読書の感想/漫画・アニメ

ノンフィクッションの感想
映画・ドラマの感想
小説の感想
漫画・アニメの感想



2005年11月06日
DRAGON QUEST−ダイの大冒険− 原作:三条陸、作画:稲田浩司、監修:堀井雄二 <集英社>
 タイトル通り、人気ゲーム「ドラゴンクエスト」の漫画版である。ストーリーは世界を滅ぼさんとする大魔王バーンを倒すために、竜の騎士の血を引き継ぐ主人公・ダイが勇者アバンの弟子であるポップたちと共に冒険の旅に出る話である。ゲームで登場したモンスターや呪文もそのまま用いている。他の正統派の少年漫画にありがちな、苦難と勝利の繰り返しになっているが、単に主人公たちの実力と能力のレベルアップだけでなく、精神的な成長も丹念に描いているところに秀逸さを感じる。
 例えば、人間離れした能力を持ったことで自分が何者なのかということに悩む主人公ダイや、勇者アバンの弟子でありながら恐怖で魔物との闘いから逃げてばかりいる相棒の魔法使いポップなど、作者は主人公たちに過酷な状況を設定させては必死に乗り越えさせようと描いている。とくに、超人的な立場であるダイとは違って、平凡な人間であるポップを思春期の少年そのものに描き、彼を自らの弱さを克服して強敵に立ち向かわせたことで、当時の少年たちの共感を得たことに成功している。まさに若者の物語として今も変わらぬ面白さを備えている漫画である。こうした人間味のあるキャラクターを読者と重ね合わせることで長期連載につながったのかもしれない。
 しかし、ピンチになると「思いもかけない助っ人」や「都合がよすぎるチャンス」が多くて全体的にワンパターン、マンネリであり、とくに後半になってからは冗長ぎみとなって敵の王宮に突入してから大魔王バーンを倒すまでの展開がなんと長いこと。おまけに死んだはずの●●●まで生き返ったり、最後の闘いでダイが●●●に変身して圧倒的なパワーで大魔王バーンを倒したり、作品の盛り上がりに水を差すようなシーンも多い。
 しかも、大魔王バーンを倒した後も、味方全員安泰で大団円というラストで終わらせなかったことは、自己犠牲を美化している様相もあって、賛否両論に分かれるところと思う。作者は、安易な終わり方をさせなかったことで、生きるという冒険の意味を見つめなおさせ、大人への過程の中にいる読者に哲学的な問題提起を行いたかったのだろうか。もしくは、こういう終わり方を持って本作のマイナス部分である「ご都合主義」と「マンネリズム」を解消したかったのではあるまいか。

2005年07月23日
劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者 水島精二監督 <松竹>
 テレビ放送が終了して10ヶ月経過し、真のエンディングを劇場版で迎えることとなった「鋼の錬金術師」。一応、テレビシリーズの完結編ということで期待の高い作品なのだが、多分、その内容は賛否両論となることは必至。しかし、賛否両論に分かれること自体が的外れなことで、テレビドラマでよくある懐かしの名ドラマを現在にリバイバルした特別版と思えば、単なるファンサービスの集大成と割り切れるはずである。
 科学よりも錬金術が国の発展を左右する世界で、亡くした母を蘇らせる禁忌の術に失敗し、代償を背負ったエルリック兄弟。テレビシリーズのラストで、兄エドワードは錬金術を使って弟アルを蘇らせることに成功したものの、異世界(1923年のミュンヘン)にたった一人で飛ばされてしまう。それから数年の月日が流れ、本来の世界で暮らすアルと異世界で生きるエドワードはそれぞれの世界の方法を使って共に再会を目指す。実際の歴史のエッセンスも取り入れ、またテレビ版では映像化できなかったような演出も相まって、劇場版にふさわしい「手の凝り」ようである。
 しかし、壮大で独特の世界観のある作品の完結編を2時間という枠に収めるのは無理があったようで、これまでの登場人物を強引にストーリーに絡ませる点や、なぜ主人公だけが無事なのかという都合の良すぎる点も多々あり、ファンサービスの域を出ていない。迫力あるシーンの連続なので、ファンでなくとも映画の面白さは伝わるのだが、俗にいう「ハガレン・マニア」(私ではない)には眉をひそめるところも多いと思う。
 ここからはネタバレ。要は、兄を元の世界に戻したくて、父(間接的)と弟(直接的)が無茶なことをしてしまったために、平和だった世界(首都セントラル)が戦争の惨劇に巻き込まれてしまった上、兄弟は結局、異世界に戻って(行って)しまったというオチである。さぞ、残された者たちは大変だったことだろう。また禁忌を犯したことの等価交換で、兄弟は「能力」も「慣れ親しんだ世界」も「恋人や知人と出会う機会」も失うこととなったが、その行き着く先が「こちらの世界」というのは、異世界側に住む人たちは口にできる言葉を失ってしまったに違いない。ただ、個人的にはこういう不完全な結末は嫌いではないのだけど。

2005年06月05日
巨神ゴーグ 原作・安彦良和 文・辻真先 塚本裕美子 <ソノラマ文庫>

(2002年4月23日)
 正式に小説としてコレクションに加えた最初の作品。中学生のころに買ったので長年もの間、付き合ってきたことになる。
  内容は、日本人少年が南海の孤島で何故の巨大ロボットと出会い、世界を支配する企業GAILや怪物と戦いながら、孤島の秘密を探っていくという現代版「宝島」である。原作者の安彦良和が監督・キャラデザイン・全26話全カットのレイアウトを担当した入魂のSFアニメの小説版である。
  普通の少年が仲間とはぐれたり、敵につかまったり、怪物に襲われたりなどさまざまなアクシデントに遭遇するが、無言のロボットが少年を助けて、謎の解明へと歩みはじめる。主人公はただ何も分からずに導かれるだけ。しかし、その旅を通して少年が強くなっていく姿にリアリティさを十分に確認はできる。この作品は1984年にTV放映され、現在は小説・ビデオ廃盤状態だが、質は今でも見劣りしないほどの出来映えである。
  ただ、最終的に明かされる謎として少年が○○○の○○という設定は安彦らしい盛り上がりに欠ける設定であるが、少年とロボットの出会い、友情と別れを描ききったこの作品は青春小説としても一品である。



(追記:2005年6月5日)
 幻といわれたアニメであると言われ続けてきた「巨神ゴーグ」でしたが、ついに2005年3月24日にDVDメモリアルBOXで復活しました。早速、購入して拝見いたしましたが、とても20年以上も昔の作品とは思えず、完成度の高い作品です。ストーリー性、画質のクオリティは当時の最高水準だったことがうかがえます。
 しかし、現在改めて鑑賞すると、やっぱり80年代テイストが色濃く出ていて、全体的にジュブナイル系、もしくは冒険譚の枠に小さく収まっているところがもったいない感じがしますね。個人的にはリメイクしていただきたいです。もし現在リメイクされるなら、もう少し現代的な要素をいれてもらって、科学的な変更はもちろんのこと、例えば、田神悠宇は単に元気な少年でなく、思春期の不安を抱えたイマトギの子供(そもそも父親が謎の死を迎えているのだから、もう少し屈折させておいてから成長させるのも安彦良和っぽくて有りかと思う)として設定し、また異星人と人類との遭遇については、共存か争いかについて互いに葛藤の連続を時間をかけて醸し出したり、そして、単なる悪役に終わってしまったGAILにも大人社会の実情も踏まえて、絶対的な悪役から脱却させてみるとか、深堀できる点はたくさんあるように思えます。
 ただ、そういっても、少年とロボットの友情にも似た交流については、当時のまま残してもらいたいですね。

