天安門事件の検証


はじめに

 19896月の天安門事件から今年で15年になる。この15年間、中国政府および中国共産党当局による民主化運動を「動乱」とする評価が変わることはなかったし、今後もしばらく変わることはないだろう。本稿は天安門事件を概観することを目的とする。はじめに、天安門事件の定義と時期区分を行なう。その上で、天安門事件の主要因とその展開を概観する。

 

.天安門事件の定義

 「天安門事件」とは、一般的には198963日〜4日にかけて北京の天安門広場において中国人民解放軍によって行なわれた民主化運動の弾圧を指す。本稿においては、1989415日の胡耀邦前総書記(当時)の死去を契機として始まった民主化運動とそれに対する中国政府および、中国共産党、中国人民解放軍当局によって試みられた説得および弾圧を指すものとする。

 

.天安門事件の時期区分

 天安門事件はその事件の性質から主に4つの時期に区分することができる。第一に、発芽期である。これは1989415日の胡耀邦の死去から426日付の『人民日報』にいわゆる「動乱社説」が掲載されるまでの時期で、民主化運動の組織化と当局側の態度確定までの時期である。第二に、展開期Tである。これは前述の「動乱社説」掲載から520日の人民解放軍による戒厳令発令までの時期で、民主化運動組織と中国政府および、中国共産党、中国人民解放軍当局との間で交渉が試みられた時期である。第三に、展開期Uである。これは人民解放軍による戒厳令発令から62日の戒厳的軍事行動がとられるまでの時期である。第四に、鎮圧期である。これは戒厳的軍事行動がとられ、610日に天安門広場から軍が撤退するまでの時期である。

 本稿では、以下上述の時期区分にしたがって天安門事件を概観することとする。

 

.天安門事件の主要因

 天安門事件の要因を全て明らかにすることは不可能であろう。本稿では特に政治的要因と経済的要因に焦点を当てることにする[1]

 政治的要因は主に5つに分類される。第一に、胡耀邦の名誉回復問題である。胡耀邦は198612月の学生による民主化要求に対して同情的な態度をとったため、19871月に党総書記を事実上解任され、党政治局員に降格された。民主化運動に柔軟な姿勢を見せた胡耀邦の死去を契機として再び民主化要求が高まることは想像に難くないだろう。第二に、「官倒」(役人ブローカー)と呼ばれる高級官僚の子弟による政治腐敗の問題である。第三に、改革は知識人の台頭である。1989年はフランス革命(1789)から200周年、五・四運動(1919)から70周年、中国革命(1949)から40周年という「当たり年」に当たり、改革は知識人の言論活動も盛んに行われていた。第四に、党中央の権力闘争である。これは、後述の展開期Tにおいて述べるように、李鵬を中心とする保守派と趙紫陽を中心とする改革派の角質である。第五に、少数民族問題である。

 経済的要因は主に3つに分類される。第一に、インフレ問題である。インフレ率は前年比第20%以上という状況であった。第二に、失業問題である。経済引き締め政策の影響で当時の失業者は実に1500万人を超えていた。第三に、不公平な所得分配である。改革開放政策は経済成長をもたらすと同時に、貧富の格差を拡大していた。

 

.天安門事件の展開

 以下、天安門事件の展開を上述の時期区分に基づいて述べる。

 

(1)発芽期

胡耀邦は48日の中国共産党政治局会議の席上で倒れ、415日に死去した。胡耀邦の死去に際して、同日付の北京大学の壁新聞には次のように書かれた。「ケ小平は84歳で健在、胡耀邦は73歳で先に死ぬ。政界の浮沈を問うも、何ぞ命を保つことなきや。民主は70にして未だ完全ならず(1919年の五・四運動以来70)、中華は40にして興らず(1949年の中国革命以来40)、天下の盛衰をみるに北大(北京大学)また哀し」[2]。また、同日中には北京市内で胡耀邦の遺志を継いで改革開放政策の継続を求める学生・市民のデモが活発化した。

以後、420日には政府要人の居住区域である中南海において、警察官とデモ隊が衝突した。同日中には民主化要求を行なう学生組織として「北京大学生準備委員会」が結成された。この組織は23日に「北京市大学臨時学生聯合会」へと発展し、後に民主化運動の中心的存在となっていった。

これに対し当局側は24日に政治局常務委員会を開き、李鵬を中心に「動乱阻止小組」を設置し、徐々に民主化運動に対峙する態勢を整える。25日にはケ小平が重要講和を行い、「これは通常の学生運動ではなく動乱である。断固として制止すべきであり、彼らに目的を達成させてはならない」とした[3]。この重要講和を受けて、426日付の中国共産党機関紙『人民日報』の社説に民主化運動を「動乱」と規定するいわゆる「動乱社説」が掲載されることになる。この「動乱社説」を境にして民主化運動側の態度は硬化し、その態度の硬化が当局側の強硬姿勢を生み出すという悪循環に陥り始めるのである。

 

(2) 展開期T

「動乱社説」が掲載された翌日の427日に、民主化運動側は早速「動乱社説」抗議デモを行い、自らの運動を「愛国・民主化運動」と位置づけ、当局側に「動乱社説」の撤回と民主化運動組織に対する政府および党の公認を求めた。ここで強調すべき点は、民主化運動活動家の大勢が必ずしも「反共産党」ではなかったという点である。このことは上述の「愛国・民主化運動」というスローガンにこだわったことや、デモの際に共産主義運動の象徴である『インターナショナル』が繰り返し歌われたことからもうかがえる。

