03/04/17 トゥキュディデスに感動!
いくら名著とはいえ、2000年以上にわたって読み継がれている著作というものはそう多くはないだろう。しかもその著作が2000年以上たった現在においても何らかの教訓を残し、そこから我々は様々なことを学んでいる。トゥキュディデスの『戦史』(『歴史』と翻訳する場合もある)は正しくそんな作品である。真の「古典」と言うべき著作であろう。
トゥキュディデスの『戦史』は、国際政治の理論書には必ずと言っていいほど引用されている。最近私が読んだ理論書でも、ジョセフ・ナイの『国際紛争』、進藤栄一の『現代国際関係学』、ビオティ『国際関係論』の現実主義の項目にそれぞれ引用されていた。私は別に古代ギリシアに興味があるわけではない。しかしながら、現代国際政治学における現実主義の問題に興味があり、そのルーツがこのトゥキュディデスの『戦史』にあるということからこの本を読むにいたった。
実はこの本を読んでいる途中でなぜか涙が流れてきた。別に泣けるような話が著述されていたわけではない。トュキュディデスという歴史家の不朽の名著にただ感動していたのである。なぜ彼は情報伝達技術もさほど発展していない、というか情報伝達技術の点で言えば極めて原始的な古代ギリシアにあってかくも見事な歴史を書き記すことができたのか。その史料収集の能力、史料解釈力、そして史料に基づいた想像力にただただ感動するばかりであった。
現代の歴史叙述にあっても、上述の史料収集能力、史料解釈力、そして想像力・創造力は非常に重要なものと考える。膨大な史料を収集し、個々の史料から裏付けを行い、史料を選択・捨象する。そして選択された史料に歴史家の価値観が反映されてゆく。その価値観に基づいて歴史家が想像力・創造力を働かせる。たとえば、ジョン・ルイス・ギャディスの『ロング・ピース』は価値観的にはポスト・リヴィジョニズムに属し、米ソ冷戦の原因論を伝統主義が唱えるような、米ソいずれかに求めるのではなく、双方の様々な行動に求めている。
「歴史家にとっての歴史」はおそらくこのようにして書かれるのであろう。想像・創造されるということは必ずしも「真実」が記述されるわけではないだろう。したがって、歴史家によってそれぞれ歴史観が異なると私は考えている。トゥキュディデスの話に戻れば、トゥキュディデスといえどもペロポネソス戦争の「真実」を語っているわけでもないし、ペロポネソス戦争のすべてを語っているわけではないだろう。
しかしながら、我々は古代ギリシアで起きたこの大戦の概要を知ることができる。そしてそこから、後世に同じような過ちを繰り返しているとはいえ、何らかの教訓を得ている。
我々が国際政治学の、とりわけ現実主義の「古典」という場合、ニコロ・マキアヴェリの『君主論』、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』、カール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』、エドワード・ハレット・カーの『危機の二十年』を指す。あるいは将来古典になるであろうものとしてヘンリー・キッシンジャーの『外交』もあげられるであろう。これらはせいぜい400〜500年以内に書かれたものである。これらの著作が今後数千年にわたって読み継がれるかどうかはわからない。
トゥキュディデスの場合、2000年以上にわたって読み継がれた。そして、完全に援用されるということはないにせよ、現在の国際政治学に多かれ少なかれ影響を与えている。正しく「不朽の名作」の称号を関するにふさわしい作品であろう。現在読み途中であるので、追って書評を発表したいと思う。