正念
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外部環境からの刺激情報は、以下のように理解されます。 感覚(feeling)→ 知覚(perception)→ 認知(cognizance)→ 認識(cognition) 外からの情報は感覚器官を通して上述のように理解されますが、感覚に応じて必ず快や不快、 好きや嫌いなどの情動が生じます。そして何らかの反応が起こります。仏教では、これらの 一連のプロセスは、五蘊(色・受・想・行・識)として説明されています。
色 : 肉体 一般的に「知覚」という言葉はあまり理解されていないような気がします。ブッダの頃の「想」は、現代では上記のように、 知覚 → 認知 → 認識 と、三つの段階に分類されています。 この五蘊の働きは、脳内のノルアドレナリン神経系が司っているようです。社会活動や日常 の生活は、ほぼ、すべてこの神経系の働きが支配しているようです。 皿洗いをしていて、早くきれいに洗おうとすると、この部位が活発になります。皿洗いは嫌 だと思うと、さらに活発になりますが、そんなことを思わずに、自分がどのように皿を洗っ ているか、気づきを持って観察しながら作業をすると、セロトニン神経系と呼ばれる部位が 活発になり、ノルアドレナリン神経系に取って代わるようです。 セロトニンは痛みなどの感覚を抑制するホルモンで、これが不足すると、うつ状態や不安障害 になり、不眠や過眠などの原因にもなるようです。セロトニンは、心を静めるようです。 セロトニン神経系が活発になると、自分や自分の周囲の環境は意識していても、快や不快、好き や嫌いなどの情動的な反応はなくなり、見たまま、聞いたままの世界を、そのままに受け入れる ようになるようです。 ヴィパッサナー瞑想に当てはめると、意識を働かせて感覚を感じる時には、ノルアドレナリン 神経系が活発になり、その感覚を気づきを持って観察すれば、セロトニン神経系が取って代わ るということでしょう。 気づきを持って観察せず、快や不快で反応すれば、ノルアドレナリン神経系がさらに活発になる ため、日常の生活がそのまま続くことになります。これではヴィパッサナー瞑想ではなくなりま す。ヴィパッサナー瞑想とは、ノルアドレナリン神経系とセロトニン神経系が、共同で取り組む 作業のようです。 言語機能が活発になっていると、ノルアドレナリン神経系が働くだけで、セロトニン神経系は働 かないようです。おしゃべりをしたり文字を読んだりすると、言語機能が活発になりますから、 聖なる沈黙は、とても大切なのです。 サティパッターナ・スッタは、苦からの解放のための教えです。苦の原因は渇望だと説かれていま す。渇望が生じた時には、ノルアドレナリン神経系が活発になっていると思われます。渇望を充た そうとすれば、ノルアドレナリン神経系がさらに活発になるのでしょうが、充たそうとせず、その 状態を気づきを持って観察すれば、セロトニン神経系が活発になり、渇望は消滅するのでしょう。 ノルアドレナリン神経系とセロトニン神経系は、脳幹と呼ばれる脳内の同じ場所にあり、脳全体に 作用しています。苦が生じるのも、苦が消滅するのも、渇望が生じるのも、渇望が消滅するのも、 同じ場所だとするサティパッターナで説かれている教えが、脳科学でも説明されているようです。 ノルアドレナリン神経系が日常生活者の自分だとすれば、セロトニン神経系は瞑想者としての自分 でしょう。日常の営みも、心がけ次第で、十分に瞑想になるようです。大切なのは、以下のことでしょう。 atapi(怠ることなく)sampajanya(きちんと理解し)satima(気づいています) NHK教育の「瞑想でたどる仏教〜心と身体を観察する」によると、これまで多くの人がこの部分の訳文に苦心したそうです。現代では以下の訳で落ち着いているようです。 atapi sampajanya satima : 注意を振り向けて、しっかりと把握する
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