感覚を観察  

観察する感覚は、三種類です。

1. 心地よい感覚
2. 心地悪い感覚
3. 心地よくも悪くもない感覚

観察する感覚の体験は、六種類です。

1. 肉体と関係する感覚の体験

 心地よい感覚 : 一般的な快楽をいいます。
 心地悪い感覚 : 欲しいものが手に入らない時に感じる感覚。
 心地よくも悪くもない感覚:肉体的快感がなく心が静まった状態。

2. 肉体と無関係の感覚の体験

 心地よい感覚 : 真実にふれた時に感じる感覚。
 心地悪い感覚 : 努力の成果が感じられない時に感じる感覚。
 心地よくも悪くもない感覚:思考がなく心が静まった状態。

ここでは「心地よい感覚」や「心地悪い感覚」と表現していますが、これは正確にいうと「感覚」ではなく「知覚」だと思われます。感覚とは無常であり、無常とは常に新しいものであり、未知のものです。未知のものに対しては、よい、悪いを判断する過去の記憶がないので、「心地よい感覚」や「心地悪い感覚」という判断はできません。

知覚とは記憶の反応です。生じた感覚は、記憶の反応で、心地よくなったり、心地悪くなったりします。過去の記憶に基づいてそのように判断しているわけですが、それは自分に反応することです。実際は「知覚」なのに「感覚」と表現するのは、そのようにしか「感覚」を表現する方法がないからでしょう。未知のものは、言葉では表現できないのです。

ただ、表現できないからそのように表現しているだけだと知っていなければ、感覚と知覚を取り違えてしまいます。感覚を感覚として捉えることができなければ、aniccia という無常は、体験できません。感覚という未知なる現在の体験が、過去の記憶に結びつけられて、既に体験した過去の体験と同じと認識されてしまうからです。

無常であるはずのこの世を無常と体験できないのは、「感覚」という未知の体験を「知覚」という過去の体験に置き換えて体験しているからでしょう。それは記憶をなぞる習慣的な生き方です。複雑な日常をこなすには、習慣的に生きるのも必要ですが、すべてが習慣的になると、習慣に閉じ込められるような閉塞感を感じてしまいます。感覚を感覚として捉え、知覚を知覚として捉えて生きること、これが智慧へ至る第一歩でしょう。

U Jotika師は『 自由への旅 』で、これについて、眼の意識(感覚)と心の意識(知覚)という言葉で表現されています。

「自分が見たものを好む時、それはもはや眼の意識ではなくなります。この繋がりは別の意識になります。心が解釈する時、それはもはや見る意識ではなく、心の意識なのです。あなたが何かを見る時、純粋に見るのが眼の意識で、その時には、あなたは自分が何を見ているのかすら知らないのです。ただ純粋に見ることがあるだけです。自分が見ているものを確認するのは別の段階で、それからあなたは、自分がそれを好むかどうかを決定するのです」

眼が感じるのは感覚だけで、それを快や不快と解釈するのは精神的プロセス、心の意識ということです。それが自分という自我を生むのでしょう。感覚が知覚へと至らず、感覚は感覚に過ぎないと捉えると、〈見る〉という新しい体験ができるようです。

「ほとんどの時間、私たちは無意識に過ごしています。そこで突然、〈見る〉ということがあり、それが本当に驚くべきことであるのを知ります。あなたは〈見る〉ということを真に新しい何かとして体験するのです。ただ何かが存在するということこそが、真に驚くべきことなのです」

以下はドストエフスキーの「悪霊」です。

「きみは葉を見たことがありますか。木の葉を。ぼくは、この間、黄色い葉を見ましたよ。葉脈のくっきり浮き出た葉で、太陽にきらきら輝いているのをです。それがあまりにすばらしいので、信じられない。それでまた目をつぶる。人間が不幸なのは、自分が幸福だと知らないから、それだけです。知る者はただちに幸福になる。その瞬間に。すべてがすばらしい。ぼくは突然発見したんです」

感覚と知覚の違いを知った時に、この場面を思い出しました。知覚ではなく感覚で見る世界、その世界の風景を見たいと思いました。

感覚(feeling)と知覚(perception)の違いの認識は、サティパッターナ・スッタの理解には必須ではないかと思われます。

・感覚:感覚器官を通して受け取る情報、感覚器官の反応。身体的プロセス。
・知覚:記憶を通して受け取る情報、脳機能の反応。精神的プロセス。

feeling には「感情」という意味もありますが、感情と感覚は違います。この違いをきちんと自覚して理解することは、サティパッターナの理解には不可欠です。感覚は身体の領域ですが、感情は心の領域です。

ゴエンカ氏のヴァパッサナー瞑想入門 』 では「意識」⇒「感覚」⇒「知覚」⇒「反応」 という四つの流れが、自分という心の正体とされています。最初の「意識」は「感覚」「知覚」「反応」の三つのすべてに関わっていますので、「反応」の後に置く場合もあり ます。般若心経はそうなっています。受・想・行・識(感覚・知覚・反応・意識)の順序です。

「自分」というものがあると錯覚するのは、感覚器官が外の世界と接触して「感覚」が現れ、それが「知覚」になるからです。これが渇望の原因となり、「反応」が起きます。感覚を感覚に過ぎないと捉えずに、その感覚を受け取っている「自分」がいると捉えると、身体的プロセスの「感覚」が、記憶の反応という精神的プロセスの「知覚」になります。

「自分」とは、感覚が知覚となり、心地よいとか心地悪いとか、好きだとか嫌いだとかを判断して行動し、喜怒哀楽に至ることをいうのでしょう。

サティパッターナ・スッタでは、「感覚」は身体的プロセスに過ぎないことを理解し、精神的プロセスである「知覚」、その後の「反応」という流れに至らないことが重要だとされています。



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