稼ぐが勝ち ゼロから100億、ボクのやり方 堀江貴文 <光文社文庫> |
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ホリエモン世代という言葉があるらしい。俗に第2次ベビーブーマーの世代のことを指しているが、この世代は旧社会のシステムを破壊することに対し、何のためらいもなく、むしろ積極的に行っていく世代ではないかと思うのである。例えば、この世代の代表格であるSMAPは既存のアイドルの枠を壊して芸能界に席巻し、プロ野球界においてもイチローや松井は、野茂という先駆者がいるとはいえ、日本のプロ野球を飛び出し、アメリカのメジャーに挑戦している。そもそも、この世代以下の面々はバブル時代を経験しておらず、単に過去の栄光にすがることなく無縁でいられるからかもしれない。
実のところ、本書は見方を変えれば単なる挑発本に終わってしまうところがある。旧社会システムを作り上げてそこに安住している「旧態依然のオヤジ世代」に対する批判、もしくは脅し、または侮蔑みたいなものが、本書全体にちりばめられていて、それが妙にバブルを体験できなかった嫉妬、恨みあるいは、開き直りにも感じられ、同世代からみても、素直に読めないところはある。
しかし、作者の指摘するところには、少なからず心を揺る動かされるものがあり、このまま旧社会システムの中で終わってしまうことの無為さを頭によぎらせる。とくにお金に対する考え方、シンプルにものを考えることの視点については、実にユニークで、世の中を渡り歩く上で勇気づけられるものがある。いっそうのこと、作者と同じく、旧社会システムを破壊することに躍起になるのも面白いと思ったりするのである。
ルールが変わり、経験も決してプラスにはならない現代だから、過去の成功者の名言よりも、憎まれつつも現代で成功する者の言葉の方が心に響く。その代表でもある本書は、何か一歩を踏み出したくても踏み出せない人に、時間が流れてチャンスを失うまでに、読んでもらいたい一冊である。 |
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渋谷ではたらく社長の告白 藤田晋 <アメーバブックス> |
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24歳で起業し、26歳で史上最年少で上場を果たした「サイバーエージェント」社長・藤田晋氏のこれまでの足跡を綴った本である。創業者自身の手による本となると、どうも単なる企業宣伝や自己の経営哲学を披露したいがためという印象を持ってしまうのだが、本書は決してそうした目的で書かれたものではない。むしろ、これから起業をめざす人たちに向けた「起業という自らの夢とリスクを計るための羅針盤」として、「藤田氏ができることのすべて」を記した回顧録と言える。
本書は藤田氏が生まれ育った福井から上京し、東京で学生生活から、ベンチャーの世界に入り込み、起業、そしてバブル崩壊の危機を乗り越えるまでを綴った「一種のサクセス・ストーリー」である。しかし、その出発は決して周到に用意された計画ではなく、若さゆえの思いっきりからの起業から始まり、そして上場後に訪れたバブル崩壊による経営危機への苦悶など、まるで小説の世界のような展開を見せている。まさに、あのネットバブル時代だったからこそ誕生したストーリーといえる。ただ個人的には、歴史の転換期、インターネットビジネスの草創期の、若者の熱気に沸いた雰囲気に共感してしまうのだが。
だからといって特別なことではなく、藤田氏の抱いている意思と苦悩は、どんな起業であっても共通するもので、起業者が背負うべき条件であり、試練である。だから、本書の話をネットバブルという一元的な見方を通り越して、自分自身の中に持っている起業への何かを計るための指針であると言えるのである。その理由として、本書は経営者の思いを赤裸々に記していることだけでなく、まさに20代の、30代前半の若者自身の視点で「経営とは何か」を学び感じ取っていく過程が書かれ、自身の起業のプロセスと合わせながら、現実の自分自身のスタンスと比較できるからである。
そういうこともあって、本書は「起業・経営のエッセンス」を身近で親しみやすい視点で綴っている。だから、読んでいても、それがストレートに伝わってくる。おまけに、変に肩肘張ったものではないから、非常に読みやすく、一日あれば読破できる。でも、読了後のカルタシスは逆に長い期間にわたって読者の心に残ることは間違いない。 |
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仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在 玄田有史 <中公文庫> |
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本書の初版が発刊された時から少し前までは、日本の雇用問題が報道されると、ほとんどの記事が中高年のリストラ失業を取り上げていた。けれど、2005年現在で注目している雇用のテーマは、10代、20代、30代前半の若年者失業で、とくに就業や勉強に興味を示さないニート問題の深刻さである。今でこそ誰しもにも興味の高いテーマとなっているが、著者は本書を通じて、まだ表面化していない段階で、そうした問題を何より先に指摘し、さまざまなデータを取り上げて若年者雇用の問題を提起していたのである。
そもそも数年前までは、若年者失業は中高年と異なり自発的なものが多いゆえに、本人の自業自得さから問題視されなかった。しかし、そうした自業自得という意見には、個人レベルで済ませておくわけにはいかない問題が見えていなかった。それは2007年問題という労働力不足ということのみならず、若年者失業の裏にあった、政策的に、もしくは制度的に中高年の雇用を保護するという障壁という問題である。その障壁が若年者に向けて作り上げてしまったことで、彼らが就業の機会を失い、または仕事のやりがいもつかめずに、離職や失業を決断させてしまうという事態を引き起こしていたのである。しかも、若年者が無事に就業することができたとしても、既に雇用している者を守らざるをえない会社には不況で余裕もなくなっており、結果、社会に出た若年者への教育訓練も制限されてしまうことで彼らの能力や経験も伸ばす機会も失わせているという問題ももたらしているのである。これこそ、中高年の雇用という既得権が若者から仕事を奪っているというものに他ならない。本書は、こうした問題をさまざまな統計データを用いながら、これまで良しとされた雇用政策や制度に対し大胆に問題点を指摘し、若年層の失業や雇用問題に楽観的すぎる風潮に反して、そこに大きなリスクがはらんでいることを警告していたのである。
データの内容としては、パラサイトシングルやフリーター、学歴、成果主義、仕事格差などを論じるにあたり、緻密なデータを用いつつも、読者に分かりやすく論を進めている。特に終章「十七歳に話をする」では、著者の若年者に対する暖かい眼差しを伺うことができる。ただ、残念ながら、本書の初版が2001年ということもあって、若干指摘している問題点とデータが古くなっているというところはある。でも、データという無機質なイメージを持たせるものから、働くということへの重みや意識の高まりを呼び起こさせ、いまでは若年対策への本格的な取り組みまで導いていたことにおいて、本書に対しては「秀逸」という言葉を使わざるを得ない。
