更新日2006年7月09日

「哲学者」(THE PHILOSOPHER)

本文テキスト

パーシバル医師は大男で、唇は垂れ下がり、金色の口ひげをしていた。彼 はいつも汚れた白のベストを着ていたが、いくつものポケットからは、ス トーギーという黒い葉巻が何本もはみ出していた。彼の歯は黒く、並びは よくなかった。目には奇妙な特徴があった。左目のまぶたはピクピク動き、 下がったかと思うとパッと開いた。まさにブラインドのようであり、頭の 中にいる誰かがその紐をもて遊んでいるようだった。
パーシバル医師は、ジョージ・ウィラード少年に好意を抱いていた。そう なったのは、ジョージがワインズバーグ・イーグルに勤めて1年たった頃の ことで、2人の近づきは、完全に医師の方からの働きかけだった。

夕方近く、ワインズバーグ・イーグルのオーナーであり編集長でもあるウィ ル・ヘンダーソンは、トム・ウィリーの酒場へ出かけた。彼は路地を通り、 酒場の裏口からこっそり入ると、スロージンのソーダ割りを飲み出した。ウ ィル・ヘンダーソンは好色家で、45歳だった。彼はジンは彼の中の若さを甦 らせてくれると思っていた。ほとんどの好色家と同じく、彼も女性の話を好 み、トム・ウィリー相手に噂話をして1時間ねばった。酒場の主人は背が低く、 肩幅の広い男で、手に奇妙な痣があった。燃え立つような赤い痣が、時に、男 や女の顔を赤く彩っていることがあるが、トム・ウィリーの場合は、指や手の 甲を赤く彩っていた。カウンターのそばに立ってウィル・ヘンダーソンと話し ている時、彼は両手をこすり合わせた。興奮してくるにつれて、彼の指の赤は 深まった。まるで血の中に手を浸し、その血が乾いて色が褪せたようだった。

ウィル・ヘンダーソンがカウンターの前に立って、トム・ウィリーの赤い 手を見ながら女の話をしていた時、編集助手のジョージ・ウィラードは、 ワインズバーグ・イーグル紙の編集室に座ってパーシバル医師の話に耳を 傾けていた。

パーシバル医師は、ウィル・ヘンダーソンが出て行くとすぐに現れた。医 師は自分の診察室の窓から見張っていて、編集長が路地を通るのを見てい たのではないかと思わせた。医師は正面のドアから入ると、勝手に椅子に 座り、ストージーを1本取り出して火をつけ、脚を組んで話し始めた。行動 に規範をもたせると得をする。彼はジョージに熱心に言い聞かせているよ うだった。行動に規範をもたせるとはどういうことなのか、彼自身はっき りと説明できなかったのだが。

「気をつけて見れば、私は医者の看板を掲げているが、患者がろくにいな いのが君にも分かるんじゃないかな」

パーシバル医師は口を切った。

「それには訳があるんだ。偶然でもなければ、ワインズバーグの他の医者に比 べて医学の知識がないからでもない。私は患者に来て欲しくないんだ。そ の理由は、君も分かる通り、表面には現れていない。それは、実際、私の 性格にあるんだ。考えてみれば、私の性格には奇妙なところがたくさんあ る。なぜこんなことを君に話したがっているのか、自分にも分からないの だがね。黙っていれば、君の目にはもっと立派に映るかもしれないのだか ら。私には君に崇拝してもらいたという欲望がある。これは事実だ。なぜ かは分からない。だから私は話しているんだ。とても面白いことだと思わ ないかい、ええ?」

パーシバル医師は時々、身の上話を長々と始めた。ジョージ・ウィラード にとって、医師の語る話はとても生々しく、意味深いものだった。彼は太 った不潔そうな男を崇拝し始めていた。午後、ウィル・ヘンダーソンがい なくなると、心を躍らせて、医師の来るのを楽しみにした。

パーシバル医師はワインズバーグに来て5年ぐらいだった。彼はシカゴから 来たが、着いた時には酔っていて、手荷物係のアルバート・ロングワース と喧嘩をした。トランクが原因だったが、医師が村の留置場に連れて行か れてけりがついた。釈放されると、彼はメインストリートの下町側の端に ある靴修理屋の2階に部屋を借り、自分は医者であるという看板を出した。 患者はほとんど来なかったし、お金も払えないような貧乏人ばかりだった が、彼は生活に必要なお金は十分持っているようだった。

