デスノート 前編 金子修介監督 <ワーナー・ブラザーズ> |
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週刊少年ジャンプの大ヒット作品の映画化。しかも、作品を前編と後編に分けて上映するという話題性のある作品である。制作費は20億円という文句もあるが、派手なアクションも少なく、特撮らしい特撮もないのに、なんで、こんなにお金がかかるのという印象である。
主人公は一流大学に通う大学生、夜神月(ライト)は、犯罪者が不起訴などの理由で裁かれていないという現実に絶望していた矢先、謎めいたノートを拾う。このノートに名前は書かれた人間は死ぬというものだ。ライトはノートの持ち主である死神リュークとともに、犯罪のない理想的な世界を作り上げようと、ノートを使って犯罪者を粛清しはじめる。その大量殺人に、ICPOの名探偵L(エル)が解決に乗り出す。ライトとエルによる頭脳戦がこの作品の見どころである。
原作であるマンガは、間違いなく面白い名作である。この劇場作品も、原作通りに展開している。ノートを使うときのルールも違和感もなく説明しているし、役者も原作のマンガのキャラクター通りに作り上げている。実は、これがかえって違和感を感じるところがある。一言でいってしまえば、今回の映像化は、単なる「コスプレ」でしかない。一部の若干のオリジナルストーリーを入れているが、全体的に「ヒネリ」も何も無い。本当に、原作を「なぞらえた」だけなのである。この監督は、売れることが分かっているから、手を抜きまくっているのではないかと疑ってしまう。そもそも、この監督で面白い作品を見たことがありませんが・・・。
無理やりの「コスプレ」映画になっているが、エルの造詣はまだ許せるものとしても、ライトの役作りは全くなっていない。さまざまなイメージが定着してしまった藤原竜也では、冷徹なライトが、ごく普通の大学生に見えてしまう。いっそうのこと、ライトとエルの俳優を入れ替えた方が良かったのではないかとも思える。まだ、後編が上映されていないため、感想としても中途半端になるのだが、後編には、映画ならではの「醍醐味」を期待したい。 |
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出世を目指すキャリア官僚と三流スーパーで働くパートと出会いから始まる恋と改革の物語。舞台設定と主役俳優の点から、必ず「踊る大捜査線」と比較されてしまう作品である。しかし、「踊る」が「現場=正、トップ=誤」という図式が強いことに対し、本作の方が「現場=正しくもあり誤り、トップ=誤り」という図式であるため、ひとひねりあるということで上だと思う。また、伊丹十三監督の「スーパーの女」とも比較されるだろうが、無論、本作の方がはるかに上である。
ストーリーは、大プロジェクトの参加を目前とした県庁のキャリア官僚・野村(織田裕二)が、民間人事交流という企画のため、地元の三流スーパーに派遣される。そこで野村はパートの二宮(柴咲コウ)によって教育されるが、公務員気質がぬけず、ヘマばかり犯してしまう。しかし、スーパー自身も、顧客離れが進み、不正や在庫管理の甘さが目につく。野村は持ち前の正義感から改善を図ろうとするも、スーパーの従業員から支持されず、空回りするだけ。
公務員世界である県庁にも問題があるが、民間にもまた問題がある。その点が本作の新鮮なところである。変に善悪の対立図式になっておらず、ダメな者同士が歩み寄って、より良い方向に改善していくというプロセスに好感はもてる。本作もクライマックスシーンが二つあり、それぞれの世界で改善が図ろうとした場面が添えられている(一つは成し遂げられたが、もう一つは未完であるけれども)。ただ、織田裕二が腐敗議員の前で言い放つ「素直」という言葉が、本作の掲げるメインテーマであり、映像として十分に伝わってくる。まずは、鑑賞するべき価値がある作品であろう。
ただ、本作の主張するテーマは、ネタ的にも、ストーリーのふくらみにしても、わざわざ劇場作品として作るべき素材であったかどうかは怪しい。腐敗した公務員世界を批判するために、あえて映画化したというのであれば、全体としてあまりにも固定観念が強くて、ラブコメやバラエティの域をでていない。単に「意識」を主張するだけなら、メッセージ性は少し弱く、陳腐さが残る。織田裕二の役者としての成長は感じられるものの、本作の主張がそれに相応しかったどうかは疑問である。 |
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星になった少年 Shining Boy & Little Randy 河毛俊作監督 <東宝> |
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タイの満ち溢れた美しい自然に、坂本龍一の繊細で透明な音楽が流れるだけでも十分に名作の趣きを備えているにもかかわらず、その舞台の上をカンヌ国際映画祭主演男優賞の柳楽優弥が主役を演じている。本作は素材だけでも成功を約束された作品のように感じる。だから、最初はあまり期待はしていなかった。扱いの大変な素材を揃えたため、調理しきれているかどうかが疑問だったのである。
ストーリーは実話を元にした感動の物語。主人公、哲夢は義父の経営する動物センターで暮らす少年である。しかし、そうした家庭の環境から、学校でいじめを受ける毎日。しかし、母親がセンターに象を飼い始めたことから、哲夢はタイに留学し、象使いになることを決意する。前半は少年が象使いになる決意からタイでの厳しい訓練までが描かれ、後半は日本での活躍が中心となる。
素材の素晴らしさの通り、タイの美しい自然や坂本龍一の音楽、主役である柳楽優弥の自然体な演技は、十分に観るべき価値を備えている。特に柳楽の演技は、本当に芝居なのかと疑ってしまうほどの上手さだ。しかも、本当に象使いにならないと演じられないという試練に対しても、十分に答えており、その自然体の演技はますます実在した少年に近づいていく。
しかし、本作は、実話の映画化であるために、ストーリーの展開も結末を観客も知っているというハンデがある。それを払拭することが課題になるであろう。しかし、演出は変に誇張を入れず、すべて役者に委ねた形でドラマは進んでいく。まるで、ドキュメンタリーを見ているような流れである。これにより映像が観客の感情に自然と入り込み、そのハンデを乗り越えている。また、主役の死を描くシーンも、変にもったいぶらず、あっさりと演出している。それがかえって、人生のせつなさを出していて、哀しみを誘う。途中、劇中で武田鉄也が「動物と子役には勝てない」というセリフを言い放つシーンがある。まるで本作を否定するようなセリフである。しかし、そのセリフは全く皮肉になっていない。それほど自然や実話への忠実さにこだわった作品なのである。 |
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明らかに「子供向け」の映画であるが、十分、大人でも楽しめる映画である。CGを駆使した迫力もあるし、ストーリーもそれなりに分かりやすいという子供向けの要素の中に、あまりにも馬鹿馬鹿しいギャクシーンや、肩の力を抜いて演技する俳優たちの姿に、大人しかウケない演出が組み込まれている。
ストーリーは、日本を危機に陥れようとする怪人・加藤保憲に、麒麟送子に選ばれた少年タダシが、妖怪たちと共に立ち向かうというありきたりな展開である。しかし、主人公の少年は、泣き虫で大人しいという性格に設定されているのがいまどきっぽい。面白味は次々と登場する妖怪たちを、名の知れた俳優たちが演じていること。誰がどんな妖怪に扮しているかを確かめるだけでも十分、元が取れる。しかも、子供の目には毒なセクシー妖怪も登場して、子供に付き合うお父さんの疲労も回復させてくれる。
しかし、全体に立ち込める「真面目に不真面目」という演出ばかり続くので、映画作品としての出来を求められない。娯楽としても中途半端である。例えば、妖怪たちも日本を救うために集結したのではなく、単に「祭り」と勘違いして東京に集まったという「いい加減さ」(多分、水木しげる先生が妖怪が戦争をするということを嫌ったせいかもしれない)や、怪人加藤を倒すことになるきっかけも、あまりにも拍子抜けなオチ(これも、水木しげる先生が武器で倒すという展開を嫌ったせいかもしれない。ちなみに怪人加藤は荒俣宏の作品。)である。主人公を演じる神木隆之介もそれなりに演技を頑張ろうとしているのに、周囲の大人がどうも遊んでいるような雰囲気があって、その健気さから哀れに見えないでもない。
子供向けなので、ラストもハッピーエンドに終わるのは目に見えているので、安心してみれる映画でもある。しかし、実は最後のワンシーンでは思わぬ展開を見せていて、それが絶妙な余韻を映画に残しているこの最後のワンシーンを付け加えたことによって、全体の馬鹿馬鹿しさが一気に意味を持ち始め、大人向けのテイストをかもし出すある。「遊び」の特権は大人にはなく子供にあり、大人になれば、その特権は失われるという当然の命題。最後のワンシーンは、特権を持っている子供にはあまりにも蛇足なのであるが、特権を失った大人には、ふと馬鹿馬鹿しさから現実に引き戻らされて、果たしてどのような感傷をいだくことになろうか。 |
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作家重松清の同名原作の映画化である。原作本は過去に感想を上げているので合わせて読んでいただければ嬉しい。非常に評価の高い作品の映画化なので、以前から楽しみにしていた。だが、本作は原作ファンにとってはあまり納得のできない映像作品になってしまった。原作を知らないジャニーズファンからしても同じ感想を持っているのではないだろうか。
「沖」に住む者を蔑視する「浜」で暮らすシュウジは、兄の放火事件をきっかけに家族が崩壊していく事態に直面する。学校でもイジメの対象となり、自殺未遂を考えるほど孤独に追い詰められていく。彼に手を差し伸べるのは、「沖」の教会の牧師と、同級生のエリのみ。牧師はかつて自らの過ちから自分の弟を殺人犯にさせてしまうことを悔いていた。エリは両親の無理心中から生き延びた少女である。3人は互いの心の傷を受け止めながら、生きていこうとする。ある日、シュウジは、自分の弟に会ってほしいという牧師の願いを受け、共に大阪へと向かう。
率直に言って、どうすれば名作を駄作に作り上げるのかと疑問に思う。棒読みで下手くそな若手俳優の演技に安直な演出が展開していき、別の意味で観ていることが辛い。原作の面白さは、家族崩壊、学校のいじめ、周囲からの差別、性的虐待を受け、絶望のどん底まで落ちていった主人公の少年が恋人との再会を求めることで救済されていくところにあるのだが、映画化では絶望までの過程を「PG-12指定」に薄めてしまったため、かえって少年の非情な境遇が伝わってこない。よって、下手な演技と合わさって、全く感情移入ができず、少年が単に「何を考えているか分からない」存在になってしまっている。せめて、原作を読んでから映画を観ないと理解に苦しむところがある。
舞台は田園に囲まれた干拓地で、ノスタルジックさを感じさせ、思春期の少年少女の視点で「生とは何か」という重厚なテーマで映像化しようとする意気込みは評価したい。しかし、このジャンルでは岩井俊二監督の「リリィ・シュシュのすべて」という大作が過去に存在しており、二番煎じの域はでてこない。やはり、ここは思い切って「R指定」覚悟で原作の絶望さを書ききってほしかった。こうなるとジャニーズファンが来ることができなくなってしまうだろうが・・・。 |
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男たちの大和/YAMATO 佐藤純彌監督 <東映> |
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2005年邦画の最後を飾る超大作の名に恥じない豪華さに溢れた作品。主要な役者は、反町隆史や中村獅童といった実力派俳優から仲代達矢、渡哲也などの重鎮に、鈴木京香や白石加代子などの名女優を加え、蒼井優や池松壮亮などの有望若手俳優の起用まで、ほぼ全員が他の作品における主役レベル(その他にも奥田瑛二、長嶋一茂、山田純大など映画主役経験者)をそろえ、音楽も巨匠・久石譲、長渕剛が担当し当人たちの最高傑作と言えるほど出来栄えぶり。本当にここまで揃えるかと思うほどの絢爛さである。役者の熱のある演技も良く、死闘の迫力あるシーンの連続に引き寄せられる見ごたえがあるにもかかわらず、なぜか不完全燃焼さを感じてしまうのは、どういうわけだろうか。
本作は戦後60周年を記念して、辺見じゅんのルポ「男たちの大和」を映画化した作品である。実寸大の戦艦大和の撮影セットを築き(さすがは「敦煌」などの大作映画の佐藤純彌)、CGも駆使して再現された戦闘シーンには、これまでの(日本のちゃちな)戦争映画にない凄まじさの連続で息つく暇もなく、血や弾丸が飛び交う戦場の怖さも感じさせてくれる。しかも、あくまで戦艦大和の乗組員にこだわり、とくに戦地に赴く若者にスポットをあてて青春群像の一面も見せ、安易な反戦映画、政治プロパガンダに陥っていない点でも十分楽しめる。
だが、あまりにも「戦艦大和」は映画やテレビドラマなどに映像化されすぎているため、まるで新鮮味がないのは残念である。目をみはるシーンは多いものの、どうも先が分かってしまうところから、いまいちハラハラとして緊張感が起きない。歴史的に見ても大和の結末は誰も分かっているし、映画の冒頭から登場人物の「誰が死んで誰が生き残ったか」も観客には分かってしまうので、どうも事実をなぞっただけの展開になってしまう。