※旧サイトで公開したもの(2003.8.24)を改訂。 |
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日本のカウンセリングは、アメリカの心理学者ロジャースの発案した来談者中心療法を基本としている。カウンセラーがクライアントに指示的な立場をとるのではなく、あくまでクライアントの自発的な選択・決定に任せていくという非指示的な立場を取ることで、カウンセリングを行なうという手法である。これにより、カウンセラーは相手の声に傾聴し、クライアントの感情を受容することで相手の気持ちに共感し、それによってクライアントの気持ちを楽にするというのだ。本書では、そのロジャース一辺倒の日本のカウセリング事情には批判的な立場を取って、その問題点を指摘し、癒しブームに乗って関心の高まるカウンセリングの行き過ぎに危惧している。
例えば、こんな問題があるという。ロジャースの考えの根底には、すべての人間には実現しようとする傾向があり、一定の環境に置かれれば、成長していく人間になるという人間の性善説なるものがある。つまり、人間の無限の成長可能性が前提にあって、だから、非指示的な立場をカウンセラーをとっても、やがてクライアント自身で解決できるということになるのである。
著者は、この考えに困ったことがあると指摘し、すなわち、クライアントの抱える問題を自発的に解決するには、その問題が”本人の中”にあるということが、何よりも先に前提となってしまっていて、しかも、その問題が解決されなかった場合には、”善たる”本人のせいではなく、彼の置かれている環境に原因があるということとなってしまい、結局、一方的な問題の決めつけがある故に、当のクライアントが何が何だか分からなくなってしまうのであるそうだ。当然、人の心は、内面性の高いものゆえに不明確であり、よって完璧なものではあるはずがない。本書は全面的に、そんな当たり前のことを忘れてしまっている日本のカウンセリング事情に真っ向から警告していうのだ。その他にも、本書ではブラウン管に現れる心理学者のコメンテーターや引きこもり、アダルトチルドレンと心理学的なものに群がる人々を考察しては、過剰なまでをみせる心理学の傾倒の余波に警鐘を示している姿勢を貫いている。
不景気のためか、溢れすぎるモノの世界に飽きてしまったのか、猫も杓子も心理学やカウンセリングのブームである。モノが溢れすぎてしまった現代では、人間の満足はそれだけでは飽き足らず、精神の領域にまで触手を伸ばしてきたのかもしれない。しかし、人の心に関する問題は、誰しも興味をもってしまうだけに、人を傷つける武器にもなりうる。本来、心理学とはあくまで学問であって、それなりの知識や理解を求められるものなのだ。よって、安易に人の心に関わるのは、ひょっしたら危険な行為になのかもしれない。本書はそんなことを読者に考えさせてくれるきっかけをもたらしている。
※旧サイトで公開したもの(2003.10.12)を改訂。 |
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1995年という時代。この年は阪神大震災やサリン事件で戦後の日本の歴史で有名な年となり、また大和銀行NY支店事件から始まる金融不安の始まりの年でもある。アメリカ人における『2001.9.11』が価値観の変容をもたらしたことと同様に、1995年は日本人にとっては過去と将来が分断されたターニングポントの年だったと思われる。しかし、時間の流れは世に生きる者すべてに平等に、1995年という出来事を忘れさせているように感じる。
本書は奇しくも、将来の日本の不安を予言するかのように、1995年に出版されている。リアルタイムで読んだはずなのだが、悲しいことかな、私も本書を読んだという記憶がすっかり抜け落ちている。しかし、妙に感覚的ではあるが、触発されて現在の指標に影響を与えられたことだけ覚えているのだ。
著者は、教養というテーマに基づき、さまざまな論壇で活躍し、90年代の不況世代の若者たちに対するカリスマ的思想家であった。本書は、その著者が宗教や思想について論じた本である。ただ、既に出版から時を経ているので、ここで紹介するにはちょっと古い気がしてしまうのは否めない。
けれど、今でも妙に納得させられるテーマも収められていて、ここでは本書で納められた評論をひとつ紹介する。それは「賃金奴隷がお似合いな君たちへ」という評論である。いわゆる無自覚に高校を出て、大学に入り、4年間過ごして会社に入る若者を批判した文章である。今でこそ、ある種の就職の既成概念が薄れ、どんどん枠を飛び出す学生が増えているけど、出版当時に学生に近い立場にいた者にとっては結構、衝撃的であった。しかし、本質的なところを考えれば、指摘されていたことが現実に目に見える形で出てきていることには驚きである。上記の評論では、資格や学歴ではなく、リアルという言葉で表現される客観的能力(他人が欲しがる能力)をいかに身につけるかどうかを結論としている。現在では、似たような言葉が焼き直しされた粗製濫造の本が流布されすぎたため、ただありきたりな言葉となってしまったが、これもまた、時の流れがあまりにも早すぎる時代の刹那さなのだろうか。
※旧サイトで公開したものを改訂。 |
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ハッピー社員 仕事の世界の幸福論 金井壽宏 <プレジデント社> |
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会社の中で生きていくには、「働くこと」はなくてはならないもの。いい生活を送り、子供をいい学校に行かせるためにも、働くことは避けて通れない。働く環境がどうだろうと、気持ちがすすまないものだろうと、働くことには嫌顔でも立ち向かっていかねばならないのだ。しかし、働くとは、そんな「我慢」と「犠牲」を受け入れて無理を通すほどの苦痛に満ちたものだろうか。答えは否である。だからといって、そんな苦痛に開放されるためには、会社を辞めて独立という道筋しかないと言ってしまうのではなく、組織で働くことも決して悪いことばかりではないと受け入れることも大切である。要は、頭の中に出来上がったしまった「働くこと」の固定観念をいかに打ち砕けるかにかかっているかによるのだが。
本書は、経営学者である著者がビジネス誌「プレジデント」に掲載した評論を一冊にまとめたものである。著者は組織論や組織内のモチベーションについての研究では日本のトップクラス学者であるのだが、本書に収録されている評論そのものは、これまでの著者の出版物に比べて、非常にわかりやすく書いているから、組織論が慣れていない人でも読みやすい。また著名人との組織論についての対談は、その道の達人ならではの視点が興味を抱かせてくれるところもきっと面白いと感じてくれるだろう。
テーマとしては「出世」「リーダーシップ」「上司と部下」「中年サラリーマン」など身近なものを題材にしているのだが、なかでも最も面白いのは『「踊る」組織の幸福論』をテーマにした対談である。言葉から分かるように、映画「踊る大捜査線2」をケーススタディにした組織論の話なのである。対談の相手はフジテレビの亀山千広氏であるので映画の裏話も知ることができるのだが、なにより映画に込めた組織の活性化の思いは読者の気持ちを熱くさせてくれる。踊る大捜査線で語られるモチベーションの数々は、職場でも使えるようなネタばかりである。まさに、この対談をじっくりと読みたいことだけをもって、本書を購入する価値があるといっていい。
