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三 宅 周 太 郎 ノ ー ト

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* 『日本近代文学大事典』の三宅周太郎(戸板康二執筆)
* 作成中の年譜




『日本近代文学大事典』の三宅周太郎(戸板康二執筆)

明治25年7月22日、兵庫県加古川に生まれた。6歳のとき父親が町に劇場を建て、毎日のように見に行った。少年時代からの芝居好きで、同志社大学付属の中学生になると京阪神の舞台を見てまわり、ときには東京にまで遠征した。明治45年慶大の文科に進学、ますます演劇熱が昂じる。同期に劇作家の水木京太がいて、青春期をもっぱら芝居についやした。在学中改組された『三田文學』(大正6年5月)に『新聞劇評家に質す』を発表、東京朝日の竹の舎主人(饗庭篁村)を痛烈に批判したのが評判になり、小宮豊隆、小山内薫に認められ「演芸画報」に執筆するような新進劇評家となった。大正7年卒業、同年5月から「時事新報」に月評を書いたが、社内事情で1年半で終わった。しかし当時最高の権威と言われた「新演芸」の合評会同人に推薦され、10年初代中村吉右衛門が市村座を脱退したとき招かれて新富座の嘱託となり、いちじ演出面にも力を貸した。

関東大震災で帰阪したとき、大阪毎日新聞に入社、同紙の劇評を書くことになる。最初の評論集は大正11年2月に新潮社から刊行された『演劇往来』で、そのころ住んでいた本郷菊富士ホテルで、宇野浩二を知り、谷崎精二、広津和郎を紹介された。その劇評の文体が、従来とちがう独自の描写と、新しい角度から歌舞伎を見る目とを示すのは、そういう交友のたまものである。大阪時代初代中村鴈治郎を批判して松竹から反論された。13年に東京に転任、文芸春秋社が第2次「演劇新潮」を出すときに編集長として菊池寛に招かれ、昭和2年の終刊まで雑誌作りを続け、ここでも多くの文学者と知り合った。すすめられて「中央公論」に「文楽物語」を連載、水上瀧太郎が『三田文學』に『三宅周太郎氏の世界』を書いて激励した。後日『文楽之研究』(春陽堂、昭和5年6月)という本にまとめられたこの仕事が、評論家としての地位を決定したといえる。芸に精通しながらも物質にめぐまれない人形浄瑠璃の人々の人生を紹介して、これは一種の報道文学である。

一方、歌舞伎の批評では、先輩の杉贋阿弥や岡鬼太郎と同じように、型に関するくわしい検討をしながらも、まったく新しいスタイルを作り、後進に大きな影響を与えた。その意味で、画期的な存在といえる。劇評集として、以後『演劇評話』(新潮社、昭和3年3月)、『演劇巡礼』(中央公論社、昭和10年5月)など数多い本を作ったが、俳優との対談も多く、一流の話術が面白い。

第二次大戦中、京都の姉の家に疎開、戦後はしばらく上京しなかったが、京都で「幕間」という雑誌発行に尽力、その社から出した書き下ろしの自伝『観劇半世紀』(和敬書店、昭和23年11月)は、私小説的に興味深い。やがて東京に来るが、ある時期は東京と関西を往復して、大劇場の劇評を書いた。昭和39年菊池寛賞を受けたが、国立劇場の舞台をついに見ずに、肺ガンで死んだ。生涯、歌舞伎と文楽とを愛し続けたジャーナリストである。

【『日本近代文学大事典』(講談社、昭和52年11月刊)所収】




    


作成中の年譜
※ 「文士」としての三宅周太郎について考察したいと思えども……。(2016年5月改訂)

1892/M25[0〜1歳]
7月22日、兵庫県加古川に生まれる。酒造り(銘酒「忠良」)の家の末っ子であった(如月青子「わが師・三宅周太郎」)。同年生まれに、芥川龍之介、佐藤春夫、澤田正二郎、瀬戸英一、堀口大學、西條八十、水原秋櫻子、渋沢秀雄、邦枝完二、大岡龍男らがいる。

1899/M32[6〜7歳]
この頃、三宅の家が加古川に寿座なる劇場を建設。新築の日から自由に出入りできたため、のちの曽我廼屋五郎の中村珊之助、のちの映画俳優の尾上松之助などを間近で見る。

1907/M40[14〜15歳]
1月、『演藝画報』創刊。
4月、同志社普通部に入学。
三宅が14歳のときに上の姉が大阪に縁づく。義兄は帝大出身の技術家で三宅をかわいがる。この有福な義兄と姉のおかげで、学校の休みの間は大阪に入り浸り、全盛期の上方歌舞伎を満喫。御霊文楽座でにもよく出かける。