2005年05月15日
PLUTO プルートウ 浦沢直樹×手塚治虫 <小学館>
 既に日本SFの漫画・アニメ界は空想として限界に来ているのかもしれない。画風やSF設定は斬新であっても、登場人物とテーマはなぜか過去の人気作品のそれと重なってみえる。SF設定が単に衣装のような舞台装置のひとつになったのだろうか。しかし、そんなSF設定の舞台装置化を打破したのは、皮肉にも過去の名作をリメイクした作品である。このリメイクの成功は現代に孕んでいる社会問題を組み入れることで、レトロの枠を取り払い、単なる模倣ではない純粋な現代作品として成り立たせたことだ。例えば、ロボットという存在をもって現代社会とリンクさせて人類の問題を訴えかける平成アニメ版鉄人28号に然り、本作に然りである。
 ストーリーは人間とロボットが共存する未来社会。ロボットが、一部の制約を持ちつつも、人間と同様に暮らし生活を送っている。そんな中、スイスの山案内ロボットのモンブランが何者かの手によって破壊される。彼(?)は地球の最強ロボットの7人のうちの一人である。それを発端に殺人事件と最強ロボットの破壊が起こる。その事件を捜査し、同じく最強ロボットの一人であるユーロポールの警官ゲジヒトは不気味な犯人の存在と自分に隠された謎に翻弄されていく。混迷の捜査の中、ゲジヒトは日本の最強ロボット「アトム」と出会う。
 本作は手塚治虫の名作である鉄腕アトムに収録された「地上最強のロボット」を原作としつつも、画風は「YAWARA」や「MONSTER」の浦沢直樹独特さで表し、テーマにおいてはまさに現代で起こっている戦争や差別を書き出している。また、メモリーチップとかインターネットの世界は現代ならではの設定であり、アトムが明るく真っ直ぐな少年でありながらやや内気で陰があるという設定も現代人を模した部分があるものの、原作そのものは40年も前の作品なのに全然色あせていないのは、先見の明があった手塚治虫の功績によるものだろう。とくにロボットと創造主である人間との関係が差別的でありながら、ロボット側に宿命的な健気さがあって、それが何とも表現し難い「やむを得なさ」を感じる。
 この原稿を書いている時は本作品は雑誌連載中である。今後の展開が楽しみであり、今、最も注目すべき作品のひとつである。ただ、人気のあまり、連載が長引いて、「20世紀少年」のように微妙な破綻を起こさないかどうか若干気になるところであるが。

2005年03月02日
平成版 鉄人28号 今川泰宏監督 <テレビ東京系列>
 昭和の人気アニメを平成の世でリメイク。少年探偵・金田正太郎とともに悪と戦う巨大ロボット、鉄人28号の物語はどの世代も知っているストーリーである。しかし、放映時間が深夜となれば、その対象は子供ではない。全話通して「戦争の傷跡」をテーマに重く作り上げられ、また舞台を昭和30年に移した時代背景が懐かしさを催し、大人のエンターテインメイントとして仕上がっている。特に音楽を担当している千住明氏の重厚なサウンドが素晴らしい。
 ただ、戦後の本の復興の光と影という重すぎた題材は、キャラクターの魅力を弱めてしまい、残念ながら物語としては、あえて「鉄人28号」を媒介に使った効果は薄いと言える。現実の歴史を重んじるがあまり、そもそも荒唐無稽な設定である少年探偵と巨大ロボットが違和感を発し、むしろ戦争の罪を背負った脇役たちと昭和の時代そのものに脚光が浴びてしまっている。よって、彼らの前では戦後生まれの主人公が傍観者に甘んじてしまうのだ。ただ、安直な反戦主義に陥っていないのがせめてもの救いであるが、結末が使い古された戦後日本批判に終わってしまったのは、消化不良の感がある。
 しかも、少年たちの憧れの的であった少年探偵・正太郎は車に乗り、明快な推理と行動力を伴って鉄人を動かすヒーロー像で描かれているが、物語の終盤で敷島博士や大塚署長の後ろ盾を失うと、敵役・村雨健次に「お坊ちゃま」扱いにされ、単なる子供でしかないことが露呈してしまう始末。自分と主人公を重ねてしまう子供の視点からすれば、ショッキングな扱い方だ。その反面、そうした子供を諭す大人側の登場人物が、逆に大人の視聴者の好感を引きつけるのが奇妙なところで、特に兵器である鉄人を憎み、鉄人の行く末を見届けようとするも、やがて正太郎を導く立場となる敵役・村雨の方が主役に見えて、感情移入しやすくなる。物語の最初と最後の見せ場をすべて彼が取ってしまっているのだがら、彼が真の主人公とも思え、それが大人の番組たるを得る最高の皮肉となっている。
 それでも、この「鉄人28号」に魅力を感じてしまうのは、戦後復興の光と闇、そして高度経済成長を経て得た繁栄に、まだ日本人が自ら解決をしていないという問題を、昭和の人気漫画を題材にして訴えようとした試みに共感できるところがあるからだ。それは、自らの問題を解決しようとする姿勢を、物語を通して変化する正太郎の心の動きで表現している。正太郎は当初、鉄人を兵器として怖れたまま不本意に鉄人を動かしては距離を置こうとするも、やがて悪の手によって破壊の限りをつくす鉄人の悲しさを知り、兵器ではなく自分と同じ父親を持つ家族として正しいことに使うことを誓う。しかし、鉄人で活躍を繰り返すも、やがて自分も兵器として使っていることに気付き、鉄人を窮地に追い込んだことを苦しみ、自戒する。そして、自分の成すべき使命を前に、鉄人を自ら葬るという罪と罰を受け止めて、子供としての自分からの脱却を図る。それは良いところばかりに目をやって、自分と向き合わずに成長してきた日本と異なるかのように、正太郎は物語を通して自らの内面に働きかけて成長を遂げていく。もし、彼と同じ姿勢をたどっていれば、日本は次の繁栄に進んでいたかもしれない。

2005年02月20日
それがVガンダムだ ササキバラ・ゴウ <銀河出版>

 数々の名作を世にもたらした機動戦士ガンダムシリーズ。ファーストやZ、シードなどの人気ぶりはどのメディアを通しても伺える。しかし、生みの親である富野由悠季氏が手がけたにもかかわらず、放映中はもちろん、終了後になっても誰の注目にも触れられず、本当に忘れ去れていた作品がある。それが『機動戦士Vガンダム』である。ストーリーにしても設定にしても、あまりにも壊れまくっている展開に、触れられなかった理由がなんとなく悟ることができるが、DVD化の他、本書が登場したのも、時代がやっとVガンダムを理解できる時代になったのかもしれない。
 本書は、そうした忘れられた『Vガンダム』を見直していこうと評論を展開していく。Vガンダムの登場人物やストーリーの紹介も綿密に作られているガイドブックであるが、後半に富野由悠季氏のロングインタビューもさることながら、真っ正直なまでにVガンダム論を展開する作者の姿勢に、「そこまでやるか」というような尊敬と畏怖の念をもってしまいそうだ。ただ、作者の富野作品のベストワンは『キングスゲイナー』のようである。
 『機動戦士Vガンダム』は、前作『機動戦士ガンダムF91』のテーマである「家族の崩壊と再生」とは180°も異なる展開を見せて、家族も共同体も消滅して存在しないかのような時代設定になっている。主人公の少年ウッソも、これまでのガンダムシリーズと異なり、最終回を迎えるまで大人になることを拒絶し続けた、”成長しない”主人公のままであり、少年から戦士や大人への成長を描く『ファーストガンダム』とさえ対比させている。また、女性が活躍する時代の作品かと思えば、女性パイロットを次々と容赦なく戦死させるし、唯一の非戦闘ヒロインの少女シャクティさえも、なんだが宗教家かぶれになってしまうほどだ。どの登場人物も視聴者の感情移入を許さない設定に変わっていき、シリーズ当初の表現していた少年の目から見た戦争の残酷さや悲劇をストレートに書ききっていた流れが、どこで路線が可笑しくなったのか、支離滅裂なイデオロギーの破綻ぶりを露呈しているようにみえる。それを最も表すのが、もうひとりのヒロインであるカテジナの変貌ぶりである。最初は、ウッソ少年の憧れであり、共に戦う仲間だったのだが、ウッソのライバルのクロノクルにそそのかされ、ついにはウッソの敵として登場する。しかも、最終回では、そのクロノクルを差し置いて、まるでラスボスのような存在として襲い掛かってくる。どうみても彼女が主役を喰っているのだ。そして、その末路と言えばあまりにもバットエンドで、本作の著者も、このカテジナのことを、かわいそうと述べ、彼女の変貌ぶりが、Vガンダムという作品そのものと酷似していると指摘している。
 機動戦士Vガンダム初期の主題歌に、こんなフレーズがある。『STAND UP TO THE VICTORY この向こう側に何もなくても構わないから かけがえのない君の優しい笑顔抱いて』。Vガンダムの世界で戦いが繰り返されるにつれて、破綻につぐ破綻をもたらし、作品そのものの現実まで破壊される。そして、破壊された先に何を見出すのかと問いかけてくる。現在もまた破綻の連続であり、今の世を先取りした機動戦士Vガンダムの取り扱い方は、単純に見えて、かなり根が深そうに見える。