これに対して当局側は53日に政治局常務委員会を開催した。この中で趙紫陽が「動乱社説」の見直しと民主化運動側との緊張緩和を提案している。前者は支持されなかったものの、後者は支持された。これを受けて511日に「中央対話小組」が設置され、以後民主化運動側との対話路線がとられることとなった。この時期に当局側が強硬路線ではなく対話路線をとった背景には15日からのゴルバチョフ訪中と中ソ和解という歴史的行事を滞りなく行うためであったといえよう。

513日から民主化運動側が、@北京の学生対話代表団と誠意ある対話を行う、A一連の学生運動を愛国・民主化運動と認定することを掲げて天安門広場においてハンストを開始する。これに対して14日には中国共産党中央委員会と政府による学生説得が試みられるが失敗する。このため、当局側は15日に予定していた天安門広場でのゴルバチョフ歓迎式典を断念し、急遽人民大会堂に会場を切り替えて歓迎式典を行った。

16日の政治局常務委員会緊急会議において、趙紫陽が改めて「動乱社説」の撤回を提案したものの再び支持されなかった。このため趙紫陽は次第に孤立を強め、19日の政治局常務委員会で総書記を事実上解任された。

 

(3)展開期U

趙紫陽が19日に失脚すると、同日中に党中央と北京市の党、政府、軍幹部が出席して戒厳令布告大会が開かれ、20日午前10時をもって戒厳令を発令することが決定された。しかしながら翌20日に予定通り戒厳令が発令され、22日には人民解放軍戒厳部隊による「断固措置」通告、重要機関の接収が開始されたものの、即座に戒厳的軍事行動、すなわち民主化運動組織に対する武力制圧がとられたわけではなかった。

当局内部では19日の趙紫陽失脚をターニングポイントとして保守派の巻き返しが続き、後継体制が模索され、31日頃までには江沢民による後継体制が固まったとされる。22日の全国人民代表大会常務委員会では李鵬が、24日の軍事委員会拡大会議では楊尚昆がそれぞれ趙紫陽の断罪演説を行った。特に軍事委員会拡大会議において楊尚昆は戒厳令に対する異論を知りつつも、戒厳令の必要性を説き戒厳的軍事行動への道筋をつけた。

一方で、27日になると民主化運動側は30日の大規模デモ後の撤退を宣言する。戒厳部隊による鎮圧の噂があったとされるが、その理由としては衛生状態の悪化、財政事情の悪化、政府への失望があげられる。ところが、翌28日には前日の撤退宣言が撤回され、無期限の座り込み継続へと軌道修正が図られた。その理由は判然としないが、この時期には資金盗難問題や学生同士の小競り合いが絶えなかったということから、民主化運動組織内での意見対立や士気の低下が深刻な問題となっていたのであろう。

 

(4)鎮圧期

62日に戒厳部隊が天安門広場へ出動するも、学生に押し戻されたため実力排除に失敗している。翌3日〜4日未明にかけて戒厳部隊は民主化運動を「反革命暴乱」と規定し、武力鎮圧に乗り出し、4日未明までに天安門広場を占拠したと発表した。69日にケ小平が戒厳部隊幹部と接見して武力治安圧の労をねぎらい、翌10日には天安門広場から戦車などが順次撤退を開始し、原状回復が図られた。

天安門事件の死者は中国政府によると北京で319名とのことである。矢吹晋の研究によると、当局の発表が過小報告であるとしても300台半ばを越えることはないという。矢吹は、この数字がかつての大躍進運動の餓死者や文化大革命の犠牲者と比べれば相対的に小さいことを指摘した上で、天安門事件がメディアによってセンセーショナルに伝えられたということを述べている[4]

 

おわりに

 天安門事件鎮圧後、623日〜24日にかけて13期第4回中央全体会議が開かれ、天安門事件の総括と趙紫陽の処分(党内の全ての職務から解任されたものの、ケ小平の支持により党籍は留保された)、江沢民後継体制の確立が行われた。

冒頭でも述べたとおり、この15年間、中国政府および中国共産党当局による民主化運動を「動乱」とする評価が変わることはなかったし、今後もしばらく変わることはないだろう。天安門事件に対する評価がどうであれ、この15年間中国が中国共産党の統治下で未曾有の経済成長を遂げたことは厳然たる事実である。しかしながら、経済成長は無限に続くわけではないし、経済の自由化は政治における自由化・民主化も招くであろう。

 

≪参考文献≫

・矢吹晋著『ケ小平』講談社現代新書、1993

・矢吹晋編著『天安門事件の真相()()』蒼蒼社、1990

・加々美光行編、村田雄二郎監訳『天安門の渦潮』岩波書店、1990

・毛里和子著『現代中国政治』名古屋大学出版会、1993

・天児慧「天安門事件再検証」『国際問題』383号、日本国際問題研究所、1990

・『讀賣新聞』


[1] 政治的・経済的要因は矢吹晋著『天安門事件の真相()()』蒼蒼社、1990年によった。

[2] 矢吹晋著『ケ小平』講談社現代新書、1993年、147

[3] 矢吹『ケ小平』149

[4] 矢吹『ケ小平』167