だからといって、本作は2005年の傑作のひとつであるということを否定するものではない。あくまで本作は歴史映画ではなく、ただ「戦艦大和」という過酷な戦場の上で真剣に生きてきた人々を描いたドラマなのである。ただ、真剣に生きてきたという意味では、別に「戦艦大和」でなくても構わないし、「高校の部活」であっても「会社組織」であっても成り立ってしまうようにも感じるところもあるのだが、それは本作があまりにもノンポリすぎて「万人ウケ」しぎるせいからかもしれない。 |
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2005年最悪の日本映画と評判に悪い作品である実写版「鉄人28号」。その酷評どおりの仕上がりに驚いた。しかし、個人的には「戦争の産物」である鉄人を線が細くひ弱な現代少年と絡ませた設定は悪くは無い。むしろ、大人顔負けの少年探偵をそのまま現代の東京を舞台に実写映画化する方が無理がある。
東京に突如現れた巨大ロボット、ブラックオックス。ブラックオックスは街を破壊し、多数の人間が負傷する。そんな折り、この事件で負傷した母親の手で育てられた少年、金田正太郎は亡父の金田博士の後見人である綾部老人に廃墟に連れられ、祖父と父親の研究成果である巨大ロボット鉄人28号と遭遇する。綾部は正太郎にリモコンを託し、鉄人でブラックオックスを倒すように諭す。正太郎は鉄人でブラックスオックスと戦わせるも、不慣れな操縦のため、敗北する。鉄人は破壊され、正太郎は闘いに恐れを抱いてしまう。
先ほども述べたように、鉄人と現代少年という設定は面白いと思っている。しかし、それがうまくいかなかったのは、本作品の観客のターゲットを大人向けなのか、子供向けなのかで見誤ったところにある。役者は演技力ある俳優ばかりなのに、中途半端に少年の成長を描いてしまった上、セリフも演出も全く駄目。またロボットの闘いはあまりにも安っぽすぎて科学的考証はまるで無い。どうせなら、「ALWAYS 三丁目の夕日」のように昭和30年代に設定して平成アニメ版に似た大人向けの作品にするか、あくまで子供を対象とするなら、非現実さを見向きもせず、現代に蘇る少年探偵にしても良かったのでは。
金田正太郎、大塚署長、村雨健二と原作の名前どおりのキャラクターは登場するも、全く別物。現代の設定ならば無理して原作キャラクターを使う必要もない。むしろ、変にイメージを引きずってしまうため、鉄人ファンにはかなり顰蹙ものだろう。ただ、その中でも本作オリジナルのキャラクター、敵役のマッドサイエンティスト宅見零児(香川照之)の狂気ぶりの演出は評価したい。もっと彼と正太郎と絡ませた方が、変なCGに頼るより人間ドラマとして面白かったと思われる。もう一つ評価できる点は、音楽を担当したのはアニメと同じく千住明であること。このサントラを聴くだけでも価値あり・・・かな。 |
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映画館で本作の予告編をみたとき、大画面に映る建設中の東京タワーが現れて驚いたことがある。忠実なまでに昭和30年代を再現した本作に興味が沸かないというわけにはいかない。予告編を見てから半年過ぎて、待ちに待った上映である。昭和レトロ好きには堪らない映画であるはずだろう。
本作は、西岸良平の漫画「三丁目の夕日」を映画化したものである。舞台は昭和30年代の東京の下町。そこで暮らす二つの一家を中心に春から年末までの期間に起こった出来事を映像にしている。三種の神器、三輪カー、集団就職など当時の風物のみならず、下町そのものもCGで精密に再現したところに、本作の力の入れようが分かる。
ただ、肝心のストーリーは、テレビドラマのレベル。とくに子役を使った人情話にはワンパターンというか、卑怯なところはある。変な話、ストーリーは予告編以上のものは感じられず、全くヒネリがない。CGがかなり多用されていて、時代の再現には優れているが、それもかえって「わざとらしさ」を感じる。
しかし、CG以外はまるでテレビドラマレベルである本作だが、決して損な映画ではない。むしろ、役者が本当に活き活きと芝居をしていて映画らしい映画になっているのだ。堤真一は会社社長の演技を楽しんでいるようで、2人の子役もわざとらしくない自然な感じがする。吉岡秀隆の主役・売れない作家も、彼にしかできないハマリ役だと感じるし、薬師丸ひろ子も垢抜けていて、これまでのイメージを払拭したのではないだろうか。CGばかりに目が移りがちの本作だが、役者がやりたい芝居をしていることが伝わる幸運な作品でもある。ただ個人的には今川泰宏監督の「アニメ鉄人28号」の昭和30年代の方が上だと思うのだが・・・。 |
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一言で言ってしまえば、非常に後味の悪い映画である。それは本作のテーマが「児童虐待」と「臓器売買」という非常にタブーで重い題材を扱っているからではなく、この作品の映画としてのレベルが、わざわざ映画で観るほどのものではないからである。多分、「世にも奇妙な物語」の15分ぐらいのドラマ並ではないだろうか。
ある夏の日、七組の家族が山でキャンプをしている。どこでも見かける仲睦まじい家族風景であるが、何故か変に優しすぎて、妙によそよそしい光景でもある。実は、彼らは親が金のために子供を売買しようとしている家族の集まりなのであった。また、キャンプとは名ばかりで、山は子供を引き渡すための取引場所なのであった。指導員に成りすました臓器売買の仲介人の男は終始無表情で自らの仕事をこなす傍らで、親は金に目をくらみ、子供は妙な違和感を感じるのであった。
映画の冒頭から、キャンプが偽りであることを視聴者は知ることとなる。そのため、全体的にサスペンスやミステリアスな楽しみは半減してしまっている上に、とても子供の売る親たちの心情には理解できないところがあり、結局、視聴者は、スクリーンを前にただ単なる事実を眺めているしかなくなる。だから非常に退屈であるのだ。後半はややサスペンスな味が出ているが、オチはあまりにも漫画のようで、あまりにリアリティがない。絶望的な状況からすれば、まだ「小説版・バトルロワイヤル」の中学生の方が、悲惨さの上にも人間としての生への意志は強く出ている。
「故・星新一のショート・ショート」ならまだしも、映画である以上は、もっと人間描写をきめ細かく演出し、親子ともに自らの置かれた状況と絶望を丹念に描くべきであろう。また、『家族を売る』という衝撃的な結末にもかかわらず、あっけらかんとした終わり方はあまりにも無感情すぎやしないだろうか。「●●は穢れなき◆◆」とは限らないという残酷さはよく分かるが、「永遠の仔」のように「その後」の人生を描き、「家族とは何か」について視聴者を考えさせるまで映像を作ることは映画としての重要な点ではないか。 |
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大ヒット映画「踊る大捜査線 THE MOVE」では脇役だった登場人物を主人公に変えて映画化するという「踊るレジョンド」第2弾。ついに準主役級だった柳葉敏郎演ずる室井管理官の登場である。踊るファンには待望の作品であるのだが、実は本作は「踊る」のテーマを揺るがす問題作である。
ストーリーは、新宿の殺人事件の捜査指揮に室井管理官がついたことから始まる。事件後すぐに容疑者は派出所の若手警察官と特定される。しかし事件は、長時間の事情聴収の末に容疑者が逃亡し、事故死するという最悪の結末を迎えた。その後は捜査の行き過ぎから訴訟までに及び、室井の逮捕に発展する。事件は警察庁と警視庁の確執を引き起こし、室井の過去までも明らかにさせる。これまでの踊るシリーズとは異なり、派手なアクションはなく、サスペンス調で展開する。
けれども、本作はリーガルサスペンスとしても踊るシリーズの続編としても中途半端で、せっかく名役者を揃えたのに、ストーリーと演出が全く冴えていない。やたら顔面アップの映像ばかりで、安直で素人作品みたいな話の筋に、独り言と内緒話の多い役者の演技が続く。室井の立場も、シロかクロかどうでもよくなり、純粋に観客が作品に入り込めない状態である。ファンならプロモーションビデオと割り切れるが、純粋にストーリーを楽しみたい人には退屈な映画である。
そして本作品の最大の問題は、現場の刑事たちの活躍の場を全く用意しなかったことにある。結局、事件の真相を掴んだのは、哀川翔率いる新宿北署の刑事たちではなく、大杉漣率いる●安というオチには参ったものである。しかも、その真相もかなり安易。これでは「踊る」のテーマから逸脱し、室井のスタンスも消化不良を起こしてしまっている。「踊る」のテーマを踏襲するなら、室井を田中麗奈演ずる新米弁護士と絡ませるのではなく、哀川翔と絡ませて、あくまで警察組織の確執と現場の執念にこだわるべきであろう。
組織トップの考え方も変わり、現場だけではどうしようもないということが露見しつつある現代の組織に影響されたのか、それとも「踊る」スタッフが現場から離れてしまったのかは分からないが、本質の部分が抜け落ちている。今後、「踊る」の続編を作るのであれば、賞味期限の切れた湾岸署を使わずに、今回好演だった筧利夫・真矢みき演ずるキャリア組と哀川の新宿北署の刑事たちを使って欲しい。ただ、「新●鮫」という先行作品はあるけれど。 |
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福井晴敏原作の映画化作品第三弾であり、前評判では最も人気の高かった「亡国のイージス」がついに公開。役者も日本アカデミー最優秀賞クラスのベテランを起用し、海上自衛隊が撮影協力しているだけあって、さすがに丁寧な仕上がりになっている。セリフ回しも秀逸で、分かりにくい自衛隊の世界にもスムーズに入り込める。全体として完成度が高く、非の打ち所がないと言ってしまいたいところだが、そもそも根本的な部分に、なぜか引っ掛るものを感じるのである。
自衛隊の最新鋭のイージス艦「いそかぜ」で、某国のテロリストと手を組んだ副艦長と若手士官たちがクーデターを起こし、東京にを一瞬に壊滅できる兵器を脅迫の武器に使って、日本政府に要求を突きつけた。彼らは、平和の中で堕落した日本を再び蘇らせるべく、反乱を起こしたのである。しかし、事前にクーデターを予知していた防衛庁情報局は、一人の若者を、工作員として「いそかぜ」に送り込ませていた。また、その若者の身を案じた一人の自衛官も再び館内に潜入を試みる。彼らは武器を携えたテロリストたちから、たった二人で「いそかぜ」奪還を図ったのである。
舞台設定からすれば、ハリウッド映画を彷彿させる展開を期待してしまうのだが、実際は戦艦同士の戦いも、テロリストとの銃撃戦も全く地味な演出で、せっかく自衛隊の協力があまり生かせていない。むしろ、協力してもらったために派手にできなかったのだろうかと感じてしまう。しかし、その違和感は間違いであって、本作品はアクション映画として捉えるべきものでなく、「国とは何か、生きるとは何か」を自ら問い続ける人間たちのドラマなのである。だから、逆に地味な方が作品としての出来は良いものとなっていて、変にアクションシーンでごまかせられると、本作の持ち味であるテーマ性は失われてしまうだろう。
それゆえに、人間のドラマとして骨太なテーマを持った作品に位置づけたいからこそ、どうしても腑に落ちないのは、クーデターを決意した動機に説得力がないということである。いまいち、自衛隊のクーデターの論理に納得できる部分が弱く、しかもテロリスト側としても、わざわざ命を賭けてイージス艦を奪取して脅迫を図る行為が無謀の域を出ていない。確かに、国家に息子を殺された副艦長の復讐心だけが、クーデターの納得できる理由となりうるが、それを前面に持ち上げると、「国家とは何か」というテーマが薄らいでしまうのである。そうした自己矛盾から脱却できていないのである。ぬるま湯体質の日本国家に大喧嘩を仕掛けることへ、それなりの理由がないと共感しづらいところがあるならば、クーデター首謀者が極めつけの理想主義を貫いた純粋な「狂気」な人物である方が、今の時代ならではの説得力を持っているように思う。これだけの役者を揃えているのだから、そんな人間の狂気の果てまで映像で描き切ってほしかった。 |
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1994年にミステリ界の超新星として登場した京極夏彦の処女作の映画化。総数400万部を超える京極堂シリーズの第1作目ということもあり、また日本映画界の実力派若手俳優を起用している点から、嫌でも期待の高まる作品である。しかし、往年のテレビドラマ「ウルトラマン」「怪奇大作戦」を手がけ、またアノ「帝都物語」のメガホンをとった実相寺昭雄が監督として起用されたことに裏目に出ないのかが心配だったが、鑑賞後はやっぱり「案の定」である。
昭和27年夏、東京。小説家・関口巽(永瀬正敏)は友人・古本屋兼神主兼陰陽師こと京極堂(堤真一)に、20ヶ月も身ごもった女性がいるという話を持ちかける。取り扱ってくれない京極堂の元を離れ、関口は友人・榎木津礼二郎(阿部寛)にも相談を持ちかけるが、榎木津の探偵事務所で産婦人科の大病院の令嬢・久遠寺涼子(原田知世)と出会う。その出会いの後、事件はやがて産婦人科の大病院で起こった密室での人間喪失と赤子の集団失踪へと発展していく。
もともと原作は映像化不可能というわれていた。それはエキセントリックな文体と陰陽道を駆使した博識の連続から繰り出される独特の雰囲気を映像で表現することは難しいとされていたからである。そうした『重々しい』作品を映画化しようとした試みは評価できるとしても、肝心の雰囲気を作り上げる演出がまるで『30年以上も昔の2時間ドラマ』のようでは、レトロを通り越して、安直なチープさを感じざるをえない。現在の深夜ドラマでももう少し上手に作り上げているほどである。この映画を絶賛しているコメントをパンフレットに載せた綾辻行人の文章がなんだか空回りして寂しくもある。
