サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 (大念処経)

あとがき 

予備校と塾で英語を教えていた頃、生徒によく言っていました。あなた方は合格するため に勉強するのではない、勉強するから合格するのだ、と。合格という栄光を求めて勉強し ていたら、不合格になったらどうしようという不安がよぎるものです。そうなると、もう 勉強どころではなくなります。

受験が地獄と呼ばれるほど辛いのは、生きるべき今という貴重な時間を、合格という未来 に賭けているからでしょう。ギャンブルをしているようなもので、負ければすべてを失う のですから、不安と恐怖に苛まれます。今という貴重な時間を合格という未来のために費 やすのがばからしくなり、そうなれば、勉強したくなくなります。勉強したくないけど 勉強しなけばいけない。不合格になる不安と恐怖。地獄です。

勉強するから合格するという勉強方法であれば、結果を気にせずに、しなければいけない ことをするだけです。貴重な今の時間を今に生きています。その結果が合格です。失うもの は何もありませんから、不安や恐怖はありません。でも、誰もが合格するために勉強をして いました。合格という具体的な目標がなければ、努力できないようです。

以下は岩波文庫の「ブッダ最後の旅」(中村元著)のブッダの最後の言葉です。

「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」

「修行を完成なさい」とは、修行を完成させるために修行をしろということで、これでは 合格するために勉強しろという予備校の教師と同じではないか、修行完成という渇望を持 てと言っているようなもので、ブッダがこんなことを最後に言うはずがない、これは違う、 と思いました。

修行を完成させるための修行とは、修行が完成していない現実の否定です。このような 現実否定は、苦悩を生みまず。苦からの解放に尽くしたブッダが、苦を深めるこのような 言葉を最後に残すはずがありません。そこで原文を調べました。

 Vayadhamma sankhara, appamadena sampadetha.

vayadhamma は、vaya(壊滅)と dhamma(仏法)で、aniccia(無常)のことです。当時は、 aniccia という言葉は、人々にはあまり知られていなかったようです。だから、ブッダは vayadhamma と語ったということです。

 sankhara(条件づけられたこの世の事象) appamadena(不放逸) sampadetha(励む)

ブッダのこの最後の言葉には「諸行は無常だから怠ることなく(修行に)励め」という意味しか なく「修行を完成なさい」という言葉はどこにもありません。sampadetha(励む)がそのように 解釈されているようですが、ブッダの教えとは正反対に解釈されているとしか思えません。

私が読んだのは1980年出版の旧版で、2010年に改訂版が出ているので、たぶん改訳されている だろうと思ったら、そのままでした。「修行を完成なさい」とは「悟れ」ということでしょう。 でも、悟ったらもうそれで修行完成で、修行をしないということにはなりません。ブッダは 悟った後も、修行を怠ることなく続けていたはずで、修行に完成はないと思います。

こんなに短い間違えようのないパーリ語が、どうして、一流の仏教学者の中村元の名で、一流 の出版社の岩波書店から、ブッダの教えとはかけ離れた意味に訳されて出版されているのか、 さまざまな解釈があるのかもしれませんが、私としては、目標を定めて努力する、このような 生き方しか、私たちが知らないからだと思っています。努力して目標に到達する、このような 生き方こそが、最善だと、ほとんどの人が思っているからでしょう。でも、成果を求めるこの ような生き方こそが、苦を生み出しているのではないでしょうか。

岩波書店のこの「修行を完成なさい」というブッダ最期の言葉は「さあ、苦しみなさい」と言 っているようなものです。「修行を完成」できないと感じた比丘は、どうなるでしょう。自分 は生きていてもしょうがないのではないか、とまでは思わないにしても、苦悩するはずです。 合格するために勉強する受験勉強が、地獄を生んでいるのと同じです。頑張らなくてもいいん です、とわざわざ言わなければいけないほど頑張ってしまう人なら、このような言葉を最後に 言われれば、かなり苦しむはずです。

あるオリンピック選手が言っていました。バドミントンをすることが楽しくてしかたなかった けど、メダルを目指すようになってから楽しくなくなった、と。幸福を求めながら不幸になる 努力を懸命にしているのが私たちの社会生活なのかもしれません。努力の正体が、渇望だから でしょう。誰もが幸福を渇望しますが、幸福とは渇望する必要のないすべてに満ち足りた状態 です。渇望のない状態を渇望することは、迷いでしかありません。

