米国安全保障政策の変容

−前方展開から本土防衛および先制攻撃へ−

 

 

古山 雅之

 

 

目次

T.はじめに

U.米国の国益とグローバリゼーション

 1.米国の国益と伝統的安全保障政策

 2.グローバリゼーションの定義

 3.グローバリゼーションと米国の安全保障政策

V.クリントン政権下の安全保障政策

 1.脅威分析

 2.戦略分析

W.ブッシュ政権下の安全保障政策

 1.9.11テロ以前の安全保障政策

 2.9.11テロ以後の安全保障政策

  (1)『4年ごとの国防見直し』(QDR 2001)

  (2)国土安全保障政策の現状

X.おわりに

 

 

T.はじめに

 

 2001年9月11日に米国を襲った同時多発テロはアメリカの安全保障政策のあり方を大きく変えるターニングポイントとなった。冷戦期における米国の安全保障政策は、社会主義陣営の金融的、通商的、軍事的膨張を経済援助および軍事援助によって防ごうとする「封じ込め政策」(Containment Policy)を基軸としたものであった。冷戦崩壊後においては、ほぼ同時に発生する2つの大規模地域紛争(2 Major Regional Conflicts, 2MRC)に対処し、同時的勝利を目指す二正面戦略を基軸としたものであった。これらの2つの安全保障政策は、いずれも米国本土に駐留する兵力ではなく、海外に駐留する兵力(前方展開戦力)を重視したものであり、その目的も米国本土というよりは同盟国・友好国の安全を確保することに重点をおいていた。

 9.11テロ以後、米国国防総省から発表された『4年ごとの国防計画見直し』(Quadrennial Defense Report, QDR 2001)では、「米軍の最優先課題は、全ての敵から国家を守ることである」と記述され、従来よりもいっそう本土防衛の必要性が強調されている。また、「米国の地理的な位置はもはや、その国民、領土、およびインフラに対する直接的な攻撃を受けないことを保障しない」とも記述され、米国の安全保障政策において伝統的に強調されてきた海洋国家であるがゆえの地理的優位性が否定された。これらの記述は、米国にとっての危機が、湾岸戦争やコソヴォに見られたような「遠くにある危機」から「今そこにある危機」へと変容したことを象徴している。そして現在設置が検討されている「国土安全保障省」(Department of Homeland Security, DHS)は、冷戦期および冷戦後も支配的であった前方展開戦力を重視する安全保障政策から前方展開戦力と本土防衛戦力の双方を重視する安全保障政策へと大きく変容することを意味している。

本稿では、クリントン政権における二正面戦略からブッシュJr.政権における国土安全保障政策への変容を検証する。U章においては、米国の国益と伝統的安全保障政策について考察し、グローバリゼーションが米国の安全保障政策に及ぼした影響について述べる。V章においては、クリントン政権下の安全保障政策の分析を行う。W章においては、ブッシュ政権下の安全保障政策を分析する。ここでは9.11テロを境に2つの時期に分けて分析を進める。本稿における安全保障政策に対するアプローチは、米国安全保障政策関連の公文書および論文をもとに、「何を、何から、どのように守るのか」という点をとくに重視し、脅威分析をしたうえで、その脅威に対してどのように対処するのかという戦略分析を行うものとする。

 

 

U.米国の国益とグローバリゼーション

 

 本章では、米国の国益と9.11テロ以前の伝統的な安全保障政策について考察したうえで、現在進行中のグローバリゼーションが米国の安全保障政策に及ぼした影響を述べる。

 

1.米国の国益と伝統的安全保障政策

 

 米国の国益は、安全保障関連の公文書、大統領選挙時の民主・共和両党の綱領にあらわれている。すなわち、第一に基本的な国家価値と自由で独立した国家の安全保障強化であり、第二に経済的繁栄の促進であり、第三に民主主義の促進である(注1)。要するに、市場経済体制および自由主義的民主主義の拡大をはかり、これらの価値観を共有する同盟国および友好国の平和と安定をはかることを国益とする。この国益は、第二次世界大戦後のトルーマン・ドクトリン以来(注2)、現在にいたるまで続いているものであり、これらの3つの国益を脅かす存在が脅威とされてきた。その国益を脅かす存在とは、冷戦期においてはソビエトをはじめとする社会主義陣営であり、冷戦崩壊後においては米国に敵対的な「ならず者国家」(Rogue State)であった。そして、9.11テロ以後の米国における脅威とは言うまでもなく「テロリスト」である。

 米国は、東は大西洋、西は太平洋という両大洋に挟まれた海洋国家である。1814年の第二次英米戦争と1941年の真珠湾攻撃を除けば、米国はその本土を他国から攻撃されるという経験をもっていない。また、米国は冷戦期における核ミサイルに対する脆弱性を除けば、本土を攻撃される脅威も希薄であった。それゆえ冷戦期および冷戦崩壊から9.11テロにいたるまでの時期には、本土防衛力よりも同盟国に兵力を射出して展開させ、本土への脅威を未然に防ぐ前方展開戦力(海外駐留兵力)を重視する傾向にあった。

 冷戦期においては、NATOやANZUS、日米同盟、米韓同盟などの複数の軍事同盟を締結することで社会主義陣営を封じ込めることに成功した。冷戦崩壊後も米国はこれらの同盟を維持し、安全保障政策の基本は前方展開戦力におかれた。

 

2.グローバリゼーションの定義

 

 グローバリゼーションには様々な定義が存在する。山本吉宣教授は「政治、経済、文化など様々な分野で、空間、時間が圧縮され、世界が一体化していくこと、またそのような意識が形成されること」(注3)と定義している。また、滝田賢治教授は「冷戦終結後、米国の民需転換過程で商業化されたIT技術により現象化した時空の圧縮化過程であり、米国が産業競争力強化のためIT技術を生産・流通・金融に投入したため、アメリカナイゼーションも同時進行した」(注4)と定義している。