また、原作自体、妖怪をモチーフにおどろおどろしいミステリ小説に作り上げている反面、はっきりいってしまえば「トリック」や「謎解き」は学生レベルの出来栄えである。そんなトリックを脚色せずにそのまま忠実に映画化しているから、知的好奇心を刺激をされないまま、間延びした展開が続き、本気で眠ってしまいそうになった。迫真の心理ドラマを充分に演技できる実力派俳優を起用しながら、スリラーとしても、ミステリとして、サスペンスとしても中途半端な仕上がりには参ってしまった。だが、そもそも映画化を決定した最初の段階でこうした破綻を監督が予想できなかったことが、この世の不思議なことと言ってしまいたくなる。 |
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ミステリー作家宮部みゆき女史の直木賞受賞作を、作品の当たり外れの差が激しい大林宣彦監督が映画化。森田芳光監督の「模倣犯」の二の舞にはならないかと心配だったが、予想に反して重厚で魅力的な作品に仕上がっている。そもそも原作の内容が良くできているということもあるが、むしろ、奇異をてらいすぎた小説版を、奇異をてらうことを良しとする監督が映画化したから、相乗効果で大作が出来上がってくるのは必然なことかもしれない。
ストーリーは、昔風情が残る荒川区に建設された高層マンションの一室で殺人事件が発生した。しかし被害者となった一家4人はそのマンションの居住者でもなく、まして家族でもない赤の他人の集まりだった。家族とは何かと問いかけてくるような、この謎めいた事件は100人を超える証言者の発言によって少しずつ暴かれ、やがて思いもかけない真相へとたどりつく。
この作品は原作をそのまま映画化したところにあるため、シーンのひとつひとつが証言者のインタビュー形式で作られている。その構成があまりにも緻密なので、実際の事件を取材したドキュメンタリーの雰囲気があり、場面ひとつひとつに集中してしまう。このドラマには本来のドラマには欠かせないメインキャストが存在しておらず、そういう点では、まさに「時代」や「事件」を人の手によって主役化させたという印象がある。実際のところ、ひとつのささいな事件であっても、深いか浅いかはかかわらず、多くの人間が関与している。その一人一人にスポットを当ててみれば、当然、その人自身が主人公であるべき人生があって、他者との重き軽きの差異などは存在しない。本作は虚構でありつつも真に「リアリティ」に迫った作品といえる。
さて、奇をてらうことはよしとしても、インタビューのいくつかのシーン、もしくはラストの近くで盛り込まれた「劇中劇」の設定はちょっといただけない。その設定のおかげで全体としての冗長さや中途半端さが感じられる。原作では取材側の描写についてはドライにそぎ取っているところがあるのから、そのあたりは残していただきたかった。しかし、失われた下町、無機質な高層マンションなど小説では表現できない映像のシーンは映画ならではの巧みさであり、その点においては松本清張の「砂の器」と同じく、原作小説よりも完成度の高い映画と言える。 |
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往年の角川映画の名作で千葉真一が主演して話題となった「戦国自衛隊」の平成リメイク。ただ、名作のリメイクと言えば志茂田景樹の「戦国の長嶋巨人軍」という奇書を思い出してしまうのだが、本作は「終戦のローレライ」や「亡国のイージス」の福井晴敏が原作を担当したこともあって、単なる模倣に終わらず一級のエンターテインメント作品に仕上がっている。
陸上自衛隊で秘密裏に行われた実験の最中に神崎二尉(鈴木京香)の判断ミスから的場一佐(鹿賀丈史)率いる特殊部隊が戦国時代にタイムスリップしてしまう。やがて的場が過去に干渉をし始めたことから現代日本に歪みが生じ、歴史の消滅という危機が迫る。かつて的場の部下だった元自衛官の鹿島(江口洋介)は神崎と戦国時代から現代にやってきた侍の七兵衛(北村一輝)に説得され、彼らと共に森三佐(生瀬勝久)を司令官とする救出部隊に加わり、的場隊と現代日本を救うため戦国時代にタイムスリップする。しかし、任務を完了して現代に戻るためには3日間の猶予しかなく、しかも、戦国時代での的場は、織田信長となり、戦国の世から日本を変えようと画策していたのである。
現実の自衛隊の協力もあって迫力あるシーンが楽しめる一方で、短時間で慌てて製作したせいか、時代考証のおかしさなど所々に粗が目立つ(パンフレットにもネタバレを漏らしている)。しかも、役者のアップが妙に多いことで映画の迫力が半減しているところは許せるとしても、鹿賀丈史以外の役者の演技が浅く感じられてしまい、まるで駄目。過酷で血なまぐさい戦国時代の人物なのに、七兵衛、斉藤道三(伊武雅刀)、濃姫(綾瀬はるか)、蜂須賀小六(宅麻伸)、藤介(中尾明慶)の演技が妙に陽気で調子が良くて、なんだか現代風な印象がある一方で、逆に自衛官側の的場、与田(的場浩司)の方が下克上の時代ならではの凄みが備わっているから、ドラマとしての人物造詣のギャップを感じる。「大映」ドラマではないのだから、もう少し「大河」ドラマ並みの演技指導をしてもらいたかった。
ただ、福井晴敏が関わっていることもあって、タイムスリップにおける設定や、「平和ボケ」した現代日本に対す提言、「現地人(戦国時代の人)に実弾を使わない」という例を用いて自衛隊のあり方への問題提起をここぞとばかりに盛り込み、一応、ストーリーそのものの破綻を犯していないこともあって大作映画の銘に恥じない出来栄えではある。しかし、角川映画の悪い癖なのか、エンターテインメントに走りすぎてせっかくのメッセージ性がぼやけてしまい、演技指導不足と相まって、どんな悪役も、森三佐や斉藤道三に代表する嫌われ役のキャラクターも最後には「いい人」に終わってしまい、結局、ハリウッド映画のような無難なエンターテインメント作品になったのは残念である。 |
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今年は終戦から60年目である。それを記念して本作が上映されたかどうかは分からない。しかし間違っていけないのは、舞台が第二次世界大戦だっただけに過ぎない。そのあたりを履き違えると、本作を大画面の劇場で鑑賞する意味はなくなる。本作の面白みは、最新の特撮技術を使った海戦もののスリリングな展開そのものなのである。
ストーリーはいたって簡単。太平洋戦争末期、日本への原爆の更なる投下を阻止するため、臆病者のレッテルを貼られた艦長と寄せ集めの水兵たちが、ドイツ軍の最新鋭潜水艦に乗って敵地に乗り込むという話。しかも、この潜水艦には世界の勢力図を揺るがす謎の兵器ローレライが搭載されている。その兵器を巡って、潜水艦内、東京、アメリカを巻き込んで物語は展開する。
原作は福井晴敏。国家・日本と戦争・テロを扱えば、第一級のエンターテインメント小説を打ち出す作家の映画化だけあって、本作の内包するテーマはまわりくどくなく伝わってくる。また、特撮にガメラの樋口真嗣、エヴァンゲリオンの庵野秀明、ちょっことだけ押井守まで絡んでいるのだから、戦闘シーンの見せ場も余すことなく用意されている。また役所広司、妻夫木聡のみならず、石黒賢(最も好演)、柳葉敏郎、堤真一と名優を揃え、見事な演技で観客を引っ張る。「踊る大捜査線」の亀山千広が製作を手かげたものはある。この豪華さに、ある意味、一見の価値はあるだろう。
しかし、本作からはどうしても「第二次世界大戦の日本軍」のリアリティが湧きにくいうえ、秘密兵器が女の子の超能力(?)で動くとか、艦長が戦後日本でしか受け入れられないような英雄ぶりに乗組員は理解しすぎるとか、潜水艦と米国太平洋艦隊との闘いが都合良過ぎる展開であるとか、日本の罪と罰を問う海軍の一派の描写不足から蜂起の説得力に欠けるとか、消化不良の部分もかなり多い。単に潜水艦もののアクション映画を作りたかっただけだと言ってしまえば、それで終わってしまうような薄っぺらさがある。本作の面白さをさらに引き出すのであれば、あと2時間ぐらい付け足して、変に特撮に頼るのではなく、死と隣り合わせの海底の狭い空間での人間の賭け引きのドラマに焦点を絞るべきだと感じるのだが。 |
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オウム真理教が引き起こした地下鉄サリン事件から10年が過ぎた日に、このカルト教団をテーマにした映画を観ることにした。TUTAYAに宣伝用ビデオを置かれていなければ気付きもしなかった作品である。実際の事件を題材にしてカンヌで人気を得た某作品がレンタルリリースされた時期と重なって、テーマ選出の類似性が仇になって全く目立っていない。けれども、2時間13分に及ぶ上映時間を感じさせない力作であることは間違いない。
カルト教団「ニルバーナ」に出家した母を持つ少年、光一は祖父の手で引き離された妹の朝子を探し出すため児童相談所が脱走する。光一が暮らしていた教団ニルバーナは地下鉄内で大量殺人を行い、母もまた容疑者として指名手配中である。逃走中、光一は一人の少女、由希と出会う。由希もまた家族に見捨てられた身の上であった。やがて二人は互いに共感を示し放浪に出る。鋭い目を持つ少年、光一役の石田法嗣(施設内の回想シーンは名演!)もさることながら、何より関西弁を言い放つ少女役の谷村美月の演技がずば抜けて凄い。この映画が名作に値するなら、その貢献の最たる部分は彼女によるものであろう。また、盲目の老婆役の井上雪子女史は68年ぶりの映画出演にもかかわらず、彼女からにじみ出る人間の深みだけでも一見の価値あり。
ただ、援助交際、カルト教団と元信者、そしてレズビアンのカップルなど、世間から取り残された人たちのみを登場させた結果、全体として負のイメージが付きまとう映画となってしまい、その点において人間の生きる強さを示したカンヌの某作品に比べ、やや浅い仕上がりを受けるうえ、挿入歌に「銀色の道」を使ったことから、70年代の社会派映画の雰囲気を持ってしまっている。レトロ感覚といえばいいが、扱っているテーマとの乖離がひどく、単に古臭い感じだけも与える。おまけにラスト直前までは吸引力のある出来になっているのに、ラストシーンからエンド・エールにかけては、どこで道を外したのか、あまりにも安直すぎる顛末に唖然とする。少年は、自分は自分にしかすぎないという重荷を解き放って、絶望の淵から神にでもなったというのであろうか。リアリティを突き詰めた作品のラストがあまりにも詰めの甘さを示したのはいただけない。
実際の事件は日本全体に衝撃を与えたものであり、それが時間の流れとともに風化されていくということには懸念を感じるので、この事件をテーマにした映画を作るという姿勢は好感し、敬意を表したいと思うのだが、残念ながら、同様の作品(「A」「A2」)が既に先行上映されており、それらを上回るほどの力強さはない。おまけに援助交際(「リリィ・シュシュのすべて」)とか、家族崩壊(某作品こと「誰も知らない」)とかの視点も二番煎じの感も否めない。どうせやるなら、台湾のエドワード・ヤン監督の4時間の大作「クーリンチェ少年殺人事件」ぐらいのこだわりをもって、事件のバックボーンとなる時代性や風潮なりをふんだんに作品につぎ込んで欲しかった。 |
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クリスマスになると、街中では必ずワムか山下達郎の名曲が流れる。しかし、ふと寂しげに心を奪われてしまうこの時期の名曲といえば、坂本龍一による「Merry Christmas Mr.Lawrence」であろう。各々が幸せを祝福するにぎわいを求める夜にこの切ないメロディは不釣合いなのだが、戦争が耐えない現代の夜にこそ静かに聞くべき名曲なのかもしれない。
この名曲がテーマである映画が「戦場のメリークリスマス」。ストーリーは第2次世界大戦時のジャワ島捕量収容所を舞台に、日本兵とその捕虜の英国兵士との衝突と交流、そして別離を描いたもの。前衛的でありながら、ストレオタイプな演出のおかげでリアリティのなさへの非難の声も多い作品でもあるが、東洋(日本)と西洋(イギリス)の文化の違いとその歪みに対する戸惑いを描こうとした試みは、上映から20年以上経過した現代にこそ再評価すべきものと思う。
かつての戦争映画といえば、人が人を殺しあうという悲劇性を大きく描き出すことで反戦を訴えるものが多かった。その反戦の描き方に二番煎じやワンパターンさがあって辟易したところだが、「戦場のメリークリスマス」という作品は、そうした反戦映画の数々と一線を画していると思っている。本作品では、戦争の無意味さを、殺戮の死の恐怖を用いて表現するのではなく、戦う者同士の背後にある価値感や文化を打ち崩すことで自らの絶対性が喪失した空虚感をもって成しえた。つまり、物理的な死という実体ではなく、人を戦争を駆り立てる動機という精神そのものにメスを入れた反戦映画なのである。
戦争のスタイルは大きく変わった21世紀。この時代の戦争は宗教のテロ戦争と呼ぶそうだが、これは金や物の欲からではない信念の戦争を表している。病的な感染力を持つ信念の前では殺戮や人の死などの恐怖では揺らぎはしない。自ら信ずるものへの揺らぎでしか克服できなだろう。だから、「戦場のメリークリスマス」が描きたかった反戦とはこの時代にこそふさわしいと思うが、それを受け入れる視聴者側に理解へのメンタリティが身についていると言えるのだろうか。 |