1909/M42[16〜17歳]
この年から東京に3つ上の友人を頼って、姉の小遣いで東京でも芝居見物。明治45年の三田入学まで、京都と東京をたえず往復。
3月、京都の明治座にて新派公演『侠艶録』を観劇。力枝の喜多村緑郎に心酔し思い余って弟子入りを志願する手紙を送るも、結局訪問はせず。その半年早くに花柳章太郎(1894年生)が喜多村に弟子入りしていた。
7月31日、大阪市の北新地のほとんどを焼き尽くした、のちに「キタの大火」と呼ばれた大火災が発生。三宅、家屋が全焼した義兄の見舞いにゆく。
中学3年当時について、のちに「最も清浄で、勤勉ないい時代」と回想。英語と小説と脚本の勉強に熱中した。同年11月の自由劇場の観劇こそできなかったものの、自由劇場の噂やゴシップをくまなく蒐集。千葉掬香訳の『建築師』『蘇生の日』(いずれも明治42年7月刊)など、『趣味』(明治39年6月創刊)という《ハイカラで面白い文芸雑誌》を出していた易風社の刊行本を特に早くに注文して、次々に読んだ。しかしながら、難解。『歌舞伎』誌上の『海の夫人』全訳も難解。イプセン理解に苦しむ。(「イプセンの初演時代」、『學鐙』昭和31年5月号)。

1910/M43[17〜18歳]
同志社普通部4年から文学を志願。寄宿舎を出て相国寺内で下宿生活。土曜日は芝居見物、日曜日は新築したばかりの岡崎図書館で読書、という生活を送る。同志社時代の5年間、英語が得意科目でほとんど満点であった一方、数学は苦手だった。
当時の文壇の風潮にのって、ゴーリキー、ツルゲーネフ、トルストイなどをロシア文学を愛読。
この年の春、慶應義塾が大学部文学科を改革。森鴎外、上田敏を顧問とし、4月に永井荷風を教授として迎えた。小山内薫、与謝野寛、馬場孤蝶も招聘される。5月には荷風を編集主幹として『三田文學』が創刊された。

1912/M45・T01[19〜20歳]
4月、慶應義塾予科に進学。
6月末、チブスを患い入院し、9月に退院。入院中の7月に大正に改元。その後、療養のため学校は1年休学する。三田に入学当初は英語の専門家を目指していたが、病気を機に勉強の意欲がなくなり、ますます芝居にのめりこんだ。
この頃の三田では文壇の頽廃的な享楽主義が若者に蔓延。三宅もニヒルを自任し、白鳥と荷風に影響を受けた。

1913/T02[20〜21歳]
4月、ふたたび予科1年に在籍。この年、秋田より上京した水木京太(本名:七尾嘉太郎)が三田の文科に入学。水木とともに、同年入学の小島政二郎とも親しくなる。
東京では「芝居の苦学生」として観劇に各地邁進し、帰省先では「ぼんぼん」「若旦那」として道頓堀五座を優雅に観劇。
『演藝画報』5月号に杉贋阿弥「舞台観察手引草」初掲載(大正5年1月号まで)。《この著の終りの方の分は、当時同社にいた、善良な毒舌家で正義派の藤沢清造君が、主として筆記し、氏が補訂せられたのであった。(演劇出版社刊『舞台観察手引草』跋)》
7月9日、塾に入って初めての学期試験の前日、宮戸座の立見場で源之助の『女定九郎』を見る。(「女定九郎」、『新演藝』大正9年7月)。
晩秋、三木露風の紹介で、当時三木露風が下宿していた佃島の海水館において三島霜川と初対面。
12月、演技座で紋三郎の『女定九郎』を見て、《所詮は源之助と終始すべき芝居だ。》と思う。(「女定九郎」、『新演藝』大正9年7月)。

1914/T03[21〜22歳]
4月、大正博覧会の折に、文士劇『さつき会』上演。このときの『実盛』が杉贋阿弥の最後の舞台となる。
『演藝画報』7月号に「みやけ生」の筆名で、劇評「文士劇『さつき會』を見て」掲載。杉贋阿弥の実盛と岡鬼太郎の「刃傷」だけの仁木を推賞。後日、編集部の藤沢清造から、両氏が「ありがとう」と言っていた旨を聞いてソワソワする。
『演藝画報』より稿料として、1枚30銭7枚分2円10銭の原稿料を受け取る。(演劇出版社版『舞台観察手引草』跋より)。記念に丸善で当時一番安い万年筆オリオンを2円80銭で購入し、生まれて初めて万年筆を握って歓喜。