実際、これからの組織人事は、制度やルールという外的で目視的なものによって運営されるのではなく、気持ちやスタンスというような内的で精神的なものが重要になってくるだろう。しかし、だからといって、その内的なことの根拠として単に経験やカンやセンスといった独断的なものを用いるのは絶対に駄目なことであって、やはり学術的であり、理論的であることが大切だ。その方が万人に納得が得られるからである。当然に学術的であるから、取っ付きにくいところはあるだろうけど、それを解消する最初の一手として、本書を読んでもらうことは決して無駄な遠回りでないということは断言できる。 |
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ロジカル・プレゼンテーション 高田貴久 <英知出版> |
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個人的な意見ではあるが、「知識」と「知恵」は全くの別物と思っている。「知識」とは有形であるから所有するには限度というものがあり、「知恵」は無形であるため、訓練次第では血肉に刷り込むことができると思っている。よって「知識」が「知恵」にとって変わることなどは無理な解釈だと思っているし、世の中を見渡せば、知識がなくとも知恵で成功を遂げている人が多い。仮に、知識で成功しているというケースが主流となるなら、世の中のリーダーは人智を超えた神しかできなくなる。「知識」は所詮「知識」でしかない。
しかし、世の中のリーダーは知恵を持って成功に導くとしても、世に出回る知識を無視してまで成功を達成することはできない。知恵を活用していくには、やはり知識は必要なのだ。そして、世のリーダーは、その知識に精通した周囲の人間から手に入れることができる。その点において、「知識」情報提供者には、その情報を処理する力と巧みな伝達力が必要とされ、結果として、リーダーの功績にはそうした人間の成果も含まれているのである。
本書は、何も知らないリーダーに情報を理解しやすく提供し、かつ自分の考え伝えるための情報伝達の極意が記されている。最近は論理的思考がビジネス書が多く出版されて、ひとつのブームになっているが、本書はそうした類似書に一線を画しているのは、ビジネスの現場での実例を用いながら、情報伝達の術を再現していることにある。本来、コミュニケーションを高める本は、その内容の目的に反して非常に理解しづらいものも多聞に見受けられるが、本書は自分の考えをストレートに、しかも、あまりにも日常会話的に伝えているので、それが返って、わかりやすく、面白みのあるものに仕上がっている。
是非、会議資料を作成したり、プレゼンを行う立場に立つならば、読んでみる価値はある。本書で指摘されているダメな症状に該当することも思い出され、赤面することもあろうが、それでも謙虚に受け入れてみてはどうか。もし、本書の内容を厳粛に受け止め、明日から実行していくならば、この本で得たことは知識にはなり得ず、いつまでも持続しつづける知恵へと変わることは必至である。 |
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スローキャリア 上昇志向が強くない人のための生き方論 高橋俊介 <PHP研究所> |
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2001年GWのころに、本書の著者である高橋俊介氏の講演を聴きに行ったことがある。講演内容はキャリア論であって、世の中の変化があまりにも速く進むために、自分の将来像が短期間のうちに崩れてしまい、それまで築き上げてきたキャリアも役に立たなってしまう時代に我々は仕事をしているというものであった。話し口調が穏やかなのに説得力があり、2時間を退屈せず、逆に体の芯から熱くなったことを覚えている。人生のほとんどは、働くことによって占められ、その結果、働き方が優れていれば勝ち組となり、そうでなければ負け組となるという風潮の元で、勝ち組が少人数しか出現しないことを前提としている上昇志向の過剰なお仕着せに、著者がもうひとつの観点として「スローキャリア」という概念を提示したのが本書である。
本書は、「キャリアにはアップもダウンもありはしない」ということを前提に、自分は働きながらいかにして自律的なキャリアを積んでいくには、どのようなことを心がければよいかということについて記されている。何より、自己は追い詰めてしまいがちなキャリアアップ一辺倒な発想をお持ちの方には、相容れない考え方なのかもしれないが、そういう人たちには、本書は打ってつけの処方箋である。
自分の仕事を考える上で、人は必ずといっていいほど、他人を尺度として考える。これは、自己を判断するには、他人を媒介にしなければ、客観的で具体的に自己を捉えることができないとされている一方で、その裏には、やはり他人との序列意識が入っているところはないだろうか。あくまで、自分自身の問題であるのに、その価値の置き所は、あくまで他人なのである。頭では分かっているのだが、どうしても抜け出せないことが本音のところだが、それもまた、他人の優位劣位の決め方に、年収や地位などの一面的な価値観で判断しているところもまた否めないものである。そうした見方を一面的な価値観であるという指摘する以上、そうでない面もあるわけで、そのいくつかの事例は本書で、例をもって非常に分かりやすく紹介されている。何も、年収や地位だけが指標ではなく、プロとしての気構え、会社との距離と起業、そして何より自分の働いていることに幸せを感じているかどうかもまた指標となりうる。本書は、そうしたさまざまなキャリアの切り口を提示してくれるのである。
現代は、芳醇な時代である。ただ、さまざまな多様性が良くも悪くも混在する中で、人はどうしても後戻りできない選択肢を選ばなければならない。それは、働き方もまた然りといえる。けれども、その選択を決めていくには、人生は、さして時間の短すぎるものではないはずである。そもそも日本人があまりにも不安がりすぎるのがいけないことが最初にあって、自分の未来像を世の中の様々な多様性と照らし合わせながら、意の反しない程度に仕事に従事し、変に切羽つまらず、まずは楽天的にやっていくことに、何が起こるか分からない時代の乗り切り方を見出せるだけのことなのかもしれないのだが。 |
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誤解を恐れず言うならば、日垣隆氏はいつも正しい。それは、単に当人の主張が正しいということを言っているのではなく、主張や批判をするからには、常に自論や代替案も一緒に提案するという姿勢を貫いているということが正しいと言いたいのである。若輩の身が偉そうに言うべきことでもないのだが、本当に日本を代表するといって良いルポライターなのだ。おまけに個人的には、半分ぐらいミーハーが入っていて、たまにブラウン管に映し出されると、なんだか嬉しくなってしまうことがあるのだが、それは本筋とは関係のないことではあったりする。
