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2006年05月07日
ぼくのメジャースプーン 辻村 深月 <講談社ノベルズ>
 殺人はいっさい起こらない。刑事も探偵も登場しない。ストーリーはひとりの小学生と大学教授の「罪と罰」に関する会話によって成り立っている。しかし、本作はミステリ小説の醍醐味は失われておらず、むしろ、予期せぬ結末が用意されていて、少年の与える「罰」の重さに驚くことだろう。新人作家の作品ではあるが、既に北村薫、宮部みゆきのベテラン作家の域に達しているのではないかと思われる。もちろん、主人公が若者に限定する限りにおいては。
 主人公は小学四年生の少年。彼は言葉で相手の行動を縛る能力を保有していてた。あるとき、小学校で飼われていたウサギが医学生によって殺されてしまい、友達のふみちゃんがショックで学校を休んでしまう。主人公は自分の能力をつかって、犯人の医学生に罰を与えようとするが、その意図を知った母親の依頼で、親戚で同じ能力を保有する大学教授に相談を持ち替ける。復讐を誓う少年とそれを阻止しようとする大学教授の対話による「罪の重さ」を問う物語である。
 読んでみて、まず思うのは、主人公があまりにも小学生らしくない振る舞いがある。どうしても事件の性質上、小学校が舞台になってしまうのは仕方がないが、そのあたりが気になってしまう。けれど、読みすすめていくうちに、そんなことが気にならないぐらい、二人の論理的な会話の展開が奥深くなっていくのである。本当に「正義とは何か」を考えさせられる。
 トリックをいってしまえば、本作は優れた叙述トリックである。しかし、それを見破ることは難しいだろうと思う。あまりにも少年の心理の動きが巧みであり、作者の世界観に引き込まれてしまうからである。早く結末を知りたい、続きを読みたいというよりも、いつまでも、この答えのない思考の中に浸っていたいと思わせるのである。

2005年11月15日
百万の手 畠中恵 <東京創元社>
 主人公は多感な男子中学生、事件は身近な街で起こる謎の放火、そして携帯電話に現れる死んだ親友━━━。国民的大作家・宮部みゆき女史の初期の作品を彷彿させる小説である。しかし、物語の展開は親友の乗り移った携帯電話という設定を無視してジェエトコースターのように目くるめく進み、そのジャンルを特定できない広がりを見せていく。本作は果たしてホラーなのか、サイコサスペンスなのか、SFなのか、ミステリなのか。
 物語は主人公の中学生、音村夏貴の親友正哉の家が不審火が出て、家族全員焼死する。その死に嘆き悲しむ夏貴の前に死んだはずの正哉が現れる。しかも、彼の遺した携帯電話の画面に。正哉は夏貴に火事の原因を調べて欲しいと願う。夏貴は親友の願いをかなえるため、事件の真相を探り始める。
 上記のストーリーからすれば、携帯電話に死んだ親友が現れたこと以外は、いたって「普通」のミステリである。ところが、この後の展開は読書を想像を超える事実にぶち当たり、放火事件は全く異なる大事件へと転換するのである。その真相の衝撃はあまりの驚くべき内容のため敢えて触れないでおくとするが、物語の雰囲気を一変させるがゆえに、賛否両論はあると思う。
 ただ、個人的には、こういうアクロバットな展開は大好きなので、結末とかオチとかに尻つぼみな面はあるものの、本作の大胆さには賞賛したいと思う。多分、普通の大人を主人公としたら単なるトンデモ小説になっていたと思うが、主人公を大人の成長過程にいる中学生に据えたことで、颯爽とした青春小説に落ち着かせたところに、作者の気転の妙というべきか、破綻の少ない作品のように感じられるのである。あえて一言申すなら、大風呂敷を広げた割には、もう少し主人公に苦悩があってもいいんじゃないと思うのだけど。

2005年01月31日
裸者と裸者 上・下  打海文三 <角川書店>
 本書を読むときは夢中になってしまうのだが、読み終えることに1ヶ月もかかってしまった。それは単に時間がなかったということではなく、あまりに重々しく、そして残酷さに精神が圧倒されたため、続きを読むことに躊躇いを覚えてしまったからである。しかし、それでも悲壮感を感じさせないのは、主人公を未来にすべてを賭けた若者たちに据えたことで、血なまぐさい内戦の現実に目をそむけず、作品全体が最後まで希望の芽を失わなかったことにある。もしも故・深作欣二監督が名作『バトル・ロワイアル』を知る前に本書とめぐり合っていたら、遺作はこの作品だったかもしれない。
 多くの難民が押し寄せ、しかも経済システムが破綻した瀕死の日本を舞台にした近未来小説。政府が崩壊し各都市も武力蜂起して内戦状態に陥った日本。父親を戦闘で失い、母親も行方不明になった少年、佐々木海人は幼い妹と弟を養うべく、治安の悪化した町で生活の糧を稼ぐ。しかし、海人は意思に反して徴兵され、孤児部隊に入隊してしまう。海人は脱走して捕まれば処刑されるという過酷な状況で戦闘技術を叩き込まれる。そして、死が隣合わせの戦場で生き延び、その代価としての給料を妹や弟に送金する生活を繰り返しながら、海人はやがて部隊を統率する兵士へと成長する。現代日本の常識で図ることのできない戦場の生々しさを冷徹で真摯な視点で描かれていた問題作。
 しかも下巻は、海人に助けられた双子の姉妹、月田桜子、椿子が主人公となって、混乱はさらに色濃くなる。混沌とした時代にふさわしく、狡猾でしたたか、時にはぶっとんで猥雑な双子姉妹の活動がアップテンポで展開する。やがて姉妹は戦乱の中、同志と出会い、戦争を継続させるシステムを破壊すべく、女の子だけの部隊「パンプキン・ガールズ」を結成し、孤児部隊を率いる海人と共に戦場を駆け巡る。武装する政治団体や外国人マフィアと手を組み、狂信的な宗教団体や政府軍と闘いながら、理想とする世界の実現のため、姉妹は武器を手にする。終わることのない流血と惨劇の連続は下巻のラストまで延々と続いていく。
 海人や月田姉妹にとっては、当人の思いとは別に内戦の日本が日常であり、そこで生き延びていくことが当たり前であるのだ。だから彼らには戦争被害者という面を持ちながらも自身もまた加害者でもあるという一持っている。しかし、それは善悪の二元論では解決するものではない。そこに安易な反戦論に終わらない本書の面白さがある。けれど、どんな状況であれ、生き延びることで希望と理想を目指せるという事実のもと、10代である海人たちの生と重なって、血なまぐさい戦場でも絶望しないことの意味が赤裸々に浮き上がってくる。世界観が理解しづらく、また、正視できない場面が多々あるとはいえ、平和であることとは何かを考えるにおいて最良の作品である。

