更新日2006年12月10日

「誰にもわからない」(NOBODY KNOWS)

本文テキスト

 ジョージ・ウィラードは、あたりを用心深く見回し、ワインズバーグ・イ ーグル紙の編集室の自分のデスクから立ち上がり、裏口から急いで出て行 った。暖かく、曇った夜だった。8時にはまだなっていなかったが、イーグ ル紙編集室の裏の路地は、真っ暗闇だった。どこかの棒杭に繋がれた一組 の馬車馬が、暗闇の中で、堅い地面を踏みつけていた。一匹のネコがジョ ージ・ウィラードの足元から跳び出し、夜の中に走り去った。若い彼は神 経が高ぶっていた。殴られて気が遠くなった者のように、一日中働いてい たのだ。路地では、彼はおびえているかのように震えていた。

 暗闇の中、ジョージ・ウィラードは、注意深く、慎重に路地を歩いて行った。 ワインズバーグの商店の裏口のドアは開いていた。ジョージ・ウィラードには 男たちが店の明かりの下に座っているのが見えた。マイヤーバームの雑貨店で は、酒場の主人の妻、ウィリー夫人が、腕に籠を持ってカウンターのそばに立 っていた。店員のシッド・グリーンは、彼女の対応をしていた。彼はカウンタ ーに乗り出し、熱心に話していた。

 ジョージ・ウィラードは身体を屈め、戸口から洩れている明かりを飛び越えた。  彼は暗闇の中を前に向かって走り始めた。エド・グリフィンの酒場の裏には、 町の飲んだくれ、年老いたジェリー・バードが地面に寝ていた。走っていたジ ョージ・ウィラードは、大の字に開いた脚につまずいた。彼はくっくっと笑っ た。

 ジョージ・ウィラードは冒険に乗り出したのだ。一日中彼は冒険をやり抜く決 心をしようとしていたが、今それを実行に移していたのだ。彼は朝の6時からワ インズバーグ・イーグル紙の編集室に座り、そのことを考えようとしていた。

 決心がつかないでいた。彼は突然立ち上がり、印刷室で校正刷りを読んでいるウィ ル・ヘンダーソンの傍らを急いで通り抜け、路地を走り出した。
 通行人を避け、ジョージ・ウィラードは、通りから通りを抜けた。道を横切り、 その道をまた横切って戻った。街灯を通り過ぎた時、彼は帽子を引き下げ、顔 を覆った。あえて考えまいとした。内心不安だった。今まで感じたことのない 不安だった。彼が乗り出した冒険は失敗し、勇気を失い、引き返すことになる かもしれないと思った。

 ジョージ・ウィラードは、ルイーズ・トラニオンが、彼女の父親の家にいる ところを見つけた。彼女は灯油ランプの灯りで皿を洗っていた。家の裏の小 さな下屋のような台所で、彼女はその網戸の向こう側に立っていた。ジョー ジ・ウィラードは、棒杭の囲いのそばに足を止め、身体の震えを何とかしよ うとした。狭いジャガイモ畑だけが、彼と冒険とを隔てていた。彼が彼女に 声をかけるべきだとはっきりと感じるまで、5分が過ぎた。

