更新日2006年2月7日

「母」(MOTHER)

本文テキスト

ジョージ・ウィラードの母、エリザベス・ウィラードは、背が高く、やせ 衰え、顔には天然痘の痕があった。彼女はまだ45歳だったが、原因の分か らない病気にかかり、覇気がなかった。気が抜けたように、色褪せた壁紙 やぼろぼろになった絨毯に目をやりながら、雑然としたホテルを歩き回っ たが、歩き回れる時には客室係の仕事をし、地方回りの太ったセールスマ ンが眠って汚したベッドをきれいにしたりした。彼女の夫のトム・ウィラ ードは、怒り肩のほっそりした優美な男で、軍隊式にすばやく歩き、口ひ げが両端にぴんとはね上がるように癖をつけていたが、妻のことは頭の片 隅に追いやろうとしていた。背の高い、幽霊のような姿が、ホールをゆっ くりと通っていくのを見ると、非難されているような気になった。妻のこ とを考えると、彼は腹が立ち、呪った。

ホテルは利益が上がらず、いつも破産寸前で、トム・ウィラードはできれば廃業したかった。古い建物や、そこに自分といっしょに住んでいる女を、彼は敗北し破滅した存在だとみなしていた。彼が希望を抱いて始めたホテルは、今では、理想的なホテルの亡霊にすぎなかった。ぱりっとした服装で、きびきびとワインズバーグの通りを歩いている時、彼は時々立ち止まり、ホテルや女房の霊が通りにまで追いかけてきているような気がして、さっと振り返って辺りを見回した。
「くそ! いまいましい。なんて人生だ」
彼は誰にともなく毒づいた。

トム・ウィラードは地方政治に情熱を持っていて、共和党の強い地盤で長年民主党の有力者だった。いつか政治情勢が自分に有利に変化し、長い間無駄だった活動が大きくものをいって報われる時がくる、彼はそう自分に言いきかせていた。彼は連邦議会に出ることや、州知事になることさえも夢みていた。一度若い民主党員がある政治集会で、立ち上がって自分の忠実な活動をとうとうと語りだした時、トム・ウィラードは真っ青になって怒ったことがあった。
「何をいうか!」彼はあたりをにらみ付けながら怒鳴った。
「お前に党活動の何が分かる。若造のくせに。俺がここでしてきたことを見てみろ。民主党員であることが犯罪だった当時、このワインズバーグで、俺は民主党員だったんだ!あの頃、連中は銃を持って俺たちをしつこく付け回していたんだ」

エリザベスと彼女のひとり息子、ジョージとの間には、言葉にできない深い 共感のきずながあった。そのもととなっていたのが、ずっと以前に失くした 少女時代の夢だった。彼女は、息子のジョージの前ではおどおどと控えめだ ったが、ジョージが町に出て新聞記者として駆け回っている時、彼の部屋に 入り、ドアを閉め、窓際にある台所のテーブルだった小さな机のそばにひざ まずくことが時々あった。部屋の中の机のそばで彼女は、神に対して、祈り でもあり要求でもある儀式を執り行なった。

彼女は童顔の息子に、かつて彼女の中にあり、半ば忘れ去ってしまったも のが、よみがえるのを見たいと願った。祈りはそういうことだった。「私 が死んでも、なんとしてでもお前を敗北から守ってみせるよ」彼女は叫ん だが、その決心があまりにも固かったため、全身が震えた。彼女は目を輝 かせ、手を握り締めた。「私が死んで、ジョージが私のような無意味で生 彩のない人間になっているのを見たら、私は戻ってきます」彼女は言い放 った。「その特権をお与えくださるよう主にお願いします。そう要求しま す。そのためにはどんなことも厭いません。主の拳でうちのめされようと も。どんなダメージをこうむろうとも、私の息子が、私たち二人のために、 何かを実現することが許されるなら」彼女は言いよどんで、息子の部屋を じっと見回した。「それから、あの子が、抜け目のない成功者にもならな らないようにしてください」と彼女は漠然と付け加えた。

ジョージ・ウィラードと母親との交流は、表面的には意味のない型通り なものだった。母親が病気で、自室の窓辺に座っている時、彼は時に夕 方、母親を見舞った。二人は窓辺に座った。小さな木造の家の屋根越し に、大通りが見えた。視線を変えると、別な窓から大通りに面した商店 の裏の路地が見え、アブナー・グロッフ・パン屋の裏口が覗き込めた。二 人がこうして座っていると、時にワインズバーグの生活の一端が二人の 前に現れた。

