02/07/14 「新しい戦争」とは何なのか?

 アメリカ・セミナーと大学の「アメリカ政治論」(川上高司先生担当)のテスト勉強のため、昨年の9.11テロに触れることが多い。中でも最大の関心事は、このコラムにおいても繰り返し述べているアメリカの安全保障政策の変容である。余談であるが、前回の『アメリカの安全保障政策の変容』と題したコラムは「アメリカ政治論」のテスト対策に作成したコラムである。テスト当日、このコラムをベースとして「9.11以後の外交・安全保障政策」について論述した。

 今回このコラムにおいて取り上げたいのは、いわゆる「新しい戦争」(New Warfare)という概念である。一口で「新しい戦争」と言っても様々なレベルが考えられる。それは言うまでもなく、国際政治学的なレベルであったり、国際法的なレベルであったり、軍事的なレベルであったり、軍事技術的なレベルであったり、社会学的なレベルであったりする。

 国際政治や国際法的なレベルで見た場合、「国家vs非国家」という構造が「新しい戦争」であるし、軍事的あるいは軍事技術的に見た場合、湾岸戦争以来の「軍事革命」(RMA)によって遂行される戦争構造を「新しい戦争」ととらえることが可能である。また社会学的なレベルで見た場合、湾岸戦争以来の戦争の実況中継という情報伝達の即時性をメディアにおける「新しい戦争」ととらえることも可能である。

 ここで述べる「新しい戦争」とは単に「戦争」という単語に「新しい」という形容詞をつけたものではない。テロ後にブッシュ大統領はじめ、アメリカ政府関係者がいたるところで口にしている「新しい戦争」について言及する。すでに私は『アメリカの安全保障政策の変容』(2002年7月9日付)において、アメリカの安全保障政策だけを見ても今回の戦争が「新しい戦争」に変容したことを指摘している。

 ここでは「新しい戦争」はどのようにして作られたのかということを指摘しよう。ブッシュ大統領が「新しい戦争」と呼んだのは、今回の「戦争」がおそらく従来の「国家vs国家」という構造ではなく、「国家vs非国家」の構造であり、単に軍事施設や軍属(軍人や軍関係者)を標的としたものではなく(もちろん国防総省は軍事施設であったととらえるべきであるが)、民間航空機によりワールド・トレード・センターという民間企業が多数集まるビルが「攻撃」されたことによるものだろう。

 ブッシュ大統領という覇権国家の首脳が「新しい戦争」と呼び、これを多用したことで、世界中にこの何の変哲もないような言葉が氾濫した。そしてテロ以後、コリン・パウエル国務長官を筆頭に世界各国に外交攻勢がかけられた。この外交攻勢により、アメリカは「反テロ連合」を形成することに成功する。この「反テロ連合」の中にはNATO加盟諸国、ANZUS加盟諸国、日本などの同盟国はもちろん、いわゆる非同盟諸国や、ロシア、中国といった今なお対立要因を少なからず残している諸国も加わった。

 具体的に述べると、日本をのぞく同盟国は集団的自衛権の行使で応じたし(NATOおよびANZUSは成立以来、史上初めて集団的自衛権の行使を宣言した)、日本は海上自衛隊による後方支援を行うことを決定した。そして、これまでアメリカと必ずしも良好な関係ではなかった中央アジア諸国も基地提供および領空通過などを許可した。インド、パキスタン両国も領空通過などを許可した。とくにアフガニスタンと国境を接し、タリバン政権と外交関係を有するパキスタンが重視されたのは言うまでもない。ロシア、中国もそれぞれ国内のイスラム原理主義勢力に対する思惑があったとはいえ、アメリカの対テロ軍事行動を事実上認めた。

 「新しい戦争」の概念は同盟国はおろか、非同盟国、敵対国に至るまで受け入れられた。アメリカの「反テロ連合」を形成するというブッシュ・ドクトリンが一応世界中の主権国家において容認されたのである。これをもって「新しい戦争」が世界システムの中に取り入れられたと考えることは可能であろう。

 「新しい戦争」は、かつての「冷戦」のような名前のある戦争ではない。「冷戦」がその発生期において「新しい戦争」であったように、今回の「新しい戦争」もいずれ何がしかの名前がつく可能性は十分考えられる。

 「同時代の人間は現在を誇大視する傾向がある」とは私の指導教授である滝田先生から言われた言葉である。第一次世界大戦が第一次世界大戦として始まったのではなく、第二次バルカン戦争として始まったように、また第二次世界大戦が第二次世界大戦として始まったのではなく、ヨーロッパ戦争として始まったように、今回の「新しい戦争」も未来の歴史家たちによって何らかの名前が命名されるであろう。