 ちなみに、本書の感想と関係がないが、『機動戦士Vガンダム』の良さには、千住明氏が手がけたサウンドトラックがある。さらに『交響組曲第二番 THOUSAND NESTS <キングレコード>』として世にも出ている。アニメのサウンドトラックの中では最高峰の作品としても評価でき、牧歌的な平和と暗雲、そして荒々しい戦争、また、そこから生み出される悲劇と平和。これらをひとつの物語を組み立てるかのように構成されている。まさに戦争というなかで人間の悲哀や復活を見事に音楽で表現している名作である。

 ※旧サイトで公開したもの(2003.10.12)を改訂。

2004年12月10日
ハウルの動く城  宮崎駿監督 <東宝>
 訪れた映画館は日本語字幕付だったために、最初は残念で違和感を感じていたのが、最終的には字幕付きの方がよかった。実は声優が全然駄目で、ソフィー役の倍賞千恵子は問題はないとしても、ハウルを含めて全く人間味が感じられない。字幕がなければ、分かりにくいストーリーがさらに分かりにくくなっていただろう。
 本作は、「千と千尋の神隠し」で世界の注目を浴びた宮崎駿の話題作。ストーリーは、町で平凡に暮らす少女ソフィーは、ふとした出会いでめぐりあったハウルに心を奪われるも、荒地の魔女によって90歳のお婆さんにされてしまう。失意で家を飛び足したソフィーは、これも偶然にであった謎のカカシのおかげでハウルの城にもぐりこみ、そのまま掃除婦として暮らし始める。唐突に展開していくおかげで、全く先の読めない。その甲斐もあって先を楽しみにしながら観ることができるのだが。
 しかし、各場面の随所に複線らしきものをちりばめながら、全く重視しない展開には、予想を超えるというよりも、悪い意味で期待を裏切られていく。また登場人物の行動も挙動不審のようで、「なんで、そうするの?」と思ってしまう。個人的には、場面や登場人物設定、世界観は魅力的だが、肝心の中身が駄目。テーマ性の欠如を意図的に行うことで、非日常の夢の世界へと観客を誘うという「千と千尋」以後の宮崎アニメならではの演出と言えばいいが、「仏像作って魂入れず」とはまさにこのことと言えよう。
 結局のところ、宮崎駿は世界の巨匠という虚構を身にまとった「裸の王様」で、シュールな彼の取り巻きに商業主義にかぶれて信者たちが褒めちぎる図式を浮き彫りにする映画のようである。誰もまともに宮崎アニメを評価できない環境を低迷する邦画界自らが作ってしまったのだ。それはパンフレットにコメントを掲載された有名人の名を見れば分かる。宮崎監督の暴走を止めることができていればと思うと、もったいない作品である。
 ・・・というわけで、ちょっと視点を変えてこの映画を観ると結構、面白い鉢合わせがある。せめて邦画マニアならではクス笑い程度で読んで欲しいのだが、いわゆる新旧対決がキャスティングに見られるのだ。中性的な俳優の新旧の競演として、木村拓也と美輪明宏が出演しているのだが、それは置いといて、巨匠に認められた子役対決というのもある。それは、「千と千尋」に引き続き、宮崎アニメの常連となった子役・神木隆之介と、故・黒澤明という巨匠に評価され、「夢」で主演した伊崎充則が小姓の役で出演している。けれど、神木はともかく伊崎のパンフレットの扱いは、かかしのカブ役の大泉洋やヒン役の原田大二郎のセリフと比較しても、紹介されてもいいはずだが、全く触れられていないという位置づけなのである。巨匠に見出される子役の行く末を予見するようで皮肉で面白い、と思っていたら、我修院達也も子役出身だったのね。まあ、どうでもよいことなのだが。

2004年07月19日
スチームボーイ 大友克洋監督 <東宝>


 1866年イギリス・マンチェスター。そこに暮らす発明一家の孫息子レイは、祖父から届けられた謎の金属ボールを手にしてから、謎の集団に狙われる。事件の中心となる謎の金属ボールの名は、「スチームボール」。アイスランドで発見された特殊な液体から作られた驚異的なエネルギーを閉じ込めたボールで、レイの祖父と父が発明したものだ。しかし、祖父と父は、科学の理想に対する考え方の違いから衝突し、レイもその立場の違いに迷いはじめる。しかし、物語は、レイの思いに通ずることなく、アメリカ巨大財団と英国政府を巻き込んだ大事件へと発展する。本作は、大友監督ならではの迫力ある見せ場の数々と、少年の勇気と意思が交わった正統派の冒険活劇である。単なる洋画「ロケッティア」のパクリではない。
 まさに、大友克洋版「天空の城ラピュタ」といったところだろうか。自然と科学の対立を勧善懲悪的に描いた宮崎駿監督へのアンチテーゼとしては、よく出来ていて、本作には全くの悪人が登場せず、英国や財団などそれぞれの立場での「大人の事情」がリアリティをもって表現させているところが、「ラピュタ」よりも作品の高さを感じさせる。また、そんな「事情」に悩み、裏切られる主人公を、子供と大人の中間である13歳の少年に設定したのは、正統派ならでは。「科学とは何か」という問いを自問するレイの歯がゆさと苦悩が観客に感情移入しやすくしている。
 しかし、結局、ラストまで、少年レイはその科学の考え方に自分の答えを明確に出せずに物語は完結する。彼の意識の中心には、そんな事情よりも、ロンドンに起る危機をいかに防ぐかということに集中してしまい、つまり、物語は、本作のテーゼである「科学とは何か」という問いに対し、矛先を変えてしまったのである。一応、大きな難題の前には、それぞれの立場などと言っている場合ではないということか。それが、緻密な設定とスピード感溢れる展開を見せて観客の度肝を抜きながらも、いまいち不完全燃焼さを残していて、すっきりしない物足りなさを感じる。
 そんな不完全燃焼さをかろうじて克服しようとしているのが、スタッフロールが流れる「エンドタイトル」である。そこには、レイの今後の活躍の姿が映し出されている。レイは、祖父の遺志を受け継ぎ、科学の力で悪と戦い戦争を回避を試みる「新しい物語」がそこにはある。しかも、そのシーンのひとつひとつが、いかにもハリウッド的で、まさにヒーローの登場である。だが、しかし、史実に沿うというならば、レイの活躍とは裏腹に、世の中の流れは、科学兵器を用いた戦争の時代に突入する。史実が史実である以上、レイの活躍でも避けられない歴史の事実が訪れる。その時、レイの目に何が映ったのだろうか、非常に興味のあるところだ。リアルに歴史の一部を書こうとすれば、逆に歴史からはみ出すことができないのは、この物語のジレンマとするならば、本作は、そこから脱却できなかったことは、いかにも惜しいところである。