2004年12月26日
生首に聞いてみろ 法月綸太郎 <角川書店>
 2004年度ミステリーの傑作として名を轟かせた作品。寡作な作家の10年ぶりの長編という話題にもなったのだが、そうしたことを抜きにしても怒涛のロジック展開にラストまでグイグイと引っ張れてしまう。同期デビューのとある作家の12年ぶりの作品が大コケしていたので、本作も内心、不安があったが、前言撤回には充分に値する。
 彫刻家川島伊作は大病の体を押し切り精魂込めて一人娘の江知佳をモデルとした石膏像を作り上げ急逝する。しかし川島の葬儀後、その像の首が何者かに切断され奪われてしまう。しかも、江知佳はカメラマンの堂本にストーカー行為を受けていた。推理作家法月綸太郎は、身を案じた叔父の川島敦志から調査を依頼を受けるが、調査を進めるたび、川島家の複雑な人間関係を知ることとなる。やがて、川島伊作の追悼展が開かれる美術館に若い女性の生首が入った宅急便が送られる。陰惨な殺人事件を取り扱いながら、隋所に複線を張り巡らし、それが謎を解明していくプロセスの中ですべて開花し、意外な結末をもたらしていく。まさに芸術と呼ぶべきミステリの極みである。
 奇妙なトリックや偶然性というものを作品に入れ込まないで、純粋に謎解きを作り上げたことは凄いの一言。しかも、舞台設定も現代社会のリアルさと堂々と向き合いながら作り上げたこともまた凄い。ただ、登場人物が行った行動に対する動機に現実味の弱さがあって不満が残るし、また動機のきっかけとなった出来事のところの説明をすっ飛ばした感じと、そこに偶然性が感じられるようなところがあるように思うので、ミステリのための人物設定という念はぬぐいきれない。
 しかし、ロジックについてはあまりにも丹念に練り込められた作品なので、むやみにそれ以外のところをあれこれと標榜するのは、逆にこの作品の価値を下げてしまう恐れを感じてしまう。それほどの出来栄えなので、感想としてあるまじきことだが、とりあえず読んでほしいと言っておきたい。しかも、単に流し読みをしてしまうことも、実にもったいないことでもあるので、推理小説は一度カルタシスな結末を知ると再度、同じ味わいを得ることができないことから、せめて最大のカルタシスを得るためにも、本作の最も魅力的な謎、つまり「なぜ石膏像は首を切断されなければならなかったのか」ということを念頭にいれて読んでみてほしいものである。

2004年04月03日
手紙  東野圭吾 <毎日新聞社>
 後味が悪くなく、それでいて余韻に浸れる。しかし、決して重々しく仕上がっていない。ソフトさを崩さずに、重くなりがちの加害者家族をテーマとして描くことに成功した点では、非常に稀有なぐらいに仕上がった感動作である。しかし、実際のところ、本書の取り扱うテーマは、そんな口当たりのやさしいものではないはずなのだが。
 本書は、強盗殺人を起こして服役中の兄・剛志を持つ弟・直貴を主人公としている。直貴は進学、恋愛、就職とさまざまな場面で、兄の事件のせいで、周囲から疎外されてしまう。剛志は、そんな状況を知らないまま、弟に幾度となく、刑務所から手紙を送る。やがて周囲から孤立し始めた直貴は、思いもがけない行動に出る。
 殺人事件といえば、被害者の家族の視点で書かれる小説が多い中で、本書は加害者の家族を中心に取り扱っている点では、異彩を放っている。しかも、安易なヒューマニズムに溺れることなく、現実の、まさに道徳のひとことでは片付けられないような世間や世情をまっすぐなまでに描いているのは特徴的だ。特に、直貴が就職した会社の社長との会話は、耳に痛く、それでいて、胸にズシリとくる重みが感じられる。そういう意味では、本書の良さが分かるかどうかで、その人が、世の中に吹き溜まっている清濁や矛盾などを自分の中に飲み込んで消化できかどうかが分かるような気がしないでもない。
 ただ、どちらかといえば、読者に対するウケの良さをねらったところがあるため、全体として地味な展開に感じられるのが残念である。また、あまり深く考えなくとも、作者の言いたいことが充分に伝わってくることが、小説としての軽さを印象づけてしまっている。しかも、主な登場人物が、ご都合主義とはいかないまでも、あまりにも人の良い方ばかりなので、かえって、本来なら重く圧し掛かってくるようなテーマが、ライトな仕上がりに終始し、バランス的には消化不良の感は否めない。そういう意味では、まだ練り直す余地の多い作品である。しかし、純粋に読書で損をしない程度にカルタシスを味わいたいのであれば、本書は本当に良く出来ているといっても構わないと思う。