本稿においてはまず、「ハード面のグローバリゼーション」と「ソフト面のグローバリゼーション」の2つに分けて考察したうえで、グローバリゼーションを定義する。

 「ハード面のグローバリゼーション」とは、科学技術面における空間と時間の圧縮と、それにともなう世界の一体化を意味する。具体的には、運輸技術やIT技術により「ヒト・モノ・カネ・情報」の世界大での移動が高速・大容量化したことで、互いに遠く隔たった地域を結びつける世界的規模での社会関係のつながりの強化を意味する。

滝田教授が指摘しているように、運輸技術やIT技術は冷戦崩壊後の民需転換過程において発展した。具体的には、軍事に独占使用されていたインターネット・暗号技術・通信衛星・GPS(Global Positioning System)が商業用に開放・解放された。これらの民生技術は米国において開発され、あるいは発展したものである。

 「ソフト面のグローバリゼーション」とは、上述の「ハード面のグローバリゼーション」を前提として、政治、経済、文化の世界大の拡大および同質化を意味する。冷戦崩壊後、フランシス・フクヤマが指摘しているように、経済的イデオロギーとしては市場経済が、政治的イデオロギーとしては自由主義的民主主義が世界大に拡大している(注5)。文化面においてはコカ・コーラやマクドナルドのハンバーガー、ナイキのシューズのように米国文化が世界中に浸透し、同質の価値観が共有あるいは強制されている。これらのソフトも、ハード同様に米国において開発され、あるいは発展したものである。

 以上のことから、ハード面においてもソフト面においても、現在進行中のグローバリゼーションはアメリカナイゼーションとしての性格が強いことがわかる。それゆえ、本稿においては現在進行中のグローバリゼーションを「冷戦崩壊後の世界において覇権を握った米国がその科学技術力を行使し、政治、経済、文化など様々な分野で、自国の様式を拡大・強制し、世界が一体化していくこと」と定義する。

 

3.グローバリゼーションと米国の安全保障政策

 

 グローバリゼーションが米国の安全保障政策に及ぼした影響とは何であろうか。

第一に、ハード面のグローバリゼーションが及ぼす影響を考察する。冷戦崩壊後における軍事技術の民生転換が運輸技術・IT技術の発展を引き起こしたことはすでに述べた。この民生転換が、さらに新たな軍事技術を生み出している。これが「軍事革命」(Revolution in Military Affairs, RMA)である。RMAが米軍のあり方を様々な面で変えている。運輸技術の発展は高速・大容量の輸送を可能にし、グローバルなレベルでの米軍の迅速な兵力展開と兵站活動を可能にした。IT技術の発展は情報収集能力を高め、ピンポイントでの敵捕捉・攻撃を可能にした。このような高度な軍事技術がアメリカの一極支配を支えているのは間違いない。

一方で、ハード面のグローバリゼーション自体が米国自身にふりかかる脅威を生み出していることも否めない。「ヒト・モノ・カネ・情報」の移動が容易になったことは、米国にとって好ましからぬ「ヒト・モノ・カネ・情報」の移動が容易になったことをも意味する。すなわち、テロリストの移動や大量破壊兵器およびその製造技術の移転を容易にし、マネー・ロンダリングを可能にし、サイバーテロを生み出している。

第二に、ソフト面のグローバリゼーションが及ぼす影響を考察する。後述するとおり、クリントン政権下において、紛争地域に米国が積極的に関与し、米国の国家目的である市場経済および自由主義的民主主義を拡大することで世界の平和と安定が構築されるとする「関与と拡大戦略」(Strategy of Engagement and Enlargement)が打ち出された。

また、アメリカ文化が運輸技術・IT技術を媒介として世界大に拡大・普及したことで、そもそも価値観を異にする文化圏とのアイデンティティ・クライシスを招き、このことが安全保障上の新たな脅威を生み出している。

以上のように、グローバリゼーションは米国の安全保障政策の目的および推進力となっていると同時に、新たな脅威を生み出していることも否めない。

 

 

V.クリントン政権下の安全保障政策

 

 本章ではクリントン政権下の安全保障政策について述べる。はじめにクリントン政権期の脅威を分析し、そのうえで脅威に対する戦略を分析する。

 

1.脅威分析

 

 『ボトム・アップ・レビュー』(Bottom-Up Review, BUR)および『4年ごとの国防計画見直し』(Quadrennial Defense Review, QDR 97)に基づくクリントン政権における脅威分析は次のとおりである(注6)。

第一に、弾道ミサイル技術、大量破壊兵器(Weapons of Mass Destruction, WMD)技術、ハイテク技術の拡散による地域的・国家的脅威があげられる。これらの技術の拡散はグローバリゼーションにともなう運輸技術およびIT技術の発展によって引き起こされたものである。弾道ミサイル技術および大量破壊兵器技術は1992年に湾岸戦争を引き起こしたイラクをはじめ、イラン、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)といった米国にとっての敵性国家へと拡散した。このことは、海外駐留中の米軍および米国本土への弾道ミサイル攻撃という脅威を生み出した。

第二に、異なった2つの地域においてほぼ同時に勃発する大規模地域紛争(2Major Regional Conflicts, 2MRC)(注7)の勃発する蓋然性が高いことがあげられる。具体的には1992年の湾岸戦争の影響を受け、イラクによるクウェートへの再侵攻が脅威とされた。また、朝鮮半島における北朝鮮の韓国への侵攻も脅威とされた。すなわち、中東地域および朝鮮半島で勃発すると想定される戦争が脅威とされた。

第三に、小規模緊急事態(Smaller Scale Conflict, SSC)の勃発する蓋然性が高いことがあげられる。小規模緊急事態とは、上述の大規模地域紛争にいたらない軍事的示威行動、軍事介入、制限つきの武力行使、非戦闘員救出作戦、飛行制限区域の強制、平和執行活動、テロリズム鎮圧行動、平和維持活動、人道的支援活動、災害救助活動などをさす(注8)。