1915/T04[22〜23歳]
4月、慶應義塾大学文科本科(3年間)に進学。
11月中旬、市村座で吉右衛門が『道明寺』の菅丞相の初役と二度目の『寺子屋』の松王丸、菊五郎が二番目で松助の『因果物師』の六之助で大当たりをとっている頃に、麻布霞町十番地の杉贋阿弥を三島霜川とともに訪れ、杉と対面を果たす。

1916/T05[23〜24歳]
2月、荷風が慶應義塾を辞す。
3月、玄文社より『新演藝』創刊(大正14年4月をもって休刊)。
三田の文科において、小山内薫の講義は本科2年と3年生に限られた科目だった。その有権者となったとき、小山内の講義を水木京太とほとんど二人だけで聴講する。小山内は西洋と日本の演劇の話題を二人に振り分ける心遣いをみせ、それぞれに個別に話しかける(水木京太「あの日・あの時 小山内先生のこと」)。
6月、澤木四方吉が欧州より帰国、美学の教授に就任する。『三田文學』主幹として陣容の立て直しを図る。
7月、杉贋阿弥を訪問。前年11月に続いて二度目の訪問が最後の訪問となる。段四郎が東京座で初演以来17年目の歌舞伎座における段四郎の俊寛に対する杉の名評に打たれて、思い切って訪問。話がはずんで終電間際まで居続けても、まだ話足りない気がした。

1917/T06[24〜25歳]
5月1日、『三田文學』5月号(第8巻第5号)に、「新聞劇評家に質す」を寄稿。小島政二郎のすすめによる寄稿だった。三宅周太郎の本名で掲載された初の文章で、実質的な処女作となる(のちの単行本には未収録)
5月13日、杉贋阿弥急死(前日夜に『新演藝』の「新富座五月狂言評」を書き「十三日午前稿」と記した直後だった)。このとき大阪の義兄の見舞いのため大阪にいて、帰京後に訃報に触れて、すぐに未亡人を訪問。
5月中旬、帝劇の山本久三郎から激励の手紙とともに帝劇のパスを呈上され、歓喜。さっそく同月の帝劇の一等席で観劇。
5月26日午後6時より、有楽橋「さゝ屋」で三田文学茶話会。その参加者、小山内薫、小宮豊隆、澤木、水上瀧太郎らに同月寄稿の「新聞劇評家に質す」を賞賛される。のちに、小島政二郎が、当時『三田文學』の先輩後輩の親睦をはかるため毎月のように茶話会が開催されており、有楽橋の近くにあった「笹屋」というコーヒー店がしばしばその会場に使われ、そこには女給が大勢いて、南部が新橋の元芸者のマダムに好かれ、三宅は女給のひとりに岡惚れしていた、と記す(『百叩き』)。
6月1日、『三田文學』6月号(第8巻第6号)から井川滋に代わり、慶應義塾を卒業直後の南部修太郎が編集主任となる。同年6月号(8巻6号)から、執筆多忙のため職を辞す大正9年4月号(11巻4号)まで編集を担当。井川と久保田万太郎は相談役にまわる。
7月1日、『三田文學』(第8巻第7号)に、「羽左衛門と菊五郎の世話劇」を寄稿(大正11年2月刊行の初の著書『演劇往来』収録の最古の文章)。
7月1日夜の帝劇にて、岡鬼太郎と初対面。かねてより三島霜川に紹介を頼んでいた。正面の玄関を入って左の二階へ上る梯子段の傍らにて対面。
9月1日、『三田文學』(第8巻第9号)に、「歌舞伎劇保存の議」を寄稿。
9月1日、『文藝倶楽部』に掲載の合評会形式の「羽左衛門評話」の「多加志」と名乗る人物の説が、三宅が『三田文學』7月号に寄稿した「羽左衛門と菊五郎の世話劇」の説をほとんどまるごと踏襲したものとなっていて、無断盗用であった。
11月1日、『三田文學』(第8巻第11号)に、劇評「十月の帝国劇場」を寄稿。同号の「消息」欄に《三宅周太郎近々梅幸につき評論を執筆の由。》と記載あり。
11月23日正午、烏森の「鳥げん」にて、大阪に赴任する水上瀧太郎の送別会が三田文学会主催により開催。澤木、小山内、小林、籾山、南部、小島らとともに三宅も参加。
11月下旬、東京日日新聞に「團十郎追善劇に際して」を寄稿(『三田文學』12月号「消息」欄)。
12月20日、義兄重体の報に接して、急遽大阪へ。