2004年03月19日
猫丸先輩の推測 倉知淳  <講談社ノベルス>
 30歳を超えているのに、猫みたいな童顔。年齢不詳の小男。神出鬼没のフリーター。しかし、その鋭い推理は、人間の盲点をするどく突く。その名探偵の名は猫丸先輩。癒し系なのか、それとも毒舌家なのか、なんともいえない風体と人柄でもあるのだが、なぜか読者は彼に好意的になってしまうのではないだろうか。その理由については、後ほど私見を記すつもりであるが、なにはともあれ、まずは本作を読むことを勧める。
 本作は、そんな猫丸先輩を探偵に据えた6つの短編が収められている。冬の寒空で届けられた不審な電報、花見の場所取りを命じられた新入社員が遭遇する謎めいた人物たち、商店街の活性化を目指す出店が並ぶイベント会場でおこる妨害工作、迷子の猫を探す探偵が出会う依頼人の謎めいた行動、動物園で発生した盗難事件のあざやかな解決、そしてクリスマスに疾走するサンタクロースたち。いずれも死者の全く出てこない、日常生活で起った不可思議な現象を猫丸先輩が理路整然と解決する話である。
 実際、それぞれの短編の謎も種明かしをしてみれば、なんだそんなことか、と思ってしまうぐらい、ごくありふれたネタばかりである。だが、それを最初に解明するということは、コロンブスの卵に似たことであって、そうは簡単には思い浮かばないことである。よって、それをさらりと解明できる猫丸先輩には、単なる読者の立場であるととはいえ、尊敬の念を抱いてしまう。しかも、その解明にあたっては、一見すれば何の関係も脈絡もない「たとえ話」を引き合いにして推理を始めるのだから、なおさら畏敬せずにはいられない。特に「電報」と「肉球」の推理で猫丸先輩の口から語られる「たとえ話」は秀逸である。また、タイトルに「推測」という言葉がついていることにも、猫丸先輩なりの理由があって、それが推理に絶妙な味わいも醸し出している。
 しかし、なんといっても、やっぱり猫丸先輩のキャラが魅力的である。唐沢なをきが描く画風の素晴らしさもさることながら、キャラクター設定がなんとも言えない。世間に左右されずに、己の思うように自由気ままに生きている猫丸先輩であるからこそ、既存の常識に縛られてしまった人たちの見落とした、ささいなヒントを平然と指摘して、驚きを誘う推理ができてしまう。なぜか、この食えない先輩に対して、やっぱり好感を持ってしまうという理由は、もうお分かりのことであろうけど、それは猫丸先輩が真の意味での「自由人」だからであるに違いない。

2004年02月11日
月の扉  石持浅海 <カッパ・ノベルズ>
 本作はノベルズ作品でありながら、「このミステリーがすごい!2004年版」の国内版で第8位にランクインしたミステリー小説。作家にとっては第2作目でありながら、その文体の完成度は高いものがある。実は古本屋で300円で購入した。定価で購入しても可笑しくないぐらいの面白さで、かなりお買い得でもあった。
 沖縄の空港でハイジャックが起こる。飛行機の中で乗客、添乗員を人質に、自らの指導者の解放を迫る犯人グループ。そんな緊迫した状況の中で、機内で乗客のひとりが殺された。しかも、場所はトイレ内という密室状態。計画の予定のない状況に戸惑う犯人グループは、同じく人質となっているカップルの男を呼び出し、彼に犯人探しを命令する。その彼、座間味くんは、思考を駆使して、安楽椅子探偵よろしく、論理的に真犯人を追い詰めていく。
 殺人事件が発生した状況に特殊性や独特さを感じるものの、トリックはそれほど目新しいものはない。しかも、動機は、殺人の動機もハイジャックの動機も観念すぎて、いまいち読者の納得さや共感は得にくい。この動機の受け取り方で、読後のカルタシスは大きく変わってくると思う。
 しかし、探偵が謎を解くプロセスの論理は、読者をうならせるものがあり、読者は展開から目が離せなくなることは間違いない。しかも、密室殺人、ハイジャックがもたらした悲劇の後に訪れるエピローグは、南国・沖縄の季節と風景をバックに、探偵役が語りかける言葉は、一種の清涼感があって、余韻がもたらしてくれる。多くの人は信じないかもしれないが、一部の人は真剣に信じていることがある。その信じたという感情と意思がもたらした、ひとつの悲劇。ミステリさの味わいも重なって、その一部始終に読者は堪能すること間違いないだろう。

2004年02月01日
誰か 宮部みゆき <実業之日本社>
 宮部みゆき女史に、”はずれ”がない。本作も、あいかわらずの巧みな人間描写にさらに洗練されつつも、他の作品には負けない骨太さも備わった仕上がりになっている。しかも、これまでの作品にありがちな、冗漫な部分が削がれていて、すっきりとした展開になっているところにも、読みやすさが感じられる。けれども、「模倣犯」と違って、本作は大きくはない事件を取り扱っているため、全体的には地味な印象を受けてしまうのは否めない。だが、取り扱う事件は新聞の三面記事の小さな欄の事件のレベルとはいえ、そこに関わる当事者にとっては、人生に大きく降りかかる出来事。それは大小に関係なく、当事者を悩ませる。その本作の意味するところに、読者も共感するはずであろう。
 ストーリーは、ある財閥会長の運転手が自転車に撥ねられて事故死する。犯人はいまだ捕まっていない。被害者の娘である姉妹が被害者のことを綴った本を自費出版することで犯人探しをしようとする。会長の娘婿である主人公は、義父の命により、自費出版を手伝うことになるのだが、やる気のある妹と違って、この本の出版に反対している姉が気掛かりになってしまう。やがて、姉から、妹が知らない家族の過去には、隠しておきたい暗い事件があったことを打ち明けられるのである。
 読者にしてみれば、事件そのものに動きの多い展開がなく、単調なまま進んでいくために、いまいち盛り上がりに欠けるところはあるかもしれないが、実は、ラストには思いがけないどんでん返しが待ち受けている。その点に関しては、それまでの展開もなんのその、その衝撃にさすがは宮部みゆき女史と唸ってしまうことだろう。よって、現代ミステリーとしては満足のいく作品になっている。
 もちろん、事件の謎を解きほどくことの面白さはあるけれど、その他にも登場人物たちの心の動きを探っていくことができるのも、宮部みゆき女史の作品ならではの面白さである。とくにタイトルにつけられた「誰か」という題。最初のうちはなんのことか分からないかもしれない。もちろん、それも本書の中ではいずれは明らかになってくるのだが、そこに込められた意味を探しながら、登場人物たちの人間模様を読みすすめてみるのも、本作のひとつの楽しみではないだろうか。

