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 ◆◆◆ 野中宮山古墳 ◆◆◆
 の な か み や や ま こ ふ ん
 ( 野中宮山古墳・野中神社・野中宮山児童公園 )
 藤井寺市野中2丁目5蕃
   近鉄南大阪線・古市駅より北西へ約
1.3km(公園東入口まで) 徒歩約22
               藤井寺駅より南東へ約1.9km(公園西入口まで) 徒歩約30
   近鉄バス:古市駅前より  77番藤井寺駅前行き(市役所経由)で5分・野中北下車 南へ約
150m(公園西入口まで)
                74番藤井寺駅前行き(野中経由)で4分・野中下車 北東へ約
160m(公園西入口まで)
                 ※ 74・77便いずれも便少なし 他に藤井寺駅前発野中バス停経由の便複数あり7分
      駐車場:古墳より
70m西方の国道170(大阪外環状線)野中跨道橋下に有料Pあり(側道上下線に入口 台数少)
       公園西入口まで徒歩約
200m
鎮守と公園と幼稚園
 ここで紹介する桜景観のエリアは全体としては野中宮山古墳で
すが、利用形態で言うと、古墳の中に主として三つの施設が存在
します。古くから墳丘後円部頂に置かれ旧野中村の鎮守となって
きた「野中神社」、廃寺跡を利用した学校施設の流れをくむ「藤
井寺南幼稚園野中分園」、周濠跡部分を利用して造られた「野中
宮山児童公園」の三つです。ただし、藤井寺南幼稚園野中分園は
2020(令和2)年3月末で閉園となっており、現在はすべての施設が
撤去されています。
 野中宮山古墳の桜は、古墳域全体で135本あります。すべてソ
メイヨシノで、最も多いのが後円部法面の東側と北側で、合わせ
60本ほどあります。次に多いのが野中神社の境内や階段脇で
40
本ほどあります。宮山児童公園の範囲内にも27本あ
り、さらに
前方部
(旧野中分園)西端の法面にも8本あります。
@ 桜が満開の野中宮山古墳(北西より)
 @ 桜が満開の野中宮山古墳(北西より)    2006(平成18)年4月
   右下の建物は、当時墳丘前方部にあった藤井寺南幼稚園野中分園。その
  上方に見える遠くの森は墓山古墳。宮山古墳上方の遠方には、奈良県との
  境にある二上山が見えている。
 古墳の外側から見てもけっこう美しい桜景観ですが、公園内や神社の桜の下
に入ると、逆光に光るきれいな桜を楽しむことができます。
 実際に桜を見ながら歩いていると、どこまでが公園でどこからが神社の境内
なのか、わかりにくい場所もあります。公園の方がずっと後の時代に誕生して
いるので、桜はもともとは神社を囲むように墳丘全体に植えられたものなので
しょう。神社へ上がる東西2ヵ所の道が村の集落に近い南寄りにあったので、
自然と墳丘の南側が歩きやすくなり、花見もこちらが中心になってきたものと
思われます。現在は、墳丘上の前方部が平らな広場状態となっていて恰好の花
見場所となっています。また、この場所は地区の人々の祭祀や行事の場所でも
あります。花見シーズンには墳丘のふもとから広場にかけてぼんぼりが吊られ
夜桜を楽しむ場ともなります。
 野中宮山児童公園は30年ほど前に古墳の周濠の南側約半分を埋め立てて造ら
れました。遊具も置かれ児童が自由に遊べる公園としては、市内では最も多く
の桜や樹木が見られる公園です。桜が盛りの時期はち
ょうど学校の春休み中で、
A 真上から見た野中宮山古墳
 A 真上から見た野中宮山古墳
  〔GoogleEarth 2017(平成29)年5月
〕より 文字入れ等一部加工
満開の桜など関心が無いかのように遊びにふける子どもたちの姿もよく見られます。駅から遠いこともあり、平日の日中は訪れる人も多く
なく、のんびりと桜を堪能することができる桜名所です。
 藤井寺南幼稚園野中分園の敷地だった場所は、前方部の西端部分が利用されていましたが、かなりの厚みで削られているので、元の墳丘
とは大きな段差があります。旧野中分園の敷地内には、桜の木はありませんでしたが、園の西側法面に咲く桜がきれいで、遠目で眺めると
桜に囲まれた幼稚園という感じがしていました。また、園庭の東側はすぐ墳丘となっていて、ここに咲く桜などがまるで園庭の続きである
かのように見え、すばらしい「借景」といった景観をつくっていました。
B 神社鳥居前(西より) C 墳丘中腹の参道から東方を見る
B 神社鳥居前(西より)   前方部の上は広場状になっている
                  2021(令和3)年3月
  C 墳丘中腹の参道から東方を見る 逆光の桜が美しい
                   2020(令和2)年4月
 