2004年06月11日
火の鳥 黎明編  手塚治虫 <角川文庫>
 手塚治虫の漫画の中でマイベストをあげるならば、それは本書ではない。残念ながら「アドルフに告ぐ」である。どうしても骨太さと現実を作品に求めてしまう性格なので、大方の手塚作品は候補から漏れてしまう。しかし、最初に手塚作品の骨太さを教えてくれたのは、実は本書「火の鳥 黎明編」なのである。数多くある火の鳥シリーズの中で、ずば抜けていると思うのも、やはりこの黎明編である。
 時は弥生時代。クマソの村で姉ヒナクと暮らすナギは、ヒナクの婚約者グズリのスパイ活動によって、邪馬台国に自分の村を滅ぼされる。また自分自身も捕虜として将軍・猿田彦の手で邪馬台国に連れられていく。邪馬台国で猿田彦の厳しい指導の元で弓の腕を磨くナギ。猿田彦はナギの腕を買って、火の鳥を射止める狩人に育てようとしているのだ。ナギの恨む気持ちは晴れないままであるが、やがて二人は互いに認め合うようになっていく。ある日、ナギは、永遠の命を求めて火の鳥を手に入れたい卑弥呼の暗殺に失敗し、猿田彦と邪馬台国を脱出する。そして、炎を吹く火の山でヒナクと再会したナギは、自分の姉のためにも、卑弥呼よりも先に火の鳥を射ようと決意する。
 黎明編の火の鳥は、他のシリーズ作品と違って、あまり神懸っていないところが面白い。黎明編を書いていた段階では、多分、シリーズ化を考えていなかっただろうと思えるぐらい、火の鳥の捉え方が他と異なる。そして、あまりにもカストロフィ的なラストには、初読の方には、思わず手が震えてしまうぐらい衝撃的だろう。また、征服者ニキギが語る「永遠の命」へのセリフは、本来の人間が持っている生きることの強さが現れていると思える。その強さに気付かず、ただ弱さのみの克服を求めて、火の鳥を狙った者の末路に、手塚治虫は、容赦のない厳しい眼差しで描いているのも強烈だ。過剰なまでの哲学。その言葉は、本作を一言で語るにふさわしい。
 本作は、昭和の時代に市川昆によって映画化され、また平成の世にはアニメ化された作品でもあるが、前者はあまりにも奇をてらいすぎて陳腐な作りとなり、後者は短く削りすぎて重みも深みもないかたちとなり、世に広めるにはあまりにも不幸な表現しかなされなかった。ただ、映画化もアニメ化も、本作の良さを出し切れなかったのも、本作に込められた思想性があまりにも過剰すぎたせいかもしれない。ただ、その過剰さを失うと、なんてことのない平板な作品になってしまうのも、手塚作品の特徴とも言えるのだが。

2004年05月22日
ヒカルの碁勝利学  石倉昇 <集英社>
 急に囲碁を覚えたくなった。もちろんルールはてんで分からない。周囲からは囲碁とか将棋とか強そうに思われるのだが、実はかなり弱い。小学生のころは将棋が好きで、よく指していたが、いつも負けてばかりいた。理由はせっかちな性格がわざわいして、ゆっくりと考えるのが好きではないせいもあるが、もとより将棋の局地的な戦い方が好きではなかったのである。将棋でこのようなものだから、囲碁にいたっては全く無知である。そんな状況で興味が引かれてしまったのは、囲碁がもっている「全局的な視点」が面白く感じられたからである。
 そんな囲碁の面白さを紹介してくれたのが、実は、漫画の解説書じみた本書である。この本は人気漫画「ヒカルの碁」を題材にして、囲碁の面白さを伝えている一方で、囲碁の世界でしのぎけずる実際のプロ棋士たちの姿も紹介している。また、本書の特徴として、囲碁を知らない人や興味の無い人でも面白く読めることができる。それは、本書の主題としているところに、囲碁の世界を題材にして右脳の役割や勝負師の心構えなどを説くことで、プロフェッショナルとは何かを読者に問いかけている姿勢が伺えるからである。ややもすれば、著者の経験談もあって、安直なビジネス本に陥りがちな気もするが、プロフェッショナルという高峰な舞台を、漫画を用いて、身近なところまで分かりやすく持ってきたところに「コロンブスのたまご」のような着想の素晴らしさを感じる。
 とくに興味を引かれるのは、右脳と左脳のテーマである。本書によると、左脳は将棋的で、右脳は囲碁的だそうだ。左脳は記憶力や計算力をつかさどるところであるから、複雑なルールや戦法を覚えたり、先の手を計算して読み合うような、将棋を指すことにはメインとなる部分らしい。逆に右脳は形や空間を認識する能力をつかさどっていて、感性や大局観、バランス感覚を荷っているということで、これは囲碁で鍛えらるものらしい。左脳は年齢のピークを過ぎると下がる一方だが、右脳はそういったことがないと本書は指摘している。ビジネスでも、割り切れない世界があるなかでは右脳的感覚は重視されるのだから、こう言われれば、囲碁を覚えたくなるのも無理はあるまい。
 さて、本書で紹介される漫画「ヒカルの碁」であるが、そのストーリーは、普通の少年ヒカルが平安時代の囲碁の名人藤原佐為に憑依(?)されたことがきっかけで、囲碁の世界に入り込み、やがてプロの道へとめざすという話である。筋道や画風も極めて優れているので大人でも楽しめる作品である。ぜひ、合わせて一読してもらえば、本書の面白みも増すところである。

2004年05月08日
プレイボール ちばあきお <集英社文庫>
 「プレイボール」という作品は、名作「キャプテン」の続編とはいえ、野球マンガの傑作のひとつである。発表されてから、既に30年近くのときが流れているにもかかわらず、その質は色あせることなく、作品に込められた「思い」は現在にも通ずるところがある。平凡な三流の墨谷高校野球部が次々と強豪チームと泥まみれになりながらも戦い抜き、そして成長していく姿は、まさに「王道」である。本作は、前作「キャプテン」よりも人物造詣はきめ細かく書かれており、少しずつ自信とやる気が満ちていく人物描写は他の漫画作品の追随を許さない。
 さて、「プレイボール」では非常に長い話数でありながら、結局、甲子園に行けずじまいで終了する。最終回を読むかぎりでは、その後、主人公・谷口が甲子園に出場できたかどうかは怪しく、このまま夏の大会でも出場することはなく、高校を卒業することになったと思われる。また、谷口の卒業後も「キャプテン」の模倣そのままにすれば、次期キャプテンは丸井となるのだが、彼の代ではちょっと厳しいそうだ。そうなると、選手の層が厚くなっていると思われるイガラシの時代で中学野球時代と同じく、全国制覇しているだろうか。
 個人的には、墨谷高校は、これからも甲子園へ行けないような気がする。甲子園に行けば、それまで築きあげてきた作品の持ち味であるリアルさが失われるような気がするからだ。残念ながら、甲子園出場校とならば、学校側の支援にしても相当違ってくるだろうから、それに伴う設備やスカウトの実力にしても、野球部の顧問が野球を知らないという設定の墨谷高ではとても太刀打ちできないはずである。ある意味、高校野球はビジネスで動くところがあり、それもまたリアルとして受け止めなければならないところだ。しかし、そうした大人側の事情を踏まえないでいるところに、純粋なまでの野球へのひたむきさが表現されるとするならば、「プレイボール」のリアルさとは、ブラウン管の向こう側にある現実ではなく、教室の外のすぐそばにあるような、だれしもが持っているメモリアルに近いものかもしれない。

