常識的日常性
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常識的日常性の最たるものが、私たちはこの世に生まれ、いつしか死んでこの世からいなくなる、と誰もが思っていることでしょう。でも、本当にそうでしょうか。この世に生まれたのは、私の身体です。いつしか死んでこの世からいなくなるのは、私の身体です。私の身体は私の身体であって、「私」ではありません。「私」とは「本来の自分」であって、『唯我独尊』の「我」です。それは生まれることもなく、死ぬこともない、不生不滅の実在です。 両親から生まれ、この世に生存しているのは、私の身体です。見えない身体としての心も、そこにあります。身体や心が自分だと思えば、この世で生じた身体や心は、いつしか死んでこの世からいなくなることになります。生きる「苦」の原因のすべては、身体と心を自分だと思うこの同一性にあるのではないでしょうか。 身体や心が自分だとすると、「私」は両親の教えやその家のしきたりに従い、地域社会のきまりを守り、その時代にそった生き方をしなければいけなくなります。家族や地域社会への愛着が愛国心となり、その国の制度や伝統や文化が自分には不可欠だと思うようになります。それは家族や祖国に守られ、制度や伝統や文化に支えられることになりますが、同時に、それらに縛られることにもなります。無自覚に、自分自身が、自分自身を縛るようになるのです。 家族や祖国を愛することはとても大切ですが、このような生き方は、しばしば内向きになり、自己防衛的になります。自分や自分たちの利益しか考えられなくなれば、他者や他国に対する敵愾心に発展することになります。自分に連なるものすべてを大切にすることは、大切な一方で、一歩踏み外せば、爭いの原因になります。民族や人種に対する偏見や差別は、こうして生まれます。さまざまに複雑な社会問題のすべては、身体や心を自分だと思うこの同一性にあるのではないでしょうか。 身体や心は喜びをもたらしてくれますが、苦悩や苦痛のすべては、身体や心がもたらしています。だから、身体や心が自分だと思っているかぎり、生きる「苦」からは解放されません。 「父母未生以前本来の面目」という禅宗の公案があります。「両親が生まれる前のあなた自身の本質は何か」という問いです。自己の本質をその源流まで遡り、両親や自我という枠組みを超えた根源的な自己についての問いかけです。「本来の自分」を探せという教えでしょう。 一休禅師に「闇の夜に 鳴かぬ鴉(からす)の声聞けば 生まれぬ先の父ぞ恋しき」という詩があります。烏は黒いので闇の夜には見えません。鳴かない烏の声は聞こえません。見えないものを見て、聞こえないものを聞くこと、これこそが両親から生まれたのではない「本来の自分」を見出すことだということでしょう。生まれる前の父を恋しく思っているのは、『唯我独尊』の「我」でしょう。父も母も両親から生まれた自分も、スクリーンの世界でしかないのです。
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