2004年01月24日
疾走 重松清 <角川書店>
 直木賞作家・重松清が男子中学生を主人公に据えたクライムノベルである。昔に同じ作家によるもので、傷害事件を起こしたクラスメイトを持つ中学生の視点で描かれた「エイジ」という作品を読んだことがあるが、中学生という多感な年代の目で事件を分析しつつ、生きるということの意味を追求したこの感動作とはうって変わり、本作は、同じ作者とは思えないほどの、読者の想像を上回る暗黒さと救いようの無さに充ちている。読み終えるために、多くの時間と心の落ち着きを必要としたような気もする。
 「浜」に住む者が「沖」に暮らす者を差別する風潮を残す瀬戸内海のある町に住む少年シュウジ。彼の通う中学校の優等生だった兄シュウイチは、高校進学後に引きこもりぎみとなり、ついに放火事件を犯して逮捕される。その事件を皮切りに、町の周囲から疎まれることとなったシュウジの家族は、父親の蒸発によって、決定的なまでの崩壊に直面する。同級生にイジメを受ける中学生活の毎日の中で、シュウジは「沖」で出会った神父の元で聖書を読み、人間の生きることについて思考する。しかし、シュウジを取り巻く孤独は解消されることなく、自殺未遂も頭によぎるまでになった末に、町を飛び出す決意をし、ヤクザの情婦となったアカネを頼りに大阪に向かう。遠方の地でアカネと再会するシュウジだったが、ヤクザの新田によって無抵抗のまま性的虐待を受けてしまう。そして、尊厳を踏みにじられたシュウジは、自らの手によって殺人を引き起こしてしまう。悲惨な内容もさることながら、作品を通じて「おまえ」という二人称によって綴られる文体は暗く、そして重々しくもあり、読者は自らの神経をすり減らすことに気づくだろう。
 あまりにも人間の業の部分を書き綴ったせいか、読む人によっては好き嫌いの激しい作品と言える。もし読んでみようと決意するなら、相当な覚悟で本作と向き合わなければならないと思う。要としては、現在の流行りでもある「少年犯罪」をテーマにしているわけだが、現実に起こる少年犯罪の同情の余地の無さに比べて、ある意味、本作は主人公の少年側に共感してしまうほどのどうしようもない悲劇さが込められている分だけ、少しばかり非現実さを感じてしまうこともある。けれど、少年が歩む煉獄の人生の苛烈さは圧巻で、まるでで憑依されたかのように本作を書き続ける作者の姿が容易に想像につく。
 演出としては聖書の言葉が安易に使われていて、また、少年犯罪や家族崩壊、性的虐待などいささか使い尽くされた昨今のテーマをそのまま用いているところがあるため、あまり読者には新鮮さを感じないのも確かなことではあるが、そういった現在の日本の深々と根付く問題に切り込んだ作品群たちの集大成としては、名作に値する作品とも言ってよい。個人的には、この衝撃作を作者の名作のひとつである「エイジ」の名を借りて、「裏エイジ」と呼びたいのだが、立原正秋の「冬の旅」の平成版と呼んでみるものも面白いかもしれない。

2004年01月17日
アルキメデスは手を汚さない 小峰元 <講談社文庫>
 個人的なことで恐縮であるが、本書とは浅からぬ縁でつながっていると思っている。それは、本書の舞台が大阪で、しかも、等身大の高校生たちを主人公にしているというところに親近感を感じるためとも言えるが、むしろ運命的なところで言ってしまえば、本書が江戸川乱歩賞を受賞して世に出た年と誕生年が同じということにある。そのためか、本書の主張するところに絶妙なはまり具合で共感してしまっている。
 ストーリーの舞台は、昭和40年代後半の大阪。そこで一人の女子高生の葬儀が行なわれる。どうも彼女は妊娠していたらしい。その数日後、彼女の通っていた高校で、今度は少年が教室で倒れる。毒殺未遂だという。やがて殺人事件が勃発する。高校を舞台にしたミステリアスな展開に加え、登場人物たちがどれも反体制的で向こう見ず、それでいてけっこう友情に厚いといった高校生たちという設定が、テンポ感の良さとも絡まって爽快でコミカルであり、もう名作というべき作品であるにもかかわらず、逆に現在の読者に対して、経験したことのない新鮮さを与えてくれる。
 初版発行の当時は、表紙のイラストの和田誠のマンガチックさが受けて、売れに売れまくったそうだ。しかも、現在、推理小説として活躍する東野圭吾氏(大阪出身)も、高校生時代に本書を読んでミステリに目覚めたり、既に解散した岡島二人氏も本書の影響を受けて作家になったそうだから、この「アルキメデス」がいかにブームだったのかが察することができる。青春推理小説の大家である赤川次郎氏も、アルキメデスの影響がなければ、世にでなかったのではないかと言われるほどでもある。
 密室、アリバイ、毒殺、ダイニングメッセージ。ミステリの要素をふんだんに取り入れつつも、事件そのものは小粒で、推理小説としてはいささか破綻している展開も伺えるが、青春小説として完成度は他者の追随を許さないほどに傑出している。意味不明なタイトルにしても、真相を知るに至れば、その意味するところの面白さも保証できる。著者が登場人物に語らせたセリフで、「お互いに、もうお伽話の年齢は過ぎたんたぜ。汚れた世間には、手を汚して立ち向かっていこうじゃないか」という言葉は、今も鮮明に心に残る名言だ。本書のテーマは現代人にとって不足しているものをいまだに内包している。
 残念ながら、著者・小峰元氏はすでに物故者となっている。しかも、その優れた作品の多くは、いまや古本屋でしか見かけることができない。それも僅少となっている。まだ高校生たちが知的に溢れ、社会に対する反抗をみなぎらせていたという群像は、もはや古書でしか懐かしむことはできないのだ。