店の裏口にアブナー・グロフが棒や空のミルク・ボトルを手に持って現れ た。このパン屋と薬屋のシルベスタ・ウエストの灰色の猫との間には、長 い間確執があった。ジョージ・ウィラードとその母親は、猫がパン屋の裏 口からこっそり入り、しばらくして、怒鳴りちらし腕を振り回したパン屋 に追っかけられて出てくるのを見ていた。パン屋の目は小さく、血走って いて、その黒い髪やひげは小麦粉だらけだった。彼は時には腹立たしさの あまり、猫はどこかへ行ってしまったのに、棒やガラスの破片、商売道具 までも投げつけた。一度などシニング金物店の裏窓を壊したこともあった。 その灰色の猫は、破れた紙や壊れたボトルでいっぱいの、ハエがいっぱい 集っている路地の樽の後ろにうずくまっていた。

一度、エリザベス・ウィラードは、ひとりでいた時、いつまでも続けている パン屋の無駄な憤激を見ていて、白く細長い両手に顔を埋めて泣いたことが あった。その後はもう路地を見ないで、あごひげの男と猫との諍いを忘れよ うとした。それは彼女の人生を恐ろしいまでにまざまざと見せてくれたよう に思えた。

夕方、ジョージ・ウィラードと母親が部屋で座っている時、二人は沈黙を 気まずく感じた。闇は迫り、夕方の列車が駅に入ってきた。下の通りでは、 板張りの歩道を踏みつけて行き来する人の足音が聞こえた。駅構内には、 夕方の列車が出た後、重苦しい沈黙が漂っていた。恐らく荷物運送のスキ ナー・リーズンは、台車をプラットホームの端から端まで動かしてしまっ たのだろう。向こうのメインストリートで、笑っている男の声が聞こえた。 運送会社の事務所のドアがバタンと閉まった。

ジョージ・ウィラードは立ち上がり、部屋を横切ってドアノブに手をか けようとした。彼は時々椅子にぶつかり、椅子で床を引き摺った。病気 の母親は窓辺に座り、物憂げで、全く動かなかった。彼女の白い血の気 のない細長い手が、椅子のアームの端から垂れているのが見えた。
「出かけてって若い連中と遊んだ方がいいんじゃないのかい。お前は家 にいすぎるよ」彼女はそう言って、外出するきまり悪さを取り除いてや ろうとした。
「散歩に出ようと思ってたんだ」
ジョージ・ウィラードは答えた。頭は混乱し、気まずい気分だった。

七月のある晩、ニュー・ウィラード・ハウスを短期間の常宿にしている短 期滞在客が少なくなり、芯を短くした灯油ランプだけが灯され、廊下がぐ っと暗くなると、エリザベス・ウィラードは思い切った行動に出た。彼女 は数日病気で寝込んでいたが、彼女の息子は見舞いに来なかった。彼女は 不安になった。彼女の中に残っていた生のかすかな炎が、不安からぱっと 燃え上がった。彼女はベッドから這い出し、大きくなった恐れにふるえな がら、服を着て息子の部屋へと廊下を急いだ。

歩く時、エリザベス・ウィラードは片手で身体をしっかりと支え、壁 紙の廊下を滑るように進んだ。苦しそうな息づかいだった。吐息が歯の間 でヒューヒューと鳴った。急ぎながら、自分はなんて愚かなのだろうと思 った。「ジョージは年に合った遊びに気をとられているのだ。たぶん、今 では夜はガールフレンドと出かけるようになったのだ」彼女はそう自分に 言い聞かせた。

エリザベス・ウィラードは、かつては彼女の父親のホテルであり、群役所 での名義も彼女になっていたが、宿泊客に見られることを恐れた。ホテル は、みすぼらしかったので、客が減っていく一方だった。彼女自身自分の ことをみすぼらしいと思っていた。彼女の部屋は目立たない場所にあった。 宿泊客がワインズバーグの商人のところへ商談に出かけ、働けそうな時に は、自分のできそうな仕事を選んで、進んでベッドからベッドへと働いた。

息子の部屋の前で、彼女は床にひざまずいて、中からの物音に耳をすませ た。息子が動き回ったり、低い声で話したりしているのを聞くと、彼女の 唇には笑みが浮かんだ。ジョージ・ウィラードは声に出して独り言を言う 癖があった。それを聞いていると、彼女は独特の喜びを感じた。息子のそ の癖は、自分たちの間の目に見えない絆を強めてくれると思った。彼女は そのことを幾度も幾度も自分自身にささやいた。
「自分を探そうとして、あの子は手さぐりしているんだわ」
彼女は思った。
「あの子は、おしゃべりで抜け目のない、ばかで間抜けな子なんかじゃな い。あの子の中には成長しようともがいている何かがひそんでいるのよ。 私の中にもあったけど、いつの間にかなくなったものだわ」