本作は、過去数年にわたって書き溜められた時評の数々を一冊にまとめた評論集である。さまざまな年の事件や事柄に対して取り扱っているが、共通するのは、世の時代の変化に左右されることなく、真っ向から根拠ある提言を発している著者の姿勢があり、その精神力の強さには、真に尊敬の念を抱かざるをえない。どれも短くとも重みのある時評ばかりで、読み応えは抜群である。
著者の書くエッセイには、自分の意見を見つめなおすには最適ではないかと個人的には思っている。もっとも自分が単に時流に流されているだけで、無自覚に危険な考えを持っていないかどうかを図るには、結局のところ、何かを引き合いにしなければ、とても個人ひとりでは出来ないことである。だから、その題材としては、本書は、その骨太さも相まって、まさに打ってつけと言える評論集である。
しかしながら、本書での指摘があまりにも的確すぎるために、いささか読んでいくと、世の中に幻滅してしまうこともある。日常茶飯事におこる国や企業の不祥事も、結局のところ、無思慮な権力者の手によって引き起こされていることを、本書の通り、徹底的に指摘されれば、誰しもそんな嫌気を持ちかねないのも当たり前だと思う。しかし、結局のところ、本書のタイトルにつけられている「つける薬」の真の意味を考えれば、評論における指摘は、日本そのものが抱え込んでいる矛盾に対する解決策を提示するのではなく、むしろ、そんな国であっても、前向きに一生懸命に生きていかねばならない人のための、路頭に迷わせない「人生の歩き方」の処方箋ではないかと感じるのである。 |
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上司は思いつきでものを言う 橋本治 <集英社新書> |
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仕事で悩むとすれば、大方の場合は、上司との人間関係が原因の中心を占めている。この問題は根深いもので、解決するには、これまでの生き方や働き方を変えなければならないのか、または自分の周囲に変化を起きる時までじっと我慢するしか方法はなさそうである。これの打破には、どんなカウセリングを用いても不可能だろう。しかし、本書を一読すれば、こうした根底が覆させられるぐらいの衝撃をもって、この難問を解決させてくれる。しかも、その効用は「なんてことのない」という固定観念の破壊によってもたらされる。
本書はタイトル通り、なぜ上司は思いつきでものを言うのかという問いかけを、日本文化論や儒教、歴史などに視点を置いて、回答していこうとする、一風変わったビジネス書である。ビジネス書というよりもむしろ、ひとつの日本人論として見た方がいいかもしれない。会社の中で起る軋轢も、要は上司は上司であるがゆえに、また部下は部下であるがゆえに起った必然の悲劇なのであると言う。なんだか哲学っぽい内容でもあるのだが、その根拠を紐解く過程が、理路整然としているから、読んでいても、押し付けがましくなくて、すんなりと納得させてくれる。
本書の内容を少し紹介してみると、「上司の論点は『我々は悪くない』を主眼にする」「上司とは、ただの立場である」「現場は上司の故郷であり、上司は故郷には帰れない」などなど優れた名言が多い。この3つの言葉を読んだとしても、自分の置かれている環境と照らし合わせてみれば、この短文を読んだだけでも、思い当たる節があるのではなかろうか。
しかし、こうした鋭い指摘よりも、本書の秀逸さは、やはり歴史という事実に基づいて論じていることに他ならない。なかでも儒教が日本でどのように受け入れらたかという論点は面白く読める。とくに、日本という国が儒教を取り入れる中で、最終的には「立場絶対主義」という思想を残したところにあるという点は思わず頷いてしまった。政治思想に長けた作者の面目躍如と言ったところだろうか。日本の会社の閉塞感が、こうした前提によって組織されるとするならば、上司は上司というだけで、自分も意識もしない重みを抱え込んでしまっているかもしれない。それを払拭するために、その人の徳という結論を持ってくるならば、運とか頭の良し悪しではなく、人間としての器量と資質が問われる、本当の意味での能力主義の時代が日本に到来することを願ってやまない。 |
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2003年に売れに売れまくった話題の本である。あまりにも人を食ったタイトルに思わず買ってしまった人は少なくはないと思う。ごく簡単に本書の内容に触れるとすると、人間誰しも「色眼鏡」で物を見ているということを言っている。そして、そのようなことをそんなように思っていること自体そのもの(くどい)も、やはり「色眼鏡」で見た結果とも言えるような気もしたりする。
実際、本書の特徴的なのは、人間の学問、つまり哲学の問題を、解剖学を専門とした医学博士であり、脳の構造について研究してきた人物によって書かれたところにある。本書はつまり、人間のもたらす、さまざまな思考、すなわち信念も悩みも思い込みも、生物の器官である脳によって作られたものであるということから、論を発しているのである。しかも、脳を単に計算機のひとつだと断定してしまっているから、さらに提示する問題は深刻であって、いま心に思っていることなどは、目の前に置いてある計算機ではじき出された数字とイコールといっているに等しいものであるということになる。こうなれば、幾千年も費やし、思考されてきた哲学者たちの営みも、多くの血が流されてきた宗教戦争も、このように言い切られては、あっけらかんとして元も子もなくなる。
こうした問題に対して、著者は「身体」の復権や共同体の問題も提言しているが、本書の構成が、いろんな著者の言葉を単に編集しているだけなので、ときおり、論の流れがあっちこっちに飛んでいるような気がして、いまいち掴み取れないところはある。最終的なまとめとしては、一元論、つまりは一方的なものの見方では駄目だと言っているのだが、脳という題材を使って、新しい哲学を切り開いているわりには、結論がありきたりなような気がして、もったいないような感じがしてならない。
この本書が発売される6年前に「パラサイト・イブ」で有名になった瀬名秀明が描いたSF小説に「ブレイン・ヴァレー」という作品が世に出た。実際、この本は読んだことがないのだが、話の結末は、UFOも、臨死体験も、超能力も、宗教も、結局全ては脳が作り出す幻覚のようなものだというのであるということをオチとして使っているらしい。結構、分厚い上に、科学的な薀蓄がめいっぱい書かれた小説の割には、とんでもない終わり方でもある。いかんせん、この小説のことを知っているから、本書がなんで今頃そんなことを言っているのという気がするのだが。どうせ、教育とか、個性とか、世の中のきれいなところを徹底的に批判したいのであるならば、この小説ぐらいまで、ぶっとんだ主張をしてくれたら良かったのにと思ったりするのだが、いかがだろうか。 |
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サラリーマン必読の書。会社の考え方が変わる変わる、それは目から鱗が落ちるというたとえを身をもって知る劇的な出会いをもたらしてくれる。このことから、大げさなことを言うようだが、本書は、ビジネス書というよりも、ひとつの哲学書の様態を持ち合わせているのかもしれない。
