サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

U Jotika(ウ・ジョーティカ)

サティパッターナ・スッタをパーリ語から英語に翻訳された U Jotika氏の著作『 自由への旅 』には、ヴィパッサナー瞑想によって得られる洞察智(Insights)(ヴィパッサナー・ニャーナ)が、十六段階にまとめられています。これは上座部仏教(Theravada Buddhism)では十六観智と総称されています。

第一の洞察智(名色分離智)― 意識と対象(感覚)の区別に気づくこと。客観的な観察

最初の洞察智は、存在するのはただ現象だけで、恒常的なものは何もなく、存在者もなく、実体もなく、「私」もなく、自我もなく、人格もなく、ただ純粋な現象があるだけと知ることです。この「私」というのは、心の創り出したものです。心は、我と我が身の重荷を創り出します。この最初の段階の悟りによって、この「私」性、「私」性という誤った見解(邪見)が根絶されます。

最初の洞察智を得るために、意識(ナーマ:名、心、精神)と対象(ルーパ:色、身体、物質)を分離させます。意識と対象(感覚)をプロセスとして見て、存在者、実体、魂としては見ないのです。私の意識があるのではありません。あるのは、意識のプロセスです。私の対象(感覚)があるのではありません。あるのは対象(感覚)のプロセスです。

ふたつのことが起こっていて、ひとつはナーマ(意識)であり、ひとつはルーパ(対象)です。このふたつのものを非常にはっきりと観察した時、それが最初の洞察智になります。第一の洞察智は、無我(anatta)を知ることです。この対象があって、この気づきがある。対象と気づきというこのふたつを非常にはっきりと観察します。感覚と気づきは自然現象ですが、意識は対象という条件で生じています。

目を閉じている時には、目の前にあるものをあなたは見ることができません。目を開けた瞬間に、何かがあなたの目に飛び込んできて、この気づき、この見る意識が起こります。それはこの瞬間に起こります。あなたは対象と意識という二つのものを見ることができます。名色分離智とは、こうした見方です。

形は存在せず、男でも女でもないと観察します。これらの現象には、形状も外形もありません。それらは単なる性質です。硬さはただ硬さであり、柔らかさはただ柔らかさです。動きはただ動きにすぎません。瞑想する際には、ただ性質に注意を払います。あらゆる性質は存在者ではありません。実際には、存在者などいないのです。心と身体が動いているのであって、存在者が動いているのではないのです。

心が平静になり、純粋な性質を見る時に、私たちはそれが単に純粋な性質であって、存在者ではなく、男でも女でもないことがわかります。貪欲とは女でも男でもありません。貪欲とは、ただ何かを欲することです。これが最初の洞察智です。この最初の洞察智に至ることができなければ、進歩の望みは全くないでしょう。

名色分離智という洞察智に至った(純粋な性質を見る)時、その洞察智を得た状態が見清浄です。それは、第一の洞察智とともにやって来ます。

食事をする時、心と身体が食べているのであって、「私」が食べているのではありません。食べているのは心と身体なのですが、私たちは、私が食べていると考えています。実際には、ただ心と身体のプロセスが食べているだけです。これをプロセスとして理解できれば、あなたはこの見清浄を得たことになります。

第二の洞察智(縁摂受智) ― 意識と対象(感覚)相互の条件付、因果関係を理解すること

精神と物質の現象が、互いを条件付け合っていることを観察し、理解することが第二の洞察智です。このルーパ(物質的プロセス)は、このナーマ(精神的プロセス)によって生じている、あるいはその逆、などなど、状況に応じて、この両者は、互いを条件付け合っています。その条件付けを知り、その条件によって生じているのだと知ることです。

この対象(感覚)は、この意識の原因です。対象(感覚)があるから、意識が生じたのです。意識はそれ自身によって生じるのではありません。音の意識は音があるゆえに生ずるのです。長い期間、瞑想を続ければ「私が注意をした時だけ、私は音を聞く」という理解に至ります。音があっても、意識が生じなければ音は聞こえません。