2003年11月09日
午前三時のルースター  垣根涼介 <文春文庫>
 旅というものは必ず何かかけがいのないものを残してくれる、それがどんなに辛いものだったとしても。旅の格差があるわけではないが、自分の見つめ直せる本当の旅というものを人間は一度は経験をした方が良いのかもしれない。そんな旅行者の数多くある物語のひとつに、本書に登場する少年のひとときの旅も含まれていることだろう。
 ストーリーは、ベトナムで失踪した父親を探す男子高校生の旅の物語である。語り口は、その少年に付き添った旅行代理店の添乗員の視点で書かれているが、物語の中心は、常にその少年の周囲で起こっている。ベトナムの地で、さまざまな障害に負いながらも、少年はついに父親を見つけ出し、その失踪の真実、そして切ない現実に迫る。サントリーミステリー大賞受賞作であり、高橋克典主演でドラマ化もされている。
 おしゃれでもない、綺麗ごとでもない、ただ地を這うような泥臭い人間臭さが本書の読み応えの一つである。ただ、全体としては、やや冗漫な感じがあり、まっすぐすぎる展開にはややもすれば、途中で飽きてしまいそうになる。だが、そんなことを吹き飛ばすぐらいのラストの再会シーンと読了感の衝撃には堪らないものがあり、これまでのストーリーでの出来事がすべてこのラストを引き立てるために設けられたように思えてくる。よくある話だろうけど、そのラストシーンを読むというだけの理由で推薦したくなるぐらいである。
 父親の失踪理由と、帰国後の少年の選んだ人生の選択に対して、読者の中には肯定できないという人もいるかもしれない。しかし、人ひとりには、その人なりの選んだ決意というものがあるものだ。だから、他人事といえばそれまでだけど、その決意の存在は黙って肯定するものだろう。しかしながら、すべてを捨て去って無謀でまた新たな人生を始めた父親と、そのためにあまりにも過酷な生き方を選んだ少年のこれからに対しては、読者は、自らを振り替えつつも、また、言い尽くせない余韻を残さざるをえないかもしれない。

2003年09月21日
宿命 東野圭吾 <講談社文庫>
 最近、何かと東野圭吾が騒がしい。原作が2本も映画化されたり、単行本も発行されれば、書店ではコーナーが出来るなど、古くからのファンにとっては嬉しいかぎりだが、初期のシリーズがあまり注目されていないのは残念なことだ。デビュー作である「放課後」、「学生街の殺人」、「魔球」、そして本作は、最近になって東野圭吾のファンになった人には読んでもらいたい傑作である。
 「宿命」のストーリーは、2人の幼なじみが巻き込まれた事件の顛末がまとめられている。和倉勇作は警察官として、とある殺人事件の容疑者として幼なじみである瓜生明彦と再会する。瓜生は和倉の初恋の恋人である美佐子を妻にしていた。そして、事件は複雑さを見せ、やがて2人は宿命とも言える対決を向かえることになる。
 推理小説といえば、犯人は誰であるかとか、不可能犯罪のトリックはどのようにして行なわれたのか、事件に直接に関わる部分での謎が魅力とも言えるが、本作の面白さは、そういった事件の謎だけでない、全くの別の感動的な謎が仕組まれていることにある。当たり前のことだが、結末はここでは記すことができないけれど、読者は、本書のラストの一文を読んで、やや空虚さも漂うことながら、お見事と唸ってしまうのではないだろうか。
 人は何かしらの運命を背負って生きていて、それを成し遂げてこそ、人生の目的であるという強迫的な考え方には同調できないので、安易に宿命という言葉はあまり使いたくはない。しかし、本書で使われる「宿命」には、偶然に遭遇したものに、理由もなく強い関心を持ってしまったことでも、その人なりの意味が既に存在していることの良さが含まれている。感受性の強い方なら、読了後は、その良さが味わいのある形で提示されているので、心の奥底まで響く余韻を抱くはずである。

2003年08月13日
川の深さは 福井晴敏 <講談社文庫>
 映画化希望。読了後、真っ先に思い浮かんだのはその言葉だ。活字だけではもったいない。この壮大で重厚なストーリーこそ大スクリーンで繰り広げるべきである。でも、読めばわかるが、多分、到底映像化などは不可能だろうな。
 東京地下鉄で起った新興宗教のテロ事件。その背景には日本を覆すほどの真相が隠されていた。爆発と血飛沫が飛び交う銃撃戦の中で、たった一人で戦う少年。彼の任務は、ひとりの少女を守ることだ。彼を匿った元警官もまた、この深い暗闇の中で、自らの生き方に自問していく。自衛隊、ヤクザ、公安、北朝鮮などのさまざまな組織と思想が絡み合いながら、国とは何か、生きるとは何かを読者に熱い言葉で問いかける。
 文章は生硬で少し取っ付きにくいところがあり、登場人物もいまいち人間味としてはリアリティさに欠け、ある種マンガ的なところはあるけれど、圧倒的な情報量と迫力ある展開に、ぐいぐいと引き込まれる。そして、衝撃のラストを迎えたあとの、思い引かれる余韻は、本書がひとつの純愛小説の色彩を持っているせいかもしれない。
 愚直までにまっすぐに、そして、ただ愛する者を守る思いだけをつらぬいていくストイックな少年・保には、ニヒリズムを醸し出しているも、主人公の元警官・桃山と同じく、読者も妙に共感することだろう。現代の深い根に直結する問題をテーマに扱っているだけに、是非、自分の人生にまっすぐ見つめ直したい方には、お勧めしたい一冊である。