本書は、会社というものを真っ向から切り込み、洞察したことで、「法人とは何か」「資本主義とは何か」「ポスト産業社会とは何か」そして「会社で働くことは何か」に対する著者なりの答えをまとめた評論である。単に経験談とか、著者の思い込みとかではなく、さまざまな知識やデータ、学問を余すところなく使い込んで、まっすぐなまでに練り上げられた正統派の評論として、他の追随を許さない専門書の風格を放っている。それでいて、語りかけるような読みやすい文章表現に、堅苦しさは粉飾され、読者は著者の自論に知らず知らずに引きずり込まれていくことを実感するに違いない。
日本のおける会社の位置づけは、決して株主重視の米国と異なる。しかし、これからの時代はモノやカネにヒトがつく産業資本の時代ではなく、ヒトにカネやモノがつくという知的資本の時代。コア人材が株主や会社に愛想がつきて会社を飛び出してしまえば、会社の価値は下がり、株主は大損を招いてしまう。そしてコア人材を自己のパフォーマンスで新しい事業で成功を駆け上っていく。これは、知識資産の時代とも言える現代の象徴的な例のひとつであるが、あらためて考えれば、中学生でも分かる論理といえるはずである。本書には、このような形で、これまでの常識、新常識といわれてきたことへの逆点的発想、おこり得る将来のビジネスをめくるめく描き出す指摘がふんだんに取り入れられているので、ついこの上もなく心躍らされてしまう。特に、ITによって経営者と従業員の距離が縮まり、中間管理職の撤廃を招いたという例や、人的資産を束ねるための組織である会社の必要性の下りは、個人的に興味をそそられた。
もちろん、会社のこれからをテーマとしているから、真に正しい答えなどないのは、皆様方には承知のことと思う。しかし、著者の言うところの「これから」には、将来に向けて頑張ろうとする者には、大きなエールが込められていることに気づくはずである。読み出したら、アンダーラインで線を引きたくなるところばかりの良書。ビジネスマンのバイブルといっても、無論、過言ではない。 |
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社民党“崩壊記念”社会党に騙された! 野村旗守・編 <宝島社> |
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2003年11月の第43回総選挙で、社民党は3分の1の議席を失い、土井たか子党首は引責辞任した。この敗北の要因としては、社民党が北朝鮮拉致問題に対して選挙民に納得できる言葉をもてなかったからとされているが、かつて最大野党として君臨していた日本社会党時代から村山政権まで、空理空論な無策ぶりに、人の良い国民にも本当に愛想をつかされたというのが真の要因と言えるだろう。現に、今回の敗北にしても社民党に投票しなかった国民に責任転嫁を浴びせる体質に、問題の本質が分かっているのかどうかという疑わしさが感じられるのだから。
そんな中、旧社会党から現社民党にいたるまでを痛切に批判しまくった本書が刊行された。その強烈なタイトルはもちろんのこと、ここまでやるかという過激な批判ぶりには、政治関連の書物というよりも、変節なエンターテインメントの素振りが伺えて、娯楽本なのかと思ってしまう。
本書を読んだ感想としては、旧社会党・社民党そのものが、土井たか子学歴詐称疑惑、党内の北朝鮮支援の疑惑など、護憲や平和を訴える一方で、無策ぶりから伺える偽善と欺瞞の宝庫だったかのような書きっぷりで、誇張も見られる文章も相まって、まるで笑うに笑えない内容だったが、逆に社民党を振替って考えてみると、この党を真面目に政治として語るにはおこがましく思えて、だから、本書のような内容で、空虚な娯楽として捉えた方が精神的に気楽なのかもしれない。
私見であるが、実際、宝島社の取材だから、どこまでが真実なのかは分からないということはあるので、それだけに、どこまで信用していいのか疑われる可能性が本書にはあると思う。また、本書は、かなり過剰な表現が入っているから、社民党から訴えられるか、黙殺されるかして、同様に世の中からも相手にされないで消えてしまうこともあるだろう。しかし、一度は、徹底的に批判されたことで、本気で自らを“革新”しなければならないのが、社民党であろうし、そして、社民党が誠意もって、そうしようとしなければ、諸外国からは反省をしない国民性の強い国として見られてしまうのは、日本人としては悲しいものがあるので、本書がもたらそうとすることのそれなりの意義はあるのかもしれない。 |
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組織戦略というタイトルを掲げているが、中心になるのは人事戦略といって等しい。まさに組織とは人なりということを地でいっているのが本書の特徴である。堅苦しいタイトルとは裏腹に、本書で述べられている内容は、至って平易で、会社員なら誰しもが体感する組織の人間関係の歪みを思い浮かべることができる。
冒頭で読書を驚かせるテーマに、組織設計の基本は官僚制にあるというものがある。マスコミ上では悪名高い官僚制も、その本質においては、ルールを徹底して守り、繰り返し出現する業務についてはマニュアル管理をされており、これによってトップの意思決定を支えるしっかりした組織を指すという。このようにプログラム管理され、ヒエラルギーの体質を用いていくには官僚制のシステムは非常に効率が良いという。もちろん、問題もあることには間違いないが、まずは官僚制を前提にして、その改善と抱える問題の解決を目指す方がまだマシとするそうだ。
また、所属する組織になんら貢献をしないのに、他者の努力によって恩恵を受けている存在もいると作者は指摘する。これをフリーライダーと呼ぶそうだが、この言葉には思わず納得してしまう。組織には立ちの悪いことに、自分がコア人材だと信じて疑わない社員がやたらと多いのだが、そういう輩の中には、こうしたフリーライダーが少なからずいることだろう。
その他にもマズローの五段階欲求説に対する謝った解釈の指摘や、組織腐敗のメカニズムの解析など、人間を軸においた組織戦略について著者は次々と指摘している。これまで良しとしていた人事戦略も著者の手にかかれば、今まで見えていなかった問題や誤解も浮き彫りになっていくのが、読者にとって痛快である。ただブームの波にただ乗りしただけで、さまざま組織戦略を鵜呑みに提示する似非評論家とは逸した、ある種、実務的な組織戦略入門書である。 |
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僕はこうやって11回転職に成功した 山崎元 <文藝春秋> |
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本書は著者自身の未完の自叙伝である。だから、転職のノウハウも、会社人生で渡り合っていくコツなどを当てにして読んではいけない。雇用破壊や新しい働き方が望まれるようになった日本社会になる前に、既にそんな生き方を奇しくも実践したことになったサラリーマンの述懐なのである。