ほとんどの時間、私たちは夢の中にいるかのように、無意識に何かをしながらふらふらと過ごしています。そこで突然、私たちは目を覚まし、そして「見る」ということがあり、それが本当に驚くべきことであるのを知ります。あなたは「見る」ということを、真に新しい何かとして経験するのです。ただ何かが存在するということこそが、真に驚くべきことなのです。

眼に関しては、中立的な感覚だけを感じています。それは快でもなく、不快でもありません。あなたがそれを快か不快として解釈すると、それは別のプロセス、つまり精神的プロセスになります。自分が見たものを好む時、それはもはや眼の意識(眼識)ではなくなります。この繋がりは別の意識になります。心が解釈をする時、それはもはや見る意識ではなく、心の意識なのです。

あなたが何かを見る時、純粋に見るのが眼識で、その時には、あなたは自分が何を見ているのかすら知らないのです。ただ純粋に見ることがあるだけなのです。自分が見ているものを確認するのは別の段階で、それからあなたは、自分がそれを好むかどうかを決定するのです。

第三の洞察智(思惟智) ― 意識と対象の因果である生成と消滅を通じて無常・苦・無我を知ること

瞑想する際に、無常(anicca:永続的でないこと)、苦(dukkha:不満足)、無我(anatta:コントロール下にないこと)という、自然現象の三つの特性全てを観察します。一つの対象(感覚)と、三つの特性(無常・苦・無我)の一つの側面だけを、繰り返し観察するのです。恒常的な実体は存在せず、持続する硬い中心核は存在せず、魂は存在しません。全てはプロセスなのです。

瞑想者は、何かが現れてしばらくのあいだ留まり、そして消えてゆくのを観察します。全てがゆっくりとした動きになります。思考や感覚が、映画のスローモーションのような、ゆっくりとした動きになります。瞑想者は、生成し、しばらく留まり、消滅するのを、観察することができます。時々は、少し変化してから消滅することもあります。この変化も、また、無常の一つの側面なのです。

それらは生ずべき十分な原因があるから生じ、消滅することがその本性であるから消滅します。何であれ生成する本性をもつものは、完全に消滅するという本性をもっています。受(感覚)を観察しているとしたら、あなたは無常としての受、あるいは苦としての受、もしくは無我としての受を観察することになるのです。

瞑想において、受に注意を払っていると、それがますます明晰になっていきます。そこに留まって、それをさらに明晰にすることは、とても重要なことです。いかなる種類の精神的状態についても、それに何度も繰り返し注意を払ってください。あなたはこうした全てのことを総じて理解するでしょうが、一つのことを完全に理解したならば、それで十分です。

この瞑想において、私たちは何も解釈せず、物事を組み合わせることもありません。私たちは各瞬間、各現象を個別的に見ます。各々の瞬間と現象を個別的に見ることができた時、あなたは本当にその本性を見ることができるのです。物事を組み合わせたら、それは観念になってしまいます。

物事が生じるためには、原因と条件が必要です。しかし滅するためには、原因も条件も必要ありません。十分な原因があればそれは生じます。同じことが、他のいかなる自然現象についても言えます。それらは私たちの願望には従わないでしょう。瞑想して強い集中力を育てれば、思考は時々止まります。あなたがそれを望むからではありません。条件のゆえにそうなるのです。

何ものも「物体」として考えることはできません。宇宙全体が一つのプロセスなのであって、物体ではないのです。何かを物体として見る時、それはあたかも変化していないように見えます。しかし、電子や陽子や中性子をプロセスとして見れば、それらは常に変化していることが分かります。互いに結合した時もまた、それらは変化するのです。