ドアの前の廊下の暗がりの中で、病気の女は立ち上がり、自分の部屋に 戻ろうとした。彼女はドアが開いて息子が目の前に現れるのを恐れた。 その心配のない場所に来て、角を曲がって次の廊下へ進もうとした時、 彼女は立ち止まり、両手で身体を支えて待った。彼女を襲った衰弱から くるぶるぶる震える発作を払いのけようとしたのだ。息子が部屋にいた ので、彼女は幸福な気分だった。ベッドでひとり長くいた時には、襲っ てきたちょっとした不安も、巨大なものになった。今ではその不安もす っかり消えた。
「部屋に戻って眠ろう」彼女は嬉しそうにつぶやいた。

だが、エリザベス・ウィラードは、ベッドに戻って眠ることはなかった。 暗闇の中で立ったまま震えていると、息子の部屋のドアが開き、父親の トム・ウィラードがドアから歩み出てきた。彼はドアノブを手にしたまま、 ドアからもれる明かりの中に立ち、口を開いた。彼の言った言葉に、エリ ザベス・ウィラードは激怒した。

トム・ウィラードは、息子に大きな望みを持っていた。彼は、今までして きたことで、成功したことは何もなかったのだが、いつも自分のことを成 功した人間だと思っていた。だが、ニュー・ウィラード・ハウスが見えず、 妻に会う心配がない時には、威張って歩き、街の有力者のひとりとして振 る舞い始めた。彼は息子に成功して欲しいと思っていた。息子に「ワイン ズバーグ・イーグル」の仕事を見つけてきたのも、ほかならぬ彼だったの だ。

今もトム・ウィラードは、声に熱を込めて身の振り方について忠告していた。
「いいか、ジョージ、眼を覚まさなきゃいけないぞ」彼はきっぱりと言った。
「おれはそのことで、ウィル・ヘンダソンから三度言われてるんだ。お前は 何時間もぼんやりしていて、話しかけられても耳にも入らず、のろまな女の 子みたいだそうじゃないか。いったいどうしたんだ」
トム・ウィラードは快活に笑った。
「まあ、いつかはそんなこともなくなるだろうとは思っているがな」彼は言 った。
「ウィルにもそう言っておいたよ。お前はばかじゃないし、女でもない。ト ム・ウィラードの息子なんだ。いつかは眼を覚ます。心配はしておらん。お 前が言ったことで、よく分かったよ。新聞記者をしていて、作家になろうっ て考えをおこしたんなら、それでいい。ただ、作家になるにしても、眼を覚 まさなけりゃいけないんじゃないか、そうだろ?」

トム・ウィラードは、きびきびと廊下を歩き、オフィスに通じる階段を降りた。 暗闇にいたエリザベスには、オフィスの側の椅子でうとうとして、夕方の暇な 時間をやり過ごそうとしている宿泊客と彼が話し、笑っているのが聞こえた。 彼女は息子の部屋の前に戻った。身体の衰えは、奇跡のように消え、彼女は力 強く歩いた。無数の考えが彼女の頭を駆け巡った。椅子がこすれる音や、ペン が紙の上を引っかく音を聞くと、彼女は再び踵を返し、廊下を通って部屋に戻 った。

ワインズバーグ・ホテル所有者の敗北を感じている妻の心の中に、きっぱ りとした決意が生まれた。その決意は、長年、黙々と、かなり無駄なこと を考えてきた果てのことだった。
「さあ」彼女は自分自身に言い聞かせた。
「私は行動しよう。私の息子を脅かすものが出てきたのだから、私が守っ てやろう」
トム・ウィラードと息子との会話が、二人の間には理解があるかのように、 意外にも静かで自然なものだったので、彼女は激怒した。長年彼女は夫を 憎んできたが、彼女の憎しみは、それまではいつも彼女には関係のないも のだった。彼女の夫は、彼女が憎む、単なる別の何かだった。今や、戸口 でのちょっとした言葉で、彼は彼女に関係のあるものになった。

暗がりの中、自分の部屋の中で彼女は、両手のこぶしを握り締め、あたり をにらみつけた。壁の釘に掛かっている布のカバンのところに行くと、長 い裁縫バサミを取り出し、短刀のように握った。
「あの男を刺してやる」彼女は声に出して言った。
「悪の声に自らなったのだから、殺してやる。あの男を殺した時には、私 の中の何かがポキッと折れ、私も死ぬだろう。それは私たちみんなにとっ ては、解放となるだろう」