パーシバル医師は、言いようのないほど汚い診察室で眠り、駅の向かいに あるビフ・カーターの小さな木造軽食堂で食事をした。夏になると、その 軽食堂にはハエがいっぱいいたし、ビフ・カーターのエプロンは、食堂の 床よりも汚かったが、パーシバル医師は気にしなかった。彼は軽食堂に堂々 と入り、20セントをカウンターに置いた。

「これでお勧めのものを食べさせてくれ」彼は笑いながら言った。

「私にでなければ出せないような食べ物を使い切ってしまうんだな。私に とっては同じことなんだから。私は他の連中とは違うんだ、そうだろ。何 を食べるかなんて、どうして気にしなきゃならないんだ」

パーシバル医師がジョージ・ウィラードに語った話は、どこからともなく 始まり、どこからともなく終わった。ジョージは、時に、話は全部つくり 事で、嘘っぱちにちがいないと思ったが、それから、そこにはまさに真理 の本質が含まれているのだと思い直して納得するのだった。

「ぼくはここでの君のように新聞記者だったんだ」パーシバル医師は言った。

「アイオワ州の町だったかな、それともイリノイ州だったかな。覚えちゃ いないが、まあ、どっちでもいいことだ。たぶん私は自分の素性を隠そう としているのだろう。はっきりさせたくないんだな。私は何もしていない のに必要なものを買うお金は持っている。今まで不思議に思ったことはな いかね。ここに来る前に、大金を盗んだのかもしれないし、殺人に関与し ていたのかもしれないだろ。そこには思考の糧となるものがあるんじゃな いか。そうだろ?君が本当に優秀な新聞記者なら、私のことを調べるだろ うな」

「シカゴにコリンという医者がいたんだが、この男、殺された。聞いたことあるかな、このこと。数人の男が彼を殺し、トランクに入れた。男らは朝早く、町を通ってそのトランクを運んだ。トランクを荷車の荷台に載せ、男たちは何食わぬ顔で運転台に座っていた。誰もが眠っている中、男たちは静かな通りを進んだ。太陽が湖の向こうから、ちょうど登ろうとしていた。おかしいじゃないか、えっ、今の私と同じように、何食わぬ顔で荷馬車を走らせ、おしゃべりをして、パイプをふかしてる連中のことを考えれば。ひょっとしたら、私はその一員だったかもしれない。そうなると話が妙な方向に行ってしまうな、えっ、そうだろ」

パーシバル医師は身の上話を、また始めた。
「まあ、とにかく、私はそこで、ここでの君のように新聞記者をしていて、 駆け回っては新聞に載せるささいな記事を集めていた。私の母は貧しかった。 人の洗濯をさせてもらっていたが、母の夢は私を長老派の牧師にすることだ ったので、私はそれを目指して勉強していた」

「私の父はずいぶん前から精神を病んでいて、オハイオ州のデイトンにある 精神病院に入っていた。ほら、つい口をすべらせた。こんなことはみんなオ ハイオで起きたことだ。まさにこのオハイオでだ。私のことを調べてみよう と思ってるんだったら、ここに手がかりがあるな」 「私は君に兄のことを話そうと思っていたんだ。それがこの話の目的だ。 私はそれが話したかったんだな。私の兄は鉄道のペンキ塗り職人で、ビッ グ・フォーで働いていた。このオハイオ州を通っているあの鉄道のことは、 君も知っているだろ。兄は同僚といっしょに有蓋貨車の中に寝泊りして、 町から町を回って、鉄道の転轍機、遮断機、鉄橋、駅の建物にペンキを塗 っていた。

「ビッグ・フォーは、駅の建物を嫌なオレンジ色に塗るんだ。私はあの色が たまらなく嫌でね。兄はいつもその色にまみれていた。給料日には兄はペン キまみれの服を着て、お金を持って、酔っ払って帰っていたな。お金は母に 渡さないで、台所のテーブルの上に、ひとかたまりにして置いていた。

「兄は家の中を、嫌なオレンジの色のペンキがついた服で歩き回った。私は その光景をはっきり思い出すことができる。母は、小柄で、充血した、悲し そうな目をしていたけど、裏の小さな小屋から家の中に入っていたものだ。 その小屋で母は、タライにかがみこみ、人の汚れ物をごしごし洗って暮らし ていた。母は家に入ると、石鹸の泡だらけのエプロンで目をこすりながら、 テーブルのそばに立っていたな。

「“さわるな!その金にさわるんじゃない”と兄は大声で怒鳴り、自分は5ドルか10ドル持って酒場へ乗り込んで行った。持っていったお金を使うと、取りに帰ってね。兄は母には一文も渡さずに、一度に少しずつ使って、全部使うまで家にいたけど、使い果たすと鉄道のペンキ塗りの連中といっしょに仕事に戻っていった。兄が行ってしまうと、いろんな物が家に届いてね、食料品とかそんな物だけど。時には母の服とか私の靴なんかがあったな。

