文通大好き!「文通のススメ」
文 通 生 活 
〜Life with writing letters〜

つれづれなるままme







 私が手紙を書いていて思うこと、分かったこと。
 

 ●フェイスブック

 数年前から、やたらと「フェイスブックに登録してる?」という質問三昧
 だったので、遅ればせながら登録してみた。

 登録したよ〜と手紙で連絡。

 すぐにフェイスブックにつながりができると思ったのに、
 たた一人だけしか連絡が来ない。

 あんなに盛り上がってるみたいだったのに。
 みんな嫌いだぁぁ。

 どうやら、フェイスブックはもう廃れてしまったらしい・・・。
 日本はフェイスブック後進国だからなぁ。


 ●イメージ

 同じ人でも、フェイスブックと文通ではずいぶん印象が違う。

 この丸っこいかわいい、ちょっと抜けた感じの字を書く人が、
 フェイスブックではオシャレでクールなの?

 この文字を書くペンパルのほうが好きだなあ。


 ●文通の申し入れ・再開

 一生懸命に工夫して手紙を書いても、相手からの手紙に自分のこと
 だけしか書いてなかったりすると、ガッカリする。
 ひとりごとみたいな手紙はいらない。
 何のための「手紙交換(手紙で2人でおしゃべり)」?と思う。

 こんなこともあって、新しいペンパルを少し増やしたくなり、
 かなり久しぶりに文通の申し入れを書いている。

 まだ誰に出すのかわからないのに、「こんにちは、元気ですか?」と
 話しかけるのは、なんとも不思議な感覚だ。(これは私がいつも文通
 申し入れするときの文面なのだ)。

 まだ見ぬ友人に、元気でユニークな話が届きますように、と祈りつつ。


 ●誕生日祝い

 私の個人的な問題だと思うけど・・・誕生日を祝ってくれる友人・知人が
 ほとんどいなくて悲しい。

 ペンパルは、バースデー・カードを贈ってくれるというのに、
 なぜ日本の友人・知人は何の連絡もしてこないんだろう。

 日本の外では、友達から同僚・上司まで、「おめでとう」と祝い、
 プレゼントやカードを贈り、誕生日会を開くか食事に行く。

 誕生日について、知恵袋とかで検索したら、
 「社会人になると忙しい」「結婚するとそれどころじゃない」
 「そんなに祝ってもらいたいかなぁ?」「祝ってほしい!と強制は良くない」
 ・・・などと書いてあった。

 でも私は、日本人は単に寂しい国民性なんだと思う。
 いろんな理由を後付けしているだけなんだ。
 人の目は気になるのに、人のことを想っていないんだ。

 「何でお互いにお祝いしないの?」という、あるペンパルからの
 質問で、どんな理由付けもアウト。

 抱きしめあったり、握手したり、男同士でもほっぺにキスしたり、
 そういうのがないのって日本だけな気がする。
 すごく変な国なのだ。


 ●クリスマス・カード

 まだ12月じゃないのに、クリスマスカードが続々と届く。
 手紙に同封されてたり、別便で来たり。
 豪華なカードを贈ってくれる人もいる。なかなか豪勢だなぁ。

 私はクリスマス柄でキラキラした一筆箋を文具店で見つけ、
 「これに切手を貼って、クリスマスメッセージを贈りたい!」と思った。
 カードじゃないけど・・・我ながらとてもいい考えだと思う!
 貼る切手は、今まで集めたクリスマス柄の切手だ。


 ●地震友達

 ニュージーランドのペンパルとは、地震の話で盛り上がる。
 震度いくつだとどーのこーの、まだ地震が続いてる、とか。

 地震がある=温泉もある、なので、温泉の話題でも盛り上がる。
 硫黄温泉は臭いけど効く、どーのこーのと。

 アメリカ人は、地震があっても異国並みの遠方だったりする。
 ヨーロッパ人は、地震というものをほとんど経験したことがないので、
 「来たら怖そうだ」という話に落ち着く。


 ●魔界

 文具店は魔界、快楽の園。
 入ったらしばらくの間出られなくなる・・・。


 ●最高のお買い物

 新しくなったデパートの新しい文具店へ。
 そーしたら・・・カナリアのレターセットがぁぁぁl!!!