著者は東京大学経済学部卒業後、大手商社を皮切りに、サラリーマン生活20年の間で11回の転職を経験したあと、著者曰く「半フリー」になった状態で、さまざまな組織に勤務し、または講演、執筆活動をしているマルチ勤務を実現することになった人物である。その現在に至るまでの体験談を本書では記しているのだが、その学歴と経歴に似合わず、読者に親近感を与えるとともに、著者の仕事に対する熱意や誇りがひしひしと伝わってくる。転職経験者にとってはこれほど励まされる本はないだろうし、未経験者にとっては転職することが待つ負のイメージは大幅に払拭することになると思う。
全体として、さらっと事実とその時々の思いを記しているので、なにげなく読んでいくと、見落としてしまいがちな名言・格言も多い。幾多の経験を積んだ著者だから言える言葉には、ホンネの色彩が濃く、それでいて万人に通ずる説得力と実践力が込められている。例のひとつとして、人生自己責任時代を迎えるにあたって、転職を繰り返したことで割合早くから自分の人生について自分で考える癖がついたと述懐していることがあるのだが、この当たり前のようで、実は会社に依存していると緩くなってしまう癖の存在に、個人的には、我が意を得たりと思ったりすることがあった。そんな感じで、こんな“はっと”気づくところが多いのである。
ただ、ある種、専門性が強く求められた職種で、そして実力もある著者の半生を記したものだがら、はっきり言ってしまえば、大方の読者にとっては次元の違う別世界の話に捉えらることもあるだろう。もちろん、特別という言葉で置き換えてしまうのも、まんざら間違ったことでもないと思う。しかし、自分の枠組みと、そこから広げられる限界を照らし合わせて、自分の人生の自己責任の取り方を考えてみることは悪くないはずである。少なくとも、”特別な存在”である著者ですら、自ら動いたことで新たものを獲得できたのだがら、まして、これからを生き抜こうとする者が動かないでどうするというのだろうか。 |
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思い切ったタイトルにマスコミ話題となった本書であるが、ブックオフにて購入。内容は予想通りというか、わずか2日で読了。とくに目新しい記述というわけではないが、これまでタブーとされていた”首切り”を真っ正直に書き切ったということで、非常に意表をついている。ちなみに、個人的には共感するところも多い。
本書は、外資系バンクの日本支店の人事部長を務めた著者の首切り体験談と、その経験から現代の日本に雇用問題に対する提言を述べている。さすが外資系といったところだが、クールな印象はまるで受けず、真に会社と社員のことを考えた男の熱い思いが込められている。
日本では”クビ”や”解雇”と聞いただけで、感情的にネガティブに考えてしまう。そして、その考えに囚われて、思考が停止し、結局、クサイものには蓋をするということとなり、建設的な議論のテーマにはなりえなかった。本書は、専門家ではなく、サラリーマンに対してのメッセージであるから、誰もが気軽に読めて、そして、その問題について考えさせてくれる。変な言い方であるが、もう少し日本のサラリーマンは、”クビ”ということ、”解雇”ということ、そして”会社を去ること”について、前向きに向かい合ってほしいと思ったりする。
とはいうものの、本書はあくまで著者の考え方によるものだから、例えば、団塊世代に価値を認めないぐらい否定的な発言をしたり、日本的な態度は外国には通用しないという当たり前な発言を繰り返したり、やや極端なところも見受けられる。しかし、根の深い病気には劇薬が必要であって、本書の主張すべきところは、決して解雇推奨を謳っているのではなく、これまでの日本的雇用を認めたり、もっと自分自身の価値を意識し、考えを見直していこうという、これからを活きようとする日本人の肯定論のである。この主張も、あまりにも現在的なところであるけれど、決して無視されるべきことでないものと思われる。 |
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最近、何かと話題の「週末起業」。新聞はもとより、週刊誌、ビジネス雑誌でも、この言葉はよく見られるようになった。私も気になって、つい本書を買ってしまったのだが、なんとたった一日で読み上げてしまいました。読みやすいうえに、引き込まれることこの上もない。
世の中は低賃金時代で、給料は下がる、ボーナスはなくなる、おまけに事業縮小で仕事にやりがいを喪失するサラリーマンが増えている。暗さだけが残る人生ではつまらないと、会社を飛び出して、起業しようと考える人も多いはず。しかし、会社を抜けて起業することはそれだけリスクを背負い、不安定な中でさらに厳しい局面に立たされる。だったらと、本書では会社勤めを継続しながら、夜や休日を使って、自分の好きなことで起業をしてみてはどうかと提言している。
本書の掲げるテーマがブームになりつつあるのは、前述のとおりのご時世だから、リスクを背負って会社を辞めることはせずに起業をすることで、社外での収入補填ややり甲斐を見出そうとする人が増えているせいかもしれない。しかし、このことに対して、会社側はどうかというと、以前として副業を禁止するところが多いことだろう。しかし、会社が成果主義制度や終身雇用の撤廃、退職金の削減などを声高に叫んで、「従業員が期待できるもの」を与えることが難しくなるのではあれば、無論、勤務時間、割増賃金や守秘義務などの法律上の問題はあるけれど、副業を認めることを緩和してもいいのではなかろうか。そもそも、従業員に起業家精神や経営の視点を求めるなら、緩和どころか、尚更、奨励すらすべきではないかと極論であるが、思ったりもする。
本書はそんな状況を反映したのか、卑屈にならずに前向きで週末起業の面白さを語っている。読みながら、ちょっと楽天的すぎるところは見受けれる気もしないでもないが、難しいことを考えすぎて、前に歩み出せずに沈滞しているよりも、いちびって走り出す方が、この時代ではまともなのかもしれない。 |
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人間が作る以上、完全完璧なものはできないことは分かっているのに、どうしても万人が求めてしまうものがある。その一つに人事制度がある。自分自身の地位や賃金を左右するのではあらば尚更である。時間をかけて議論を交わし、綿密に作り上げたとしても、完成した時点で時代にそぐわなくなったりするのだが、それ以上に、結局のところで個人単位での幸福まで踏み込める形にすらならないものが出来上がってしまうものである。
ならば、個人単位での幸福を追求するには、どうすれば良いのか。この答えのない命題に対して、本書はこのように語る、個人が自らの手で自分自身のキャリアを形成できるような組織作りを会社が行なうべきであると。
終身雇用の崩壊、年功序列の弊害、または非正規社員の増加と雇用の流動化。ビジネスマンの取り巻く環境は年々厳しさを増し、それと平行して将来の不安も増大する。明確な答えが失われてしまった現代に生きていること、その事実を受け止めて、自分なりの「自分らしい」答えを見つけ出さないといけないことは誰しも頭の中では当然に分かっているところだろう。
しかし、世の中の組織・人材システムは旧来のままに支配的で、個人の意向の多くを反映できないでいる。しかも、社員の雇用を維持することが社員の幸せにつながる時代ではなくなって、そもそも、その維持すら経営努力を上回る困難さを持っている。