そして第四に、経済的諸問題に起因する脅威があげられる。これは麻薬取引、国際組織犯罪、海賊などによる重要地域やシーレーンなどへの脅威である。

 

2.戦略分析

 

 表1からもわかるように、冷戦崩壊により米軍の兵力は大幅に削減されている。しかしながら、冷戦崩壊がすなわち米国の前方展開戦略の崩壊を意味したのではない。現実主義の国際政治学者H.モーゲンソーが「同盟はその設立のためには利益の共有を必然的に要求する」(注9)と述べたように、冷戦崩壊後も変動する国際環境に合わせて同盟の利害関係が変容し、その変容にそって米国を中心とした同盟システム、すなわち前方展開戦略が維持された。たとえば日米同盟(注10)はソ連を脅威としたものから、軍事的に台頭する中国や北朝鮮を意識したものへと変容した。米韓同盟(注11)は、冷戦後もなお緊張を続ける朝鮮半島情勢を考えると必要不可欠な存在であることは否めない。冷戦期に封じ込め政策の一翼を担っていたANZUS条約(注12)も、冷戦崩壊後はアジア太平洋地域の安全保障を目的とするようになった。そして、冷戦期の軍事同盟の象徴的存在であったNATO(注13)も冷戦後はソ連を脅威と認識しなくなり、ヨーロッパの秩序維持という意味わいが強くなった。

 こうした国際環境の変化の中でクリントン政権の安全保障政策の基本にすえられたのが、「関与と拡大戦略」と呼ばれる戦略である。この戦略はエール大学のB.ラセットが提唱した「民主的平和」(Democratic Peace)(注14)の考えに立脚している。1994年7月に発表されたこの戦略概念は、敵対国を武力によって排除するのではなく、米国が積極的に関与し、自由主義的民主主義、人権、市場経済といった米国の価値観に基づき、政治、経済、社会など多面的な関係を強化することで、敵対国の体制そのものを変化させていこうとするというものである。

 前述した4つの脅威のうち、クリントン政権が最も重視したのが2番目にあげた「異なった2つの地域においてほぼ同時に勃発する大規模地域紛争」(2MRC)の脅威である。この脅威に対する戦略として、『ボトム・アップ・レビュー』(BUR)が1993年9月に当時のR.アスピン国防長官によって発表された。また、1997年5月にはBURの4年ごとの見直しである『4年ごとの国防計画見直し』(QDR 97)が当時のW.コーエン国防長官から発表されている。そして、クリントン政権における安全保障政策の総括として『2001年度国防報告』(Annual Report to the President and Congress 2001)が2001年1月に同じくW.コーエン国防長官から発表されている。

 BURでは冷戦期において脅威と認識されたソ連が脅威と認識されなくなり、上述の2つの大規模地域紛争、より具体的には中東と朝鮮半島における大規模地域紛争が主要な脅威と認識されるようになった。米国の戦略は、この2つの大規模地域紛争に勝利を収めるのに十分な兵力を維持すること、すなわち二正面戦略が採用された。

 「軍事戦力構成法」(注15)に基づき、BURの見直しとして1997年に発表されたQDR97でも中東地域と朝鮮半島における大規模戦域戦争(2MTW)(注16)が主要な脅威と認識され、二正面戦略が維持された。QDR97では次のことが基本方針とされた。第一に、米国の利益を増進する戦略環境の構築(shape)であり、第二に、あらゆる脅威への対応(respond)であり、第三に、将来の脅威や危険に対しての準備(prepare)(注17)である。この方針に基づき、平時においては世界的規模での関与(engagement)が求められ、大規模戦域戦争勃発の際には可及的速やかに戦闘活動に移行することが求められた。

 クリントン大統領の退任にともない2001年1月に、クリントン政権の安全保障政策の総括として『2001年度国防報告』が発表された。この報告では、政治的、外交的、経済的、軍事的に米国が引き続き世界に関与し、世界トップクラスの軍事力を維持することと、二正面戦略の維持が強調されている(注18)。

 以上のように、クリントン政権下における安全保障政策は冷戦期のソ連を脅威と認識し、その勢力伸張を未然に抑止する「封じ込め戦略」から、イラクと北朝鮮を脅威とし、両者の侵略を未然に抑止し、また抑止が崩れた場合にはこれを徹底的に撃破する「二正面戦略」へと変容した。しかしながら、冷戦期に構築された同盟システムを利用した前方展開戦略を重視しているという点では大きな変化は見られなかった。

 1997年12月に設置された「国防諮問委員会」(注19)において、米国の軍事戦略と軍事機構、国防体制の抜本的変革が提言され、潜在的敵対国がテロ戦術を用いる可能性があることも指摘された。また、1999年9月に設置された「ハート-ラドマン委員会」(注20)の最終報告書において「米国本土防衛のための戦略と考案、実施する上での適切な体制を欠いている」(注21)と本土防衛の重要性が指摘された。以上のような政策提言にもかかわらず、クリントン政権下ではテロリストなどによる非対称的脅威(asymmetric threat)に対する政策はほとんど打ち出されなかった。

 

 

W.ブッシュJr.政権下の安全保障政策

 

 本章ではブッシュJr.政権下における安全保障政策について述べる。はじめに9.11テロ以前の安全保障政策について考察する。特にここではブッシュJr.政権において推進されていたミサイル防衛(Missile Defense, MD)に重点をおくこととする。つづいて9.11テロ以後の安全保障政策について考察する。ここでは9.11テロ以後に特に着目されるようになった国土安全保障(Homeland Security)政策に重点をおくこととする。

 

1.9.11テロ以前の安全保障政策

 