2003年07月06日
世界の中心で、愛をさけぶ 片山恭一 <小学館>
 海外の有名な推理小説家は、人生のなかで誰しも6冊の良質の小説が書くことができると言ったそうだ。良質とはいかないまでも、一度であれ、自分なりの小説というものを書きたい思いがある。そして、もし書くことができるとすれば、本作のような小説を書いてみたいものである。
 この作品は純愛青春小説である。主人公の男子高校生が、中学から付き合っている彼女が死の淵にいることで苦悩し、そしてやがて訪れる彼女の死に対して、ただ空虚な思いのみを募らせていく悲劇のストーリーである。舞台設定からすると、ちょうど10数年前の時期を指し、まだ若者が若者らしさを保っていた時代の物語である。
 特に主人公の男子学生の人物設定が非常に良い。彼は、彼女の愛情行為に対しても、やや斜めに構えるところがあって、一緒に合わせるのも、たまらないという表情が出ているように、ある種のニヒリズムさをもった冷めた少年である。だが、そうした設定を元に、彼女の死を直面するにあたっての絶望感が大きな反動として彼の中に浮き上がり、自分の枠を超えて、彼女への思いを燃え上がらせていくという彼の人間臭さには、若いことから来る気恥ずかしさも伴って、魅了されるところがある。
 人間は実現したことはすぐに忘れてしまうが、実現しなかったことはいつまでも忘れない。そして彼女と一緒になれなかったという事実は、生涯彼の心の中で未練として残っていくとでも言うのだろうか。
 ラストの第5章では、死んだ彼女の思いを激しくいただいていた少年のその後を描いているのだが、そこで描かれているシーンは、若い頃の彼に比べ大きな変化が見られる。あっけに取られるかもしれないが、これはこれである種の救いを表しているように思える。そこに、人間の心の回復と再生を希望的に訴えているような余韻を与えてくれるのである。 

2003年08月24日
坂の上の雲  司馬遼太郎 <文春文庫>
 司馬遼太郎といえば、坂本竜馬を題材にした「竜馬がゆく」や西郷隆盛、大久保利通を取り扱った「翔ぶが如く」などの名作も多いが、21世紀初頭の不安定な日本において、最も読まれるべき本は、この「坂の上の雲」だろう。
  もう、お分かりのことと思うが、本書は、日露戦争下において活躍した秋山好古、真之兄弟と文学者、正岡子規を中心に、先進国に追いつこうとする日本を描いた一大叙事詩ともいうべき小説である。明治日本が後進国から発展し、やがて強豪の先進国に立ち向かっていく姿を、戦後の復興期とその後の発展する現代日本とダブらせるため、世の経営者の中には、この本を好む方も少なくない。
  実際に、読んでみれば分かることだが、本書は単に勇ましい明治の日本人を描いただけでなく、膨大な資料と分析に基づかれた歴史書である。当時の時代の流れをさることながら、現代では忘れ去れている、もしくは、本書が発行するまで世に名前の出ることの乏しかった人々が懸命に生きていこうとする姿も、読者の頭の中にありありとよみがえらせてくれる。
  組織━━国を構成する人々が一体となって共通の目標へと目指し、熱い思いをたぎらせ、苦難の坂を駆け上る姿。実際、その姿は賛否の分かれるところかもしれない。しかし、不器用ながらも、血に這い蹲りながら必死に駆けすすんでいった当時の日本人の歩んだ歴史は、価値が極端までに相対化し、狭窄な個人主義に陥りつつある人々によって構成されつつある日本の、進むべき道のひとつを示してくれるに違いない。

2003年08月24日
GO 金城一紀 <講談社>
 日韓共同ワールドカップ、そして北朝鮮拉致事件の起った2002年という年に、この小説を読むということに意味を感じる。話題になったときは注目もせず、かなりの期間が過ぎて、この時期(2002年11月)に読む機会を得るに至ったのは、むしる幸運と言える。
  この小説は、日本で暮らす日本人には肌に感ずることさえない「在日」の問題を振り切って、当事者や周囲に縛られずに生きようとする在日韓国人の若者の恋愛の物語である。幾多のどうしようもない障壁、それも当たり前のように存在する難関に囲まれながら、それでも情熱を絶やすことなく、まっすぐに生きていこうとする主人公には、作者の術中にはまったかのような見事さをもって共感してしまう。是非、元気さを知らない10代の人たちと、元気さを忘れたそれ以上の世代の人たちにお勧めの作品である。
  さて、注目すべきところは、かつてマルクス主義に傾倒した父をもつ主人公は、思いのほか、インテリであることである。しかも、受験勉強に毒された偏差値インテリではなく、現代の若者の知識をフル動員した生命力を感じさせるインテリさである。暴力的な面ばかりでなく、知的な面も盛り込まれているところが、主人公に非常に好感がもてるのである。
  だから、映画化されたときの主人公役を演じていた若手俳優には、予告編や広告を見る限りでは、そのインテリさは感じられない。どこにでもいる若さをもてあましているだけの若者に見える。面白そうだけど、原作を超えることは出来ていないような気もしないでもない。
  よって、映画からでなく、小説を先に読むことでこの作品を知りえたことはもうひとつの幸運と言える。