「妙な話だろ、えっ?兄は私たち二人に、やさしい言葉ひとつかけてくれたことはないし、時に3日もテーブルに置いておいたお金をさわろうものなら、怒鳴りちらして私たちを脅していたけど、母は私よりも兄をずっと愛していたな。

「私たち家族は、ちゃんと暮らしていた。私は牧師になるために勉強して いたし、祈っていた。愚直なほど規則正しくお祈りをしていたのさ。君に 聞かせてやりたかったな。父が死ぬと一晩中祈ったな。兄が町で飲んでい た時や、出かけて家族のために買い物をしていた時、たまに祈っていたよ うにね。食後の夕べには、お金が置いてあるテーブルのそばにひざまずい て、何時間も祈ったな。誰も見ていない時は、1ドルか2ドルくすねてポケ ットに入れたんだ。今じゃ笑い話だけど、その時は怖かったな。いつも心 に重くのしかかっていたね。新聞社で働いて1週間に6ドル稼いでいたけど、 いつもそのまま家に持って帰って母に渡していた。兄のお金の山からくす ねた数ドルは、分かるだろ、自分のために使ったな。つまらないものにさ。 キャンディーとか、煙草とか、そういったものにだ。

「父がデイトンの精神病院で死ぬと、私はそこに出かけて行った。私を雇 ってくれている男から金を借りて夜行列車でね。雨が降ってたな。精神病 院では王様のような扱いだったね。

「精神病院で働いている連中は、私が新聞記者だと知っていたからね。連 中は恐れたんだ。父が病んでいた時、怠慢とか不注意とかがあったんだな。 それを私が新聞で取り上げて、騒ぎ立てると思ったんだろう。そんなこと しようなんて、思ってもなかったけどね。

「とにかく、私は父が死んで横たわっている部屋に入って、遺体を祝福した。 どうしてそんなことしようと思ったんだろうね。ペンキ塗りの兄貴だったら、 笑いはしなかっただろうな。部屋の中で、私は死体を見下ろすように立ち、両 手を広げた。精神病院の院長と数人の助手が入ってきて、おどおどした顔つき をして、回りに立った。ほんとうにおかしかったな。私は両手を広げて“この 亡骸が安らぎにつつまれますように”といったんだ。それが、私が言ったこと さ。

パーシバル医師は、突然話をやめて、パッと立ち上がり、ジョージ・ウィラ ードが座って聞いていたワインズバーグ・イーグル紙編集室の中を歩き回り 始めた。彼は不器用で、編集室は狭かったので、しきりと物にぶつかった。

「しゃべってばかりいるなんて、なんてバカなんだ」彼は言った。

そんなことのためにここに来て、君に無理につき合わせているわけじゃない んだ。他に考えがあるんだ。君はかつての私のように新聞記者をしているの で、気になったんだ。君が最後は、私みたいな愚か者になるかもしれないか らね。君に注意しておきたいし、注意し続けたい。だから私は君に会いにき たんだ。

パーシバル医師は、人間に対するジョージ・ウィラードの態度について語り 始めた。パーシバル医師は、もっぱら、あらゆる人間を見下げた奴に思わせ ようともくろんでいるように少年には感じられた。
「私は君を憎しみと軽蔑で満たし、優越した存在にしてやりたいのだ」
彼は言い放った。
「私の兄のことを考えてみたまえ。たいした人物じゃないか、えっ?彼はあら ゆる人間を軽蔑していたんだから。母や私をどれほど見下していたか、君には 想像もできないだろう。だから、兄は母や私よりも優越した人間だったんだ。 そうだろ。君は私の兄に会ったことはないが、そんな気になるように話したか らね。私は君がそう感じるように話したんだ。兄は死んだ。ある時、酔っ払っ て線路の上で寝ていて、兄が仲間のペンキ職人と寝泊りしていた貨車に轢かれ たんだ」

8月のある日、パーシバル医師は、ワインズバーグで珍しい出来事に遭遇した。 ジョージ・ウィラードは、1ヶ月間、毎朝医師の診察室に行き、1時間過ごした。 この訪問は、パーシバル医師が、執筆中の本の何ページかをジョージに読み聞か せたかったからだった。ワインズバーグに移り住んだ目的は、この本を執筆する ことだと、パーシバル医師はきっぱりと言った。





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