 2001年1月に8年ぶりにホワイトハウス入りした共和党政権は、クリントン政権において構築された安全保障政策を大きく変えることになった。

 2000年米国大統領選時の共和党綱領からも明らかなように、ブッシュJr.政権においては、次のことが脅威とされた。第一に、「ならず者国家」(Rogue State)による米国本土への弾道ミサイル攻撃である。第二に、大規模戦域戦争(MTW)および小規模緊急事態(SSC)の勃発である。第三に、地域的不安定国家の出現である。そして第四に、テロリストなどの非国家的アクターからの攻撃である。クリントン政権において脅威とされたほぼ同時に異なった2つの地域で勃発する大規模地域紛争(2MTW)は主要な脅威とは見なさなれなくなった。その代わりに主要な脅威と位置付けられたのが、「ならず者国家」からの弾道ミサイルによる米国本土への攻撃であり、この脅威に対する戦略が「ミサイル防衛」であった。

 ミサイル防衛自体はブッシュJr.政権以前にもクリントン政権で検討されていた。クリントン政権においては、「戦域ミサイル防衛」(Theater Missile Defense, TMD)が検討されてきた。これは海外駐留米軍や同盟国、友好国の防衛に重点をおいたものであり、ミサイル防衛の前方展開戦略としての要素が強かった。しかしながら、1998年8月の北朝鮮による「テポドン1号」の発射により、北朝鮮が大陸間弾道ミサイル(Intercontinental Ballistic Missile, ICBM)の開発に成功すると、米国は本土を防衛する必要性に迫られた。このような情勢を背景に登場したのが「本土ミサイル防衛」(National Missile Defense, NMD)である。1999年3月、技術的に可能になりしだいNMDを配備することを義務づけた「本土ミサイル防衛法案」が上院で可決され、同年5月には下院でも可決された。クリントン大統領は7月に同法案に署名したものの、2000年9月、技術的な問題および弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約(22)への影響を懸念し、NMD配備を次期政権に委ねることを発表した。

 共和党は2000年の大統領選挙時の綱領において北朝鮮の大量破壊兵器および弾道ミサイルの保有を警告したうえで、効果的なミサイル防衛システムを構築する必要性を説いている(23)。また、ブッシュJr.大統領は大量破壊兵器および弾道ミサイルの脅威を認めたうえで、冷戦型の抑止力ではなく、積極的な拡散防止・対抗策に防衛を加えた幅広い戦略を必要としていることを唱えた(24)

 ブッシュJr.大統領は就任後、クリントン政権下の連邦議会において「米国に対する弾道ミサイルの脅威を評価する委員会」を主宰したD.ラムズフェルド氏を国防長官に起用したことからもミサイル防衛への関心の高さをうかがわせた。2001年5月にはTMDNMD計画の一体化を表明した。そして同年7月には、地上配備の迎撃実験が行われ、成功を収めた。同時に、ロシアとの間に締結されていたABM制限条約離脱の準備を進めていた。しかしながら、この最中の9月11日に米国は同時多発テロに襲われ、安全保障政策も変容を迫られることになった。

 

2.9.11テロ以後の安全保障政策

 

 冒頭でも述べたように、9.11テロにより米国の安全保障政策は大きな変容を迫られることになる。すでに見てきたように、冷戦後のクリントン政権の安全保障政策は冷戦型の前方展開戦略に基づくものであった。9.11以前のブッシュ政権の安全保障政策は冷戦型の前方展開のみならず本土防衛も重視しつつあったとはいえ、基本的には対国家型の戦争を意識したものであり、非国家アクターによる本土攻撃に対応する国防体制は構築されていなかった。本節では9.11テロ直後の200110月1日に国防総省から発表された『4年ごとの国防計画見直し』(QDR 2001)と現在進行中の国土安全保障政策について検証する。

 

()『4年ごとの国防計画見直し』(QDR 2001)

 2001年1月、ブッシュJr.政権が成立すると、D.ラムズフェルド国防長官を中心にQDR 2001の策定が開始された。当初QDR 2001では、二正面戦略の放棄、国内外の基地閉鎖をともなう米軍規模の削減、戦略機動力の向上を目指した米軍再編、弾道ミサイル防衛網の強化、21世紀型の新たな脅威に備えるための兵器調達計画の抜本的見直しが検討された(25)。その結果同年6月の段階で、米軍の役割として次の点が確認された。第一に、同盟国および友好国の安全を守ることである。第二に、将来の敵対行動を思いとどまらせることである。そして第三に、現存する脅威の抑止と強制への対抗である(26)。弾道ミサイル防衛の強化という項目を除けば、当初QDR 2001で基本的に意識されたのは前方展開戦略であった。しかしながら、QDR 2001の発表を目前に控えた9月11日にニューヨーク、ワシントンDC、ピッツバーグで起こった同時多発テロにより、本土防衛を意識したものへと書き換えられる必要性が生じた。

 200110月に発表されたQDR 2001では9.11テロの影響もあり、従来のイラクと朝鮮半島を対象とする二正面戦略が後退し、本土防衛の重要性が強調された。QDR 2001においては次のことが脅威とされた。第一に、敵対的な国家および非国家アクターによる米国本土への攻撃があげられる。第二に、テロリストによる同盟国および友好国への非対称的脅威があげられる。第三に、大量破壊兵器による米国本土への攻撃があげられる。そして第四に、従来型の地域および国家的規模の脅威があげられる(27)9.11テロから時間がたっていないこともあり、具体的な政策についてはほとんどふれられていないものの、QDR 2001においては、これまでの安全保障関連文書においてはさほど重視されていなかった本土防衛が最重要課題であるとの認識が一般的となった。一方で、QDR 2001においては伝統的な前方展開戦略の重要性も改めて強調されている。

 QDR 2001ではそれまで放棄されると予想されていた中東と朝鮮半島を対象とした二正面戦略が結果的には維持される形となった(28)。このことはすなわち、米国が依然として前方展開戦略を国家安全保障政策上の柱のひとつであると認識していることを意味している。しかしながら、冷戦期において最も重視されていたヨーロッパ正面の前方展開はQDR 2001においてはほとんど重要視されなくなり、その代わりにイスラム原理主義勢力の温床となっているフィリピンやインドネシアといった東アジア地域における前方展開を重要視するにいたった。特に、日本からインド洋にかけての地域は米軍の駐留基地が少ないことを指摘していることからも、今後米国が東アジア地域への積極的関与を望んでいることがうかがえる。また、「反テロ」という9.11テロ以後の大義名分とは別に、台湾海峡および朝鮮半島の安定という伝統的な安全保障政策の観点からも、東アジアにおける前方展開は今後も維持されると考えられる。