2003年08月24日
慎 治 今野敏 <双葉文庫>
 表紙にガンダムのプラモデルの写真、そしてタイトルに用いられている名前は、90年代後半に一大ブームを巻き起こした「新世紀エヴァンゲリアオン」の主人公の少年にちなんで名づけられている。この2つから表されているように、本書はオタク青春小説として世に出された小説なのである。
  本作品の主人公は渋沢慎治という14歳の少年である。彼はいわゆる「いじめられっ子」である。執拗なイジメの末、万引きを強要された慎治は、防犯カメラに顔を撮られ、窮地に陥る。そんな絶望的な状況の中で、担任教師の古池は彼を救うために、ガンダムの世界へといざなう。
  このあらすじだけみると、何のことだか分からない人もいるのではないかと思う。果たして、ガンダムで人が救えるのだろうかと。しかし、人が救われるには必ずしも、「3年B組金八先生」で言われ続ける正論だけしか解決できるというものではない。眉をひそめられるようなことであっても、救いとなることは結構、あるものである。
  結末は、慎治はガンダムのプラモデル作りから、エアガンでのサバイバルゲームを通し、イジメを克服することになる。この結末は誰もが予想しうるものであろうが、その課程において、彼が、古池からどうのようにして励まされ、いかにして夢中になるものを見つけ、自己を再生していくかは、当たり前の世界を描きつつも、新鮮で、そして、思わずくすぐったくなるような展開である。
  青春小説とは、時代の流れとともに古臭くなり、カビてくるものである。本書は、そんな古さを捨て去ってもリアリティが失われない、90年代後半を代表する青春小説とも言えるだろう。

2003年08月24日
希望の国のエクソダス 村上龍 <文春文庫>
 個人的なことだが、どうも中学生を題材にした作品を好むところがあるようだ。実際によく考えてみれば、世の中には中学生を題材にした作品は決して多くない。漫画をのぞけば、小学生か高校生の年代を中心にすえたものが多い。多分、これは、中学生という年代を大人が作品に仕立てていくには、非常に捉えどころがなく、表現のむずかしい年代なのかもしれない。しかし、この年代が最も大人と子供の狭間に位置している以上、彼ら彼女らの思うところ、世の中をどのように認識しているかというところは、時代を映す鏡としては最もふさわしいと思う。
  現代で最も、現実を直視しつつ、そして書き綴ってきた村上龍氏が中学生を中心にして描いた作品が本書である。中学生たちが学校を捨てて、自分自身の力でネットビジネスを切り開こうという内容であるが、このストーリーを表面的な面だけで読んでいると、大きな誤解が生じる。
  作者も指摘していることだが、既存の価値観を破って活躍する中学生たちを描くことは、決して現実の中学生に期待しているという意味ではなく、中学生がこれからの世に絶望し、義務教育という公共サービスを受けることさえ拒絶しているという現実の危機感を意味しているのである。
  若い人材が担うべき”これから”とは、既存のシステムでつくられたものの延長と見るのならば、近代のシステムを拒否する中学生の逃亡を描くということは決して荒唐無稽ではないと思えないだろうか。

2003年08月24日
樹海旅団 内山安雄 <新潮社>
 フィリピンを舞台にした、日系企業のリゾート開発に絡む日本人少年誘拐事件を題材にした冒険小説である。改めて言うが、サスペンス小説ではなく、冒険小説である。
  従来の誘拐小説では、描かれる対象は誘拐された者ではなく、犯人から脅迫を受ける家族に視点を置いたものが多いが、本書は終始、誘拐された少年の視点で描かれ、少年と誘拐犯であるテログループとの衝突と葛藤が頻繁に描かれ、熱い人間ドラマを見せる。再三の脱出と、そのつど味わう挫折と恐怖、そして訪れる危機。少年の経験する暑いフィリピンの世界は、平和に慣れすぎた日本では想像もつかない暗黒さを秘めている。それに直面しつつも、生きようとする姿は、少年とはいえ、冒険小説の醍醐味を読者に伝えてくる。
  さて、冒険小説の醍醐味といえば、その小説の世界に息づく登場人物たちの生命のたくましさと、それらによって磨かれる人間の成長にあると思う。本書は結果として悲劇という結末を迎えるのだが、その醍醐味は薄らぐことはない。
  さまざまな苦難と危険の果ての悲劇に。読者はをどうしようもにない理不尽さを感じるが、読後のやるせなさとカルタシスは大作1500枚を読みきるにふさわしいものを実感させてくれる。
  発行されて7年立つが、2002年の7月時点では未だ文庫化されていない作品である。時代的には一昔前で旬は過ぎた気もするのだろうけど、現在、是非、映画化してほしい作品である。

追伸:2004年にやっと文庫化された。しかし、あらためてテロの時代に突入した現代と、本作が発表された時代とのギャップを感じる。

2003年08月24日
うつくしい子ども  石田衣良 <文春文庫>
 表紙をご覧になってお分かりのことと思うが、神戸の児童連続殺害事件をモデルにした作品である。視点を殺人を犯した少年の兄の思いに置き換えることで、事件の本質を探っていこうというものである。
  この事件を題材にした作品は、柳美里氏の「ゴールドラッシュ」や重松清氏の「エイジ」などが挙げられるが、読みやすさとのめり込むやすさという点では本書が一番である。
  この事件については、既に風化しつつあり、週刊誌にときどき掲載される程度になったとしても、事件当時はかなり衝撃的な事件だったと思う。事件の解釈が無数にブラウン管で繰り広げれたが、その結論はどれも的を得たものはなかったと思う。しかし、的を得ないことは当たり前のことだから、正解を求めること自体、無謀なこととしても、当時から生きている者にとっては、自分なりの答えをもってもらいたいものである。
  弟の起こした殺人事件を苦悩しながら受け入れようとする兄。その姿はどうしようもうない苦悩と不安に襲われている。しかし、事件をポジティブに受け止め、弟を守っていこうと誓う兄の姿は、一つの取るべき選択かもしれない。
  ちなみにこの作品はミステリーである。最後にとんでもない意外な真相があることを付け加えておく。