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日本ミステリの女王・高村薫の最高傑作ということもあるためか、渡哲也を主演に、21世紀の石原裕次郎である徳重聡の映画初出演という話題性も提供しつつ、その脇は長塚京三、岸部一徳という豪華ベテラン陣は配して、映画化への意気込みを強く感じさせる大作。
ストーリーは、実際にあった「グリコ・森永事件」をモデルにした話で、大手ビール会社「日之出ビール」社長の城山が誘拐されるところから事件は起きる。警察も特別捜査本部を組み誘拐事件の解決を図るが、事態は急変、城山社長は身代金の要求もなく解放される。だが、犯人が真に誘拐したのは、350万キロリットルの「日之出ビール」そのものであった。大企業と警察を翻弄する事件の犯人は、「レディ・ジョーカー」と名乗る、職業も年齢も全く違う競馬仲間の男達であった。場面展開は、警察・日之出ビール・犯人グループの各視点を交互に絡ませながら、事件の真相へと迫っていく。
テンポよくストーリーが進む分、人物の相関関係をパンフレットなどで知っておかないと、とてもついて行けない。ひとりの人物に主眼をおいていないので、主役が渡なのか徳重なのか長坂なのか、さっぱり分からない。犯人(?)確保などの見せ場のシーンもあるものの、そのほとんどが重要なシーンでないために妙に空回りしている。ラストに至っては、尻つぼみの感があり、誰も喜ぶ結果にならないという「いかにも高村薫らしい」終わり方になっているが、それは映画としてはちょっとマズイと思ったりする。しかも、わざとらしく告発文書のナレーションが数度入ることもうんざり。よって、全体として2時間という枠にはあまりにも消化不良気味で、映画化不可能という風評を確固たるものとする結果となってしまった。そもそも原作本はハードカバー二段組で上下巻の大作であり、また、高村薫が書き出す高踏的で情念的で硬質な雰囲気を映像で表現することにも無理がある。
しかし、本作の面白いところとして、犯人役のひとりでありながら、捜査に加わっている刑事役を演ずる吉川晃司の自虐的なコワレっぷりは、主役級を喰ってしまうほどの好演である。だったら、最初から吉川晃司を中心にして作った方が映画作品としてはと思う。だが、そうなれば本作は高村作品とは呼べなくなるから厄介だ。また、左の画像で使われているシーンも実際の映画には無い場面(多分、宣伝用)であったため、ぜひ、渡と徳重が対決するシーンをクライマックスにもってきてほしかった。贅沢な配役、物語の作り方も一級品だが、時間という物理的な壁で断念せざるをえなかった感じでもあるので、偉大なる試みに挑んだ監督に敬意を評する意味で、ディレクターズカット版というものがあれば、是非DVD化の際には、その物理的な枠をとってほしい。 |
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鑑賞後の第一声は「よく分かりませんでした」である。もし分かる人がいたら教えて欲しいのは、本作のテーマを観客に訴えるのに、なぜ「新造人間キャシャーン」を題材にしたかということ。そもそも初期の企画や脚本などが出来上がった時点で誰も反対はしなかったのだろうか。それもまた疑問である。
世間の悪評に違わず、その通りの仕上がりは予想以上の荒さで、舞台設定はともかく、ストーリーはかなりひどい。長きにわたる世界大戦が終結した後の世界は公害や戦争によって荒廃してしまい、そこに生きる人々も心が荒んでいった。人類が滅亡に向かっていくなかで、東博士は、人間の部位を復活させることのできる「新造細胞」を完成させることで、再び人類を救済しようと考えた。しかし、結局、東博士の新造細胞は、権力者の私欲のために利用されることとり、謎(本当に謎)の事故が原因となって、謎(一応、オチ有り)の新造人間を生み出す結果となってしまった。隠蔽工作のため新造人間を殺そうとする権力者の手を逃れ、生き残ったブライは、偶然見つけた謎(本当に謎)のロボット軍団を蘇らせ人類への復讐を図る。その一方で、若気の至りで志願した戦場であえなく戦死したが、東博士の手で嫌々(本当に嫌々)蘇させられてしまった息子・鉄也は、成り行きでロボット軍団に立ち向かうこととなる。なんとも力技な展開である。
本当に映画というものを分かって制作したのだろうかと疑問は物語のラストまで消えることはなかった。戦争による汚染と支配階級が存在する人類の荒廃を描いた近未来の舞台設定は、ありきたりではあるが、一応の面白さを感じるのが、登場人物たちの造詣がまるでなってない。そこいるはずがないのに、何の脈絡もなく登場してきたり、場面展開も一切無視。登場人物を勧善懲悪といった単純な存在しないというスタンスはまだ許せるとしても、それがかえって中途半端になっているのが悲しい。
SFXについては労作であることは否定できないので、よく出来たプロモーション・ビデオと思った方が無難。そこは誉めるべきだろうが、しかし、誰も救われないというラストに、戦争に代表される争うこととそこから生み出される憎悪の空しさを描きたかったのは分かるとしても、それが単に監督の自己満足レベルを脱し切れていないのは反省すべきところであろう。昔のアニメ版(未鑑賞)には人間の業を題材にシリアスな趣きがあったそうだが、その醸し出す雰囲気を汲み取って演出してほしかった。 |
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仲間由紀恵が主演しているだけで凡作「劇場版ト○ック」のつまらなさが再燃してしまいそうになるが、本作の原作が東野圭吾だけあって、ひさびさに引き付けられる推理モノの映画であった。テンポ観もいいし、扱っているトリックも分かりやすく演出しているので、推理ものが苦手な人も充分に楽しめる。
ストーリーは、広告代理店のエリートサラリーマンが大手ビール会社のやり手の副社長の令嬢と手を組んで狂言誘拐を試みたところから始まる。二人は確執しながらも、副社長の裏手を書いて、ついに狂言誘拐を成功させてしまう。しかし、常に危機的な状況に追い込まれた二人であったが、それ以上に二人の身に生じた危機は、実行中に恋に落ちてしまったということ。そして、誰も予想しえない、とんでもないトリックが用意されている。
トリックは秀逸であり、そして罠を仕掛けあう陣営(?)同士の駆け引きも面白みがあるのだが、作品全体としてはハリウッド的なところがあって、重厚さが感じられず、あまり訴えかけるものがない。出来のいい2時間ドラマでも再現できそうな作品作りには、あえて映画にしたところの意味が感じられない。
しかし、キャスティングで興行収入を得てやろうという雰囲気が無いわけでもないので、特定のファンにとってみれば、それなりに完成された作品でもある。仲間由紀恵が演じる樹里役の演技には、あまりヒロインとして魅力に感じないところがあったのだが、それさえも仕掛けのひとつとして収斂されているところからすると、本作は、演じる役者と登場人物の設定が絶妙に上手くいっていて、変に退屈せずに観ることができる。あくまで観客を楽しませるという点からすれば、ちょい役に意外な人物を投入したりするなど、「踊る2」のミニチュア版ぐらいの試みはあるので、この映画、レンタルビデオぐらいであれば、観て損はない。 |
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何度観ても飽きない映画というものがある。しかも、その映画がシリーズものであったとしたら、これほど幸運なことはないだろう。万人が認めるような、そんなシリーズの代表格は「石坂金田一」。かつて横溝ブームを巻き起こした市川昆監督の金田一耕助シリーズである。本作は記念すべきシリーズ第一作なのである。昔はよくテレビ放映されて、茶の間を釘付けにしていたのだけど、最近はさっぱり放送されていないのがとても残念な作品でもある。
舞台は戦争の傷が残った戦後間もない時代。旧家の名士で大富豪である犬神家で、亡き当主・佐兵衛が残した遺言状が公開された。そこには、莫大な遺産の相続者の条件として、佐兵衛の恩師の孫娘にあたる野々宮珠世と結婚した者でなければならないと記されていた。その奇妙な遺言状が死をまねくかのように、次々と引き起こされていく連続殺人。見立て、トリック、そしてあまりにも日本的な怨念に満ちた殺意。そして明かされる意外な犯人。このおどろおどろしい殺人劇を、石坂浩二という清々しいキャラクターを用いて中和させた金田一像を作り上げたことに、稀有なクオリティさを感じる作品である。
もう20年以上前に撮影され、しかも題材は戦後すぐの田舎を舞台にしているにもかかわらず、色あせることのない出来栄えになっているのは、ストーリーの組み立てもさることながら、やはり市川昆監督ならではの奇抜で斬新なカメラワークの賜物と言える。何度見ても、新たな発見が感じられるのは、作品の隅々までに丹念に塗りこめられた作品へのこだわりといっても過言ではない。
個人的なことで恐縮であるが、自分の映画観を作り上げたのは、本作を含めた市川金田一シリーズだと思っている。映画の上映時間は2時間以上と、細部までのこだわり。この両立の大変さを乗り越えた作品でないと、どうも容易には認められなくなっているのである。しかも、市川金田一の特徴として、事件が解決しても、すぐにスタッフロールへとつながらず、わずかな残り時間を使って、事件解決後の人たちも丹念に描いている。岩井俊二監督の指摘する「もうちょっと感」である。そうした「おまけ心」を使って人々はどのように変化したのかという後日談を演出するところに、陰惨な事件が真に解決したことを暗示させている。まさにカタルシス演出の手本とも言うべきであって、そこに触れてみたいがために、この金田一シリーズを何度も見たくなったりするのである。 |
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ファーストインプレッションは「料理の鉄人」。テーマにこだわって、ぜいたくな食材をふんだんに使い、視聴者を驚かせる料理番組の方針を、映画制作にもってきたら、その出来上がった作品こそが本作なのではないかと思っている。一見、地味なテーマの作品を日本映画の主役級クラスの俳優を豪勢に揃えて作ったのだから、その出来栄えも申し分ない。見ごたえはある。しかし、わざわざ映画化までして問いかけるテーマだったのかどうかというと首肯しかねる。わざわざ三ツ星フランスレストランに行って、豪華な食材で料理にしたものなのに、テーブルに出された皿の上には、日替わり定食だったというような気がする。
ストーリーは、現職警察官梶聡一郎が妻を殺して自首をしたところから始まる。殺人の動機は、アルツハイマーに苦しむ妻の頼みに応えた嘱託殺人なのだが、自首するまでに2日間の空白の時間があった。県警の捜査一課志木指導官は、梶が半分しか自白をしていない「半落ち」であると確信する。事件はやがて県警と検察の軋轢から調書偽造、隠蔽工作を暴こうとする新聞記者のスクープなど大きく波紋を広げていくなかで、隠された真実が少しずつ浮き彫りになっていく。
2日間の空白という黙秘の部分を、最後の最後までひっぱていく展開にもかかわらず、円熟した人間ドラマを絶やさないことで、観客を飽きさせない。俳優の名演もさることながら、登場人物のひとり一人を丹念に肉付けして、その思いを大事にしていく作品づくりは感心してしまう。素人が技巧を凝らして作品づくりをする日本映画の衰退に対抗するように、本作はまさに玄人による作品と感じさせる。しかし、それにしては、ラストの衝撃の真実はあまりにも普通すぎて感心しない。複線の張り方があまりにも露骨すぎるので、誰も予想しえなかった展開にはならないのである。「ああ、やっぱりね」という思いしか残らない。期待通りの展開というところは、まだまだ日本映画の悪癖が残っているのかもしれない。一応、胸を打つかたちにはなっているのだが、それが取り上げたテーマにふさわしいほどの社会問題を提起しているわけでもないので、どうしてもテレビドラマの枠組みから抜け出していない。
人間は、あくまで善人である。それゆえに犯罪もまた、やむを得ぬ理由があるものだ。そのように、言い切ってしまえば元もこもない。どうせ映画まで作ってやるからには、その前提を覆すほどの目論見や貪欲さを持ってほしいものである。そういう意味では、吉岡秀隆演じる裁判所判事の判決主文には重みが込められる。家族問題を抱える吉岡秀隆の判事にもう少しスポットをあてていれば、もう少し作品に重みが出たのではなかろうか。決して、悪い作品ではないのだが、個々の登場人物を丹念に描くのであれば、2時間という枠では短すぎたのかもしれない。 |
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誰も知らない Nobody Knows 是枝裕和監督 <シネカノン> |
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カンヌ受賞で話題になった映画作品。現実の事件をモチーフにした上、ドキュメンタリータッチの演出のおかげもあって、主役、準主役、脇役含めてすべて評判どおりの名演である。サントラで使われるゴンチチも挿入歌を歌うタテタカコも作品を盛り上げるのにふさわしく、さらに演技を際立せている。この演技を観るだけでも充分に足を運ぶ価値があるといっても問題はない。だが、しかし、カンヌを受賞したのは、柳楽優弥君の最優秀男優賞であって、作品賞ではないということがこの作品のアキレス腱なのだが。
