……。
ええっと、作品の設定に関することで、作者が書かなかったことについては、「書かなくてもかまわない」「テーマには関係ない」と言う判断があるはずで、読者としては、あえてそういう意図から逸脱する必要があるとも思えないわけです。
>そもそものキクユ族の伝統とは
>違っていたのではないのかと思いました。
と、言うわけなんですが、これは、作品の中ではっきり書かれていますね。たとえば「酋長」という制度はイギリス人が考案したものだ、とか。
>中国の文化大革命などと、コリバの理想のユートピア建設願望は同じ根っこを
>持っているように自分には思えました。
西欧から輸入した思想をそのまま非西欧社会に適用しようとした指導者、という意味ですか? よくわからないな。そうだとすると、コリバの場合とは話が違うような。
たとえば、文化大革命では、中国の伝統は全否定しようとしたことがあり、かなり大規模な打ち壊し運動が民衆の間に広まったりしました。
もちろん、事象が一見相反するように見えたとしても、根っ子の部分では同じような動機があったりする可能性はありますが。
ようは、そういう話をしても、無用に話題が拡散するだけか、と。
>だからぼくにとっては、キリンヤガは途中から「革命」とその敗北についての物語と
>してしか読めなくなってしまったのです。困ったもんです。
ほんとにねえ。
おくのさんへ。
>技術に思想が伴うという意見はもっともだと思います。
>しかし、だからと言って西洋が使っている技術を全て排除すべきなのか。とい
>うのが私の論旨です。
なるへそ。ヨレてたのはオレの方ですか(笑)
>と思うのです。つまりは、技術の
>背景にある思想を書き換えなければならないわけです。それをやらなかった
>からコリバはムンドゥムグ(で良かったかな?手元に「キリンヤガ」ないので自
>信がありませんが)として無能だとレッテルを貼られてしまう。
うむ。それはそうなんですが、なぜ、そうしなかったのか、というところで、オレはけっこうコリバに共感できるものもあったのですね。たぶん。
つまるところ、自己の思想の独立性、というかな、うまくいえないけど、そういうものへの執着ってのかな。
結局、コリバの思想ってのは、徹頭徹尾自分のためだけにあったわけであって、そういうカッコワルさってのをうまく描いたところがこの作品のミソであるとおもうわけです。
でも、あれですね、シーフォートみたいに強烈に苦悩しないところで、インパクトが弱いのはいなめないな。
また、そのへんが誤読を誘発する原因か、ってな気もするわけで。
>加えて、私個人の意見としては現在の日本を<西洋>に侵食された、とは考
>えていない。これが日本固有の文化なんだと思っている
ちょっと坂口安吾みたいで、いいね、それ。
オレの言い方で言うと、ここまで食い荒らされてもまだ「日本」というところに、なにやら居心地の悪さやら「しょーばねーなー」やらを感じたりする、てところでしょうか。
あ、こりゃあんまり関係ないな。
おっと。「別のネタ」のことを書くのを忘れていた。
そっちは、ひと寝入りした後にでも。
こちらでは、はじめまして。新管理人のふるぼんです。
うしぴーくんから、ずいぶん前に、ここの管理をまかされたのですが超不精な自分のせいですっかり話題から遅れてしまいました。
どうもすいませんでした。
さて、現在、話題となっている「非西欧対西欧」という図式ですが自分も読み始めたころは単純にそうした読み方をしてました。
しかし、大贋掲示板のくろきさんの2.「非西欧対西欧」という読み方についてを読んで果たして問題はそんな単純なところにあるのか?