2004年01月09日
鋼の錬金術師 原作・荒川 弘 <TBS系列>
 テレビアニメの主題歌をポルノグラフティが歌うということで評判になった作品ではあるが、個人的にはつい最近まではあまり関心の薄かった漫画である。ただ、ほんのちょっとの気まぐれで漫画喫茶でコミックを読み出したら、これが面白いのなんのって、つい発刊されているコミックを全て読破してしまった。2004年初頭におけるお勧め作品のひとつである。
 主人公は15歳のエドと14歳のアルの2人の兄弟。彼らは幼い頃に亡くなった母を蘇らせるために、禁忌の人体練成の術を施すのだが、自己の未熟さから失敗してしまう。しかも、その代償として、エドは左足と弟のアルを失ってしまう。しかし、エドは自らの右腕を犠牲にし、アルの魂を練成し、なんとか鎧に定着させる。そして、失った身体を取り戻すために、エドは国家錬金術師となり、軍部、暗殺者、影の組織など二重、三重に絡み合った複雑な人間関係の中で、アルと共に「賢者の石」を探す旅に出る。
 若い原作者ならではのギャグやノリの良さ、小刻みの良いテンポ感に溢れた展開ながら、それに反して人間の死や魂に対してかなり露骨でブラックな側面もあるギャップが作品の奥深さを醸し出している。単なるファンタジーものに終わらず、人物造詣の深さもさることながら、作者の持っている世界観に、これまでのない新鮮さを感じる。主人公が優れた能力を持ちながら、それでいて自らの身では耐え切れないほどの過酷な過去と傷を背負っているというところに、完璧な不完全な者という存在に対する関心も絡み合って、多くの視聴者を共感させるところがある。
 少々、複雑に絡みすぎて、それがどのように綻び、収斂させていくかは、放送中である現在では想像もつかない。それだけにストーリーのこれからに待ち遠しくもある。ただ、面白いと思われた作品の中には、途中でストーリーに破綻をきたし、駄作へと雪崩落ちていく作品も過去にしばしば存在しているものである。けれど、本作に対しては、決して飽きさせることのないだろうという期待は、補償付きで持ってもらっても差し支えないと思われる。

2004年01月07日
MOTHER1+2 GBA <任天堂>

 多くのゲームソフトがただ、ひたすらにクリアすることだけに邁進することに終わってしまう中で、いつまでも、その世界観に浸っていたくなり、またクリア後はそのテーマのもたらす意味とストーリーの結末に、映画や小説を読んでいるようなカルタシスを感じさせてくれるソフトがごく稀にあらわれることがある。たとえ過剰な演出と派手なシーンが目立つことがないとしても、じっくりと丹念に制作されたことで、心の奥底から気持ちを揺り動かしてくれる幸せなゲームがあるとすれば、そのひとつの例として、本作は自信を持って挙げられるのではないだろうか。
 バブル華やかな1989年にファミコンソフトとして登場したMOTHER、そして、その5年後にスーパーファミコンソフトとしてパワーアップしたMOTHER2。その2作は2003年に合作となってゲームボーイアドバンスとして再登場した。両作の原作者である糸井重里が作り出す世界観には、21世紀を生きる少年少女たちにも、大人になったかつての子供たちにも、決して色あせることはなく、充分に夢中にさせる力は備わっている。舞台も、ごく普通のアメリカの田舎町を舞台に、ごく普通の少年たちが冒険するというもので、等身大の主人公というのは、まさにユニークどころ。ファンタジー慣れしすぎたRPGとは一線を画した意外性と斬新さも健在。現代では少し子供じみて受け付けられなくなっているメルヘンさも、違和感なく醸し出されている。
 そうはいっても、時代の流れには勝てず、本作はバブルの勢いがまだ残っていたから描けたのではないかという感がするのは否めない。少年がバットをもって我を失った「おじさん」を殴るという戦い方は、果たして現在だったら新しく表現できただろうかと疑問に思うということもあるけれど、何より将来や未来に希望を託したくなるようなラストシーンには、この現代日本では違和感なくプレイヤーに伝わってくるのだろうかと訝しく思われてしまう。今では暗いイメージしかない将来も未来にどれくらいの意味を持たせることが出来るだろうか。だが、逆に、こういった荒みきった世の中だからこそ、その意味を問い直させるということで、本作の再登場の意味があるということも言えないでもない。
 よって、軽快でノリの良いBGMも去ることながら、親しみのあふれるイラストが重なり合って、この合作は、プレイヤーに失われた本来の冒険心を思い出させてくれる。かつて冒険とは、現在で使われるような「無謀」とか「リスク」とかマイナス的なイメージをもたらすものではなく、希望と夢と胸の高鳴りを抱かせて、人間を前へと大きくさせてくれるイベントであった。その失われた冒険心を、手元の小さな機械の中で本作が疑似体験として演出してくれるとするならば、世の中の戦い疲れた老若男女にとっては、新たな癒しとして、また自分を奮い立たせるものとして、この「MOTHER」は広く受け入れられるべきものかもしれない。

2003年08月31日
キャプテン ちばあきお <集英社文庫>

 ホームページ開設当初から感想を公開してもおかしくない作品であるのに、最近まで僕の中では忘れ去れていた。というのも、各世代にわたる名作であり、あえて感想を述べるまでもなかったと思ったのかもしれない。1972年から1979年に渡って、別冊少年ジャンプに連載された野球漫画。それまでのスポーツ漫画のスーパーヒーロー的な定番を覆し、本作は、あくまでどこの町にも住んでいる野球好きな少年たちを主人公にしている。よって、作品の舞台は東京下町のとある中学校、墨谷二中にある野球部であり、その部の4代わたるキャプテンたちの青春群像を描いている。
 最初の主人公「谷口」は、優柔不断で決断力に欠け、ハニカミ屋であるが、持ち前の根性の末、名門青葉学院の2軍補欠から墨谷二中の野球部キャプテンに任命され、人一番の野球への思いと並外れた努力で部員を引っ張り、やがて、指を骨折させつつも青葉学院を打倒する。「丸井」は谷口の次期キャプテン。人情味はあるが、気は短く、部員との衝突がたびたび起る。一度はリコールされるも、しかし、谷口を見習い、根性と努力をもって野球部をひっぱる。丸井の最後の試合となる青葉学院との延長18回の死闘はキャプテン史上最高の試合である。「イガラシ」は丸井の後を受けてキャプテンになる。その連載期間の長さからシリーズを通しての主人公はイガラシといっても過言ではない。イガラシは1年のときからレギュラーで、2年では4番バッター、丸井の参謀役を務めるほどの名選手で野球を知り尽くした実力派・頭脳派であるが、クールで冷たいところがあり、その結果、怪我人を出して選抜を棄権さぜるを得なくなる。けれど、夏の大会では全国大会に自力で出場し、優勝の栄冠を勝ち取る。「近藤」はイガラシの後のキャプテン。自己中心的で、子どもっぽいところがあるが、豪腕投手で打撃力もあり、彼も1年生のときからレギュラー。作品としては近藤の途中で終わっていて、今後の活躍はわからないが、成長していく姿が歴代キャプテン中でもっともわかりやすい。ある意味、行き過ぎたイガラシのときの軌道修正的なところがある。
 とにかく野球に対するひたむきさと勝利への執念はいくら美辞麗句な言葉を使っても表現しきれない。僕自身もそうだが、野球のことがわからなくても、何か打ち込む姿には誰でも感動するに違いない。
 最近、リーダーシップに関する本がよく売れているそうだが、どの本も、書かれていることが実行できるのは神様しかいないようなものが多い。確かにリーダーとしての成功者は多いだろうが、その要因には偶然によるところも少なからずある。リーダーも人間である以上、人並みの長所と欠点はあるはずである。理想像だけを作り上げて論じることだけがリーダー論ではないはずだ。そういう意味では、ちばあきお氏の「キャプテン」はリーダーシップとは何かを考える上で、非常に役に立つ教材だと思っている。もし、新任で上に立つ立場になったとしてら、まずは本書を一気に読めばよいのではなかろうか。歴代キャプテンたちの活躍も、一目みれば、努力とひたむきさで簡単に表されてしまいがちな良さも、じっくり読んでいけば、リーダーとしての決断や判断がはっきりと見えてくる。
 谷口の場合は、転校生という境遇もあって、前例に囚われない発想力を持っている。1年生からレギュラーを選んだり、練習方法にも独創的なものがある。自らの意識のもと、古い野球部の既成概念を破っていく姿には、現代に通じるものがある。丸井の場合は、問題解決能力だろうか。キャプテンとしては失敗者というイメージが強いが、丸井が墨谷二中を地区大会レベルから全国レベルまで押し上げた立役者である。経験不足の墨谷ニ中に、バラエティに富んだ36校の練習試合を組み、後の世代に人材を残した全員参加の強化合宿、イガラシ時代にも朝日高校との試合を申し込むなどの実例が多い。イガラシはなんといっても構想力。常に全国優勝を視野に入れて練習カリキュラムや試合展開は見事なもの。多分、イガラシの頭の中には野球部を優勝に導くための“絵”が掛けているのだろう。江田川中、和合中などの全国の強豪の出現という問題に直面しても、その構想が揺らぐことなく、柔軟さを持っているところも凄い。近藤は人材論。イガラシに代表されるレギュラー中心主義に否定したのも彼である。有望な1年生の起用はさることながら、自分の世代後の墨谷二中に良い人材を残していこうという姿勢は、ラストの余韻にふさわしい味わいを出している。
 歴代キャプテンのリーダーシップについて、ちょっと、風呂敷を広げすぎたようなところはあるけれど、連載開始後30年たっても、未だに作品価値が下がらない所以は、どの世代にも通じる、本来、人間の持っている感動の触れる部分と強さが濃縮されているからだと思う。