もしあなたが、全ての思考が身体に影響するのを感じ取れるくらい敏感になることができたなら、思考に全くうんざりしてしまうでしょう。あなたは思考が浮かぶままには任せなくなります。あなたはよりマインドフルになり、ネガティブな思考はどんどん減っていくことになります。あなたがますますマインドフルになれば、思考に耽溺し過ぎることはなくなるでしょう。

瞑想とは、存在者や「私」はなく、ただ気づきの連続、瞑想する意識の連続だけが存在するのを観察することです。私が瞑想と呼んでいるものは、単に連続する意識、気づきに過ぎません。

このポイントに至ってはじめて、瞑想者の誤った見解は剥落するに至ります。誤った見解が、本当に剥がれ落ちるのです。私が瞑想しているのではありません。私が瞑想と呼んでいるものは、単に連続する意識、気づきにすぎないのです。このポイントに到達しない限り、その人は次の段階へは進めません。

第四の洞察智(生滅智) ― 現象の生成と消滅を経験し道を見分けること

この段階を過ぎると、もはや、ナーマ、ルーパ、無常、苦、無我など、ダンマに関する思考は存在しなくなります。物事(感覚)が生成し、消滅しているのを非常に鋭く、明らかに観察するようになるのです。

第四の洞察智は、現象(感覚)の生成と消滅を洞察する智慧です。これは、ウダヤッバヤ・ニャーナと呼ばれています。ウダヤ(udayo)とは生じることであり、バヤ(vayo)とは滅することです。この二つが合わさって、udayabbaya という語がつくられています。私たちは、何にしても以前とは異なってはいるものの、それは以前のものと同じだと考えるところがあります。しかし無常が本当に意味するのは、以前のものは「もはや存在していない」ということです。

この段階に達する前は、瞑想者は自分が正しいことをやっているのか不安になることがあります。これはナーマなのか、 これはルーパなのか、 これは無常なのか、 これは苦(不満足)なのか。 しかし、この段階に到達すると、こうした迷いは全て去ってしまいます。瞑想はたいへん自然なものになり、努力をあまりせずとも進んでゆき、それゆえ、心がとてもバランスのとれた状態になるのです。心はこうしたウペッカー(捨)の態度をもちます。つまり、非常に強力な平静さが育つのです。

この平静さには、多くの特性があります。その一つが、恐怖も喜びもないということです。喜びはある種のローバ(貪欲)であり、何かを好むことです。この段階に到達すると、興奮はなく、幸福でも不幸でもなく、心は大変落ち着いていて、バランスのとれた状態になっています。

この段階において、瞑想者は非常に明るい光を経験することがありますが、これは心がたいへん集中していることを示しています。サマタ瞑想(アーナーパーナ瞑想)でも、この種の光は経験できます。それは集中と心のエネルギーを示すサインです。

第五の洞察智(壊滅智) ― 生成と消滅の消滅のみに注意を払い、それを観察する意識の消滅を感得すること

消滅をより明らかに観察し、生成には同じだけの注意を払わない。注意を払えば生成を観察することはできるが、消滅と消失により多くの注意を払う。注意を払うとそれはもはやそこにはない。気づこうとした瞬間に、それはもう去っている。それを観察することはもうできない。それはちらりと見えるだけで、もはやそこには存在しない。

この段階においては、瞑想するたびに、その対象が何であれ、たとえ動きであっても、瞑想者はその感覚と、次から次へと非常な速度の消滅に非常に明らかに気づいている。形にはもう注意を払っておらず、感覚に注意を払っている。全ての形と固形性は消えてしまう。つまり、あなたは形と固形性に、もう注意を払わない。あなたはただ感覚と、その非常な速度の消滅にのみ注意を払う。

対象が非常な速度で消滅するのを観察するのが、第一のバンガ・ニャーナだ。智慧(意識?)の消滅を観察するのが、第二のバンガ・ニャーナだ。この二つを合わせて、第五の洞察智である壊滅智(バンガ・ニャーナ)が完成する。