と思うようになってきました。
くろきさんの書き込みについては、まだ自分のなかで消化し切れていないのですが。
とりあえず、コリバが過激な復古主義をとるようになったきっかけはおそらく彼の留学体験にあるのではないか。
もっとも強烈に進歩主義思想にふれたもののなかから、反動分子はうまれてくるのではないか。
後にンデミとコリバとの対立で明らかになるように、コリバの復古思想も西欧近代との衝突から産まれてきたもので、そもそものキクユ族の伝統とは違っていたのではないのかと思いました。
近くはペルーのセンデロ=ルミノソ、有名なところではカンボジアのポルポト、中国の文化大革命などと、コリバの理想のユートピア建設願望は同じ根っこを持っているように自分には思えました。
結局、コリバは、彼の「ユートピアとしてのキリンヤガ」という観念にとりつかれていたように思えました。彼一人の観念の産物である「ユートピアとしてのキリンヤガ」は、ほかのキリンヤガ構成員には理解できないものだったのです。
だからキリンヤガの試みは失敗に終わったのではないのかと思ってます。だからぼくにとっては、キリンヤガは途中から「革命」とその敗北についての物語としてしか読めなくなってしまったのです。困ったもんです。
以上、乱筆乱文失礼しました〜っ。って掲示板がちがいますな。すんません。
技術に思想が伴うという意見はもっともだと思います。
しかし、だからと言って西洋が使っている技術を全て排除すべきなのか。というのが私の論旨です。
例えばふぢーさんが例にあげた漢方のことでも、漢方が固有の文化で、それを捨て去るわけにはいかんのだ。と、ユートピアの創設者が考えれば、それを実践するのは当然のことです。しかし、その漢方は現在の技術レベルでもってできる限り最高のものでなくてはならない。と思うのです。つまりは、技術の背景にある思想を書き換えなければならないわけです。それをやらなかったからコリバはムンドゥムグ(で良かったかな?手元に「キリンヤガ」ないので自信がありませんが)として無能だとレッテルを貼られてしまう。
加えて、私個人の意見としては現在の日本を<西洋>に侵食された、とは考えていない。これが日本固有の文化なんだと思っていることもこんな意見の背景にあったりするわけですが、長くなると嫌なのでここまでにします。
大贋掲示板でのくろきさんの2.「非西欧対西欧」という読み方についてを読んでいて、ちょっと考えるところがあり、<西欧>にこだわるのはやはり危険か、という気分になっているふぢーです。
大贋掲示板での議論は、いろんな部分でオレの疑問点をすっきりさせてくれたりしているので、あえてここに書くようなネタが今後あるのかどうか、よくわからないなあ。
>その辺の認識がない(作者か?コリバか?)がゆえに、コリバの説教が矛盾し
>ているように感じてしまうのではないでしょうか。
と、いうよりは、黒木さんがいうように、コリバはことのはじめから激しく矛盾した人物だったんだよね。
で、それを踏まえてもやっぱりオレの中で<西欧対非西欧>の視点が導かれてしまうのは、たぶんこんなふうに考えてしまうせいです。
これが仮に日本人が黄色いヨーロッパ人になってしまった ことを憂える人間が縄文文化のユートピアを作ろうとする話だったりしたら、オレなら鼻で笑うか怒り狂うだろうなあ、ってな気分があるわけなのよね。
>文化にはレベルの差というものはありませんが、技術には確かにレベルの差が
>存在します。固有の文化を守ろうというのは思想として理解できます。
それにはオレはすごく異議があって、オレの考えでは、背後に思想のない技術なんてありえないと思うわけです。
すごく大ざっぱな話で、単に無知をひけらかすことになるかもしれないけど、ちょっとだけ。医学の話をすると、東洋医学では、体にメスを入れたり、調子の悪い部品は取り換えたり、と言う発想はぜんぜん無かったですね。
薬もおんなじです。西洋医学では、薬は、失調した部分に、化学物質でもってパッチをあてましょう、という発想ですね。ステロイドなんてのはまさにそれで、ホルモン分泌の失調によっておきるアトピーに対し、外部から必要なホルモンを与えてしまうわけ。そうすると、体内のホルモン分泌系の機能が、かえって弱くなって元の状態に戻らなくなってしまうことがある。キックバックってのは、そのために起きるわけです(と、ごく大ざっぱにオレは理解してます。違ったら恥ずかしいけど)。東洋の、たとえば漢方ってのは、そういうものではなくて、生体が本来持っている自然治癒力を喚起する、って発想です。
こうした違いは、やはり文化を背景とした思想の違いでもあると思うわけですよ。
で、単に便利だからというだけで、背後に思想の違いがあることに気づかずなんでも受け入れてしまってから、ぐっちゃぐちゃになって、こんなはずではなかった、という場面は、日本の現実の中にもいくらでも見ることができる。