「ルイーズ!ああ、ルイーズ!」彼は呼んだ。

 その叫び声は喉に詰まった。彼の声はしわがれたささやき声になった。

 ルイーズ・トラニオンは手に皿布巾を持ったまま、ジャガイモ畑を横切って やってきた。

「わたしがあんたと付き合いたいって、どうして分かったの」

 彼女はむっつりとしてそう言った。

「どうしてそう自信たっぷりなの」

 ジョージ・ウィラードは返事をしなかった。二人は、棒杭の囲いを挟んで、 黙って立っていた。

「先に行って」彼女は言った。

「父さんが家の中にいるの。後で行くわ。ウィリアムの納屋のそばで待ってて」

 若い新聞記者は、ルイーズ・トラニオンから手紙を受け取っていた。手紙は その朝、ワインズバーグ・イーグル紙の編集室に配達された。簡潔な手紙だ った。

「わたしが欲しいのならわたしはあんたのものよ」と書かれていた。

 彼女に、暗闇の中、棒杭の囲いのそばで、二人の間には何もないふりをされ、 彼はうっとうしいと思った。

「図太いな!まいったな。図太い」

 彼はつぶやきながら、通りを歩き、トウモロコシの実っている空き地の列の 横を通った。トウモロコシは肩の高さまで実り、歩道のそばまで植えてあっ た。

 ルイーズ・トラニオンが、正面のドアから出てきた時、彼女は皿を洗って いた時のギンガムチェックの綿の服のままだった。帽子はかぶっていなか った。彼女が、ドアノブを持ったまま家の中の誰かと立って話している姿 が、ジョージ・ウィラードには見えた。きっと彼女の父親の老ジェイク・ト ラニオンだ。老ジェイクは耳が遠かったので、彼女は大声で話していた。ド アが閉まり、狭いわき道は、暗闇と静寂に包まれた。ジョージ・ウィラード は、それまでにもまして激しく震えた。

 ウィリアムの納屋のそばの暗がりの中で、ジョージとルイーズは、黙った まま立っていた。彼女は特に美しいわけではなく、鼻の片側に黒い汚れが ついていた。台所の鍋を触った後、指で鼻をこすったに違いない、ジョー ジはそう思った。

 若いジョージ・ウィラードはぎこちなく笑った。

「暖かいな」彼は言った。

 ジョージ・ウィラードは、手で彼女に触れたいと思った。

「オレはあまり大胆じゃないからな」彼は思った。

 汚れたギンガムチェックの綿の服の襞に触れるだけで、最高の気分になるに 違いないと彼は思った。

 彼女は突っかかってきた。

「あんたは私より上等な人間だと思っているのね。言わなくても分かってい るのよ」

 彼女は彼に近づきながらそう言った。

 ジョージ・ウィラードの口から言葉があふれ出た。二人が通りで出会った 時、彼女の目に潜んでいた表情を彼は思い出した。そして、彼女が書いた 手紙のことを考えた。不安は消えた。町でささやかれている彼女について のうわさ話も、彼に自信を与えた。ジョージ・ウィラードは、すっかり男 になっていた。大胆で強引になっていたのだ。心には彼女に対する同情は なかった。

「さあ、大丈夫だよ。誰にも分かりゃしないさ。どうやって分かるっ ていうんだ」

 彼はせき立てた。

二人は狭いレンガの歩道を歩き始めた。レンガの割れ目からは、雑草が高く伸び ていた。レンガはところどころ欠けていて、歩道は荒れてでこぼこしていた。ジ ョージ・ウィラードは、ルイーズ・トラニオンの手を取った。彼女の手も同じよ うに荒れていたが、心地いいほど小さな手だと彼は思った。

「遠くにはいけないのよ」彼女は言った。その声は静かで落ち着いていた。

二人は小川に架かる橋を渡り、トウモロコシの生る別の空き地を通り過ぎた。 道は行き止まりになった。道の側の小道を二人は前後して歩かなければなら なかった。道の側には、ウィル・オーバートンのイチゴ畑があり、板が積ま れていた。

「ウィルはイチゴの木箱を入れる納屋を建てるつもりなんだ」

ジョージは言った。二人は積まれた板の上にすわった。

 ジョージ・ウィラードがメインストリートに戻ってきた時には、10時を回っていた。雨が降り始めていた。彼はメインストリートの端から端を3度行ったり来たりした。シルベスタ・ウエストのドラッグ・ストアーは、まだ開いていた。彼は入って葉巻煙草を1本買った。店員のショーティ・クランダルが、ドアのところまで送ってくれたので、彼は気分をよくした。2人は5分ほど、店の日よけテントの下で立ち話をした。ジョージ・ウィラードは満ち足りた気分だった。彼は何よりもきちんとした大人と話しがしたかったのだった。ニュー・ウィラード・ハウスに向かう角のところで、彼はそっと口笛を吹きながら歩いた。
ウィニー衣料品店がわの歩道で、サーカスの広告がべたべた貼ってある高い 板塀の所にくると、ジョージ・ウィラードは口笛を吹くのをやめた。彼は 暗闇の中、身じろぎもせずに立って、自分を呼ぶ声をさがすかのように耳 をすませた。それから、また不安げに笑った。

「彼女には何の弱みもにぎられていないんだ。誰にも分かるものか」

彼は執拗にぶつぶついいながら歩いていった。

- 終わり -






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