最初の洞察智においては、瞑想者は少し考える。第二の洞察智においては、生成や気づき、そして思考の原因について、多くのことを考える。第三の洞察智においては、瞑想、または無常・苦・無我についてより多く考える。第四の洞察智において、思考は比較的少ない。第五の洞察智では、思考はほぼ存在しない。考えることができない。消滅が非常な速度になってきて、それについて考える暇が存在しない。

第六の洞察智(怖畏智) ― ナーマとルーパのプロセスを危険なものとして観察すること

この段階において、瞑想者はあまり喜びに満ちておらず、意気盛んでもない。危険と見てはいるが恐れないということが洞察智ということだ。恐怖は、同一化から来る。同一化が存在せず、物事を単に消滅してゆく非人格的なものと捉えていれば、それはあなたとは何の関係もない。だから恐怖もない。誰もこれに同一化することはできず、それにしがみつくこともできず、そして頼ることもできないということを観察する。

第七の洞察智(過患智) ― 生成と消滅の不利益(過患)を観察すること

一般に人々は、よりよい場所、よりよい世界に再生することができれば、それは素晴らしいことだろうと考える。しかし、この精神と物質のプロセスが消滅していることを、綿密かつ明らかに観察すれば、あなたには理解できる。

「何のために? 全てはこんなに速く消滅している。そもそも何かを求めることに、何の意味があるだろう!」

何であれ生起することは危険なのだ。何かが満足をもたらしてくれると考えて、それを得ようと考えることすら危険なのだ。つまり、生起するものはただ純粋な苦であり、また消滅するものも純粋な苦なのだ。

生成しないことは安全だ。何事も起こらなければ、実に安全だ。何かが起これば、それは消滅することになる。そこに安全はない。何も生成しないことが幸福であるということだ。

第八の洞察智(厭離智) ― 深く幻滅し、何事も幸せに思わないこと

何かを全く魅力を失わせるものとして観察すること、つまり「幻滅」だ。幻滅する、あるいは何事にももはや喜ばない智慧のことだ。これはまた退屈をも意味する。瞑想に関する退屈ではない。生成しては消滅し、また生成しては消滅するというこのプロセスを観察して、刺激を受けるものなど何もない、同じことが終わりなく、何度も繰り返し生起しているのだと認識するという、そうした意味における退屈だ。瞑想者は、楽しむことのできるものなど何もないことを観察する。全てはとても退屈なのだ。

Sabbe sangkhara aniccia! 「全ての現象は無常である」

智慧をもってこれを観察する時、ドゥッカ(苦)にまるで魅力を感じなくなる。これが清浄の道だ。執着していないから、それについて心が乱れることがもうない。あなたは執着から、完全に離れている。

第九の洞察智(脱欲智) ― 自由になりたいと欲すること

全てのものを危険と観察(第六の洞察智)し、全ての生成消滅を不利益(第七の洞察智)なものと観察し、全てのものを魅力を感じる価値のないものと観察(第八の洞察智)した後、瞑想者はこれら全てのものから自由になりたいと欲する。

生成消滅が実に退屈であることを観察し、これ以上それとともにあることを欲せず、そこから離れたいと思い、抜け出したいと思い、それらから脱出したいと欲し、それらに全く飽き飽きしてしまう。この段階は脱欲智と呼ばれ、「脱出したいと欲すること」を意味します。

瞑想者は瞑想の対象と瞑想する意識から自由になりたいと思う。対象(感覚)と、瞑想している気づきから自由になりたいと欲する。これはつまり、もうこれ以上何事にも気づきたくないということだ。

第十の洞察智(省察智) ― 瞑想(観察)に戻ること

注意深くしていなければならない。退屈を感じた時は「よくなりつつある」と、ただ再確認するのだ。

瞑想はプロセスの心(路心)を育てる。これは現在に気づいている心だ。行動すればするほど、心は基礎的な状態(有分心)を強める。これは生命と意識の連続性を維持する心だが、瞑想を深めると、そこに長くは留まらなくなる。だから、有分心の時間はどんどん短くなる。

