O.Henry について

年譜


1862
9月11日(木)午後9時、アメリカ、ノース・カロライナ州グリーンズバロで、内科医の父アルジャノン・シドニー・ポーター(Algernon Sidney Porter, 1825〜1888)と母メアリー・ジェイン・ヴァージニア・スウェイム(Mary Jane Virginia Swaim,1833〜1865)との第三子として生まれる。ウイリアム・シドニー(William Sidney)と命名される。後に Sidney の綴りを Sydney と自ら改める。

1865(3歳)
9月26日、母メアリー肺病のため死亡。一家は祖母、叔母(通称ミス・ライナ)の家に移る。

1867(5歳)
ミス・ライナが家計のために開いた私塾で学習を始める。

1876(14歳)
ミス・ライナの私塾を卒業。すでに文学、絵画の才能を発揮。

1879(17歳)
叔父クラークの経営するドラッグストアで薬剤師見習いとして働き始める。

1881(19歳)
ノース・カロライナ薬剤師協会より薬剤師開業の免許が交付される。

1882(20歳)
3月、生来あまり健康にすぐれなかったため、転地療養の必要もあって、テキサス南西部の牧場に滞在。未開拓地における家畜の飼育に精通する。
この間、バイロン、ディケンズ、シェークスピア、スモレット、スコット、ミルトン、ピープス、ロック、マコーリ、ギボン、ゴールドスミスなどの作品に親しむ。「ウエブスター英語辞典」を愛読。フランス語、ドイツ語、スペイン語なども習得。

1887(25歳)
1月12日、テキサス国有地管理局監督下の製図係助手として勤務する。
オースチンの著名な食料品商の継娘アソル・エスティズ・ロウチ(Athol Estes Roach, 1868〜1897)と結婚。

1888(26歳)
5月6日、男子出産。数時間後に死亡。
9月30日、父アルジャノン死亡。

1891(29歳)
1月21日、管理局の職を失う。2月、オースチンのファースト・ナショナル銀行の金銭出納係となる(月給100ドル)。

1894(32歳)
3月、銀行勤務のかたわら、友人クレインと月刊誌「アイコノクラスト」の出版権および印刷機を買収(250ドル)し、誌名を「ローリングストーン」と改め、ユーモア週刊誌を発行(翌年4月27日廃刊)。
銀行の帳簿に欠損(5千5百57ドル2セント)があることが判明し、責任を問われ辞職。

1895(33歳)
銀行帳簿の欠損事件で裁判を受け、陪審は起訴状を否定するが、連邦銀行検査官は翌年再審にもちこむ。
ヒューストンの「ポスト」紙に特別記事の記者としての職を得(週給15ドル。翌年5月に25ドルに昇給)、多くのスケッチや短篇を6ヶ月にわたって書く。

1896(34歳)
2月14日ヒューストンにて逮捕される。義父ロウチらの援助により2千ドルの保釈金を得て釈放される。
7月6日、オースチンの法廷に向かう途中、ニュー・オリンズに逃げ、さらにその後、ホンジュラスのトルヒョへ逃亡する。

1897(35歳)
1月、妻アソル重体の知らせで急ぎオースチンに帰る。
2月、義父ロウチの援助を得て、保釈金4千ドルで身柄拘束を免れる。
5月、叔母ミス・ライナ死亡。7月25日、妻アソル死亡。
12月、マクルア社より短篇「ラーヴァ・キャニオンの奇跡」の採用通知を受ける。

1898(36歳)
3月25日、有罪の判決を受ける。上訴するが却下され、公金横領犯として4月25日より5年間オハイオ州コロンバスの連邦刑務所服役が確定する(囚人番号30664)。

1899(37歳)
12月、「マクルア」誌に O.Henry のペンネームで短篇「口笛ディックのクリスマス・ストッキング」を発表。服役中、短篇作家として世に出る。義母ロウチ夫人に出した手紙に「夜は暇な時間がたっぷりありますので、勉強をしたり、原稿を書きためたりしています」とある。
服役態度が良好なため、3年3ヶ月に減刑される。

1902(40歳)
2月、「ハーグレイブスの本心」を「ジューニア・マンシー」に発表。
4月、ニューヨークに移る。マディソン・スクエア近くに住む。雑誌界で O.Henry の名が注目されたが、一般読者にはあまり知られなかった。

1903(41歳)
4月、「とりもどされた改心」、「コスモポリタン」誌に発表。5月「自動車が待っている間に」、「エインズリー」誌に発表。
ニューヨーク「サンデー・ワールド」紙と契約し、1週1篇ずつの短篇を寄稿(原稿料は1篇につき60ドル)。その後、2年間に100篇以上の作品をこのために書き全国的に有名になる。

1904(42歳)
3月、「魔女たちのパン」、「アーゴシー」誌に発表。6月、「振り子」、「サンデー・ワールド」紙に発表。

1905(43歳)
10月、「最後の一葉」、「サンデー・ワールド」誌に発表。12月、「賢者たちの贈りもの」、「サンデー・ワールド」紙に発表。
この年、54の短篇を発表。月額600ドル以上の収入を得る。

1906(44歳)
7月、「れんが粉の長屋」、「サンデー・ワールド」誌に発表。この年、19の短篇を発表。

1907(45歳)
7月、「インディアン酋長の身代金」、「サタデー・イブニング・ポスト」誌に発表。この年、19の短篇を発表。
幼なじみのセアラ・リンゼイ・コールマン(39歳)とノース・カロライナのアッシュビルで結婚。娘マーガレットも同居。家庭生活と多忙な文筆活動との両立に苦しむ。この年、11の短篇を発表。

1908(46歳)
この年、29の短篇を発表。

1909(47歳)
4月、「運命の道」、ダブルディ・ページ社より出版。妻セアラを故郷のアッシュビルに帰し、娘マーガレットをニュージャージー州エングルウッドの寄宿学校に入れ、ホテル住まいをする。この年、8の短篇を発表。ダブルディ・ページ社が O.Henry の出版社となり、初期の著作出版権を獲得。

1910(47歳)
6月5日、午前7時6分、ニューヨーク東、34番通りの総合病院にて死亡。死因は過労、深酒、肝硬変、糖尿病など。
葬儀は「角を曲がったところの小さな教会」。埋葬はノース・カロライナのアッシュビル。近くには、トマス・ウルフの墓がある。





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