1918/T07[25〜26歳]
1月1日、『三田文學』(第9巻第1号)に、「大正六年劇壇回顧」を寄稿。
1月中旬、大阪より帰京。
2月1日、『三田文學』(第9巻第2号)の「消息」欄に《三宅周太郎、今後東京日日新聞の委嘱により随時劇評を執筆する由。》と記載あり。
2月上旬、神田区元久右衛門町1丁目2番地横田嘉兵衛方へ転居。
卒業論文の執筆で多忙をきわめる。テーマ は「歌舞伎劇に於ける型の研究」。
4月5日、左團次の後援誌『舞台』の編集者の森ほのおが三宅を訪問。《久右衛門町の三宅周太郎氏を訪問。型の如く書生式初対面よろしくあつて早速劇談に移る。三宅氏の型に精通せらるゝには舌を捲く。氏は歌舞伎劇を祖述する役者としては羽左衛門と猿之助の両氏を推してゐられるやうだ。舞台の原稿をお頼みして帰る。》(『舞台』第2号・大正7年5月5日発行)。
5月4日夜、三田文学会主催により、三田東洋軒において、新任の辰野隆と豊島与志雄と新入生歓迎、並びに卒業生の送別を兼ねた宴が開催。この年、文学科を卒業したのは三宅と小島政二郎のふたりだけだった(小島の予科入学は大正2年。病気で休学した三宅とは本科から同期となった)。ちなみに前年の文学科卒業生は、井汲清治、福原信辰、南部修太郎、宇野四郎の4名。
5月5日、校内大講堂で卒業式。
5月、徴兵検査のために大阪へ。身長と体重不均衡の理由で兵役免除となる。
社会部長千葉亀雄の推薦により、「時事新報」に劇評を寄稿することになる。当時の時事は社内の記者でなく小山内が劇評を書いていた。市村座の顧問になった小山内のあとを受けての仕事だった。5月の歌舞伎座劇評がその最初の劇評。
当時「時事新報」の文芸欄を主宰していたのが柴田勝衛で、昼は時事新報の前のカフェ・パウリスタをしばしば打合せに訪れた。
当時社会部に記者として勤めていた菊池寛と深く親しみ、ますます文壇人との付き合いが増えるきっかけとなる。
5月、市村座にて梅幸と松助が客演した大一座の上演の折、一人で桟敷席にいた三宅のもとへ梅幸が挨拶に訪れる。梅幸とたった一度の対面となる。市村座の顧問の小山内薫による仲立ちだった。
9月の市村座において、菊五郎と初対面。当時菊五郎を劇評家がボイコットする事件が発生していた。

1919/T08[26〜27歳]
3月、水木京太が三田文科を卒業。翌月より資生堂の嘱託として、同社の翻訳広告事務に従事。
8月、中戸川吉二『イボタの蟲』(新潮社)刊。中戸川がのちにこの時期について、《その頃より文壇人と多く知る。久米、田中、菊池、吉井、芥川、久保田等以前より知りし先輩の外、南部修太郎、三宅周太郎と親密になる》と記している(『友情』新潮社・大正10年4月刊の巻末の自筆年譜)。
当時、三宅は牛込神楽坂で下宿生活。「山本」という喫茶店を毎日のように訪れ、心酔していた宇野浩二をしばしば見かける。
自称「下宿屋生活の貧しい劇評家」としての生活のなか、劇壇人よりも「派手な作家グループ」とさかんに交流。小島政二郎を通じて芥川、久米正雄、菊池寛を知る一方で、中戸川吉二を通じて里見とん一派とも通じる、というのが三宅の文壇交流だった。
10月下旬、 牛込区中町12番地へ転居(三田文學11月号・消息欄)。
12月に、「時事新報」における三宅の後ろ盾となっていた千葉亀雄が読売新聞に引き抜かれ、柴田勝衛とともに時事を去る。

1920/T09[27〜28歳]
1月の帝劇の劇評で筆禍。当時親しかった菊池寛も文壇の流行児になりかけていた時期ですでに退社していて、時事新報で孤独だった三宅は事情を知らされないまま、時事での筆を断たれる。
正式に浪人となった2月初め、「国民新聞」の文芸欄を主宰していた島田青峰が三宅の劇評不掲載に対する抗議文を掲載。その切り抜きを中戸川吉二が持参、三宅を励ます。
1月以降、小山内薫主宰の文士の観劇団体「萍会(うきぐさかい)」に参加。
2月8日夜、万世橋上ミカドにて、南部修太郎『修道院の秋』、中戸川吉二『反射する心』、邦枝完二『邪劇集』の出版記念会が開催。里見とん、久米正雄、菊池寛、小島政二郎、野村治輔らの斡旋による。(三田文學3月号・消息欄)。
2月下旬、中戸川吉二とともに数日小田原に遊ぶ(三田文學3月号・消息欄)。
『三田文學』、5月号から南部修太郎に替わって、水木京太が編集責任者となる。
夏、岡鬼太郎と岡村柿紅の推薦で、『新演藝』の合評会に加わる。
『新潮』9月号に「中戸川吉二論」を寄稿。同じ号に中戸川吉二「馬」掲載、中戸川の自信作だった(中戸川吉二『北村十吉』)。
10月、新富座で猿之助の春秋座の第1回公演。菊池寛の『父帰る』が上演。「萍会」で猿之助と知り合っていた三宅が仲介役となって、菊池寛に上演許可をとりつける。菊池はこの頃から一躍して劇作家の第一線に出ることとなった。
12月、『新演藝』第5巻第12号の投書欄に、《三宅氏の生真面目な評が私は一番好きだ。人々が梅幸を指して、最う駄目だ。薹が立ったと一概に、葬り去らうとする中に、其技巧を揚げて賞めて呉れるから嬉しい。》という投書が掲載。