 なお、墨ニの各キャプテンの人物造詣は、原作マンガよりもアニメの方が秀逸。また原作にないが、谷口の挫折やイガラシの人間的な成長を描いた優れたエピソードも多い。男声コーラスを使った印象深い主題歌や声優陣に子役俳優を使うなど、斬新な取り組みも行っている。ただ、残念ながらイガラシ編の途中で終わっている。そのあたりは『キャプテン PERFECT BOOK <宝島社>』を読んでいただければ分かる。

2003年07月17日
陽気なカモメ 六田登 <小学館>
 現在ではマンガ喫茶でしかお目にかかることの無いボクシング漫画である。このスポーツを題材にしたマンガとしては、「あしたのジョー」「がんばれ元気」「はじめの一歩」という名作があるが、この3作品が表のベスト3に入るとすれば、本作品はまさに裏ベストと評すべきマイナーな名作である。
 スリをしながら、いまいち青春の時を燃えきらない青年は、ふとしたきっかけからボクシングを始め、やがてプロの世界へと目指す。不器用で要領の悪いが、まっすぐな感情をむき出しにする人たちばかりが登場し、彼らと泥臭さと人間臭さが混じった環境の中で自分のボクシングを築きながら、やがて青年はチャンピオンになっていく。
 スポーツの世界は、観客からの視点では勝ち続けさえすれば、非常にかっこいいものである。しかし、勝利者は決して勝利者として終わることはない。勝てば次の戦いにも向かわなければならない。必ず訪れる敗北の日まで戦いは終わらせることができないのである。本作品は、そんな本来のスポーツの残酷さを愚直に書きあげたことで傑作なのである。
 戦い続けて半病人になった主人公が迎えた最後の試合は、まさしく「あしたのジョー」のアンチテーゼと言える内容である。その途方も無い内容についてはここでは言えないが、その衝撃さに読者は驚愕するに違いない。
 物語の展開も非常にテンポ良く、まさにクソ真面目ながらでも冗談を交え、リアルと非常識が交互に描かれていく。ぜひ、1巻から最終巻の10巻までノンストップで読んで欲しい。

2003年06月14日
機動戦士ガンダムF91 富野由悠希監督  <松竹>
 安彦良和が関わらないガンダムは気に食わない。ガンダムが複数でてくるのも嫌だ。そして何よりも思想性やテーマ性の薄いガンダムはどうしても受け付けられない。最近のガンダムはこれらのどれかに当てはまっているから性質が悪い。すべて満たすものを探そうと思うと、ファーストか、もしくは本作になる。
 1991年に劇場公開されたガンダム作品である。他の作品がシリーズ化されているなかで、本作だけが一話完結しているのは、多分、他の作品よりも思想性が高い所以だと個人的には思う。10年以上も過去の作品であるにもかかわらず、取り上げられている内容は、いかにも21世紀型である。
 民間人を犠牲と有事利用の形で巻き込んだ戦争から、平和ボケした軍隊、愚民大衆化した民主主義に対抗するための高貴さと義務をもったエリートによる支配と差別、一方的な無差別大量殺戮、そして中心テーマである家族の崩壊と再生。現代が抱える思想や問題をすべて2時間以内に抱え込んだ贅沢な内容はガンダムシリーズの中でも随一。また映画ならではの戦争のむごたらしさを丹念に書いていることも、本作の特徴と言える。
 キャリアウーマンの母が家を飛び出した家庭で育った妹思いの主人公シーブック、貴族主義を復興させ、健全な人類統治の義務と責任を背負うロナ家を継ぐヒロインのセシリー。共に平和に暮らしていた主人公とヒロインが互いに敵となり武器を取り合うストーリー展開をすすめながら、「家族の絆」とは、「人間の命」とは何かという命題を視聴者に突きつける。また、ファーストガンダム以上に、独裁と民主主義が勧善懲悪の関係を色濃くさせずに、相対化させたうえで、そこに巻き込まれる等身大の人々の苦悩と前進を描く。
 ただ、テーマが壮大すぎたせいか、ガンダム自体があまり活躍しないというのが不人気のせいか。また、2時間の枠には到底おさまりきれず、全体的に中途半端さが目立つ。非常に惜しい作品である。
 しかし、作品自体は現代でも十分通用し、森口博子の主題歌もぐぐっと作品を盛り上げてくれる。F91はガンダムシリーズの正統な後継者であり、現在において再評価すべきガンダム作品である。