だから、一つ技術を受け入れたら全部を受け入れたのと同じことだ、というコリバの考え方には、一理あると言わなくてはいけない。
と、そんなところでしょうか。
あ、そうそう、大贋掲示板の『キリンヤガ』書評リンク集からここにリンクが貼ってありました。お礼のメール出さなきゃ。>だれか。
次回はぜんぜん違う話(でもないかも)でもしようかな、と。
確かに、作中で語られている<持ち込まれた>医療技術は、コリバの意識や作者自身の意識としても<西洋>として書かれています。しかし、本来、文化と技術は分離して語るべきものではないでしょうか?その辺の認識がない(作者か?コリバか?)がゆえに、コリバの説教が矛盾しているように感じてしまうのではないでしょうか。
文化にはレベルの差というものはありませんが、技術には確かにレベルの差が存在します。固有の文化を守ろうというのは思想として理解できます。しかし、それがために技術をも捨て去るというところに、コリバの敗北の要因があったと思うのですが。
和魂洋才なんて言葉もありますしね。
>作中でコリバに決定的な敗北を与えるのは、医療技術なわけで、つまりコリバ
>は、科学技術と特定の文化を混同するという間違いを犯し、それがために失敗
>したという話なのではなかろうかと思い始めたのです。
細かい話をすれば色々なんですが、とりあえず「8 古い神々の死すとき」で、ジョイス・ウィザースプーン医師が「キリンヤガ」に持ち込んだ医療技術は、はっきりと〈西洋〉である、と。作品中でもそう認識されているし、作者においても〈西洋〉の象徴としての意味を持たせようとしている。
これは、無理にそう読もうとしなくても、極めて明瞭に書かれている、と、おもうわけですね。
ちょっと忙しいので、今日はここまで。
ケニアやキリンヤガが浸食されたのは、<西洋>だったのかという問題。
作中でコリバは何度も<西洋>に汚染されたと言っていますが、何が<西洋>なのか?
作中でコリバに決定的な敗北を与えるのは、医療技術なわけで、つまりコリバは、科学技術と特定の文化を混同するという間違いを犯し、それがために失敗したという話なのではなかろうかと思い始めたのです。
文化の本質とは何なのか?技術もその中に含まれるのか?そういえば作中に弓の話とかありましたね。もう一度読んでみます。
とりあえず、第一印象から。
小説としては中の上。
>コリバのユートピアを受け入れることが幸せだと考える人間が多く集まったか
>らこそそれが普遍的な幸せだとコリバが思い込んだ、ということ。
>そして時とともにだんだんユートピアに対するコンセンサスが失われていき、
>コリバはそれが失われた(あるいは変質した)ことにすら気づくことができな
>かった、と。
>別の言い方をすれば、人が変わるものだということを理解できなかったので
>しょう。
なんや案外つまらん意見やな。
さて。以下、とりとめなく。
この作品には、「未開は近代に不可避的に敗北する」ってのが前提になってますね。つーか、ワタクシにはそう読めた。これは真実だろうか?
作品の語り手は、あまりにも思い入れたっぷりに語るので、読者はちょっと騙される(説得力がある)し、それなりに感動的ではあるわけなんですが、ワタクシ的には、前提を受け入れていいものか、という疑念があるわけですよ。
「人は変わるものだ」これが仮に真実だとしても(本当かなあ?)、かならず〈近代〉のほうへ向かっていきますかねえ。
ともかく、現実の一面をみるなら、それが間違っている、そういう場面もある、とはいえるんじゃないかなあ。
つまりさ、「世界は〈西洋〉に向かう」という世界観を共有できない人には、あんまり面白い話じゃないような気がするわけ。
「ああ、またか」ってね。
ま、今日はこんなところで。
あとだまウォッチャーの方はすでにご存知かもしれませんが、大贋なんでも掲示板は、「キリンヤガ」でもりあがっとるようでございます。
例によって、黒木氏が、「キリンヤガ」リンク集を作ってるので、リンクしてくださーい、とお願いしてみるとよいやもしれませぬ。
しかし、競合するとなると、相手がわるすぎるかもな。オホホ。
早く読めよ、>オレ。
ふう、びっくらこいた。しかし、テメエで改行とは、原稿を書くより面倒な。
さて、本題ですが。
私が、コリバの思想がないという事にこだわるのは、ストーリーの表面的な流れに不満だからではありません。(ストーリーそれ自体は作品としてそこにあるものであって、それ自体にケチをつけたところでしょうがないんで)
ユートピアを実現できなかったコリバが帰着したところは、自分の内部だけに絶対的なユートピアがあり、独りでしか絶対的なユートピアは創造しえないという何だか切ない結論です。
それではコリバは敗れたのか?ラストシーンを読むと、どうもそうではないらしい。
では、独りで創造したユートピアは勝利なのか?それもおかしい。
そんなところにもふと疑問を感じたりしたのですが、読んだ人はどうなんでしょう?