「人間は努力するかぎり迷うものだ」とはゲーテの言葉です。西洋でも認識は同じのようです。 リラックスするために努力をする笑い話があります。努力のない状態になるために努力をする のですから滑稽ですが、私たちの多くがそんな努力をしているから、笑い話になるのでしょう。 アーナンダが悟ったのは、努力を放棄したからだといわれています。花火が闇に消えると満天の 星があるように、渇望という努力が消えると、真実があるのかもしれません。

大乗仏教の代表経典ともいえる般若心経は、五蘊からはじまって四聖諦にいたるまで、ブッダの 教えをことごとく「無」と説いています。ブッダの教えが否定されての大乗仏教だと思っていま したが、前々回も触れましたように、衆生救済を忘れて教学研究に夢中になっているアビダルマ の人たちへの批判だったようです。ブッダの教えの否定ではなく、ブッダの教えから逸脱せずに、 仏教の正しい立場に立った教えに戻れということでの大乗仏教だったようです。

般若心経の「色即是空 空即是色」の四文字は「あるはずのものがなく ないはずのものがある」 と個人的に解釈しています。これは annicia を具体的に表現した言葉だと思っています。言い 換えれば「この世のすべてのものは、そのように見えるだけ」ということでしょうか。仏教の 正しい立場に立つとは aniccia の視点に立つということでしょう。

日常世界とは私たちの記憶を基にした感覚器官の錯覚だと、現代科学が実験で示してくれています。 私たちが見る日常とは、すべて、そのように見えるだけの世界のようです。今、バーチャルリアリ ティーが持てはやされていますが、この世とは、もともと、私たちの記憶がつくる仮想現実なので す。この世を仮想現実と認識し、仮想ではない現実をみる力を養うための教えが、仏教だと思って います。エーヒ・パッシコー(来て、見ろ)とは、このことを伝える言葉でしょう。

サティパッターナ・スッタは「感覚は感覚にすぎない」と説いています。「感覚を信じるな」という ことでしょう。感覚は錯覚に過ぎないのです。現実を仮想にしているのが、感覚なのです。仮想では ない現実を知るためには、錯覚に過ぎない感覚を超えた世界にたどり着く必要があります。感覚を超 えた世界とは、どんな感覚にも影響されない状態のことでしょう。それは感覚を自分の感覚と感じる のではなく、客観的に知る状態のことでしょう。感覚を否定するのではなく、他人の感覚を調べるよ うに観察すれば、そのような状態にたどり着けるはずです。これはヴィパッサナー瞑想そのものです。

瞑想者ではない欧米の人と仏教について話すと、必ずといっていいほど「仏教って哲学でしょ」と 言います。アビダルマの根の深さを感じます。現代においても僧籍を持った仏教学者の多くは、仏教 を宗教というよりも学問として扱っているように感じます。「苦」から解放されるための具体的方法 だとは考えていないようです。宗教ではなく学問にした方が、社会的評価が高くなるからかもしれま せんが、アビダルマの人たちの過ちをなぞっているような気がします。

ヘレンケラーは「海の向こうに仏教という非人間的な宗教を信じる人がいることが信じられない」 というようなことを言っていたようです。人間的であることにこそ「苦」の本質があるということ が理解されていないようです。ニッバーナは、人間のままではたどり着けない、人間を超えた世界 だと思われます。人間を超えるための教えである超人間的を、ヘレンケラーは、非人間的と取り違 えたようです。目が見えず、耳が聞こえず、口がきけないという、感覚から解放されたニッバーナ から最短の場所にいる人なのに、とても残念です。

「目が見えた時はつまづいたものだ」(シェークスピア「リヤ王」)

ブッダの教えはさまざまに誤解されていますが、その教えが、教わるものではなく、体験するもの だからでしょう。




読んだ内容は

面白かった まあまあ つまらなかった

メッセージなどのある方は下記にお書き込み下さい。ない方はそのまま、送信ボタンを押して下さい。
 (返信をご希望の方はメールアドレスをお書き添え下さい)








Top ページへ