2003年06月12日
MARCO 母をたずねて三千里 楠葉宏三監督 <松竹>

 昭和51年にテレビ放送された世界名作劇場の平成リメイク版。かつての名作を意識したせいか、ぺッピーノ一座やfフィオリーナの出会いなどの好評だった過去のエピーソードを強引に詰め込み、消化しきれないまま、ストーリーは流れる。また、30年後のマルコのシーンを入れるように、賛否両論を巻き起こす意味で、感動の話題作である。
 なにげなく感動したくなって、レンタルビデオで借りたのだけど、実は、他人とは違った視点で感動してしまった。本作のテーマは、少年が母を思い、困難な旅に出るという親子愛であるのだけれど、個人的には、親子愛は単に旅を促したものにすぎず、むしろ、重要なのは、旅を通して自分のめざす道は何かを見つけたという自分探しのストーリーに感じるのである。そういう意味では、本編が個人主義謳歌の平成ならではのリメイクであるということも特徴的である。
 そもそも、マルコの旅は、単に母恋しさから始まったものであるから、最初の時点では、まさに彼の心は、子供の気持ちそのものと言える。しかも、本作のマルコはやたら泣き虫なのである。だが、旅先でさまざまな人と出会い、助けられていくことで少しずつ世の中を知るようになると、マルコの心の中に社会への関心が生まれてくる。ネタばれになるが、ラストでの母親と再会するシーンは本来なら感動的なはずなのだけど、本作はそのあたりをあっさりと流してマルコの医者になる決意を誓うシーンで終わるのである。
 このことから、旅そのものが親を求める子供の心から、社会に対する自分の使命(MISSION)を見つけた大人の心への変化を促した形になっていることがわかるはずである。まさに、自分の役割とは何かに対しての動機付けの旅なのである。
 マルコが自分の世の中への使命を感じるには、それなりの設定は必要であるわけで、そのせいか、今回の平成版では、やたら病人が出てくる。しかも、お金のない貧しい者ばかり。それらを目の当たりにした結果として、30年後のマルコは無医村を訪れる医者になっているのだが、その活躍シーンもきっちりとエンドロールで紹介されていく。自分が助けてもらったことを、別の誰かにしてあげること。本編には、単なる親子ものでは済まされない、人生の歩み方のような深みが感じられるのである。

2003年05月31日
アドルフに告ぐ 手塚治虫 <文春文庫>
 手塚治虫の作品であるが、第2次世界大戦のドイツと日本を舞台に、社会派でシリアスな展開を見せる展開において、非常に異色作である。その質のレベルの高さに比べ、代表作としてはあまり注目されない作品でもある。しかし、そのテーマの重さは、文芸作品としても通用する、奥深い漫画なのである。
 このストーリーには、主人公として3人のアドルフが登場する。ドイツ人と日本人のハーフであることで悩み、後にナチスに入会するアドルフ・カウフマン、父親をカウフマンに殺された日本在住ユダヤ人のアドルフ・カミル、そして、独裁者アドルフ・ヒットラー。第2次世界大戦という悲劇と激動の時代の中で、ヒットラーの出生の秘密をめぐって、特高や共産主義スパイ、陸軍将校を巻き込みながら、その時代に生を受けた者たちの生き様とその運命を、ドラマチックに描いている。
 ラストは、カウフマンとカミルの死闘で幕を閉じるのだが、そこで語られる言葉は秀逸である。人の運命とは何かということを考えさせられるだろう。読了後は、なんとも言い知れぬ人間の無力さを感じつつ、歴史の大波は、その時代に生きる人の運命など簡単に呑み込み、消してしまうものだろうかと感じずにはいられない。
 本作品でも、多くの登場人物が運命に逆らえず死んでいく。けれども、そんな運命が待ち構えているとしても、彼らは皆、自らの人生のドラマを力強くしっかりと生きようとしたことは確かである。大河ドラマのような広がりと深さの中で、人というものの生きることへの凄さもまた、読者に伝えてくれる作品なのである。

2003年08月24日
千と千尋の神隠し  宮崎駿監督 <東宝>
 最初、この作品を鑑賞したときは、肩透かしをくらったような感じを受けた。だから、大ヒットしたのは、主題歌「いつでも何度でも」のおかげと思ってしまった。しかし、じっくり考えると、後から心にくる映画だったと思う。
  ストーリーは、自らのあやまちで豚になってしまった両親を助けるべく、神々が休息する銭湯で働くことになった少女の話である。もちろん、神様相手なので、労基法違反にはならない(ことはなかったりして)。
  宮崎作品は、個人的には面白いが嫌いなものが多かった。見ているときは結構、ハラハラドキドキをしてしまうのだが、よくよく考えると荒唐無稽なところがあって、何でやねんと思い返してしまうところが多い。
  しかし、この作品は、舞台は、荒唐無稽な神様の国のお風呂屋なんだけど、主人公はどこにでもいる少女という、非常に現実的な点がこれまでの作品とは圧倒的に違うのである。だから、鑑賞者は、ひ弱で臆病だけど、子供らしい素直さとまっすぐさを持つ普通の少女の視点に合わせて見ることができるのである。この点において、性格的に潔癖すぎて、体力的に人間ばなれした人の多い他の宮崎作品の特徴を持つ主人公とは決定的に違うのである。なにせ彼らは同化しにくい。
  また、千尋の活躍によって、普通の世界に戻ったラストも、あれだけ冒険をしたはずの主人公が、運命的な宿命を背負うことなく、もとの普通の少女に戻っていくのも秀逸である。そこに、成長とかレベルアップとかの人生の転機のようなものはない。鑑賞者にもエンターテインメントの世界を抜け出させていることも表しているように思える。
  よって、ハッピーエンドを向かえ鑑賞後に、ほっとしたような余韻を残させる。まさに名作である。

2003年08月24日
ブラックジャックによろしく 佐藤秀峰 <講談社>
 見てのとおり、若手医者を主人公にした漫画である。医学漫画は本作が発表されるまでに数多く出版されているが、本作初読の衝撃は言いようがないほど凄まじかったことは述べておきたい。
  本書は、一流大学の医学部を卒業した主人公が、研修医としての活動を通して、医者としての存在意義を自問しながら、日本の医療の矛盾に立ち向かっていく話である。当然、日本医療の病巣は深く、若い主人公ではどうにもならないため、結局は挫折し、苦悩し続けることになるのだが、それでも彼は前進をやめない。その姿は、単に医者の問題ではなく、職業意識を自らの内面に育て、形成しつつある現代の働く若者たちに通じている。その若者たちも、日本医療と同じように、現代の変化について来れていない旧態依然の日本社会と、内面で戦っているのだ。それが、本書が人気を博した要素のひとつといえる。
  実のところ、本書を読んで思ったのが、主人公の医師、斉藤英二郎がとても醜く見えたのである。誤解してほしくはないのだが、それは決して悪い意味ではない。それは、医療の現実の矛盾や不正議さが彼の心を襲い、それが怒りや苦悩として彼の顔の表情に出てくる、その無垢なるものが失われた、傷だらけの形相なのだ。それは、あせりと怒りと苦悩が、ゆがみとして色濃く出てくる顔である。そのゆがみが醜く思えるのだ。
  仕事とは、決して綺麗なものではない。地を這うような泥臭さを放ちつつ、それでも必死に成し遂げようとする、その際に噴出される情熱の暑苦しさが常に同居している。もちろん、見ていて、気持ちの良いものばかりではない。本書で、主人公が最初に顔だすシーンでは、アイドルさながらの、まさしく主人公であるべきイメージそのままである。それがアイドルの笑顔からかけ離れ、大人の顔へと変化していく過程は、誰しもにも通ずるリアリティさを出している。そんな顔になっていく現実、地面を這いずり回るような現実を受け入れることを、読者とくに斉藤と同じように社会に出たばかりの方々は容認しなければならない。それは医療の問題のみならず、あらゆる仕事の裏表を受け入れていく土壌につながるからである。