本書は、そうした危機的な状態をいち早く脱却し、社員のキャリア自律を実現するためのさまざまな考えや視点、対策案を提供している。支配型の人材マネジメントを廃し、社員に日常的な業務の中で、自分自身の意思によって能力向上や経験を積み、自己充実感と自分らしいキャリアを得られるような取り組みの必要性を主張している。
確かに、本書の主張は、将来に対して明るく前向きなものと言えるのだが、どうも日本には馴染みにくいものが多いため、理想論的なところも感じられてしまうところはある。けれども、本書を契機に、自己のキャリア問題を身近なこととして受け止めて、これまでの自己とこれからの自分をを返りみることは決して悪いことではない。 |
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ジーンと感動する本に久々出会えた。名もなき者にスポットをあて、その挫折と再生を書き切った本書に手放して喜びたい。
本書は、将棋のプロをめざす奨励会で、無念にも退会した将棋の天才たちのその後を追いかけたノンフィクションである。決して将棋会では表舞台にでることのなかった者たちの痛切さもあわせて、将棋の世界の厳しさをストレートに書き出している。
奨励会でプロを目指せる期間は非常に短い。この会の門を潜る十代の若者は、青春のすべてを将棋に打ち込みながらも、夢を叶わなければ、何も手元に残らないまま、外の世界に退会させられる実力社会なのである。このことからも、退会者の挫折は、読者には到底量りしえないものだろう。
しかし、著者は手を緩めることなく、その挫折を記す。それはどうしようもない痛切さを読者に与えながらも、余すことなく奨励会での生き様を書き記す。それだけに改めて厳しい世界であることがわかるのだが、逆に将棋の夢を追いかける者たちの凄まじさも伝わってくる。
けれど、人生にはひとつの世界だけでは終わるものとは限らない。挫折して奨励会を去った者たちの中には、違う世界で自分を開花させ成功した者、また将棋界に戻ってプロとは異なる形で将棋の世界を支える者もいる。挫折の向こう側にも、成功できる世界があるということも実感させてくれることは、将棋の世界にはかかわらず、挑戦者に生きることに希望を持たせ、勇気づけさせてくれる。
そのことを後押ししてくれるものとして、厳しい内容が綴られる文章の中に、著者の将棋への思い、挑戦者と挫折者に対する優しい眼差しが込められているのである。 |
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フリーエージェント社会の到来 ダニエル・ピンク <ダイヤモンド社> |
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フリーエージェントという言葉を聞くと、日本人の多くはプロ野球のFA宣言を思い浮かべることだろう。もちろん、本書で取り上げている意味はそれではない。ここでは組織の庇護を受けることなく、個人で独立して仕事をする者を指している。アメリカでは、派遣社員、臨時社員、フリーランスにミニ起業家という形態で、4人に1人がフリーエージェントであるそうだ。まさしく、多様な価値観を認めるアメリカならではの労働観といえよう。
本書は決して独立開業のノウハウ本でもなく、起業するにあたってのモチベーションを高める本でもない。むしろ、今、アメリカで起っている新しい労働形態の実態を分析した論文や記事を集めた本なのである。フリーを選ぶ人たちの増加を新しい現象のひとつと捉えて現代社会を見つめ直そうというビジネス評論なのである。
しかし、そうであっても、本書を独立開業者のバイブルとして位置づけたい。なぜなら、本書のところどころに組織を抜け出した成功者たちの言葉を紹介しながら、組織に縛られないことの「生き方」というものを丹念に描かれているからである。例えば、その生き方のひとつとして交友関係の捉え方が紹介されている。交友関係をつくるとき、普通の人は他人との関係に量より質を求めるという。質はそのまま、深い付き合いにあたり、具体的には結婚や会社の忠誠心に結びつく。しかし、フリーエージェントは敢えて普通と逆らい、人との関係に質よりも量を求める。いかに多くの人に自分を知ってもらうことが、自己のビジネスチャンスに大きくつながるというのである。このように、本書では、独立開業者にとって押さえておきたい「ものの見方」が、事例として紹介されている。
また、本書は来る未来日本の預言書であるともいえよう。日本も、劇的な変化を迎えていく中で、アメリカと同じ道をたどるとするならば、旧来の価値感は当然に崩れ去って、将来、フリーエージェントが生まれる可能性が高いからである。そのときまでに、フリーエージェントを望む者は本書の分析を正しく理解し、その未知のチャンスをつかめるようになっておきたいものである。確かに、現在の日本にとって組織に属さないことは生活の上で死活問題である。しかし、問題は、人が乗り越えようと意識し続ける限りは、いずれ解決されるものである。そして、その先には、真に自己の自由な生き方を体現できる社会が待っていると思うのである。 |
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オウム真理教の荒木広報部長を追ったドキュメンタリー映画「A」の文庫版である。残念ながら、映画の方は見たことがない。多分、ドキュメンタリーだから映画の方が生々しく衝撃的であろうと想像できるのだが、衝撃という点からすると、この文庫版も決して見劣りするものではない。筆者である森達也監督は、オウムをできるかぎり客観的に取材しており、その姿勢はラストまで終始変わっていない。もちろん、決してオウム寄りの意見は述べてはいない。それゆえに、これまでマスコミが流してきたオウム報道とは一線を画している。
お分かりのことと思うが、決してオウムを肯定しようという気はさらさらない。それゆえに、この本を紹介するにあたり、人によっては、、オウムの犯罪性をあまり強調していない本書は、必ずしも良い本とはいえないところもある。しかし、本書が突きつけた問題は、当然にそれ以外のところに位置している。そして、その問題は未だ解決してはいない。
私事のことだが、事件直後に、ある新聞での読者の投稿欄にオウム真理教についてのコメントが掲載されていたものを読んだことがある。その内容は主犯とされる容疑者とその家族の公開処刑を訴える記事であった。当時のことを振り返れば、こういった意見が蔓延していたのは、その犯罪行為から類推すればやむをえないとしても、それが当たり前のこととして掲載されたことに、寒気を覚えた。この事例を挙げるまでもなく、本書を読んで感ずる問題は、通常に生きる者たちも必ずしも正しい視点を持ちえてはいないのではないかという疑念なのである。テロと敵対しつつ、かつ、民主主義を唱えているにもかかわらず、その行為者に対する民主主義にあるまじき不寛容さ。これを払拭するには、本書のような姿勢(指摘ではない)をどれだけ取れるかに掛かっている。そんなことを思わせてくれる本である。 |
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働くひとのためのキャリア・デザイン 金井壽宏 <PHP新書> |