舞台は現代の東京。大家に内緒で母親と子供4人はアパートで暮らし始める。下の子供たち3人は、大家に知られると部屋を追い出させるので、決して外出できないというルールの中で生活を強いられることになる。主人公である長男・明は、母親は外で働いている間、学校に行くこともできず、父親が全員違う弟妹たちの面倒を見ることになる。そんな生活も長くは続かず、母親は明に恋人が出来たことを告げ、20万円を残して姿を消してしまう。明は、大人に頼ることで兄弟が離れ離れになることを避け、4人だけで暮らしていこうと決意する。15年前に実際に起った事件を作品にしたものであり、監督が長年温め続けた集大成とも言える。
現代版「火垂るの墓」というべきだろうか。本作は、戦時中ではなく現代の話ということでは異なるが、作品全体に込められる殺伐とした閉塞感は伝わってくる。非常に重いテーマを扱っているためなのか、2時間21分に及ぶ展開は非常なまでに冗長さをひどく感じさせる。心象風景を多用されていることも原因かもしれないが、演出次第では半分の時間で済ませることができるはずと思うのだが。ストーリーとしても、胸を打つほどの悲劇的なラストを迎えてはいるものの、やっぱり中途半端さの印象が残ってしまう。訴えるものとしては、大人の勝手さと社会の無責任さを指摘しつつも、そんな世界の中で子供たちの生きることの純粋さを出したかったのだろうが、個人的にはこの作品が結局、子供たちが大人に発見されることなく終幕を迎えたことが気に入らない。どうせなら、悲劇を体験した子供たちを児童相談施設の大人たちに発見させるることえで、社会が成すべきことまで作品に盛り込み、それでもなくならない社会不安と閉塞感を作品として指摘してほしかった。子供たちだけの生活のみのストーリーでは、社会問題の追及も片方側のみの主張をしているようで、一方的な感じがするのである。
むしろ、今回の作品のストーリーには、続きがあっても良いと思っている。本作を3分の2ぐらいの時間に縮め、残りの3分の1は、大人たちに発見された子供たちのその後を描いてほしかった。多分、その後のストーリーは、最初は暖かく社会に迎え入れられるのだろうけど、やがて悲劇の発覚を引き金になって、バッシングと偏見、そして、そのような現実の中でも、懸命に生きていかねばならないという生への力強さと、そこから芽生える家族愛が語られることになるのではないだろうか。そもそも、劇場パンフレットに実際に起った15年前の事件の顛末のことが書かれているのだが、当時の裁判の法定で、無責任であるはずの母の期待に沿うことができず、責任をまっとうできなかった自分を責めて涙を流す少年の証言の方が、社会の弱さを指摘しているようで、この作品全体を通してこのパンフの記事が最も印象的なところなのがもったいない。現実の事件をモチーフにするなら、その結末まで映像化することで、救われない子供たちを取り上げたことの責任を果たすべきではなかったのか。どうしても、細部のヒューマニズムにこだわりすぎて、安易なかたちで結末を迎えたような気がしてならないのである。 |
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映像不可能といわれた村上龍の小説を、これからの映画界を担う若手男優とこれまでの映画界をひっぱて来たベテラン女優の競演により映画化した作品である。そのタイトルにふさわしいとは思えないほど、現実離れした過激で壮絶な戦いのドラマである。
ストーリーは昼下がりの午後、ふとした行き違いから事件は起る。少年の手にしたナイフがおばさんの喉を切り裂き、やがて、その波紋は広がって壮絶な復讐譚につながっていく。東京を舞台にして戦うのは、少年VSおばさん。ナイフから始まった凶器は、トカレフ、バズーカーまで発展し、ついには「貧者の○○○」まで投入される展開。そのぶっとんだ設定であっても、変に破綻することなく、ぐいぐいと観衆をひっぱていく。
おばさんチームを演ずる女優陣が、樋口加南子や岸本加世子などのベテランを起用しているおかげで、おばさん側の演技に凄みが出ている反面、少年チーム側がパワー不足で、演技に迫力負けしている感がある。ある意味、そういうところが、現代の日本人の若者らしいところでもあるのだが、これでは折角の作品の面白さが半減している気がしないでもない。せめて戦争まで起こそうというぐらいの復讐劇なら、登場人物はかなり壊れていてもいいのだが、最後まで日常性から脱却しきれていないほどの普通さが人物描写として残ったような感があるのはもったいないと思う。ゆえにラストの松田龍平のとんでもない行為も、事の成り行きの延長しか感じられないのである。また、劇中で使われる昭和の歌謡曲も、それほど多くの曲が使われていない上に、ストーリーの展開にはあまりにも唐突すぎて、挿入曲として場面を盛り上げるには、これも中途半端な形になっているように思う。
ただ、この物語の重要なポイントは、これまで何気に生きてきた少年たち、おばさんたちそれぞれが手に手をとって、互いに復讐しあうと状況の中で、彼ら彼女らが次第に生きることへの力強さを備えていくというところだ。これは本作の訴えたいテーマなのだろうが、それが分かりやすく(わざとらしく?)描写されていることには成功している。人殺しに躍起になるという設定自体、余りにも倫理に反することなのだろうけれども、それでも復讐とはいえ、目的を持って生きていくことの輝きは否定できないということにより、何もしないが生きる楽しみもない健在な現代日本人に対して、本作は最大の皮肉と言えるのではなかろうか。 |
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純粋なまでに時代劇映画、本作を表現するなら、その一言に尽きであろう。典型的すぎる感は否めないけれど、邦画の良さを曲げることなく表現した作品である。日本人の日本人による日本人のための映画と言っても過言ではない。よって、まだまだハリウッドに時代劇映画は撮らせられない。ちなみに、本作は、第27回(2003年度)日本アカデミー賞で、最優秀作品賞、最優秀主演男優賞(中井貴一)、最優秀助演男優賞(佐藤浩市)を取るほどの作品でもある。
明治時代も中ごろ、一人の老人が病気の孫を連れて、町医者のところに訪れる。町医者は、引越しの途中であったが、老人の願いを聞きいれ、孫を診断することになる。待合室で腰を下ろして診療が終わるのを待つ老人。ふと、老人の目に一枚の写真が止まった。その写真には、文武両道をこなす誉れ高き人物だったにもかかわらず、盛岡藩を脱藩し、新撰組に加わった武士・吉村寛一郎の姿が映し出されていたのだ。新撰組では、その温和の性格に反して、腕が立つにもかかわらず、妙にお金にこだわる振る舞いが多い吉村。果たして、彼はなぜ脱藩してまで新撰組に加わったのか。
後半のあまりにも引っ張りすぎる冗漫な展開の遅さには、さすがに辟易したが、前半のテンポの良さに、なぜ吉村寛一郎が脱藩したのかというミステリ仕立てで合わさり、観客を物語に引っ張る面白さを醸し出している。さすがは浅田次郎の原作と言える。ただ、ストーリーの面白さと同様に、配役にも光るものが感じられ、吝嗇と子煩悩ぶりと、かつての文武両道ぶりの二面性を合わせた吉村役を演じる中井貴一はさすがの名演ぶりではある。だが、やはり斉藤一演ずる佐藤浩市のニヒリズムで退廃的な演技は見逃せない。この2人の絡みによって、新撰組という血なまぐさい世界が際立っている。大島渚監督の「御法度」などは、とても問題にならない。
しかしながら、この後、大河ドラマで「新撰組!」が放映されて、佐藤浩市が芹沢鴨を演じており、こっちの方がより退廃的で凄みがあり、また本作で沖田総司を演じた堺雅人が、「新撰組!」では山南敬助役をしており、「新撰組!」を観て本作を鑑賞した身なので、配役がどうもしっくりしなくなっている。どうみても、斉藤一は芹沢鴨に見えてしまうのだ。おまけに吉村の息子・嘉一郎とその親友・大野千秋のキャスティングも藤間宇宙と伊藤淳史で、その組み合わせは「独立少年合唱団」と同じペアなのである。友情の名場面もなぜか二番煎じに思えてならない。そんな配役の異質さのみならず、人物設定も、どちらかといえば中年男性の好みが強すぎて、あまりにも一途過ぎる女性像に少し時代錯誤を感じてしまうのだが、いかがなものか。そういう意味で、前述の通り、昔の邦画の典型的すぎるので、予想通りに安心して観られるのだが、個人的には、古めかしさとあまりにも安全牌すぎる流れに妙な固定観念に引っ張られてしまうような気がする。ただ、佐藤浩市の演技だけが唯一、それを打破できる存在感があったことだけは疑うべくも無い。 |
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キル・ビル Vol.1 クエンティン・タランティーノ監督 <ギャガ=ヒューマックス> |
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チャンバラ活劇をド派手にやりきって、舞台は日本でありながら、かなり異質な世界観を醸し出し、しかも、挿入歌に日本語の演歌まで流れ出す。これって、本当に洋画なの?と首を傾げつつも、邦画フリークでありながら、思わず再び洋画作品の感想を書いてしまった。それほど、邦画フリークのツボをついた作品である。逆に形式ばかりとらわれてしまった日本映画よりも、その日本映画が忘れている活劇の破天荒さを思いださてくれるような気がしないでもない。
ストーリーはいたって簡単。結婚式を襲撃され、夫や身もごった子供を失った主人公ブランド。4年間の昏睡状態を経て、再び蘇った彼女は、かつての同胞であり、そして、襲撃の実行犯である殺し屋5人を抹殺すべく、復讐に出るという話。単純さながら、テンポ感の良いアクションの連続に、過剰な流血や衝撃シーンはあるものの、観る者は釘付けになってしまうはずだ。また、主役ユマ・サーマンと敵役ルーシー・リューの雪の日本庭園でのラストバトルはやや陳腐さは残るものの、何十人の敵役との大チャンバラ・アクションシーンや栗山千明の演ずる女子高生殺人鬼の狂気な演技は見逃してはいけない。
まさに型破りであり、同じチャンバラ映画でも日本だったら、そこまでやらないだろうという一線を、何のためらいもなく、やってしまっている。タランティーノ監督のふっとんだ感性の賜物だろう。描かれる日本の姿に、現実主義者ならば眉をひそめてしまうところはあるだろうが、空想を映像化するという映画の醍醐味は、そのマイナスを上回るものがある。よって、この作品で、洋画、邦画を問わず、エンターテインメイントの面白さの真髄を認識できるであろう。また、ところどころに流れるサントラにも、監督の演出が込められていて、娯楽のツボをつかれる。個人的には、主人公が、千葉真一の演ずる刀鍛冶が作った日本刀を手にするシーンで、「リリィ・シュシュのすべて」のサントラが流れるのは、分かる人には分かるというツボを突かれてしまったようだ。
一応、本作は前編であり、結末は次回作に引き継がれるかたちになっているのだけれど、次回作は、日本映画、厳密には深作欣二監督へのオマージュがそれほど現れていないようなので、どうも観る気がしない。しかし、このVol.1は、たとえ未完であっても、邦画フリークには観るべき価値は保証してもよい。ゆえに、本作を見終わった後は、「ここまでやるか」という言葉を、果たして何回言ったのだろうかと思い出してみるのも、この娯楽映画の楽しみ方のひとつと言っても過言ではないのではなかろうか。 |
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日本映画において、最高傑作を何かと聞かれたら、まっさきに思いつく作品である。原作者・松本清張をして、原作を超えたと言わしめたストーリー展開と、あのタモリも泣いたという笠智衆の名演技を盛り込んだ作品の完成ぶりには、数十年の時がすぎた現在であっても、全く色あせることない。個人的には、丹波哲郎の事件解明の大演説シーンと、宿命の音楽が流れるクライマックスは、何度見ても飽きないで夢中になってしまう。一度でいいかなら、あんな大演説(?)をやってみたいものである。
物語は、国鉄蒲田操車場構内で殺人事件が発生したことにより始まる。この身元不明の被害者を追って、警視庁の今西と蒲田署の吉村が捜査に出る。そして、東北弁の「カメダ」という事件の被害者の言葉を頼りに、秋田県の亀田へ向かう。しかし、亀田では、何の手がかりもなく捜査は難航することになる。しかし、被害者の身元が判明したことにより、捜査の目は、被害者が巡査として勤務した「亀嵩」に向けられる。そこで、ある親子の悲劇の話を聞いた今西は、いまにも栄光を掴もうとするある音楽家の存在をつきとめる。
事件ものとしては珍しく、刑事と犯人が接触するシーンはどこにも描かれない。犯罪を犯してでも成功したことに恍惚となる犯人・加藤剛に、刑事である丹波哲郎が近づくという場面で、映画は終わりを迎えるのだ。親子愛、差別などのタブー視されたところに、真っ向から臨む姿勢が評価される作品であるが、実は、それ以上にぞくっとさせられるのは、まさに、このラストの場面で描かれている宿命、つまり、手を汚してでも掴んだ栄光と、殺めたことからくる失脚の落差であると思う。この落差により、映画の視聴者は、なんとやりきれない人間の脆さともの悲しさを感じてしまう。
さて、最近、この映画もリメイクされ、中居正広主演によりドラマ化された。どうしても、映画版の影響を拭い去れることはなく、リメイクドラマは二番煎じの感は免れない。しかも、作品の面白さを半減させてしまうのが、中居が演じる犯人を、あまりにも善人に描いてしまったところにある。映画版の加藤剛は人を殺してでも栄光を掴もうとするエゴイズムさがあって、それが人間の弱さを表しているのに対し、中居の殺意は衝動的で、しかも、変な苦悩ぶりがわざとらしく全面でてしまって興ざめしてしまう。殺人を行うという確固たる決意がなくなっている分、宿命という音楽を完成させたいという執念が空回りしているようで、どうせなら、「模倣犯」ばりのエゴイズムを出してくれれば、リメイク作品とはいえ、名作になりえたのではないかと思うのだが。 |