2003年08月24日
ホイッスル! 樋口大輔 <集英社>
 見て分かるとおり、中学サッカー部の正統スポーツ漫画ではあるが、しかし、単なるサッカー漫画と片付けてはいけない。ストーリーを述べると、サッカーの名門校、武蔵森学園では身長の低さゆえに3軍(補欠)のため、一度もサッカーの練習をさせてもらえなかった主人公、風祭将は、レギュラーになりたくて、勘当覚悟で市立桜上水中に転入する。しかし、桜上水中でも自己の技量が足りず、メンバーの不信を買ってしまうが、持ち前のガッツと並々ならぬ努力の末、桜上水中の中心メンバーの水野竜也に注目され、やがてメンバーの信頼を取り戻していく。そして新チームの結成とコーチの登場により桜上水中は強くなっていく。
  ここまでをみれば、よくあるパターンのスポーツ漫画である。スーパーヒーローが登場しないというストーリーをみれば、その元祖、ちばあきおの「キャプテン」を彷彿させる。しかも同系統としても数多くの漫画が思い浮かぶだろう。しかし、「ホイッスル!」は厳密にいえば、サッカー漫画ではない。真のテーマは、サッカーを通してひたむきに成長をする少年の物語なのである。極論をいえば、しっかりと人物像が描けているため、別にサッカーでなくても、野球でも、ボクシングでも、バスケットでも構わないぐらい、”人物”に着眼した作品である。主人公たちがどのように心も身体も成長するのかという一点のみを、試合のみならず、どんな場面であっても、作者は全く変えていない。その点においては、登場人物がすべて同じような人物に見えてしまう、今日のサッカー漫画の礎の某作品とは全く異なるのである。
  現に、上記のストーリーから察すれば、桜上水中は武蔵森を倒し、全国制覇となっていくところを想像するが、実際は、第21巻まででは、桜上水中は一度も武蔵森を倒せず、全国すら行ったことがなく、しかも、ちょっと強くなった平凡なチームとして終わってしまい、11巻ぐらいから主人公たちは一部のメンバーと一緒に、将来のJリーガーを育成する東京選抜に進んでしまい、桜上水中は舞台からは完全にいなくなってしまうのである。ストーリーが、あっさりと次のステップに進んでしまった感があるのが、ホイッスル!なのである。しかし、忘れていけないのは、これは成長の物語であり、そのプロセスがたまたまサッカーだったにすぎず、あくまで風祭将を中心にストーリーが展開していることである。だから、いつまでも風祭将の自分の道をひたむきにすすめる姿に、読者は共感しやすいのである。
  単行本では作者の苦悩が見え隠れするが、いつまでも等身大のまま、主人公のひたむきな成長を期待したい作品である。元気のない日本にとっては、心地よい元気回復漫画といっていい作品である。

2003年08月24日
ふしぎトーボくん 七三太郎・ちばあきお <集英社文庫>
 ちばあきおと言えば、野球漫画の金字塔である「キャプテン」「プレイボール」で有名だが、それ以外の作品はあまり知られていないものが多い。しかし、質にこだわる作風は決して有名作に引けをとらず、昭和59年に没し、それから幾年を過ぎたとしても、現代にでも耐えうる作品である。
  なかでも、ふしぎトーボくんは、ちばあきおらしさと、メルヘン風の中に隠された生の圧倒的な力強さへの共感を見事に描きこまれた作品である。
  トーボこと田中としおは、動物と会話のできる少年であるが、内向的な性格が強く、同世代の子供と同じように、人間関係やコミュニケーションをとることができない。学校や同級性の前では何もできないトーボが、動物の前ではさまざまな問題を解決するという落差の中で、彼なり一生懸命に生きることに努力する姿に、きっと読者は思わず引き込まれるはずである。
  残念ながら、ラストは人間の複雑さから、トーボは実社会から逃れ、遠くの施設へと戻ってしまう。ちばあきおがこの世にいない以上、不幸な結末のままで完結している作品であるが、その後のトーボが再び実社会に戻り、不器用ながら力強く生きている姿を想像していやまない。

2003年08月24日
なつのロケット あさりよしとお <白泉社>
 異色の作品である。ストーリーは平凡で、小学生が夏休みにロケットをつくるというお話しでもあり、読み出すとすぐに終わってしまうマンガである。しかし、感性の敏感な人は思わず涙ぐんでしまうかもしれない作品である。
  絵柄がやさしく描いているために、つい油断して読んでしまうのだが、いつか忘れてしまったことへのノスタルジック性と、生きていくことへの真摯さを同居させ、少年が大人になるための壁と、そして大人になることの意味をするどく描いているのだ。
  たとえば、この作品には、なぜ少年たちがロケットを作ろうとするのかはきちんと描かれていない。ラストになればなんとなく頭に浮かんでくるのだけど、それは人によって多種多様な趣きを見せるため、やっぱりはっきりしない。ただ、頑張って作ったのだから、僕のことを褒めてくださいというヌルイ理由でないことは確かである。
  ここに出てくる少年たちの一言ひとことは、そのまま大人社会の問題へとつながっているように思われる。子供向けとして単にうけ流してしまわれないほどのメッセージ性の強い作品である。

2003年08月24日
今、そこにいる僕  大地丙太郎監督 <WOWOW>

 WOWOWで1999年に放映された作品で、全13話。ストーリーは少年シュウが不思議な少女ララ・ルゥと出会ったことから始まり、やがて未来世界に飛ばされて、想像を絶する過酷な極限を体験することになる。
 第1話ではNHKで放映された未来少年コナンのような正統派冒険物語を彷彿させるのだが、第2話から最終話までは視聴者によっては拒絶してしまう展開を見せる。拷問、私刑、強姦、戦争、暗殺、略奪、虐殺。今までのアニメがタブーしてきたことを大胆に見せた作品なのだ。最終回では他でもお決まりのように、悪の支配者が滅ぶ形になっているのだが、これが決してハッピーエンドではないところが、心の奥底まで響く余韻も残してくれる(この点では未来少年コナンや天空の城ラピュタとは異なる)。そして、現代から異世界に来てしまったのは、シュウだけでなく、サラという少女もいるのだが、この二人の結末が全く異なる点で表現されている。結局、異世界では異端のまま、現代に戻ったシュウと、異世界の現実を自ら受けとめ、その世界で生きていこうと決意したサラ。この二人の姿から、視聴者は自分が今、どこにいて、その場所が本当に自分がいるべき場所なのかをふと思い起こすことだろう。
 また、この作品のサントラに「STANDING IN THE SUNSET GLOW」の第1楽章「NOW AND THEN」という曲がある。各話で感動を与えるシーンには必ず流れている曲であるが、本当に泣ける名曲なのだ。特にこの曲が流れるお勧めのシーンは、第11話「崩壊前夜」の強姦されて妊娠したサラの入水自殺を主人公シュウが止めるシーンである。「こんな思いするくらいだったなら、生まれてなんてこなければ良かった」と叫ぶサラ。「死んだら何もかも終わりなんだ。お腹の子供なんて、始まる前から終わっちゃうんだ」とシュウ。そしてシュウはサラを抱きしめながら「死ぬな!死ぬな!」と繰り返し絶叫する。ある種、男性心理が強く出ているため、女性からは不評かもしれないシーンであるが、この曲がしっとりと流れているため、思わず何かを感じずにはいられない。
 20世紀末に登場し、注目されないまま放映された作品である。地域で紛争が起き、そこで多くの人が不運に巻き込まれている限り、現実を生き抜く力として、この作品はもう少し注目されてもいいと思うのである。

2003年08月24日
三河物語 安彦良和 <中公文庫>
 安彦良和氏といえば、機動戦士ガンダムのキャラクターデザインで有名なアニメーターだが、現在は漫画家での活躍が目だつ。漫画としても良品が多い氏であるが、その中でも異色の作品がこの三河物語である。
  主人公の農民の息子である太助が武士になりたいために、故郷を離れ江戸にやってくる。浪人の身から旗本・大久保彦左衛門に仕えるのだが、徳川幕府に統一された武士の世界で、太助は自分の描いた武士の姿と現実との違いに悩み始める。
  太助と大久保彦左衛門を現代に置き換えると、現実とのギャップに悩む新入社員と、高度経済成長を支えてきたのにリストラの憂き目にあっている中高年社員に当てはまるだろう。それだけに、自信を失った彦左衛門を自分の道を見出した太助が支えていこうとするラストシーンは、テレビの三流ドラマにはない余韻を残してくれる。
  仕事に追われ、我を失ってしまっているサラリーマンには、漫画とはいえ、清涼剤にふさわしい作品である。