 カナリアと一緒に暮らすmeは、そのイラストを厳しくチェックした。
 リアルなカナリアが、便箋にもシールにもなっている!
 毎日見ている人も納得するグレードを極めたデザイナーさんに感謝。

 本当は100セットくらいほしいけど、1つだけ手に取った。
 シールを日記帳に貼ってご満悦〜。
 でも、つり目が気になったので、ペンで書き足してまん丸お目目にした。
 ソックリ。カワイイ(愛)。

 ほかの文具店に立ち寄ったら、カナリア柄だけ売り切れていた。
 やっぱり、そうだよねー!と、棚の前にしゃがみこんだまま
 心の中ではしゃいでしまった。

     

 ●HPリニューアル

 データ保管庫につなげていなかった事と、パソコンを買い換えたことで、
 HPをぜんぜん更新していなかった。
 それなのに、遊びに来てくれる人がいるのは、言葉に尽くせないほど
 ありがたい。

 特に大きなことはできないけれど、何とか10年以上続けて来れたので
 ちょっとだけ自信が持てた。うれしい。

 ごちゃごちゃしていたし、昔から色のセンスのなさに苦しんでいたので、
 いらないと思ったものはみんな消してしまった。
 あ〜、スッキリ!

 あ、変わってる!って、みんな驚いてくれるかなぁ。


 ●自業自得?

 私は手紙を書くことと同じくらい、封筒を手作りしたり白黒プリンターで
 好きな絵を印刷して便箋を作ったりするのが大好き。

 こんなに山ほどレターセットがあって、部屋を狭くしているのに、
 自作までしてしまうので、書いても書いてもなかなか減らない・・・。

 楽しいことって、なかなかやめられない!


 ●カナダの人々とベルギーの就業事情

 ベルギー人がカナダに出かけた。その地域は英語/フランス語の両方が
 話されているので、ちょっと道を聞くのも、話しかけてみないと相手が
 どちらを話すのかわからないらしい。

 でもベルギーはフランス語圏だし、そのペンパルは英語もできるから
 カナダでは不便がないだろうねぇ。

 ベルギーのブリュッセルでは、フランス語とオランダ語が使われているので、
 入社試験ではその会社が使っている言語を使うらしい。
 島国・日本には考えられない日常だ。


 ●ドイツ人から教わった

 ドイツ人は、あまり本を読まないらしい。
 すごく読むイメージがあるのに!びっくり。

 ちなみに、日本は本屋でも世界一。
 海外旅行に行くと、大きいと紹介されてる本屋でも小さく見える。


 ●友達とペンパル

 友達との手紙のやり取りもいいけれど、手紙好きとのやり取りは
 とても楽しい。

 ペンパルは、手紙を喜んで書いてくれる。
 友達でも、手紙は面倒だと思う人もいる。

 会ったこともない相手なのに、私をよく支えてくれる。
 手紙好きでよかった!


 ●時間を楽しむ

 手紙は手で触れるから良い。リアルに相手を感じられる。
 しかも長くリアルに感じることができる。

 メールはリアルさが小さくて、むなしい。
 せかされるし、待たされる。終わらない。

 時間がもったいない。そういうふうに命を使いたくないなあ・・・。
 長くても、どうせあと数十年しか生きられないのだから。


 ●私のハテナに付き合って!

 普段はメールしかしない人たちが、
 なぜ大事な場面では、必ず「手紙」なのだろう?