考えると、そこに同一性が生じる。思考によって「自分」が考えているのだと感じてしまう。思考によって、そこに連続性があるかのように感じられる。思考は繋ぐのだ。考えなければ、一つの出来事と別の出来事の間に繋がりは存在しない。思考がなければ、繋がりも連続性も存在しない。何かが生成し、消滅している。ただ、それだけだ。意味は存在しないのだ。

だから、考え過ぎないように警告する。思考が自然に浮かんできたら、ただそれに気づき、そして手放す。考えることによって、あなたは思考に同一化してしまう。思考が起こったら、ただ思考が起こったと気づくことだ。

通常、人はこの思考のすき間、意識の持続機能(有分心)をたいへん広く、長い時間もっているが、瞑想すればするほど、心はますます鋭くなり、そして思考のすき間はますます小さくなる。だから、同じ時間のプロセスにおいて、私たちはより多くの気づきをもつことになる。気づきがこの時間のスパンの中にぎっしり詰め込まれることになる。たいへんに集中した心を備えた瞑想者にとって、一秒は非常に長い時間だ。時間が大きく歪むのだ。

第四の洞察智の後は、全てがより楽しく、より幸せに、より刺激に満ちて、より喜びに満ちたものになるだろうと考える人たちもいる。そうはいかない。事態は下降してゆく。私たちはより深い洞察智を得て、しかも幸せを感じないのだ。しかしながら、これはスランプではない。

「この精神と物質のプロセスを観察することは退屈で幻滅を感じるものであり、それについて良いことは何もない」と感じた時に、瞑想者はあるポイントに到達する。

第十一の洞察智(行捨智) ― 対象から距離を保って平静に観察し「中道」「空」に到達すること

より深く強い注意力をもってプロセスを観察すると、心はより落ち着いて静かになる。気づきとサマーディはさらに強くなり、心は対象から完全に距離を保った状態になる。これが行捨智だ。

非常に綿密に、しかし対象から距離を保った態度で、完全な非同一化の状態で観察する。対象(感覚)を自己として観察せずに、完全な平静さを保ちながら、完全に対象(感覚)から切り離された態度と、同時に強い注意力をもって観察する。「これを観察している私は存在しない」。悟りへの道を切り開くには、この種の完全な非同一化が必要とされる。

心は対象から完全なる距離を保っており、非同一化が徹底していて、別様であることへの望みはもはや全く存在せず、とても単純に、ただプロセスを観察している。これが心の最高の状態だ。何かをしようと欲することはもはやなく、ただ完全な注意を払っているだけだ。

サンカーラ(行)とは、条件付けられた現象のことで、実際には、精神的プロセスと物質的プロセスのことだ。このプロセスがサンカーラと呼ばれる。ウペッカー(捨)とは平静さを意味する。平静さには多くの側面がある。その一つが、度を越えて頑張り過ぎず、リラックスし過ぎることもないというエネルギーのバランスだ。悟りへの道を切り開くには、この種の強力なバランスも要求される。

幸福は一つの極端であり、不幸はまた別の極端だ。幸福でも不幸でもない状態は、ある種のウペッカーになる。この段階において、瞑想者は幸福でも不幸でもない。

この段階においては、いつも自然に準備ができていて、その場にぴったり合っている。何かが起こって知覚が起こると、注意は既にそこにある。だから、注意を払うことにすら努力する必要はない。それは完全な形で、ただ起こっているだけだ。 実のところ、これが中道なのだ。

この段階では、あるのは全体的で完全な注意だけで、心の状態はぐっとシンプルになっている。瞑想は、たいへんシンプルになっている。

第十二の洞察智(随順智) ― 涅槃(現象の停止)へと向かう。

あなたはこちら側にも、もう一方の側にもいません。あなたは中間にいるけれども、既にこちら側は手放してしまっている。戻ることはできるでしょうか。いいえ、ロープからは手を離してしまったのですから、戻れるはずがありません。