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THE LAST SAMURAI エドワード・ズヴィック監督 <ワーナーブラザーズ> |
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ちょっと昔の洋画に白人騎兵とインディアンの交流を描いた「ダンス・ウイズ・ウルブス」という作品があったが、本作はその日本版と言ったところだ。しかし、本作で取り上げられる日本とは、現実の日本を舞台でしておらず、多分、ドラゴンクエストVに出てくるジパング国のような、西洋ファンタジーの世界に登場する架空の日本であると思う。時代考証などクソ喰らえと言わんばかりに、アメリカ人の描きたい幻想の国・日本を徹底的に作り上げたかったのだろう。しかし、本作を、そのいい加減さを持って駄作と断定していはいけない。
ストーリーは、トム・クルーズ扮する南北戦争の英雄オールグレン大尉は、かつて名誉と国のために命を駆けて戦ったが、インディアンの部族を虐殺した後悔から堕落の道をひたすら彷徨っていたところ、その腕を変われて、開国して間もない明治日本で、西洋式の軍隊を育成・指導することとなった。そして遠い異国の地に足を踏み入れた大尉は、急激な西洋化を推し進める明治政府に反旗を翻す武装集団に遭遇する。その集団を束ねるのは、渡辺謙扮する勝元盛次。彼もまた自分の生き方である武士道を否定された男であった。勝元の自らの信念に殉ずる姿に、大尉も彼に自らと同じ魂を見出し、共に戦うことを決意する。
2時間34分という超大作でありながら、日本の美しいすぎる風景と、迫力ある官軍と武士集団との決戦を丹念に演出したことで、全く観客を退屈させないのは、さすがハリウッド作品というべきものがある。まさに大画面で鑑賞するに値する映画と言えよう。日本人にとって首を傾げてしまう数々のシーンも、ロード・オブ・ザ・リングと同じファンタジー物語だと思えば、さして気にはならない。また、インディアンと日本人を重ねてしまうところにアメリカ映画の安易さはあるものの、明治時代にニ○ジャとか、いきなり戦○時代とか、官○の謎の一斉土下座とか、既成概念に囚われない自由な発想で描いた日本に興味を惹かれてしまう。多分、日本人監督では到底、作りえない作品である。さしずめ、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」のようなものか。
ストーリーに流れる悲劇さと潔さに、観客の中には涙ぐんでしまう人もいるようだが、洋画でありがちな過剰な暴力とセックスが全くなく、戦争による死も、「乱」などの黒澤明作品に通ずるものがあって、日本映画らしさがちらほら伺える。ハリウッドが日本人の良さを伝えてくれたというキャッチフレーズが使われているが、どちらかといえば、ハリウッドが日本映画のもつ雰囲気を本格的に取り入れたという感じである。トム・クルーズが良い所の少ない、スター性の薄れた、地面を這うような汚れ役を徹底したり、スローモーションを用いたチャンバラなんかも日本的。しかも、ラストのそれって、「二百三高地のパクリ」かと思ってしまう。だから、ここだけの話であるが、別にハリウッドに教えられなくても、日本映画には素晴らしい良さがあるんですと、実は敢えて言いたくなっていたりする。しかし、残念ながら、個人的には本作は2003年で劇場映画では最も面白い作品として紹介せねばなるまい。 |
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映画「少年時代」は高校時代に鑑賞した作品である。その後も、テレビ放映されて録画にも撮ったことがある。しかし、現在となっては、てんで思い出すことのなかった作品となってしまった。だからといって、本作がつまらないと言いたいのではない。逆に、忙しない世の中と安易て低レベルなドラマが大量生産されてしまった現在では、本作の価値の置きどころを見失わせてしまい、長く意識から遠ざけてしまったのではないかと思う。もちろん、上映当時は、漫画や小説など原作にも、いろいろと目を通しすぐらい夢中になったぐらいである。そして、現在、ふと鑑賞しようとしても、多分、その当時の夢中さが沸き起こることに変わりはないと思う。むしろ、忘れていた何かをきっと思い出させてくれるような、そんな期待を込めてしまいたくなる名作である。
ストーリーは、戦時中の富山県。東京から疎開してきた少年・進ニにとって、日常の関心は、戦争の行く末ではなく、学校生活における辛いイジメの毎日だった。疎開地で初めての親友となった武と交流を深めたはずの進ニだったが、なぜか武は、学校では他の少年たちの前で進ニに要求を突きつけ、執拗ないじめを繰り返す。武の表と裏に悩む進ニ。進ニはそんな思いを武にぶつけるのだが、武は「わからんのじゃ」と逆に進ニに辛くあったってしまう。そんな葛藤が繰り返される中で、季節は巡り、二人の間に、大きな変化が訪れる。
戦争ものと言えば、やたらと反戦テーマが重く圧し掛かる作品が多い中で、固定観念に囚われることなく、少年たちの葛藤に人間ドラマとしてのリアリティが見事なまでに浮き上がらせている。それが、作品としての失われることのない秀逸さが際立たせていると言っても過言ではない。そんな大人でも難しい役作りをしている少年たちの演技を見れば、鑑賞者は作品に対する篠田監督の意気込みを知ることになるだろう。そんな少年たちもさることながら、脇を固める大人の俳優陣も実に天の配剤がごときキャスティングである。特に、主人公の伯父役の故河原崎長一郎の名演が光る。
また、井上陽水が唄うタイトルと同名の主題歌に心を奪われた人はきっと多いはずであろう。終戦後、汽車に乗って東京に戻る進ニと、それを追いかける武との別れと重なり合って主題歌が流れるラストシーンに、身動きがとれずにじっと魅入っていたことが思い出される。ラストでは少年の残酷さが解決されず、ある意味、決して恵まれた終わり方をしていないのであるが、少年時代という未熟な人間の裸の姿を描き出した演出に、誰が何と言おうと、日本映画の隠れた名作の所以を感じるのである。 |
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1994年6月に発生した松本サリン事件をテーマにした作品であるため、発端も結末も問題点も、鑑賞者には周知の事実であるということが前提にある。そんなハンデのあるなかでも、ぐいぐいと引っ張られてしまうのは、事件に関わった人たちの思いや葛藤を描いて人間ドラマとして仕上げたためだと思う。ただ事実にそっていくだけでもなく、まさに、あのときあの場所で何を思ったのか。単に反省を追い求めず、当事者たちの感情をまっすぐに演出したのが、成功の一因と思う。
しかし、映画としての作りはどうだったかといえば、予算の問題だったせいのか、見せ方や表現の仕方は非常に安易な感じを受ける。中井貴一、石橋蓮司、寺尾聰の名演技がなければ、作品として成り立たなかったのではないだろうかと思ってしまう。
また、脚本にしても、高校生の放送部取材を通して、ストーリーが進むというのも、いただけない。真実と視聴率の狭間に自己の決断に迷う報道部長、組織の軋轢に苦闘しつつ犯人逮捕に情熱を傾ける警部補、容疑を掛けられても家族のために迫害に立ち向かう神部氏の模様を前にして、遠野凧子演じる高校生放送部員があまりにも正論と正義を貫きすぎて、鑑賞者に媚びるようで、わざとらしさを感じてしまう。放送部の取材を通した回想という展開と、終盤のサリン発生現場の不要な再現シーンをカットして、報道側、警察側、神部家の3つの視点をじっくりと演出した方が良かったのではないだろうか。
けれど、高校生放送部が、警察やマスコミのみを攻め立てず、それに踊らされた視聴者側にも問題提起を投げかけたというシーンは評価したい。この手の映画では、視聴者側がだまされた側に移って、歪な被害者意識を持たせてしまいがちなのだが、加害の一旦を担っていることを指し示すような演出も見られたのは、テーマの深みのツボをついていると思う。やたら「人権」とか「市民」とかという言葉が飛び交って、教育的な映画な様相を感じさせてしまうのは残念だけど、何もかも鵜呑みにしないで自分の目で確認し、自分の思考をもって真実を追い求めることの重要性を日本で起った悲劇を元にして伝えた感動作であることには間違いない。 |
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個人的に「さとうきび畑」というフォークソングとの出会ってから、12年ほど過ぎたのだが、いつ聴いても引き込まれる奥深さがある。2003年9月28日(日)TBS系で放映されたドラマ「さとうきび畑の唄」で使用され、再び感動が胸を打ってきた。しかし、ドラマの放映された日に掲示板に次のようなコメントを記した。この感想については今も変わっていないので参照されたい。
『もったいない。非常にいいドラマになると思っていたのに・・・というのが感想である。森山良子の歌う「さとうきび畑」もグッド!!。まだまだ息子には負けていない。百歩譲って、沖縄なのに明石家さんまが大阪弁を話すのは許そう。同じく、使い古された戦争ドラマのネタを焼きなおすのも、まだ感動できるから許そう。(それでも、さんまの息子のぼるの戦死シーンを含め沖縄戦は圧巻。)
しかし、まるで戦後からタイムスリップしていきたようなさんま・黒木瞳夫婦の非戦のスタンスは、ちょっとリアリズムに欠け、興ざめてしまう。主人公の夫婦だけが全体の中で浮いて見える。いくらなんでも、視聴者に媚びすぎ。作品づくりの深堀りの無さが伺える。せめて、当時の日本人の参戦への気持ちを反映しながら、戦火のなかで、疑問が生じ、気づいていくという流れにして欲しかった。
それでも、ラストは泣けます。森山良子の歌をバックに、収容場でさんまの撮った写真を見る黒木瞳と残された子供たち。みんな笑顔の写真を眺めながら、そして息子の遺書が届けられようとする。久々、ジーンときただけに、実にもったいない。』
ドラマには感動したことは事実だか、全体としては否定的である。しかし、ドラマ全編に名曲「さとうきび畑」の秘めた魅力を遺憾なく流し続けた制作側の眼力には敬服を抱かざるを得ない。この歌は全部で10分におよぶ演奏時間を持つが、それを感じさせない物語性、思想性、人間性に溢れている。変な映画をレンタルビデオするぐらいなら、「さとうきび畑」を最後まで黙って聴いた方が、鑑賞のカルタシスは十分に得られると思う。
ちなみに、放映終了した音楽番組「そして音楽が始まる」のHPサイトのバックナンバーで、森山良子が『平和を祈っていく、気持ちを広げていく、沢山の人が歌うっていうのは、内容だけじゃなく、歌自身のエネルギーもあると思うんですね』とこの曲について語っている。この言葉からでも、名曲「さとうきび畑」の凄さが分かるはずである。 |
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「これで終わったわけじゃないですよね」「まだ始まってもいねえよ」
シンジ役の安藤政信が語りかけた問いかけとマサル役の金子賢が答えた応答。このセリフに重い意味を持たせるためだけに、この作品が作られたような気がする。本作は、「HANA-BI」「座頭市」で世界の映画賞を獲得してきた北野武監督の1996年に上映された第6作目の作品。なんでもない2人の仲の良い高校生が、自由のもとに袂を分かち、ひとりはボクサーへの道をめざし、もうひとりはヤクザの世界へと足を踏み入れていく。それぞれの道で成功し、そして挫折していく。青春というには苦々しすぎる作品である。
本作の特徴的なところに、映画の流れが、ワンカットがそれぞれ独立したような断片的なピースの組み合わせのような印象を観客に与えているところだ。そのせいか、連続性も希薄で、主役のマサルやシンジも含めて、登場人物たちが過去とのつながりの延長としての現在に生きているというイメージが感じられない。それが、まるで根無し草のような若者像を描き出して、それを自由と呼ぶには危うすぎる気持ち悪さを表現している。監督は自由というものの後ろに秘められた危険と残酷さを、こうした演出方法によって効果的に映像に込めたのかもしれない。
ラストで、どうしようもない挫折のなかにまで落ちてしまった2人が告げた最後の言葉が冒頭のセリフである。脇役の他の若者たちが、漫才や結婚などのように、それぞれの道で生きていこうとする一方で、2人の主人公は、すべてを失ってしまった状況に陥ってしまったところで映画は終わる。最後のセリフの意味には、懲りていないのか、それとも、まだ失われていない何かが表されているのかは分からない。ただ、そんな状況の中でも、これからを生きていかねばならないという厳しい事実に直面していても、悲観していないところに、主人公たちの強みである若さと自由さが希望として感じるのである。
他の北野作品では、賛否両論の多い中で、本作だけが万人の認めるに近い評価をもらっている。現在の若者というドラマとしてのリアルさもさることながら、熱い情熱を内に秘めつつ、クールで乾いた現代の青春模様を表現している久石譲の音楽も最高である。地味なつくりでありながら、見ごたえの作品である。 |
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武田鉄也主演の日本の古き良き時代の映画。第5弾まで公開されたが、初期の「刑事物語」「刑事物語2」は邦画史に残る名作。特に「2」のラストシーンは、ネプシューン原田氏がコントに使われたほどの名場面である。ゆえに、後期の作品がややコメディタッチに様変わりしたことはとても残念である。