2003年08月24日
月光亭事件 太田忠司 <徳間書店>
 本書と出会わなければ、読書というものの面白さと出会うのが、非常に遅れていたか、もしくは、そんなものを見向きさえしなかったかのどちらかになっていたと思う。今日までの活字中毒とも言うべき読書狂はすべて、本書から出発したのである。
  本書を購入したのは高校3年生の夏であり、それまでは当然、推理小説などほとんど読んだことがなかったし、ましてや、活字ばかりの本を読むということに関心もなかった。だから本書を読むきっかけは、漫画のような表紙のおかげであり、漫画を読むように活字小説を読む気なったからである。しかし、読後に小説の面白さを知ったことになったのだが、作品としての本書は漫画を読んだときと同じ印象だったと思う。
  少年探偵が解き明かす、密室殺人。奇想天外なトリックに隠された真実は、本格的な家族に対する問題提起。少し浪花節的なラストであるが、読む者を素直に感動させてくれるストーリーである。
  実際のところ、ストーリーもトリックも、これといって特別というわけではない。よく似た話などいくつもあるだろう。しかし、主人公である少年探偵、狩野俊介は、それまでの少年主人公のどれにも属さない人物として描かれ、彼の言動、行動には親近感と新鮮味を感じてくれる。
  狩野俊介シリーズの第1作でもあり、その後も続編が続くのだが、本書以外にお勧めの作品は「狩野俊介の肖像」である。この本は、しかし、シリーズを一通り読了していから、読んでもらいたい。

2003年08月24日
バイバイ・エンジェル 笠井潔 <創元推理文庫>
  現在では5作品が発表されている矢吹駆シリーズの最初の作品である。その後の作品には、ところどころ前作の犯人などが明かされてしまうので、まずはこの最初の作品をお勧めしておく。
 フランスでおかったラルース家殺人事件。女主人の首はなぜ切り落とされたのか。警視の娘であるナディアは事件解決に乗り出したが、解決へは困難を極めてしまう。そこで彼女の友人、矢吹駆は現象学を駆使して真犯人を暴き出していく。
 本質的直感。その奇妙で魅力的なこの言葉。それまでの探偵小説の欠点を見事に指摘している。現象には無数の解釈が成り立つわけだから、ひとつの殺人事件に対してもやはり無数の推理が出ていくる。しかし探偵小説の探偵は何の失敗もなく、無数の解釈から真相を見出してしまう。卓越した推理力も所詮、現象の解釈のひとつなのに見事に真相として当ててしますのはなぜか。その答えは作者は主人公の矢吹駆に「それは探偵があらかじめ真相を知っていたからだ」と言わさせてしまう。つまり、無数の解釈からひとつ真相を選び出すこととは、事前に知っていないとできないというわけである。いいかえれば、探偵は、すぐに事件の本質を発見したことになるのだ。
 つまり、事件そのものの本質をまず見極め、それが他の現象と整合性が合うかどうかで犯人を見出していくのが本質的直感を用いた推理なのである。
 かなり衒学趣味にあふれた作品であるが、読み応えは十分。普通のトラベル推理小説に飽きたら、是非読んでほしい。

2003年08月24日
匣の中の失楽 竹本健治 <講談社> 
 作品としては、1977年に単行本として出版さてた作品ではあるが、年月がたっても作品の質が失われていない傑作である。アンチ・ミステリと呼ばれている所以は、推理小説でありながら、謎そのものへの解明よりも、ずっと小説世界に浸ってみたいという雰囲気をかもし出す迷宮小説だからではないだろうか。これからも語り継がれるべき作品である。
  ストーリーは複雑である。モラトリアムの大学生たちに起こった連続殺人を、自分たちが探偵役として名乗り出て推理合戦を行うという顛末で描かれているのだが、序章・第1章・第3章・第5章と第2章・第4章が入れ子式になっていて、前者にとっては後者が、後者にとっては前者が小説内の出来事という位置づけているのである。だから読者が読んでいるのは、果たして空想なのか事実なのか、霧に巻かれたように読み勧めていくことなる。
 本作は、竹本健治氏が22、3の年齢で描かれたものであるためか、非現実の世界の中であっても、若者であることゆえの悩みや不安から逃れ、ただなにげなく単に生きていくことに対する青臭さが妙に伝わってくる。しかしながら、空想性があまりにも高いが故に、自分たちの仲間が殺されているにもかかわらず、無神経にも友人の死を題材に推理合戦を行っていくのは、人間としてリアリティさに欠ける。しかし、登場人物の名前が人形名をもじっていることから、そうしたリアリティの欠如も確信犯として狙った感もあるのだがら、どこまでも奥の深さに迷いこんでしまう。
  いつまでも迷宮に浸っていたい、つまり、このまま非リアリティな本作の世界観にのめり込んでいくという感覚の中で、モラトリアムな無気力さが伝わってくる。この世界観をもってして、社会に出ることへの恐れを感じることの不安を暗に表現させているのだろうか。1970年代後半の若者を描きながら、現在のインターネット・バーチャルへ浸っていく若者を予言したような作品、いや若者とは本来そういうものだということの証明にもなるような気がしてしまうのである。