こちら側を手放したということは、あなたはもう精神と物質の現象を観察していない、ということです。あなたは心が完全なる停止へと、即ち精神的現象と物質的現象の終わり、涅槃へと向かっているのを観察しているのです。

第十三の洞察智(種姓智) ― 涅槃(現象の停止)への移行。

あなたは、精神的・物質的プロセスの停止へと着地する。プロセスのこの停止状態のことを「道心」と呼んでおり、その対象が涅槃だ。

これはたいへんな速さで、非常に短い数瞬の連続のうちに起こる。それぞれの心の状態というのは、おそらくは千分の一秒、あるいは百万分の一秒といった、非常に短い時間しか持続しない。それぞれの心の状態は連続的に起こり、その時にはもう後戻りすることはできない。その後には完全な静寂、完全な静止がある。生成するものは存在せず、消滅するものも存在しない。もう観察は存在しない。あなたはもはや観察していないのだ。

観察が可能であるためには、あなたはその外側にいなければいけない。だから瞑想者がこの涅槃の状態にある時には、その人はもう涅槃を観察してはいない。それを観察することはできないのだ。自身の精神的な状態を、観察することすらできないのだ。

第十四の洞察智(道智) ― 涅槃(現象の停止)の経験。道心。

一刹那の間に起こること。

第十五の洞察智(果智) ― 涅槃(現象の停止)の経験。果心。

二刹那あるいは三刹那の間に起こること。

道心の後には、直ちに果心が続きます。この果心(結果の意識)は道心と同じもので、唯一の違いは、それが煩悩の根絶をしないことです。しばらくすると、あなたはその状態から出てきます。

第十六の洞察智(観察智:反省智) ― 涅槃(現象の停止)経験の反省(振り返り)。

果心の後に、観察智と呼ばれるもう一つの洞察智がある。そこであなたは、「何かが起こった! 一瞬前は、すごく安らかで、生成も生滅もなく、とても静かで、とても明らかで、完全な平安だった」と何が起こったのかを思い返す。

この反省が起こっている時、心は非常に落ち着いて安らかであり、あなたは振り返って涅槃の状態について考える。この観察智は、実のところ一種の思考だ。あなたは考えて、完全な平安とは、精神的と物質的のプロセスの完全な停止であるということを理解する。

手放したその瞬間、心は五蘊のどれも観察できなる。無常も苦も無我も、また我も、観察できなくなる。完全な静謐と停止が、ただ知られるのみだ。こうして瞑想者は、涅槃とは現象の完全な停止であることを理解する。

涅槃とは一つの経験だ。その瞬間には、対象と観察が停止する。その二つのものが停止する。瞑想者には、全てが終焉したように感じられる。

そしてしばらくの後、瞑想へと再び戻る。瞑想へと再び戻った時は、第四の洞察智(生滅智)である生成と消滅から再開することになる。これが、このブレークスルーのもう一つの側面だ。ブレークスルーの後、あなたは生成と消滅を再び、非常にはっきりと観察することができる。

ひとたびブレークスルーを経験すると、その時点で、これ以外の実践が本当の意味での解脱をもたらすことはあり得ないことを理解する。

最後に考えておくこと

あなたは観念や解釈のみを考えることができるのであって、直接経験を考えることはできないのです。

あなたの心が、まさにいま・ここで落ち着いて、何であれ身体と心で起こっていることに注意を払い続けている時は、あなたには安定があり、そしてまた自由があります。完全な注意を払っている時には、思考が存在しないからです。

物語や人、あるいは状況について考えることなしに、欲深くなることはできません。つまり欲望は、思考を伴うわけです。怒りについても同じことが言えます。それについて何も考えることなしに、腹を立てることはできません。






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