前作では聴覚障害者を題材した刑事物語の第2弾である本作は、迷宮入りとなった銀行強盗事件と母ひとりの手で子供を育てる家庭に主人公、片山刑事が絡み合っていくヒューマンドラマである。サブタイトルに使われた「りんご」が事件の謎を解く鍵となる。この時の武田鉄也はもちろん若く、よって映画の見所のカンフーシーンも迫力はある。とくにハンガーヌンチャクは見ごたえも十分。
一応、推理ものであるため、結末を記すわけにはいかながいが、本作は、誰ひとりとして幸せになれなかった救いようのないラストで終了する。ある意味、わざとらしすぎる形にはなるだけど、それを感じさせず鑑賞者の涙腺を緩ませてしまうのは、エンディングで流れる吉田拓郎氏の「唇をかみしめて」が、あまりにも突然で、そして感動的に流されるからであろう。
「男は強くなければ、愛する人は遠くへ行ってしまう」。片山刑事が少年に語りかけるセリフである。大人たちは子供に何を言っていいかが分からなくなった21世紀の世の中では、あまりにも古めかしく、また説教くさい言葉である。しかも、刑事物語は、昔はよくゴールデン洋画劇場でテレビ放映していたのに、最近はすっかり忘れされている。けれど、この片山刑事のセリフがまだ魂をもって影響力のあった時代を、いま一度、思い出しても良い時に差し掛かっているのかもしれない。 |
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誉めようとしても誉めるところのみたらない映画。かといって、駄作とするにはいささか抵抗はある。迫力のSFXと息つく間もないスリリングなイベントはそこそこ楽しめるのだけど。
1999年に完結した望月峯太郎の漫画の映画化。突然の大地変に巻き込まれて崩壊した日本。生き残った高校生テルとアコは希望を求めて廃墟の中、東京を目指す。見事なまでのSFXが作り出した荒廃した日本を描き出し、人間の狂気とパニック、殺戮から起る悲劇を徹底的に書き切った飯田譲治監督の野心作である。
原作に忠実にしたという姿勢には好意的に思うが、映画としてはこれほど観ていて辛いものはなかった。廃墟と崩壊の数々のシーンは渾身の力作ぞろいで映像的には興味を引かれるのだけど、ストーリーのテンポ感の無さや、救いようの無い世界の救いようの無い結末には、後味の悪さだけが残る。
もし、1999年当時に公開されれば、多分、大作になりえた作品だと思う。類似作品として80年代に「復活の日」という映画があったけど、それよりかは遥かに優れている。残念なことは、現代という状況の中では、終末思想は古びてしまい、また、生きることへの好意的なテーマは、「01.9.11」のグランドゼロ以降の時代ではあまりにも陳腐になりすぎたこと。単なる肯定論だけなら、観衆を納得させるには薄すぎる。
こういってしまうのも変だけど、東京を舞台にしたから、人間の絶望的な局面を描かざるを得なかったかもしれない。もしも主人公たちが大阪を目指しているとしたら、ラストはペシミスティックなものにはならなかったはずではなかろうか。震災を目の当たりにした人たちの、生きていることをラテン的に肯定するような、そんな前向きな生への執着があったかも。
ぜひ「ドラゴンヘッド 関西版」を製作していただけたらと思う、もちろん冗談だけど。 |
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2003年最初の劇場鑑賞作品である。ちなみに大阪では毎月1日がサービスデーで1回1000円で映画が見ることができる。その点で言うと、今回の作品は十分元の取れる作品だったと思う。
20世紀初期の上海を舞台に活躍した日本人詐欺師の奇想天外なペテン劇をドラマ化した作品である。自分の命と引きかえに、日本軍から大量の武器を騙し取ろうというのがストーリーである。物語の年代は戦前の話であるけど、国際都市上海で繰り広げられる策謀の数々は、現代日本で忘れられかけているロマンやチャレンジ欲を掻き立ててくれる。
作品も非常にテンポ感がよく、複雑になりがちな当時の歴史背景や人間関係も分かりやすく表現しており、舞台装置も盛大さをもって作られているので、劇場ならではの醍醐味は十分実感させてくれる。2時間弱を満喫させてくれるエンターテインメントは保証できる。
ただ、あまりにも都合の良過ぎる展開の多さと、ストーリーが架空である以上、事実を歪めることができなかったことへの消化不良なラストはやむを得ないとしても、当時の上海が放っていたはずの”魔性と混沌を帯びた魅惑さ”が出し切れていなかったのはとても残念である。また、詐欺師役としては最もふさわしい俳優だけれど、織田裕二という俳優を起用する以上、作品をソフトでさっぱりさせてしまったのが、作品全体の迫力不足となったことも否めない。
しかし、”武器は頭の中にある。”ペテン師は仕事に命を賭けない。”やばくなったら、さっさと逃げる。”そういったセリフが生命を帯びて活き活きと感じられただろう、この当時の上海。この作品を鑑賞しながら、彼らの活きた時代を羨ましく思いつつも、一方で、現代も当時と負けないぐらいチャンスの転がっている混沌の時代であるということを、そろそろ私たちも認識すべきかもしれないとも思えた。そういう今日ならでは作品である。 |
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危機に立ち向かい、苦心しながらも乗り越えてきた日本のビジネスマンを描いた「プロジェクトX」の影響を受けて、日本ビクターのVHSの開発にまつわる実話を元に作られた映画である。今、不況で元気の無いサラリーマンにとって、明日への活力を与えてくれる映画だと思う。
現実に基づいて作られたことから、観客は結末を知っていることを前提に作られたのか、映画の流れは非常にテンポがよく、ぐいぐいと引っ張られていく。時間を忘れさせてくれる映画は最高だと思うのだが、この作品もその一つといえる。
ただ、視聴者に分かりやすく作ろうとしたところもあるためか、登場する役者の印象と役柄があまりにもぴったりすぎて、新鮮味が薄れてしまったことと、技術者というイメージに一般人の持っている固定観念が色濃く反映されすぎたことが非常にもったいない。
また、現実には稀有な人物であろう西田敏行演ずる技術畑出身の加賀屋部長よりも、それを支える渡辺謙演ずる事務畑出身の大久保次部長の方が、観る側にとって共感するところが多いと思う。多くの日本のサラリーマンを代表しているのが、大久保とも言える。
ストーリー的には、加賀屋部長を中心に動いており、それゆえに、あまりにもドラマ的な「わざとらしいさ」が目に付くところがあるけれど、そんなことに気をかけず、是非、大久保部次長の心の変化をじっくりと探りながら鑑賞してもらいたい。なぜなら、彼の成長ぶりこそ、身近に感じることができる現実味が存在し、そして、そっくりそのまま、明日に向けての活力の源として心に残ることと思われるからある。 |
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宮部みゆき氏の大ベストセラーの映画化である。監督も森田芳光氏であり、期待大の作品だった。ここで過去系を使わないといけないのは、本作は原作の価値を著しく低下させただけでなく、森田芳光氏の最近のミステリー作品である「刑法第三十九条」や「黒い家」までも失墜させしめたという点である。そもそも、この作品を2時間で収めようということ自体、無理があったのではないかと思われる。
ただ、キャストの選択は絶妙で、中居正広がピースを演じたのは見事と言えるが、ジャニーズ事務所のよこやりがあったのか、全体的に迫力に欠けてしまっているのが残念で仕方がない。そのため、ピースの悪意の表現が薄まり、見ている観客も茶の間で2時間ドラマを見ているような気分であった。
そこで、ぜひとも主役を孫娘を殺された豆腐職人役の山崎努を主役にして、彼の視点のみで展開させ、ピース役の中居は、あくまでマスコミの向こう側にいる存在としてのサブキャラにすればよかったと思う。それだけ、山崎努の演技は素晴らしかったのだ。 |
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連合赤軍の内ゲバを題材にした立松和平氏原作の映画化である。しかし、ただ単に映画化したわけではなく、劇中劇なスタイルをとり、映画の中で、連合赤軍をテーマに映画をとるというストーリーを展開させている。
よって、学生運動世代のひとりよがりな映画にはならず、出演する現代の若者に意見をいわせることで絶妙なバランスを取らせている点は慧眼だと思われる。
途中、学生運動世代の映画監督が失踪し、メイキングを撮影していた若手監督にバトンタッチをして撮影続行するというストーリー展開を見せているが、この結果として、結局、この映画は何を言いたかったのかがぼやけてしまい、バランスをうまく取りすぎたことが別の意味で欠点となっているような気もする。
だが、このことにより、世代によってはラストまでの印象がそれぞれ違ったものになり、そして過去のことは過去のこととして片付けてしまいがちのものを、それぞれに合せた形で現在に呼び起こしているようにも感じるのである。 |
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スワロウテイル 岩井俊二監督 <ロックウェルアイズ> |
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つまらない、面白くないと言われ続けたきた日本映画をまだまだ見捨てたものじゃないと感心させれた作品である。しかし、世間的にはアイドル系俳優の起用により、正当な評価を受けられにくかった不幸な作品でもある。
バブル期の頃の日本をモデルに、世界一強い”円”を求めてきた非合法の移民たちの現実と夢を描いた作品。人間の本来の姿を見事に描いている傑作である。
この作品に登場する人物は、特異な経歴でありながら、親しみを感じる身近な生の人間たちである。これは、自分が生きていくため、普通の生活では到底想像できないような、道徳を外し、犯罪に近い(またはそのもの)手段を選んでいるのに、鑑賞者と違う世界に生きているような特別な存在の人のように扱っていないということである。
犯罪シーンや殺人シーンを取り込みながら、人間の生きていくことへの滑稽さも平行して描かれている。それでいて、真摯に真面目に生きているということもしっかりと鑑賞者に伝えていっている。
ちょっと抽象的な感想になってしまったが、90年代の日本を振り返るには適した作品といえる。 |
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独立少年合唱団 緒方明監督 <WOWOW+バンダイビジュアル> |
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2000年代初頭を飾る日本中学生映画といえば、リリィ・シュシュのすべて、バトルロワイヤル、そして独立少年合唱団と考えている。前者の2作品に対して、興行中はあまり注目されなかったこの作品であるが、実は2000年第50回ベルリン国際映画祭コンペティション部門で新人監督賞にあたる「アルフレート・バウアー賞」受賞作なのである。
学生運動が下火になってきた頃、男子校である独立学院に入学してきた道夫は、そこで天使の歌声をもつ少年、康夫と出会ったことで合唱の世界へと惹かれていく。そして吃音症だった道夫は歌うことで自信を取り戻していく。
舞台の上での一瞬の音楽のために、それまで過酷な練習を積み重ねていく合唱団。だれひとり手を抜くことも許されず、常に集団でひとつのものを作り上げていく過程は、失われつつある健全な集団意識というものを鑑賞者に思い出させてくれる。その点においては希薄な人間関係にしか依存できなくなった今の若者たちには逆に新鮮な印象を与えてくれるだろう。
しかし、その一方で1970年代の学生運動の末路というものも重ねて表現している。その運動でなされた集団行動との比較を踏まえて鑑賞していみるのも面白いかもしれない。とくに合唱団を指導する学生運動崩れの教師の革命への諦めの言葉は、その当時のことだけでなく、夢と理想を追い求めすぎる若者に向けても通ずるだろう。
ある意味、地味な映画であるが、思春期の少年が少年であることから意思に関係なく抜け出してしまうことの衝撃を改めて感じ取れるのではないだろうか。 |
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いわずと知れた問題作。R−15指定の作品であるが、是非、中学生にも見てもらいたい映画である。
日本が完全に壊れてしまった近未来で、BR法が成立される。これは自信の失った大人が子供たちを抑えるためにつくった法律で、毎年全国の中学校からひとつのクラスが選ばれて、クラス全員で殺し合いをするというものである。この映画は、その法律に巻き込まれた中学生を描いた作品である。
実は、映画化される前に原作小説をよんだことがあるのだが、私見からすれば原作の方が若者群像を見事に描写しているという点で面白いと思っている。映画版ではあの原作を無理やり2時間以内に収めたことに無理があったのではないかと思われる。しかも、実は小説版と映画版ではラストが異なっているのだ。そのラストも小説版の方が気持ちが良い。生きていくことに疑問を感じつつもそれでも走っていかなければならないというメッセージが込められた映画版のラストに対して、小説版では生きていく以上は死ぬまで闘いに挑戦しようと決意するラストになっている。この変更については、10代の少年少女にとってみれば将来に対する不安の方がリアルタイムの中学生を描いた映画版にふさわしいのかもしれない。