1921/T10[28〜29歳]
3月9日、この月に病気休演と発表していた吉右衛門が市村座に辞表を提出、市村座を脱退。
4月、『三田文學』4月号消息欄に三宅結婚の報。
4月、岡鬼太郎来訪、新富座の吉右衛門の相談役になることを打診。即答を避けて、5月、義兄の死去のため帰阪。
6月、吉右衛門が新富座にて松竹入りの旗揚げ興行。里見とんの新作『新樹』上演。同月中旬に帰京し、岡鬼太郎と遠藤為春の厚意で、新富座の嘱託となる。
7月、松竹が局外で吉右衛門を助ける顧問機関「皐月会」結成。会員は小山内薫、小宮豊隆、阿部次郎、里見とん、土方与志、三宅。震災まで続く。
7月20日、中戸川吉二『青春』(太陽堂)刊。同書に跋を寄せる。文中に《私は跋を書く事が出来る友を自分の周囲に持つた事を心から嬉しく思ふ。》と書いた。また、中戸川の作品のモデルに使われたことについて「かなり憂鬱」とも書く。
『三田文學』8月号に、中戸川『青春』に寄せた「跋」が掲載。
この年、里見とんのもとに通っていた女学生、吉田富枝と中戸川吉二の恋愛事件が勃発。三宅も少なからず巻き込まれる(中戸川吉二『北村十吉』、里見とん『おせっかい』)。

1922/T11[29〜30歳]
2月、新潮社より、初の著書『演劇往来』刊行。佐藤義亮が時事時代から三宅の劇評を愛読していたことから刊行が決まる。新潮社社員の水守亀之助が編集の実務を担当。新潮社での刊行は三田派では久保田万太郎に次いで二人目だった。
3月13日夜、中央亭で『演劇往来』の出版記念会開催。荷風、小山内薫、里見とん、山本有三らが出席。三宅はなけなしの印税をはたいてこしらえたモーニング着用で出席。里見とん、芥川、小山内の順にスピーチ。このときの小山内の「脚本がわかる人になれ」という言葉はのちのちまで三宅の脳裏に残った。この小山内のスピーチと「皐月会」の仕事に活気づけられ、ますます内外の脚本をよく読むようになる。
『新潮』5月号に中戸川吉二「ペチイ プルジヨア」掲載。三宅周太郎をモデルにした小説。中戸川に引けを取らない三宅の「ブルジョワ」ぶりとそれにもかかわらず律儀な節制した生活ぶり、その一方の着道楽、芸者遊び(新橋の芸者・君太郎に岡惚れする)……といった当時の三宅の生活が活写されている。
6月から震災直前の翌12年8月まで「国民新聞」の劇評を担当。
「新演芸」11月号掲載の「芝居合評会第二十六例会 今様薩摩歌 新富座狂言」にて荷風と同席(10月8日日本橋若松にて開催)。三宅の発言に荷風が「そうだ」と大声で応じ、感激する(「永井荷風先生の戯曲」)。
12月下旬に本郷菊富士ホテルに仮寓(三田文學12年1月号・消息欄)。「家庭生活の思わぬトラブル」によるもの。宇野浩二、高田保、谷崎精二、広津和郎らと交わったホテル生活は後々まで三宅のよい思い出となり、のちに往時を「ハイカラ八笑人」の生活と称す。また、菊富士ホテル滞在を機に、文士に関しては早稲田贔屓を自任。三田とも「人間」派とも違った早稲田派の磊落、軽快、ユーモラスなグループが一段と好きになったと記す。

