いつも目の前にある   

人間は、宇宙からのあらゆる刺激にさらされていますが、生存のために必要なものや役に立つものだけを選択的に知覚しているようです。つまり、宇宙にはあらゆるものが潜在的に遍満していて、人間はそのすべての情報にアクセスする可能性を持っているにもかかわらず、生存のための日常生活を無事に送るために、不必要な情報を敢えて削除して認識しているということです。

人間の意識や精神は、個人の心にだけあるのではなく、宇宙全体に遍在していると考えるのが遍在精神説です。遍在精神のままでは、日常生活は送れないので、不要な情報や刺激は、脳機能によって選択的に削除されているということです。脳によって「遍在精神」は、個人に限定された「偏在精神」になるわけです。この役割を実際に担うのが、心を含めた六つの感覚器官でしょう。感覚器官による認識とは、厳密に考えれば、認識することではなく、選択によって全体世界に枠組みをはめることのようです。知覚によって得ているこの世とは、だから、限定的な世界なのです。

薬物で悟りのような体験をする人がいますが、これは脳機能を麻痺させることで、それまで遮断していた刺激や情報が直接入って来るからのようです。薬物の影響で、多幸感や高揚感を得る一方で、不快になったり憂鬱になったりもしますが、その時の心の状態が、薬物の作用に影響を与えるからだということです。天国のような気持ちで薬物を摂取すれば、そこには天国が現われ、地獄のような気持ちで摂取すれば、地獄が現われるということは、天国も地獄も、目の前の日常世界も、心による全体世界の解釈にすぎないのでしょう。

量子力学の世界では、量子は粒子と波動という二つの性質を持っていますが、観測されると粒子の状態に確定します。観測されないときには、波動状態のままです。量子が観測されて粒子の状態になると、粒子は特定の場所に存在するようですが、波動のままの状態では、宇宙全体に無限に広がっているようです。

私たちは生まれる前は、波動として宇宙全体に無限に広がる遍在精神だったのではないでしょうか。この世に誕生して観察の対象としての個人になると、粒子として特定の場所と特定の時間に確定したのではないかと思われます。死後の世界とは、そうすると、誕生前の全宇宙に無限に広がる遍在精神なのかもしれません。それこそが、ブッダの到達した『唯我独尊』の「我」という気がします。

私たちの本質は、宇宙空間に無限に広がる遍在意識なのに、この世に生存するために、脳によって情報を取捨選択して、特定の個人になっているようです。悟りとは、個人としての自分しか知らない私が、私の本質である遍在精神を知ることなのではないかと思うのです。その遍在精神とは、常に私たちの目の前にあるのはないでしょうか。



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