しかし、社会に出ようとする者、既に出ている者に対してはむしろ原作版の方が今の自分に適応するのではないか。この映画を見るたびに、小説と映画の好みによって現れる学生と社会人の違いを垣間見る気がするのは、私だけなのだろうか。 |
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リリイ・シュシュのすべて 岩井俊二監督 <ロックウェルアイズ> |
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現実と非現実を田園とインターネットで表現した2001年公開作品。名監督・岩井俊二が遺作としたいとまでいった作品である。ストーリーは、死に直面し豹変した同級生による執拗ないじめという現実に目をそむけ、少年が心を通わしていくのは、歌手リリィ・シュシュの歌だけであった。現実と切り離されたインターネットの世界で、少年はリリイ・シュシュを通して青猫と出会い、お互いの苦しみを分かち合い、友情を見つけ出していく。そして二人はコンサートで会うことを約束する。
場面設定が2001年という時代には少し遅すぎた感もするのだが、そこはそれ。観客を2時間26分という上映時間をラストまで目を離させないのはさすがである。ただ、鑑賞後は「所詮、人間は他者には結局、理解できない(されない)ものなのかな」という印象が残った。自己の悩みや不安、苦しみは外部に出ても、拒絶され、もしくは認識さえもしてくれないまま、再び深遠の内部へと沈んでいくというものなのだろうか。
ある種の絶望にも似た印象に対し、それでもやっぱり人は受け入れて生きなければならないという残酷な仕打ちを主人公はラストで背負い込んだという感想を持ってしまう。たとえ、それが凡庸の日常の中で消えることなく続く苦しみでさえあっても。
話は変わるが、リリイ・シュシュのすべてで、背筋がぞくぞくとした絶妙に使われたシーンを紹介したい。あこがれの女子生徒を自らの手引きで、星野のレイプの場に導きこんだ主人公、雄一は、生きることに絶望し、自らの死への衝動とそれが実行できない不甲斐なさをインターネットで吐露していく。それを読んだチャット仲間、青猫が自分も雄一と同じだと告白し、お互いの心を支える存在、リリィ・シュシュに救いを求める。雄一と青猫がチャットで互いに言葉を交わすことで、心の傷が回復していく。そのとき、バックに流れていたドビッシーが突然、リリイ・シュシュの「飛べない翼」に変わる。その瞬間に観ている者も、重い現実から一気に開放される。
このように、本作の凄さは、音楽と映像のマッチングにある。ドビッシーが田園をあらわし、現実を示す一方で、リリイ・シュシュの歌が電波をイメージさせ、仮想を表現する。その落差こそが、映像だけでは表現しきれない、妙といえる。それ以外のシーンも、セリフが芝居かからず、現実そのものの他愛のなさを出しているので、それを補う音楽は見事に映像と溶け込んだ奇跡の作品とも言える。 |
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踊る大捜査線 THE MOVE2 レインボーブリッジを封鎖せよ! 本広克行監督 <東宝> |
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前作から5年、待望の映画化第2弾。前評判どおりの人気作である。登場人物はドラマとほぼ同じで変わり映えしない点、今回の作品については一切、ストーリーは極秘にするという徹底ぶり。よって、この批評も具体的な内容には触れないようにする。
もし、敢えていえば、前作が「現場の敗北」というならば、本作は「現場の雪辱」と言ったところ。テーマも現代的で、「働くとは何か」「リーダーとは、組織とは」といった「仕事に対する信念」がメインに流れている。ある種、流行のNHK「プロジェクトX」を意識した展開に、映画としての姿勢は別にして、あまりにもマスコミ的な作品といったところが伺える。マンネリや二番煎じを逆手にとって、観客が見たいものは何かということを据えて製作したということだろうか。けれど、水戸黄門的な当然の結末を迎えるとしても、観客、とくにファンからすれば、それなりのカルタシスは感じるだろうから、それはそれで成功なのかもしれない。
ただ、やはりマスコミ関係者と世間との距離というべきか、折角のテーマも深堀りされておらず、前半のテンポ感の悪さも伴って、いまいち伝わってこない。しかし、ファンサービスはしっかりしているので、お金を払っても損した気分はない。例えて言うなら、レストランチェーンのそれなりの定食という出来映え。
また、キャリア女性管理官の設定と真犯人の人物造形の詰めの甘さもさることながら、レギュラー陣も年齢が増したせいなのか、パワー不足。全体的に薄くなりがちだけに、せめて、いかりや長介演ずる和久に深みを出させてもっと活躍させてほしかった。
とはいうものの、映像の見せ方や小道具の妙なところにこだわりもあって、楽しめるところも多く(特に”カメダ”は最高!!)、もちろん鑑賞後はスカッとしたストレス解消もできる。評価の難しい作品である。 |
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バトル・ロワイヤルU 〜鎮魂歌〜 深作欣二・深作健太 <東映> |
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過激な暴力表現でR15指定となった前作「バトル・ロワイヤル」よりも過剰な映像演出のために、再び指定を受けることになった続編。本作撮影中に深作欣二監督が死去し、後を深作健太監督が引き継いで完成までこぎ着けた話題作である。
前作が原作の小説そのままに映画化したため、かえって枠にしばられ、中途半端な完成度となったことに比べ、続編は主人公や時代背景はそのままなものの、ストーリー展開は全くの深作組完全オリジナルで作られている。たださえ反発を招くような内容ながら、有事法制問題が取り上げられているご時世に、全く無制限やりたい放題に描ききっていることに、笑えないが、思わず喝采してしまう。タブーまで乗り越えた展開には、前作の不完全燃焼さの克服が見られる。
BRU法によって選ばれた町立鹿之砦中学校3年B組の生徒42名は戦闘服と武器を身につけ、首都爆破で多数の死傷者を犠牲にしたテロ組織ワイルドセブンが立てこもる軍艦島に潜入する羽目になる。しかも、3日以内にテロ組織のリーダー・七原秋也を殺さなければ全員死亡。そのうえ2人1組のペアで行動し、途中でパートナーが死亡すればもう1人も死亡するというルール。やがてテロ組織と銃撃戦が始まり、次々と斃れていく中学生。しかも、その銃撃戦を続けるテロ組織たちは、相手がかつての自分と同じであるバトルロワイヤル参加者であることを知らない。
2時間13分がほぼノンストップで流れ、息もつかせぬ展開とはまさしく本作のことを言うのだろう。正直、前作の物足りなさから、続編はあまり期待していなかったのだけど、バトルロワイヤルという特殊な設定を題材にして、深作組が放ちたいテーマ性が非常に色濃く表現され、また人物描写も前作以上に演出されているので、予想上回る出来映え。テロ、自衛隊、若者という現代の問題を単なる勧善懲悪の図式に当てはめるのではなく、さまざまな立場の人間の考えや思いにのせて訴えかけ、そして、その解釈を鑑賞者に委ねているところがいい。「世界には、63億の正義があり、悪がある」という七原の言葉に、過度の相対主義の問題はあるけれど、自立を求められている日本人への問題提起が込められている。
終盤での戦闘シーンは圧巻で、自衛隊特殊部隊VSテロ組織&中学生という戦争の中、次々と戦死する隊員と若者たち。若者の反発する力とそれを押さえつけなければならない大人側の事情が引き起こしたこの悲劇は、3年B組金八先生第2シーズン第24話「卒業式前の暴力」に描かれた連行シーンの20年後の姿を彷彿させる。そして、多くの死と遭遇しながらも、ラストは自己自立の選択を促すポジティブな余韻を残し、前作ラストのネガティブさも解消されている。続編全体にかもし出す良質の完成度は、深い経験と老練さをもった深作欣二監督と、若い感性と個性がそのまま表せる深作健太監督のコラボレーションによって作品の広がりと深みがもたらされた偶然の結果と思う。
前作と関係ある登場人物(冒頭の前回優勝者や自衛隊隊員)やグッズ(ナイフやバンダナ)も多く、ファンサービスも旺盛。是非、前作を視聴して体と心をBRの世界観に順応させてから、続編を見てもらいたい。 |
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日本映画最大の怪作である。本作を話題に会話ができるのであれば、かなりマニアと言える。最近になって、DVDでも発売されるようになったのだけど、私自身も、本作を知らないまま、偶然、深夜のテレビで流れていたものを見て、夢中になったひとりである。
劇場公開されたのは1979年。ストーリーは、沢田研二が扮する中学教師が、原発からプルトニウムを盗み出し、それで原爆をつくって、日本政府を脅迫するというもの。いまでこそ、21世紀型の戦争とかいわれるような展開であるが、当時にこれほどのものを思いついて、映画を製作したことに非常に興味を覚える。
そもそもが、とんでもない話であるだけに、途中のエピソードもかなりぶっ飛んでいる。菅原文太が演じる刑事もまるで不死身のようだし、脅迫内容も、野球放映の延長とか、当時日本入国禁止だったローリングストーンズの日本公演を要求したり、主人公が警察署へ盗みに入るのにも、まるで警察をからかうような奮闘ぶり。エピソードの一つ一つをとっても、本作のスケールの大きさと余裕の貫禄さがうかがえる。ラストも視聴者の予想を十分に裏切ってくれる。
誰しもモラトリアムな学生生活を終え、社会に勤めにでてくれば、日常から刺激はなくなり、ただゆるやかな平凡さが時間とともに流れていく。公開当時は、それが色濃く現れた時代なのだろう。そんな息苦しさの脱却を原爆製造という破天荒さをもって駆け抜けていくのが主人公の沢田研二である。当時には新鮮な刺激だったとも言える。けれど、考えの多様さが認められた現代ならば受け入れられた本作も、当時としては一部のマニアかインテリ評論家しか注目されなかったと思われる。けれど、現在だからこそ、この作品に影響を受けて、社会の枠を飛び出そうとする者が増えてくるような気がしないでもない。しかし、だからといって安易にリメイクしてほしくない高給アンティークな映画である。 |
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大阪が映画の舞台ということで、なにげなしにレンタルビデオで借りた作品。しかし、思わぬ収穫の手ごたえがあった。久々に良くできた映画だと思った。しかし、ストーリーはいたってよくある話で、男子小学生が女子中学生に一目ぼれし、そして年齢差を超えて猛烈にプロポーズしていくというもの。本当によくある話である。
けれど、この作品の凄さというのは、これまでタブーとされていた思春期の”性”の表現が日常的に盛り込まれていることである。それが、見ている大人に子供のころを思い出してしまうような気恥ずかしさを引き出してくれる。もちろん、ここでいう”性”とは子供から大人への成長の証としての”性”である。
大人には大人の悩みがあり、子供には子供の悩みがある。他人にとってみれば、半ばどうでもいいことであって、本人には深刻な問題である。それは大人でも子供でも関係ないはず。しかし、大人は自分の子供時代の気持ちなどすっかり忘れてしまっているから、子供の悩みなんて、他愛の無いものになってしまっている。
この作品は、そんな忘れ去れた気持ちを鮮やかに思い出せてくれる。自分も昔はそうだったと思うに違いない。まさに照れくささと気恥ずかしさを伴わせつつ、心をほっと癒してくれる作品である。 |
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22年前に千葉真一、沢田研二出演によって話題となった故・深作欣二監督の作品をリメイクして制作されたSF時代劇。徳川の世に復讐するために魔人となった天草四郎の手によって蘇った剣豪たちと、その野望を阻止すべく立ち上がった柳生十兵衛との戦いを描いた奇想天外なストーリー。複雑になりがちな展開を、テンポ感と意外性をもって丁寧に作り上げている。
しかし、リメイク版は必ずといっていいほど、前作と比較されてしまう。結論から言ってしまうと、はるかに前作が優れていることがわかる。やはり前作の沢田研二の異様さと型にはまらない奔放さに比べては、同じく今回の天草四郎を演ずる窪塚洋介は、あまりにも役を意識しすぎたのか、衣装に反し、真面目で型どおりで、面白みに欠ける。
また、ストーリーには一応、意外な展開を見せてくれるが、そもそも天草四郎の野望の勧め方に無理があるような気がする。最終的にそうするんだったら、最初から○○城に出向いて、○○○○を蘇らせたら良かったのではと思ってしまう。余計なことをしたために、却って十兵衛に知られてしまったとしか思えない。
剣豪を蘇らせるにしても、結局、十兵衛と戦わせるだけで終わってしまったのも、必然性に欠ける。ストーリーに必然性がないから、登場人物のそれぞれが妙に浮いてしまっている。
SFXとビジュアルによって、それなりのエンターテインメントは楽しめるが、それ以上も以下もなく、暇つぶし程度にしかならない。それだけに前作の面白さは逆に際立ってしまう結果だけになったことが、もったいない。 |
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