1923/T12[30〜31歳]
3月、『三田文學』3月号の消息欄に、同誌4月号に処女作小説「子なき幸」を寄せるため目下専心執筆中、とあるも掲載されず。
5月の中頃、宇野浩二が菊富士ホテルに仕事場を構える。三宅と親しく交際。当時の三宅は毎日午後、義太夫の稽古に通っていた(宇野浩二『文学の三十年』)。同宿の高田保はほとんど毎日、昼頃目を覚ますと「彼の唯一の自慢であるコーヒー沸し」でコーヒーを沸かして、「コーヒーが沸きましたよ」と言って、宇野と三宅に呼びにきた(宇野浩二「人形芝居の披露」)。
9月1日、関東大震災。新富座の焼失により仕事を失う。
9月4日、田端駅より帰阪。未亡人となっていた姉の家(=大阪市北区堂島中二丁目・橋本まさ方)に身を寄せる。
11月、中戸川吉二の発行、牧野信一の編集で雑誌『随筆』が創刊される(翌大正13年12月号まで全12冊)。

1924/T13[31〜32歳]
1月、大阪毎日新聞社入社。すでに他界していた義兄が大毎社長の本山彦一と知り合いだった縁故で入社。
1月、新潮社を版元に『演劇新潮』創刊。翌年6月までの計18冊が第1次『演劇新潮』。
『文章倶楽部』大正13年2月号に匿名記事「文壇新人の印象」に「(1) 三宅周太郎氏の二つの顔」。《三宅氏が今は別れたあの妻君を得た時の話は、氏が私の云ふ「頑固な自分自身の心を持つ」彼自身を面白く語つてゐると思ふ。氏はその婦人を見た時から自分の心一つでその女と結婚する決心を定め、それを最も親しい友人にも打明ける事なく、たゞひとり日夜彼女の家をさがし、さがし当てると単身結婚を申込んだのださうである。氏の友人は氏が結婚するまでその事を一言も云はなかつた事や、そぶりにも現はさなかつた事を云つて驚いてゐた。そして云つた。「三宅には妙にさういふ頑固さがあるんですよ」と。》。
『随筆』3月号に「劇壇に関する愚痴」を寄稿。
5月、大阪毎日新聞紙上で鴈治郎の盛綱を非難。
6月、築地小劇場開場。
7月、東京日日新聞に転ずる。毎日出勤し、尾崎昇(士郎の兄)と二人で四段の学芸欄を埋めるという激務を担当。このとき、再び菊富士ホテルに住むも、震災前の住人はほとんど残っておらず(宇野浩二のみ残っていたが上野の自宅から通っていたので出勤中の三宅とは会えず)、ホテルの雰囲気は一変していた。
7月、丸の内の邦楽座が新築開場。吉右衛門一座に中車が加入して『金閣寺』上演。震災後の東京の旧劇の復活として三宅に強い印象を残した。
震災後、四谷第三小学校のそばの二階家に住む三宅を当時四谷区麹町区十三丁目(現新宿区四谷1丁目)に住んでいた安藤鶴夫がしばしば目撃する。(安藤鶴夫「回想・三宅さん」・『演劇界』昭和42年4月号)

1925/T14[32〜33歳]
1月、歌舞伎座落成。《震災後の大東京の美観を増し、演劇のためにどの位安定感を一般に与えたかわからない》と、その感慨をのちに記す(『演劇五十年史』)。
4月、『新演藝』休刊。

1926/T15[33〜34歳]
第2次『演劇新潮』、文藝春秋社より刊行(4月号が初刊)。菊池寛のすすめに応じて編集を担当する。当時の文藝春秋社は麹町三番町の有島武郎邸を社屋にしており、ここに通う。「演劇新潮」の編集室の隣りが「映画時代」の編集室で、編集員として働く早稲田大学在学中の古川郁郎(のちの古川ロッパ)に対面する。ちょっと口をきいただけで「この学生は頭がいいな」と直覚する。
3月、「築地小劇場と文楽と」(『演劇評話』所収)に、《築地と文楽と、何と云う似ないもの同士であろう。が、その反対同士でいて、芸術のためには一点の妥協なしに、血みどろになっている点では、何とよく似たもの同士なのであろう。遂に私は今の劇壇では此二つを一番尊びたいような気がするのだ。》と綴る。
文藝春秋社で「演劇新潮」の編集に従事することになったので、4月より東京日日新聞の方は嘱託としての勤務となる。以後、終世、同紙に劇評を寄稿。
前年3月号を最後に休刊していた『三田文學』が4月号より復活。水上瀧太郎の尽力による。水上、久保田万太郎、南部修太郎、小島政二郎らが編集委員となる。
11月29日、御霊文楽座焼失。