 次にQDR 2001における本土防衛について述べることとする。国家安全保障政策の基本は言うまでもなく、自国の領域(領土・領空・領海)と自国民の生命および財産を保護することにある。9.11テロは世界最強の軍事力を有する米国の本土防衛の脆弱性をさらすものとなった。QDR 2001では、「米国を攻撃から守ることは戦略の基本である」(29)とされた。

U章でも述べたとおり、ハード面のグローバリゼーションは「ヒト、モノ、カネ、情報」の移動を容易にし、経済的に恩恵をもたらす一方で、米国にとっては必ずしも望ましくない「ヒト、モノ、カネ、情報」の移動も容易となった。米国にやってくる輸送品は1日あたりで88億ドルを上回り、入国者は130万人を超える。また自動車は34万台を超え、5万8000個を超える荷物が国境の税関へと殺到している。このうち税関当局が検査できるのはわずか1〜2%にすぎないと言われる(30)。このことは米国が開かれた社会であるがゆえに、本土防衛が非常に脆弱であることを示すこととなった。このため、安全保障の分野では米国への陸、海、空、宇宙からの侵入路の防衛を重視することになる。

 9.11テロ以前においては、国土安全保障政策の執行機関は国境警備隊、沿岸警備隊、税関、北米航空宇宙司令部(NORAD)FBI、連邦緊急事態管理庁(FEMA)といった連邦政府の行政組織と各州政府の行政組織に大きく分かれていたことは周知の事実である。QDR 2001ではこうした連邦政府・州政府にわたっている国土安全保障政策の執行機関として「国土安全保障局」(31)を設置し、情報および指揮統合の必要性を唱えた。しかしながら、QDR 2001では本土防衛の各論についてはふれられず、国土安全保障政策を執行する行政機関は2002年6月の「国土安全保障省」創設の発表まで待たねばならず、また本土防衛に関する具体的な戦略は7月の『国土安全保障戦略』の発表まで待たねばならなかった。

 

()国土安全保障政策の現状

 9.11テロ後の3日後の2001年9月14日、ブッシュJr.大統領は国家緊急事態法に基づく「国家非常事態宣言」を発令し、同時に米国国内におけるテロ関連の捜査・情報収集、空港警備、都市防空、港湾警備、国境警備の強化とテロ被害に対する医療救助活動、復旧活動を目的とする「高貴な鷲作戦」(Operation Noble Eagle)を開始し、陸海空軍および海兵隊の現役戦力および予備役州兵(32)、沿岸警備隊(33)FBICIA、警察、消防などが総動員された。10月8日にはペンシルベニア州知事のトーマス・リッジ氏を長官とする「国土安全保障局」が大統領府の一機関として設置され、国土安全保障政策に関する行政組織の情報・指揮統合がはかられるようになった。この国土安全保障局の創設と同時に、国土安全保障政策に関する大統領諮問機関として「国土安全保障会議」(Homeland Security Council)が設置され、大統領、副大統領、国防長官、司法長官、厚生長官、運輸長官、連邦緊急事態管理庁(FEMA)長官、連邦捜査局(FBI)長官、中央情報局(CIA)長官などが主要メンバーとされ、必要に応じて統合参謀本部(JCS)議長をメンバーに加えることになっている。また、コンドリーザ・ライス国家安全保障担当大統領補佐官とリッジ国土安全保障局長官は新たに「テロ対策大統領顧問」(National Director & Deputy National Security Advisor for Combating Terrorism)にウェイン・ダウニング陸軍大将を任命し、「サイバー空間安全保障担当大統領特別補佐官」(Special Advisor to the President for Cyberspace Security)に元政治・軍事担当国務次官補で、国家安全保障会議の安全保障・国家基盤防護・テロ対抗問題調整官を務めたリチャード・クラーク氏を任命した。

 こうした一連の安全保障機構の改革は冷戦初期の1947年に制定された「国家安全保障法」(34)以来の大改革となった。国土安全保障局と国土安全保障会議の設置により、米国の国家安全保障政策は国内的安全保障政策と対外的安全保障政策の二種類に分離された。前者を統括するのが国土安全保障局と国土安全保障会議とされ、後者を統括するのが国防総省と国家安全保障会議(35)とされた。

 国土安全保障政策に関わる連邦政府の部局は100以上(36)にのぼるといわれるが、新たに設置された国土安全保障局は行政組織の「調整」に終始し、「命令」や「統制」といった権限を有していないと指摘されている(35)。それゆえ、国土安全保障政策に携わる専門の省庁を創設すべきとの意見が、共和党・民主党の両党から提案された。ブッシュJr.大統領は2002年度の一般教書演説において、国土安全保障政策の重要性を強調した。同年2月にブッシュJr.大統領から議会に提出された2003年度予算教書では、国防予算が3790億ドルとされ、そのうち本土防衛費は380億ドルと国防費全体の約10%とされた。本土防衛費の内訳は次のとおりである(37)。第一に、消防士、警察官、救援隊、救急隊員、緊急医師などの初動対応者への支援に35億ドルが充てられた。第二に、生物兵器による攻撃に対する防衛力の強化として59億ドルが充てられた(38)。第三に、空港、港湾を含めた国境警備に3億8000万ドルが充てられた。第四に、本土防衛のための情報共有促進に7億2200万ドルが充てられた。