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新書サイズにしてはかなり内容の濃い本である。ここでどうこう言うよりもまずは読んでいただきたい。現在の仕事を考えるとき、ただなんとなく仕事をしただけでは済まなくなった時代である。過去ならば、会社が本人の意向に関係なく、仕事を行う上でのキャリアを形成させてくれた。もちろん、この背景には途絶えることない成長があったおかげである。しかし、現在では、自ら自分の仕事のかたち、すなわちキャリアを考えていかなければならないのである。
ここまでならば、どんな自己啓発本にも書かれていることであって、それらの本は常に読者を不安と危機感の中に陥れ、焦燥感を駆り立てている。だが、本書は、キャリアを自ら形成することとの必要性を説きつつ、必ずしもそれだけに重点を置いて諭しているのではない。本書では、自らの意思をもって形成する以外にも、ある種の偶然性によってもキャリア形成のきっかけは生じるのだと指摘し、常に意識するばかりではなく、人生においての節目で少し立ち止まって考えてみればよいのではないかと述べている。
つまりは、人生には節目があり、そのときには周囲と相談しつつ、的確に判断すれば良いのであって、節目と節目の間は変に意識しなくとも、ある程度、偶然に任せても良いのではないかということである。本書ではさまざまな事例を載せて説明しているので、本書を読めば、その意味が分かってくると思う。逆に常に意識するあまり、空回りをしてしまう方が多い中で、本書はそうならないための処方箋ともいえる。 |
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カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」 佐野眞一 <新潮文庫> |
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本書を一言で表現するなら、司馬遼太郎の最高傑作の「坂の上の雲」の戦後昭和版といっても過言ではない。廃墟から始まった戦後日本が高度経済成長を経て、バブルで崩壊するまでの現代日本の歴史は、這い上がろうとする日本人がいかに欧米と肩を並べたかったのかという点とその結果として引き起こされる崩壊と破滅は、その期間に蓄積される浮き沈みするメンタルさの点において、明治時代と変わらない気がする。
そんな戦後日本人の浮き沈みのプロセスをもっともよく表したのは、中内ダイエーではなかったかと著者は指摘している。本書ではダイエーの成長と落日の歴史をまさに戦後日本人の豊さへの欲望の成長と消費の流れに沿わせて、読者もこれからの「日本人」のビジネスというものを模索させようとしている。
けれど、本書を単に企業ビジネス書籍として扱わず、ひとりの人間の生き方を題材した格好の歴史書として見るべきである。そう思えば、歴史の中で翻弄されてきた不特定の人間と、巨大組織の中で埋もれていった社員たちの姿が重なり合い、まさしく人間のドラマとして脳裏に浮かんでくることだろう。 |
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おやんなさいよ、でもつまんないよ 松井道夫 <ラジオたんぱ> |
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インターネット証券の最大手、松井証券社長の自伝的ビジネス本である。自らの体験を綴りながら、経営者として、そして激動を向かえる21世紀のビジネスマンとしてのあるべき姿とは何かを述べた本である。証券会社のイメージをもってしまうと、何かしら堅い印象を抱いてしまうのだが、文面から感じられる思いの言葉の数々には、夢を追い求める若者の挑戦の気概が刷り込まれている。
筆者はもちろん、証券会社の社長であるが、社会人のスタートから証券会社と縁があったわけではなかった。どのようにして、現在の会社に入り、社長まで至ったかについては、本書をご覧なって確かめていただきたいのだが、その経緯を知れば、きっと読者は驚いてしまうかもしれない。しかし、本書の特徴として、事業で成功するためには、その業界に長く携わるということが必ずしも必須条件ではないということがわかるはずである。そのことを、是非、本書を読む上でに念頭に入れていただきたい。きっと、読者自身の挑戦の気概を高めることに役立つはずである。また、何事も経験を大事にする日本社会であるが、これからを見据えれば、経験そのものが足かせとなり、事業の失敗へ転落することもある。そういことも起りうる時代なのである。本書でも、証券会社のぬるま湯体質に慣れきって自縄自縛に陥っている人の例も紹介されている。その例も著者と対比して探っていただければ尚更である。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
この句は幕末の志士、高杉晋作の辞世の句であるが、著者の好きな言葉だそうだ。何か新しいことに挑戦するときは、皆がそろって歓迎、激励してくれるというわけではない。むしろ、ほとんどの人が心配し、思いなおすように勧めてくる。もしかしたら、本当につまらないことかもしれない。しかし、そうであるならば、なお自らの手で面白くすればいい。非常に簡単な発想ではあるが、実際にそのように決断できる人は多くはない。ただ、あと一歩の一押しだけが自分に必要だと思うならば、是非、本書を気軽な気持ちで読んでみたいはいかがだろうか。 |
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ビジネス書を読むときには、あまり感情が高ぶることはない。なぜなら、ビジネス書の著者たちの考えや方法は、世の中のビジネスの捉え方の一つにすぎす、それがそのままそっくり自分の身に置き換えることはできず、感情移入なんて到底できないからである。けれど、なかにはビジネスという枠をこえて、心を振るわせるビジネス書もあるものである。その例のひとつが本書である。
著者はアメリカのコーヒーチェーンの日本法人の社長が書いたサクセス・ストーリーである。とはいっても、2001年当時33歳の若い経営者が、タリーズ・ジャパンという小さなコーヒーショップが飲食業界で最速の株式上場まで果たすまでの出来事をつづったものだから、ごく最近の、しかも短期間の話なのであり、著者自身もまた、山頂を目指してやっと一合目という位置に来たにすぎないと述べていることから、完全に成功を果たした上で自身の半生を語っているものではない。
それでも、本書が充実していると思うのは、創業時の苦難というものを洗いざらい記し、その中においてひとりの人間がどう思い、どう考え行動したかもすべて公にしている点である。しかし、本書はビジネスのハウトゥー本ではない。読んでもすんなり起業できるものではない。だが、常に自分の意思を通し続けて、困難を乗り越えてきた人間の姿は、これから起業をめざす者たちにとって、業界は違えど、背負うべき不安と悩みを抑え込める指標にはなると思う。
また、著者の銀行員生活のことも本書で綴っているのだが、そのときの思いと起業後の思い、そして、銀行員の経験がどんな形で経営に役に立っているかは必見である。経営者となる以上、普通のことをしていてはダメなのだが、これまで普通の人だった者がいかに経営者として脱皮していくかという過程も、いまだ一歩を踏み出せないでいる起業志向の普通の人たちの励みとなるはずである。 |
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