D 野中宮山児童公園から見る桜(南より) E 野中宮山児童公園の桜(南より)  
D 野中宮山児童公園から見る桜(南より)
     桜以外の樹木の新緑とのコントラストが味わえる。
E 野中宮山児童公園の桜(南より)
                2020(令和2)年4月(Dも)
F 前方部の西側法面に並ぶ桜(北西より) G 野中宮山古墳の墳丘部西側(西より)
F 前方部の西側法面に並ぶ桜(北西より)
  手前通路の部分は元周濠の一部。 2021(令和3)年3月
G 野中宮山古墳の墳丘部西側(西より)   2021(令和3)年3月
         手前の更地の部分は元野中分園の園庭だった場所。
複合して利用されてきた古墳
 野中宮山古墳は、比較的大きさのある前方後円墳ですが、国史跡の指定
は受けていません。昔からお寺や神社が置かれたりして、古墳としての存
在以外のことに利用され、古墳そのものの形状が大きく変形してしまった
からでしょうか。周濠も宮池と呼ばれて、周囲が水田地帯の頃には農業水
利として利用されていました。現在では、墳丘に自由に出入りすることが
できる数少ない前方後円墳です。
 写真Aにあるように、前方部にはかつて藤井寺南幼稚園の分園がありま
した。それ以前には藤井寺南小学校の分校がありました。藤井寺南小学校
が新設された時、校区の北端近くに学校が位置することになったので、南
端の野中地区に分校が置かれました。もっとも、この場所には明治時代か
ら小山尋常小学校(現藤井寺小学校)の野中支校や分教場が置かれていたの
 
  H 野中分園の園庭から見た墳丘西側部分(西より)
  H 野中分園の園庭から見た墳丘西側部分(西より)
  今となっては、懐かしい園庭の風景である。 2020(令和2)年4月
で、戦後も引き続き分校が置かれてきた歴史があります。藤井寺南小学校の新校
舎や藤井寺南幼稚園が現在地にできた後、分校は幼稚園の分園に変わりました。
明治の初めまでは、この場所には満願寺というお寺があったそうです。廃寺の跡
地が利用されたようです。
 満願寺の廃寺と入れ替わるように後円部の山頂にあった宮が村社に定められ、
「野中神社」として野中地区の人々の鎮守となりました。以後、お宮さんのある
山として人々がお参りをし、桜を植えて親しむ場となっていきました。この古墳
には「足塚」という伝承名が古くからあったそうですが、いつの頃からか
「宮山」
の呼び名に変わっていったようです。
 時代は変わり、
1986(昭和61)年には周濠の南側を埋め立てて「野中宮山児童
公園」が開設されました。当時市が進めていた児童公園施設拡充事業の一環とし
て造られました
市内各小学校区に昔からの小字(こあざ)名を付けた児童公園が次々
に開設されてきました。藤井寺南小学校区にできたのがこの公園です。
 そして、数年前から後円部東側の周濠跡地には、「宮池学習畑」が地元ボラン
ティアの皆さんによって運営されています。小学生がいも掘り体験などに取り組
むことができています。
 その後、入園児の減少が進み、藤井寺南幼稚園野中分園は2020(令和2)年3月末
で閉園となり本園に統合されました。明治の初期以来、この廃寺跡の場所は小学
校の支校・分校・分教場・幼稚園分園と、百数十年に渡って教育施設に利用され
I 40数年前の野中宮山古墳(南東より)
  I 40年ほど前の野中宮山古墳(南東より)
   周濠は西側の一部を除いて大部分が存在している。手前の
  東側に渡り堤があり、神社への参道となっている。西側の建
  物と広場が野中分園。神社を囲むように並ぶ樹木の多くが桜
  だと思われるが、現在ほど大きくはない。墳丘の周辺部に針
  葉樹が植えられている様子もわかる。
   『百舌鳥・古市 門前 古墳航空写真コレクション』
    (大阪府立近つ飛鳥博物館 1999年)より
        1981(昭和56)年6月    文字入れ等一部加工
てきましたが、ついにその歴史が幕を閉じました。分園の園舎や園庭の遊具など、一切の施設が解体・撤去され、そこが幼稚園であったこ
とを感じさせるものは何も残っていません。かつてこの園庭で走り回っていた卒園児たちの思い出の中だけに、ここの桜景観は残されてい
くでしょう。
 明治時代以来、いろいろな公共的施設に利用されてきた野中宮山古墳ですが、本来は古代有力者のお墓です。祀りの場として維持されな
ければならない場所である後円部の石室の上は、神社が鎮座していることで守られているのかも知れません。墳丘を囲むように咲き誇る桜
の木々は、被葬者への祈りの花のようにも思えてきます。
 

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