 ブッシュJr.大統領は6月6日にテレビ演説を行い、米国本土をテロ攻撃から守ることを目的とする国土安全保障省を創設することを発表した(39)。国土安全保障省は100以上にわたるといわれる国土安全保障政策関連の部局のうち中核となる8つの政府機関の約20の部局を統合し、職員数約17万人を抱える巨大な組織となる。これにともない、中央情報局(CIA)、連邦情報局(FBI)、国境警備隊、沿岸警備隊、財務省税関局、シークレットサービス、運輸省交通安全局などの指揮・情報統合がはかられ、「ヒト・モノ・カネ・情報」の流れを全面的に管理・監視がはかられることとなった。この時点では国土安全保障省の創設の発表にとどまっていたものの、1ヵ月後の7月16日ブッシュJr.大統領は『国土安全保障戦略』(National Strategy for Homeland Security)を発表し、7月26日には連邦議会下院において国土安全保障省法案は可決された。2002年の中間選挙後の1119日には連邦議会上院においても可決された。1125日にはブッシュJr.大統領が署名し、同法が成立し、2003年秋頃の国土安全保障省の始動が目標とされている。国土安全保障省が設置されれば、米国の国家安全保障政策は従来型の陸海空軍、海兵隊および沿岸警備隊といった五軍に特化したものから、五軍とあらゆる行政組織を動員する国家安全保障政策へと変容することになる。この新しい国家安全保障政策においては、伝統的な前方展開戦略は国防総省が担当し、国土安全保障政策は国土安全保障省が担当することとなる。しかし、国土安全保障省の発足にむけては、「ポトマック川を挟んだ対立」と揶揄されるCIAFBIの対立といった問題が山積しているのが現状である。また、「アメリカ合衆国愛国者法」(40)に見られるように、国土安全保障政策の執行にあたっては米国の伝統的な国家価値である「個人の自由」が侵害されるとの懸念もある。「個人の自由」を守るはずの「国家安全保障」が「個人の自由」を侵害するという逆説的な状況を生み出している。

 

 

X.おわりに

 

 1823年の「モンロー主義」と1845年にジャーナリストのJ.オサリバンが唱えた「明白なる天命」(Manifest Destiny)の名のもとに、北米大陸において膨張し、自由主義的民主主義の社会を確立してゆくことが米国人の使命であるとされ、テキサス併合や米墨戦争(184548)が正当化された。1890年代に入り、北米大陸におけるいわゆる「フロンティア」が消滅すると、太平洋方面への進出が始まった。1898年の米西戦争の勝利により、米国はフィリピン、グアム、プエルト・リコなどの海外領土獲得し、米国安全保障政策の第一の転換点となった。

 1917年の第一次世界大戦参戦、1941年の第二次世界大戦参戦という2つの大戦への参戦を経て、冷戦初期の1947年の「封じ込め政策」により、米軍のグローバルな規模での前方展開戦略が確立した。これにともない、1823年に確立されたモンロー主義は完全に放棄された。また国家安全保障法の成立により、陸海空軍、海兵隊および沿岸警備隊の統合がはかられるなど米国の国家安全保障体制が大きく変容し、米国安全保障政策の第二の転換点となった。

 1991年のソビエト崩壊後も、米国はそれまでの前方展開戦略を基本的には継承した。クリントン政権以後の安全保障政策の変容は本稿で見てきたとおりである。2001年の9.11テロ以後、米国はこれまでと同レベルの前方展開戦力を維持しつつ、新たに本土防衛の強化を迫られることとなった。これにともない、軍事力に特化していた国家安全保障体制から、あらゆる行政組織を総動員する国家安全保障体制へと変容し、現在米国安全保障政策の第三の転換点となりつつある。

 2002年9月に発表された『米国の国家安全保障戦略』(The National Security Strategy of the United States of America)では冷戦期の戦略が通用しなくなったことを明らかにし、軍事力および経済力において他の国の追随を許さないとしている。また、対テロ戦争においては必要に応じて先制攻撃をもって自国を防衛するとしている。G.ケナンの「民主主義は忿怒に狂って戦う」(Democracy fights in anger.)(41)の言葉にも表れているように、米国は建国以来一貫して専守防衛の原則を貫いてきた。しかしながら、今回の新戦略は伝統的な米国の安全保障政策を根底から覆すものとなっている。

 グローバリゼーションは自由主義的民主主義の名のもとに政治、経済、社会、文化といったあらゆる面で米国に未曾有の繁栄をもたらしている。しかしながら、グローバリゼーションは同時に米国の政治、経済、社会、文化のあらゆる面で危機をもたらしているということも言えよう。このことは9.11テロを見ても明らかであろう。米国は現在、その繁栄を築いたグローバリゼーションによって危機に瀕しているという逆説的な状況にある。伝統的な前方展開戦略は米国を守っていると同時に、米国を危険な状況にも追いやっている。現在整備が進められている国土安全保障政策は、先述したように「ヒト・モノ・カネ・情報」の流れを全面的に管理・監視するものである。また、先制攻撃を容認する米国の新戦略『ブッシュ・ドクトリン』(40)はこれまでの安全保障観を覆すものである。米国は自らが信じるグローバリゼーションを推し進めた結果、大量破壊兵器やテロリズムといった新しいグローバルな脅威を生み出し、それらの脅威に対処するために根本的な国家価値である自由主義的民主主義を犠牲にしつつある。

 米国は現在、アフガニスタンとイラクの二正面作戦を展開しようとしている。そして、北朝鮮の核開発問題による朝鮮半島の不安定な状況も米国の前方展開に大きな影響を与えている。加えて9.11テロ以後の本土防衛も本格化させている。2つの大規模な海外展開と本土防衛に、米国が財政的にも軍事的にも耐えることができるかは未知数である。今後も、米国がどのような安全保障政策を展開するのかを注意して見守る必要があると言えよう。

 

 