 「お世話になった人からの手紙が届いています!」
 読む→泣く→感動・・・おなじみのパターン。


 「メールが届いています!」
 読む→泣く→感動・・・っていうのは、今まで一度も見たことがない。


 普段から手紙を書く私には、その使い分けの基準がわからない。
 「これはメールじゃなくて手紙にしよう」っていう基準線が・・・謎。


 ●ありがとう、私の友達 〜身近な友人へ〜

 文字でならおしゃべりは得意なのに、
 言葉で話すのはとても苦手。

 だから学校でも会社でも上手く立ち回れなくて、
 よく不利になったり損したり怒られたりします。

 こういうヘンテコな人物とお付き合いしてくれる友達に「ありがとう」。

 勝手にメールを止めてしまって、一般的には連絡を取りづらい私に
 手紙で連絡をくれて「ありがとう」。

 手紙を書きましょう!と主張するのに、気分的になぜか手紙を
 書けない日が続く。
 ずっと連絡をとっていなくてもまた返事をくれる友達に「ありがとう」。

 過去のどんなに楽しい思い出や仲が良かった人たちよりも、
 いま私の周りにいてくれる人たちがいちばん大好きです。


 ●面倒くさい。避けてばかりいる人々。

 仲の良くない人たちには近寄らない。
 仲の良い人たちにさえ「遠慮」をしてしまう。

 こんなことを誰もがしているから、
 誰もがますます自分は独りぼっちだと感じる。
 
 「面倒くさい」
 今の世の中のキーワードで最も力を持っている。
 面倒くさいから、お金で解決すればいい。
 面倒くさいから、注意してあげない。
 面倒くさいから、今のままでいい。
 面倒くさいから、挨拶しない。

 そういえば最近は物騒な事件が多いよね〜、と
 言っているけど、それは「コミュニケーションが面倒くさい」と
 思ってきた人々の「成果」のようなものだ。
 手入れをしない庭は荒れ放題。私たちの暮らす場所も
 手入れがないので荒れているのに、自分たちには
 責任がないと思っている。

 手紙は相手の時間を奪わず、遠慮しながらも、ちゃんと
 コミュニケーションができる手段だ。
 口では言えない恥ずかしいことも、文字にあらわすと
 嫌味のない美しい芸術作品。
 手紙を書いて読み直したら、自分はこんなことを
 考えているんだ、と新たな自己発見もあるかもしれない。

 もっと手紙や葉書を書いてみよう。
 図々しくても、突然でも、用事がなくても、それはそれでいいんだ。
 結果は後からついてくる。

 手紙を書いてみよう。
 もしそれが面倒でなかったら。


 ●普通の人たちへ。もっと手紙を書いて欲しい。

 友達に手紙を出した。
 1通目には喜んで返事をくれる。
 私も嬉しくてまた返事を出す。

 けれども、いつまで待っても相手から返事は来ない。
 友達は文通人じゃないから、きっと手紙を出すのが面倒だ。
 忙しくて自分のことで精一杯なのは知っている。

 でも
 メールを送れば返事をくれる。
 遊ぼうと言うと時々遊んでくれる。
 誕生日にはわざわざプレゼントを買いに行って、渡してくれる。
 車で送ってくれる。

 でも
 手紙は書こうとしない。

 手紙とメールは同じものだと思っているのだろうか?
 手紙とメールはぜんぜん違う。メールは意見を述べない。
 手紙を書くよりも、会って話せばいいと思っているのだろうか?
 書いた文字と話す言葉はぜんぜん違う。伝えられることも違う。

 会ったこともないメル友にはまめにメールを出すのに、
 私には手紙を1通も書こうとしない。
 私との十年単位の友情よりも、
 明日やり取りがなくなるかもしれないどこかの誰かを、
 私よりも大事にしているの?
 ひょっとしたら、私が明日いなくなるかもしれないのに、
 その可能性に気づかない。

 文通人ではない普通の人たちへ。
 もっと手紙を書いてほしいな。
 私は手紙が欲しいです。
 いくらメールをもらっても、会ってちょこっと話をしても、
 あなたが何を考えているのか、あんまりよく分かりません。
 今あなたが何をしているのか、あんまりよく分かりません。

 人間の考えていることを完全に知ることは不可能です。
 だからだいたいこうだろう、と予想してそれで満足しています。
 でも文字にしてくれたほうが、あなたがだいたいこう考えているだろうと
 予想しやすいです。
 予想さえますますできなくなってきています。
 
 いつまでも友達のつもりでも、だんだんに距離が遠く離れているような
 気がします。


 ●ペンパルは友人か?

