サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 (大念処経)

あとがき 

ブッダは同じ言葉を必ず三回言ったといわれています。同じ言葉でも、聞く時 の気持ちに変化があれば、違った言葉として理解されるのでしょう。一休禅師は、 カラスの鳴き声で悟りを開いたといわれています。カラスの鳴き声は、毎日聞いて いたでしょうに。

「サティパッターナ・スッタ」は繰り返しが多いせいか、日本語版の経典も英語版の 経典も、省略が多用されています。わたしが読んだものは、すべてがそうでした。こ れは同じ言葉を必ず三回言ったブッダの心に反するような気がします。カラスの鳴き 声でも、何度も聞けば、悟りを得られるのですから。

私たちの日常は繰り返しの連続です。習慣というレールを走る電車のような生き方が 私たちの人生かなとも思うのですが、同じ場所をぐるぐる回る見慣れた電車の風景も、 見る時の気持ちに変化があれば違う風景です。同じ風景でも、日々、新たな気持ち で見ることができれば、人生は新鮮で美しいものだと思います。その、新しい気持ち で、というのがむずかしいのでしょう。誰もがカラスの鳴き声で悟りを得られないの は、だからなんですね。

言葉は習慣です。習慣は日々の積み重ねで身に付きます。英語も同じことを繰り返し 学習することで身に付くものなのですが、すぐにあきらめてしまう人が大勢いるの は、繰り返しの退屈さに耐えられないからでしょう。毎度、新しい気持ちで学べば、 英語の勉強も十分に楽しめますし、楽しめば自然と身につきます。ただ、その新しい 気持ちで、というのが、やっぱり、むずかしいのでしょう。

新しい気持ちになれないのは、一度経験したことに新しいものは何もない、知っている ことだ、と思い込んでしまうからでしょう。知らないのに知っているという思い込みは 誰もが持っていますが、本人が気づかないから厄介です。それに気づけば、カラスの 鳴く声でも悟りを得られるのかもしれません。ブッダが同じ言葉を必ず三度言ったのは、 そういう思い込みに気づかせるためではないかという気もします。

「男が一人、ベンチの片隅で死んでいた。思い出されることもないささやかな死こそ、 われわれのもつ栄光のすべてだというように…」

アメリカの作家、トマス・ウルフの言葉です。二十世紀という都市の時代がもたらした ものは、夢でも豊かさでもなく、誰にも知られることのない無名の死だということです。

人生は巡礼の旅です。巡礼(pilgrimage)の語源は 「見知らぬ土地を通過する」です。 この世という見知らぬ土地に誕生し、いつ果てるとも知れない道を行くわれわれは、 誰もが地上の巡礼者です。地上の巡礼者には、生きる営みのすべて、りんごの皮を剥く のも、満員電車で通勤するのも、食器を洗うのも、あらゆる営みが祈りです。

巡礼の旅の栄光は、巡礼を終えた時でしょう。その途上に栄光を求めると、巡礼が巡礼 ではなくなります。巡礼の旅が巡礼の旅でなくなると、見知らぬ土地が見知った土地に 見えます。生の営みが祈りではなく、労働になります。同じことの繰り返しが延々と続く、 気晴らしがなければやりきれない退屈な日々です。同じものなど何ひとつないのに、見知 らぬ土地が、色あせたくすんだ風景になるのです。巡礼の旅には、同じ風景というものは、 どこにもないのですね。

わたしもひとりの地上の巡礼の旅人としと、見知らぬ風景にわくわくしながら、いつ果 てるとも知れない道を歩んで行ければと思っています。




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