《注釈》

() 森本敏『安全保障論』PHP2000年、167

() 細谷千博監修、滝田賢治、大芝亮編『国際政治経済資料集』有信堂、1999年、13

() 猪口孝、大澤真幸、岡沢憲芙、山本吉宣、スティーブン・R・リード編『政治学事典』弘文堂、2000年、山本吉宣「グローバリゼーション」の項目

(注4) 滝田賢治「グローバリゼーションとアメリカナイゼーション」、『東京大学アメリカ太平洋研究』、東京大学、第1号

(注5) フランシス・フクヤマ著、渡部昇一訳『歴史の終わり』(上)(下)三笠書房、1992年、(上)17頁

(注6) ) 森本前掲書164〜165頁、長島昭久『日米同盟の新しい設計図』日本評論社、2002年、16頁〜26頁、森野軍事研究所「資料分析の狭間からCボトム・アップ・レビュー」『軍事研究』、ジャパン・ミリタリー・レビュー、1997年1月号、「米国の国防計画見直し (QDR) に関する文書@〜B」『世界週報』、時事通信社、1997年7月22日号、7月29日号、8月5日号

(注7)QDR97以後は大規模戦域戦争(Major theater War, MTW)と呼称されるが、内容的に変化はない。

(注8) 長島前掲書26頁

(注9) H.モーゲンソー著、現代平和研究会訳『国際政治』(T)(U)、福村出版、1986年、(T)195頁

(注10)「日米安全保障条約」(The U.S.-Japan Security Treaty)。1951年に極東の秩序維持を目的として成立。

(注11)「米韓相互防衛条約」(Mutual Defense Treaty Between the United States and the Republic Korea)。1951年に北東アジア地域の反共集団防衛体制の根幹をなすことを目的として成立。

(注12)「オーストラリア、ニュージーランドおよびアメリカ合衆国間三国安全保障条約」。1951年に対日防衛を主目的に成立。ただし、米比相互防衛条約および日米安全保障条約成立後は「対ソ封じ込め政策」の一翼となる。1985年のニュージーランドによる米海軍核艦船寄港拒否を契機に、アメリカはニュージーランド防衛を放棄したため、現在では濠米同盟としての性格を有している。

(注13)「北大西洋条約機構」(North Atlantic Treaty Organization)。1949年にソ連の脅威に対し、西欧防衛を目的として成立。

(注14) 猪口、大澤、岡沢、山本、リード前掲書、「民主的平和」の項目、『現代用語の基礎知識2002』自由国民社、2002年、李鍾元「民主主義による平和」の項目より。民主的な国家がより平和的であるとは限らないが、民主主義国同士が互いに戦うということはほとんどないというという仮説。冷戦後の米国外交の重点政策である民主化支援の理論的支柱を成し遂げた。

(注15)正式名称はMilitary Force Structure Act。1996年9月に発効した法律。その後、2000年には「国防授権法」(National  Defense Authorization Act)が制定され、安全保障環境に重大な変化のあったとき、および大統領就任初年度に4年ごとの国防計画の見直しを行い、その成果を国防計画および予算編成の根拠とするものとして戦略を策定、見直しを義務づけている。

(注16)BURにおいては大規模地域紛争(MRC)と記述されたが、QDR97においては大規模戦域戦争(MTW)と記述されている。内容的にとくに変化はない。

(注17) 「米国の国防計画見直し (QDR) に関する文書@〜B」『世界週報』、時事通信社、1997年7月22日号、7月29日号、8月5日号、防衛局調査課「米国QDR(4年ごとの国防計画見直し)の発表について」『Securitarian』、防衛弘済会、1997年7月号

(注18) 「米国の2001年国防報告@〜F」『世界週報』、時事通信社、2001年5月1日号、5月8・15日号、5月22日号、5月29日号、6月5日号、6月12日号、6月19日号

(19)National Defense Panel, NDP。フィリップ・オーティーン委員長、リチャード・アーミテージ、アンドリュー・クレパノヴィッチなどで構成される。199712月に最終報告書『国防を転換する:21世紀の国家安全保障』を発表し、2MTWを柱とするQDR97を批判した。

(20)クリントン大統領(当時、民主党)、ニュート・キングリッチ下院議長(当時、共和党)により設置された超党派の連邦諮問機関「国家安全保障21世紀委員会」(Hart-Rudman Commission on National Security for 21st Century)。ゲーリー・ハート元上院議員(民主党)、ウォーレン・ラドマン上院議員(当時、共和党)が共同議長を務めたことからこう呼ばれる。

(21) チャールズ・ボイド、リー・ハミルトン、ゲーリー・ハート、ウォーレン・ラドマン、ニュート・キングリッチによる米外交問題評議会ミーティング・プログラムの議事録から「テロリズムと米本土防衛」『論座』、朝日新聞社、2001年12月号

(22)第一次戦略兵器制限交渉(SALT)の結果、1972年5月に米ソ間で締結。ABM建設競争が攻撃兵器の軍拡を招くと懸念され、ABMの配備が双方とも2ヵ所に制限された。1974年の議定書で双方とも1ヵ所に制限され、米ソ双方が相互確証破壊戦力を持つことが法的に整備された。

(23) 「米共和党政策綱領「アメリカの目的を刷新しよう。一緒に」」『世界週報』、時事通信社、2000年11月14日号

(24) ロナルド・A・モース編著、日下公人監修『「無条件勝利」アメリカと日本の選択』時事通信社、2002年6869

(25)長島前掲書、101

(26)朝日新聞2001年6月16日付朝刊

(27)参考文献2526

(28)QDR 2001以前は「ほぼ同時に発生する2つの大規模戦域戦争に勝利する」(win-win strategy)とされていたが、QDR 2001では「一方の正面では決定的な勝利を期し、もう一方の正面では敵の進撃を防ぐ」(win-hold-win strategy)とされている。

(29) ”Quadrennial Defense Review Report” Department of Defense, September 2001「米国防総省の「4年ごとの国防計画見直し」 (QDR 2001) 報告@C」『世界週報』、時事通信社、2001116日号、1113日号、1120日号、1127日号