1927/S02[34〜35歳]
第二次『演劇新潮』8月号(第2巻第8号)をもって休刊(計17冊)。途中から経費削減のため、早大生の西村晋一のみを助手にして、懸命に働いていた。
『演劇新潮』最終号の校正の折り、大日本印刷の校正室で『中央公論』編集長の嶋中雄作に会う。翌年1月号からの文楽ものの連載の掲載の約束をとりつける。
文藝春秋社の「手帖」第7号(9月1日発行)に掲載の『過去一年半』に、第二次「演劇新潮」終刊に際しての心境を、《私としてはやるだけはやった積りだ。人間と人間とが折衝する仕事をしていて、この間、内外とも一つの感情的「苦きもの」さえなしに終ったのみでも、私はこの一年半を見送って快い気持がする。嘗て私の下宿暮し菊富士ホテルの何年かは、実に快い記憶として私に未にその頃の追慕に堪えぬものを残している。それ程楽しくないにしても、この一年半もやがてそれにつぐものになりそうな気がする。》と綴る。三宅も同人に加わっていた、同年3月に創刊以来毎号寄せていた「手帖」への寄稿も同号が最後になる(「手帖」は同年11月に第9号をもって終刊)。
『演劇新潮』終了とともに、大阪へ文楽の取材へと出かける。当時未亡人の姉が今橋で女中との気楽な二人暮しをしていたので、ここを足場とした。まっさきに土佐太夫を訪問。かつて大阪朝日に人形浄瑠璃の名評を書いていた岡田翠雨を紹介され、その阪神間の自宅をしばしば訪問。

1928/S03[36〜37歳]
「中央公論」1月号に『文楽物語』第1回掲載。水木京太の葉書による激励が一番最初の反響だった。その後、「時事新報」文芸欄の広津和郎や正宗白鳥等々、数々の大反響。
水上瀧太郎、『三田文學』8月号掲載の「貝殻追放」に「三宅周太郎氏の世界」を寄稿。三宅曰く《神の裁き》、《私という者の全部の人間批評でもあった》。以後、生涯にわたって水上を「生活の光明」として崇拝する。
この年、朝日新聞に毎月、小山内薫による歌舞伎の劇評が掲載される。小山内を「芝居のわかる天才」として尊敬する三宅にとって朝日の劇評を見ることはこの世で一番こわいものとなり、三宅は自分の原稿を送ってから小山内の劇評を読むようにした。
12月25日、小山内薫急死(享年48)。

1930/S05[37〜38歳]
4月、文化学院において学制の改革、本科を文学部、美術科を美術部と改称。三宅周太郎も講師のひとりとなり、文学部(学部長は菊池寛、翌年に千葉亀雄に交替)で演劇を講じる。この年慶應義塾を中退して文化学院に入学した教え子、野口冨士男(1911年生れ)が提出した「少女歌劇論」なるレポートを褒め、この道へ進めと野口を激励する(野口冨士男「レビューくさぐさ」)。
水木京太が4月より丸善株式会社嘱託として洋書の調査解説宣伝、社史の編集、『学鐙』の編集にあたる(昭和21年まで)。

1931/S06[38〜39歳]
4月、明治大学に文藝科が創設される(科長山本有三)。講師の一人となる。野口冨士男は、《文化学院と、(中略)日大文芸科、(中略)明大文芸科という当時の文芸三校の教職員の顔ぶれをみわたすとき、私はそこに作品の発表舞台をプロレタリア派に次々と蚕食された新感覚派、ないし新興芸術派の作家達の雨宿りの姿をみとめずにはいられない気がする。》と記している(「雨宿り 川端康成」)。

1933/S08[40〜41歳]
10月、慶應義塾の歌舞伎研究会の催しに招かれ、三田の明治製菓売店で話す。その月の歌舞伎座で上演中の『天下茶屋』の羽左衛門の伊織を褒める。当時予科2年に在学中の戸板康二が三宅を見た最初。
『行動』11月号に掲載の野口冨士男による劇評「築地のハムレット」を、文化学院での講義の際に言及し褒める(野口冨士男「消えた灯――新宿」)。

1934/S09[41〜42歳]
夏、同年3月に他界した三島霜川の遺著を出版するにあたって、水守亀之助より手紙で相談を受け、「演芸画報」に大正初年から連載されていた「役者芸風記」を強く勧める(翌昭和10年4月に中央公論社より刊行)。

1936/S11[43〜44歳]
1月19日、池袋の三宅の自宅(=豊島区池袋三ノ一六三七)を戸板康二が訪問。慶應義塾の歌舞伎研究会の雑誌「三田歌舞伎研究」の寄稿のお礼のため。玄関先でのみ応対し、室内にはあげず。戸板にとって二度目の三宅との対面。
2月、新宿第一劇場で曽我廼屋五郎を見に行った帰途、夜の池袋の雪の夜道にて転倒。大腿骨を骨折して、神田駿河台の名倉病院に担ぎ込まれる。入院は70日続き、劇評を三か月休む憂き目にあう。
二・二六事件の朝、水上瀧太郎が見舞いに訪れ、三宅に事件の詳細を知らせる。