 ペンパルが死んだ、と知った。
 今までありがとうございました、と相手の家族が喪中の葉書をくれたから。

 私は悲しくなかった。涙も流さなかった。
 
 その人は一方的な内容の話題をいくつもいくつも並べ、
 手紙を「やり取り」している感覚がない文通相手だった。
 ペンパルの中でもそんなに好きじゃない相手だった。

 でも一応長く続いたペンパルだし、いつも写真をくれた良い人だった。
 病気で入退院している話題が手紙に書いてあり、その人との文通には
 常に病が隠れていたようだった。

 でもまさか死ぬなんて。
 手紙が来なくなって半年もたっていないのに、
 もう彼女はこの世にいない。
 
 私は心の冷たい人間なのだろうか?
 人が死んだのに泣きもしない。
 彼女は友達だったのだろうか?
 そもそもペンパルは友達なのだろうか?

 ひょっとして周りの友達が死んでも、私は悲しんだり泣いたりせず
 変わらぬ日常生活を続けるような人間かもしれない。
 でも将来、年をとって友達が死んでしまうのを想像すると、心底悲しい。

 このペンパルの死にぶつかったときから自分のことが分からなくて、
 解決もできないまま時々思い出しては悩む。


 →文通人Mさんからメールをいただきました。
 わたしは看護師で、ずっと集中治療室で働いていて、
 生死ととても近い場所で毎日過ごしています。

 そこで患者さんを多分何百人も看取ってきました。

 人が死ぬということに慣れてしまっている自分も自覚しています。
 慣れないと、この仕事をやっていけないというのも確かです。

 私たちは集中治療室に入ってこられる前の患者さんの
 元気な姿を知らずに看護します。

 例えば手術の後のひと、交通事故にあった人など
 意識のない人が多くいます。
 入ってきて意識がもどらず、一言も交わさないまま、
 一度も目を開けないまま、亡くなる方も多いです。

 家族は嘆き悲しんでいるけれど、わたしは涙を流せない。
 でも、その患者さんの病棟を担当していて患者さんを知っている
 看護師は泣きます。
 一緒に治療をがんばってきた、一緒に笑った、そのひとが
 どんな人だったかそばで感じてきたんでしょうね。

 そんな時、人間は知らない人の死は
 あまり悲しくないものなんだと思います。
 知らない人に対しては冷たいものなんだ、と。

 だから、患者さんが亡くなるときは、できるだけその人の
 歩いてきた人生を想像しようとします。
 老若男女、死は訪れますが、一人一人に生きてきた歴史があって、
 その人を想う家族がいることを・・・それから自分の家族、大切な人を
 亡くした時の自分を想像します。

 完全には無理だけれど、できる限り家族の人の気持ちに
 寄り添える努力はしようと心がけています。

 だからmeさんは、文通友達の死が現実味を帯びてなかったから、
 涙が出なかったのかも・・・と感じました。
 すぐそばにいて、体にも触れているのに、意識がないだけで、
 亡くなっても涙が出ないのですから・・・。
 人間として、複雑な思いにはなります。
 けれど、それが冷たい人間とは思いません。

 Mさん、ご意見をありがとうございました。
 病院は生と死が絶えず起こる場所だと分かったつもりでいても、
 そこで働く人の考えを知る機会はほとんどないので、
 私にはこのご意見がとても貴重です。
 Mさんも文通を通じてさまざまな出会いがあると思いますが、
 職場で持ち続けている良い心がけを持ち続ければ、
 楽しい文通ができる人だと思っています。
 私に1つの答えをくれてありがとう!

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