(30)ボイド、ハミルトン、ハート、ラドマン、キングリッチ前掲書

(31)Office of Homeland Security, OHS200110月8日に大統領府の一機関として設置される。初代長官はペンシルベニア州知事のトーマス・リッジ。長官は閣僚レベルのポストとされ、当面は100名程度のスタッフによって運営される。

(32)National Guard。米国の各州の兵で、陸軍州兵と空軍州兵とがある。平時は各州知事の指揮下にあり、災害救援や暴動の鎮圧などにあたる。米陸軍・空軍の予備役としての性格を持ち、戦時においては正規軍に編入され大統領の指揮下に入る。

(33)Coast Guard。沿岸警備に従事する組織。平時は財務省、戦時は国防総省に所属する。

(34)National Security Act。トルーマン政権下の19477月に成立。この法律により国防総省、国家安全保障会議(National Security Council, NSC)および中央情報局(Central Inteligence Agency)が設置された。

(35)National Security Council, NSC。1947年の国家安全保障法および1951年の相互安全保障法により設置された。外交政策と国防政策の調整について大統領に助言を与える諮問機関。大統領、副大統領、国務長官、国防長官によって構成され、必要に応じて中央情報局(CIA)長官、統合参謀本部(JCS)議長および関係閣僚などが加わり、会議の統括は国家安全保障担当の大統領補佐官が行う。

(注36)朝日新聞2002年6月7日付朝刊。これらの政府機関とは別に90近い議会の委員会と小委員会が国土安全保障を分担して管轄している。

(注37) 中林美恵子「九.一一テロとアメリカ議会」『海外事情』、拓殖大学海外事情研究所、2002年6月号

(注38) 島村力「戦時色のブッシュ大統領「一般教書」」『海外事情』、拓殖大学海外事情研究所、2002年3月号より。@バイオテロ攻撃に対する州・地方自治体の救急システムの強化に12億ドル。A対バイオ技術の研究開発に24億ドル。Bバイオテロに即応するための能力強化のために8億5100万ドル。Cバイオテロへの早期警戒のための情報システム改良に3億9200万ドル。

(注39)実際の創設には連邦議会の承認が必要であるため、ここでは提案にとどまっている。

(40) USA Patriot Act。正式名称は「テロ攻撃の傍受・妨害に必要な適切な手段を備えて米国を結束・強化する法律」(The Uniting and Strengthening America by Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism Act of 2001)。2001年9月19日に法案が議会に提出され、同年10月26日に成立。容疑者の電話・電子メールの傍受、テロ活動の疑いのある外国人の司法手続なしの身柄拘束などを認めている。

(注41) ジョージ・F・ケナン著、近藤晋一、飯田藤次、有賀貞訳『アメリカ外交50年』岩波現代文庫、2000年、98頁

(注42)正式には『米国の国家安全保障戦略』(The National Security Strategy of United States of America)。2002年9月発表。対テロ戦争おいては、必要に応じて先制攻撃による自衛権行使も辞さないとの見解を示している。

 

《注釈以外の参考文献》

1.阿部齋、内田満、高柳先男編『現代政治小辞典』有斐閣、1999年

2.有賀貞他著『講座国際政治A外交政策』東京大学出版会、1989年

3.納家政嗣、梅本哲也編『大量兵器不拡散の国際政治学』有信堂、2000年

4.船橋洋一編著『同盟の比較研究』日本評論社、2001年

5.花井等、木村卓司『アメリカの国家安全保障政策』原書房、1993年

. 江畑謙介『アメリカの軍事戦略』講談社現代新書、1996年

. 讀賣新聞調査研究本部編著『対テロリズム戦争』中公新書ラクレ、2001年

. 佐々木卓也編『戦後アメリカ外交史』有斐閣、2002年

. 「米民主党政策綱領「繁栄、前進と平和」」『世界週報』、時事通信社、2000年11月21日号

10. 西脇文昭「過渡的性格にとどまった米国防計画見直し」『世界週報』、時事通信社、2001年11月20日号

11. 「2002年米大統領一般教書」『世界週報』、時事通信社、2002年3月26日号

12. リチャード・ハース「対テロ戦略と国際協調」『論座』、朝日新聞社、2002年1月号

13. 鈴木裕二「テロに備える米国の国内体制」『海外事情』、拓殖大学海外事情研究所、2001年11月号

14. 滝田賢治「単独主義とブッシュ政権の国防政策」『海外事情』、拓殖大学海外事情研究所、2002年6月号

15. 「「高貴な鷲」作戦の成果と今後の米本土防衛体制」『国会画報』、麹町出版、2002年2月号

16. カート・キャンベル「グローバリゼーション最初の戦争か」『世界週報』、時事通信社、2002年2月5日号

17. ウィリアム・ペリー「次なる攻撃に備えよ」『論座』、朝日新聞社、2001年12月号

18. 島村力「米「本土安全保障省」への道程」 (上)(下) 『海外事情』、拓殖大学海外事情研究所、2002年9月号、10月号

19. ”The Department of Homeland Security” President George W. Bush, June 2002

20. ”National Strategy for Homeland Security” Office of Homeland Security, July 2002

21. ”The National Security Strategy of the United States of America” September 2002

 

《図表》

.冷戦後の米軍兵力の推移

 

 

90年

BUR

QDR97

01年

陸軍

陸軍現役師団

18

10

10

10

陸軍予備役旅団

57

42

42

42

海軍

主要戦闘艦

546

346

357

317

航空母艦(現役)

15

11

11

11

航空母艦(予備役)

1

1

1

1

空母航空団(現役)

13

10

10

10

空母航空団(予備役)

2

1

1

1

空軍

現役戦闘機航空団

24

13

13

10

予備役戦闘航空団

12

7

7

7

海兵

海兵師団(現役)

3

3

3

3

海兵師団(予備役)

1

1

1

1


(
出所) 江畑謙介『最新アメリカの軍事力』講談社現代新書、2002年149頁から引用、筆者が加工