1937/S12[44〜45歳]
10月、京都に嫁いでいた二番目の姉が脳溢血で急死。

1938/S13[45〜46歳]
6月、『三田文學』に掲載の「三田劇談会」の第1回が三田四国町の久保田万太郎邸で開催。メンバーは三宅周太郎、水木京太、大江良太郎、和木清三郎、戸板康二、司会が久保田万太郎。のちに戸板に《三宅さんの話し方が、あの独特な文体と、ほとんど同じ調子なのを、その会で知った。この会ではまた、三宅さんと水木さんとのあいだの、いかにも古い友達のあいだにのみ存在する友情がわかって、気持がよかったのを思い出すのである。》、《その時に受けた印象が、以後三十年、ほとんど変らなかったのは、ふしぎである。早くから老成していた三宅さんが、四十代から七十を越えるまで老人くさい感じには、とうとうならずに終った。》と語らしめる(「三宅周太郎さんのこと」)。
8月、中戸川吉二が釧路にて脳溢血で倒れる。12月に帰京、そのまま病床に就く。

1940/S15[47〜48歳]
『三田文學』昭和15年2月号の「消息」欄に、三宅が文部省演劇改善委員に選ばれ、日本文化協会設定の演劇賞審査委員に就任した旨、記載あり。演劇賞審査委員には水木京太、大江良太郎も就任。
3月23日、水上瀧太郎、急死。その数日前の同月17日日曜日、水上瀧太郎は三宅とともに2年前より患っていた中戸川吉二を見舞っていた(中戸川吉二「丁度いゝのに限る」)。中戸川は三宅に、「三田で水上氏が死んだのを一番悲しんだのは君だろうね」と言った。
11月末、「中央公論」に『俳優対談記』を連載するにあたって、第1回目として、築地の錦水にて羽左衛門と対談。「中央公論」からは畑中繁雄が世話役として臨席、羽左衛門は竹柴銀二を連れてくる。きわめて和やかに進行し、三宅にとってよい思い出となる。『俳優対談記』に関してのちに、劇評家生活三十年のなかで最も嬉しい仕事だったと語る(「観劇半世紀」)。

1942/S17[49〜50歳]
11月19日、中戸川吉二没(享年47)。

1943/S18[50〜51歳]
10月29日、岡鬼太郎没(享年71)。

1944/S19[51〜52歳]
夏、当初三省堂より刊行予定だった杉贋阿弥の『舞台観察手引草』が岡鹿之助の装釘で刊行準備が整うも、紙不足により刊行がままならないまま、校正をすべて焼失する。

1946/S20[52〜53歳]
4月13日、12年住んだ池袋にて大空襲。これを機に京都の松ヶ崎に疎開。戦後も帰京叶わず、京都に住む。
義兄の墓参りのため帰郷していた折、5月7日の夕方、加古川の生家のラジオで羽左衛門の死を知る。
晩秋、水木京太より長文の手紙が届く。雑誌「劇場」の創刊につき、同人になることと毎号京阪の芝居だよりを寄稿することを懇請する手紙だった。

1946/S21[53〜54歳]
1月、水木京太を編集主幹として、演劇雑誌「劇場」創刊(京屋印刷の社主、児玉琢爾が演劇文化社を設立して経営にあたる)。水木との約束どおりに、毎号「京洛しばいばなし」を寄稿。
5月、和敬書店(社主:関逸雄)より「幕間」創刊。同誌の顧問格となる。「幕間」の創刊にあたって関逸雄(1922年生れ)は戦前より旧知だった井上甚之助(京都大丸の宣伝部長)を頼りにした。井上(1904年生れ)は慶應義塾在学中に歌舞伎研究会に在籍、講師として招かれた三宅の話を熱心に聞いており、京都に就職後に文通を通して親睦を深めていた。また、井上は予科時代は文科に在学、小島政二郎は文科の教師として井上と旧知だった。和敬書店の創業にあたっては、京都に就職後にふたりと親睦を深めていた井上が関逸雄に三宅と小島政二郎を紹介した恰好だった。

1948/S23[55〜56歳]
7月1日、水木京太没(享年54)。《私も必ず約束を守り責任を果し誠意を以てした積りだが、彼も亦実に正確と誠心誠意でつき合ってくれた。そしてあけすけとお世辞や気休めをいわぬ本当の友人だった》と、「劇場」水木京太追悼特集(昭和23年9・10月合併号)に綴る。

1967/S42
2月14日、京都にて他界(享年74)。