コリバの幻想を共有できた人間が集まったのでしょう。
あんなコロニーを作るのには根回しとかいろいろ必要だったはずだし。
だから、
>他者が自分の考えるユートピアを受け入れることで幸せになると、
>コリバが何故考えたのか?
というのは逆だと思います。
コリバのユートピアを受け入れることが幸せだと考える人間が多く集まったからこそそれが普遍的な幸せだとコリバが思い込んだ、ということ。
そして時とともにだんだんユートピアに対するコンセンサスが失われていき、コリバはそれが失われた(あるいは変質した)ことにすら気づくことができなかった、と。
別の言い方をすれば、人が変わるものだということを理解できなかったのでしょう。
もちろん、スタート地点でユートピア幻想についてのトリックを使ったとしても、それに対する考察がない理由にはなりませんが。
おくのさんが感じる未消化な部分については、その通りだと思います。
ンデミというキャラをうまく使えばそのユートピアに対する意識のずれがはっきり出せたでしょうし。
もちろん、ユートピアに対する幻想という件はうしぴーさんの言うとおりだと思います。
ここで私が問題にしたいのは(というか、ケチをつけたいのは)、何故、コリバが他者に対してもその幻想を提示したか、という点なのです。
強制はしないまでも、他者が自分の考えるユートピアを受け入れることで幸せになると、コリバが何故考えたのか?それが作中では説明されず、最終的に彼は他者がいなければ自らのユートピアが創造できる、というひどく悲しい結末になっています。
そしてンデミはコリバのユートピアを拒否し、どうなったのか?その話が未消化のために、私にはどうもすっきりしない結末に思えたのですが、どうでしょう?
あれは考察がないから話としてなりたつのでは。
我々日本人が伝統的な日本といった場合、その範囲については人によって違う「伝統日本」を思い浮かべると思います。それぞれのイメージは客観的に絶対なものにはなり得ませんが、その個人の中では郷愁を誘うものとして存在するはずで、その人にとってはより絶対的なものに近いことでしょう。
キリンヤガが「絶対的なユートピアが存在し得ない」ことを前提に書かれている以上、コリバのユートピアの絶対性を伝統に基づいて考察してしまったら、その時点で作品が崩壊してしまうと思うのです。絶対的なユートピアがないことを人間のユートピアに対する幻想で覆い隠して物語を作っているわけですから。
ネタバレについては、ご指摘通りトップページに明記しました。
ありがとうございます。おくのさん。
ツボというのは、ここでは話によって導き出された思想のことを言っています。
ここはネタバレしてもいいところのようなので、遠慮せずに言ってしまいます。(ネタバレしてるって、トップで言った方がいいのでは?)
気に入らなかったのは、伝統に対する考察がないこと。
ユートピアで伝統的な日本の生活を取り戻すのを目指すとき、何を目指しますか?
平安時代?江戸時代?それとも明治時代でしょうか?
コリバの中ではその基準が明確に定められているらしいのです。しかし、なぜその基準が絶対的なのかという説明や考察がありません。
まだ言いたいことはあるのですが、長くならない程度にします。
>オチというか、話のツボがイマイチ 話のツボというのがどういう意味なのかよくわからないんですが、「感動させる話作り」ということなら『空にふれた少女』はツボにはまりすぎ。
ユートピアを作ろう、という話をするとどうしても「夢破れて……」ということになってしまいますけど、破れた後のコリバは哀しくて結構よかったのでは。
伝統や文化については、あのたとえ話くらいがちょうどいいかと。
コリバのユートピア観がわかりやすいでしょう。
あれでもっと文化に踏み込んでたら、そういう部分がボケるんじゃないですかね。
オチは「伝統ケニアを甦らせようとする試み」と「象」の暗喩がいいと思います。
新しいよりどころを見つけたという感じで。
読了。
面白かった。連作短編で、中の1つが感動ものだった。
「籠の鳥が死ぬわけを知っています−
鳥たちと同じように、あたしも空にふれたから」
感動しました。是非読むべきです。この部分だけでも。
全体としてはちょっと物足りない感じがした。連作で大きなストーリーを作っているのだが、それのオチというか、話のツボがイマイチ。(だと思う。私見だが)
伝統や文化についてもっと踏み込んだ考察があればもっと面白かった気がする。
特にンデミの話は消化不良の感を拭えない。彼がケニアで何を見たかは重要だと思う。
コリバと最後に再会するかと思ったのだが、そういうシーンがなく、何となく欲求不満を感じた。
第一回のお題は「キリンヤガ」です。どうぞご自由にお書きください。