少女時代やトム・ウィラードと結婚する前には、エリザベスにとってはあ まりかんばしくない評判が、ワインズバーグにはあった。長い間、彼女は いわゆる「ステージ狂」だったし、父親のホテルの男性宿泊客と通りをこ れ見よがしに歩き、けばけばしい服装をして、彼らがやってきた都会の生 活の話をせがんだりした。男の服装でメインストリートを自転車に乗って 町の人を驚かしたこともあった。

背の高い黒髪の少女だった彼女の心は、当時、とても混乱していた。情緒は はなはだしく不安定だったし、それが2つのことに現れていた。ひとつは、 彼女の生活にもたらされるはっきりした大きな動き、変化への漠然とした欲 求だった。彼女の心をステージへと向けさせたのは、まさにこの感情だった。 彼女はどこかの劇団に入って世界中を回り、見知らぬ人と常に出会い、彼女 の中にある何かを全ての人に与えたいという夢を持っていた。時に夜には、 彼女はそんなことを思って我を忘れることがあった。だが、彼女がそのこと をワインズバーグに来た、父親のホテルに宿泊している劇団員に話そうとし ても、うまくいかなかった。彼らは彼女が何を言いたいのか理解できないよ うだったし、彼女が自分の情熱の一端を表現しても、ただ笑うだけだった。
「そんなんじゃない」彼らは言った。
「この町の生活と同じで、退屈で面白くないんだ。そんなことは起きないな」

彼女が旅の男たちといっしょに散歩をする時は、後にはトム・ウィラードと だが、事情は全く違った。彼らはいつも彼女のことを理解し、同情している ようだった。町のわき道、木々の下の暗がりで、彼らは彼女の手を握り、彼 女は、自分の中に表現できない何かが湧き上がり、それが彼らの中の表現で きない何かと溶け合うと思った。

それから、彼女の落ち着きのなさは形を変えた。その時、彼女はしばらくの間、 解放感を味わい、幸福な気持ちになった。彼女はいっしょに歩いた男たちを責 めなかったし、後に、トム・ウィラードも責めなかった。いつも同じだった。 キスで始まり、奇妙な荒々しい感情の後、平和な気持ちで終わり、それからす すり泣き、後悔するのだった。彼女はすすり泣く時、手を男の顔に置き、いつ も同じことを思った。男が大きく、ひげを生やしていようとも、彼女は唐突に 彼を小さな男の子だと思うのだった。彼女は相手の男が、なぜ同じように泣か ないのか不思議だった。

古いウィラード館の片隅に押し込められたような自分の部屋で、彼女はラ ンプに火を灯し、ドアのそばの化粧台の上に置いた。彼女には考えがあっ た。彼女はクロゼットまで歩き、小さな四角の箱を取り出してテーブルに 置いた。箱にはメーキャップ道具が入っていた。その箱は、かつてワイン ズバーグで立ち行かなくなった劇団が残していった、その他もろもろのも のといっしょに、ほったらかしにされていた。エリザベス・ウィラードは、 美しくなろうと決心した。彼女の髪はまだ黒く、ふさふさの髪を編んで、 頭にぐるぐる巻きにしていた。

下の事務所で起きるであろう場面が、彼女の中で大きくなり始めた。幽霊のような疲れ切った人物とトム・ウィラードを対決させてはいけない。思いもかけない、びっくりするような何かでなければいけない。背が高く、浅黒い頬をした、肩からふさふさの髪を垂らした人物が、階段を大またで降り、事務所でぶらぶらしている人を驚愕させて登場しなければならない。その人物は、ものを言わず、さっと移動し、人をぞっとさせる。子が殺されそうな目にあっているメスのトラのように、薄暗がりから、音もなくこっそりと、長いぞっとするようなハサミを握りしめて現れるのだ。

喉を震わせて、かすかにすすり泣きながら、エリザベス・ウィラードはテ ーブルの明かりを吹き消し、暗闇の中、震えながら弱々しく立っていた。 彼女の身体に奇跡のようにみなぎっていた力は消えうせ、彼女はなかばよ ろめきながら床を横切り、椅子の背にしがみついた。その椅子に座って、 彼女はあれほどの長い日々を、トタン屋根越しにワインズバーグの通りを 見つめて過ごしたのだった。廊下に足音がして、ジョージ・ウィラードが ドアから入ってきた。彼は母親のそばの椅子に腰をおろし、話し出した。
「ここを出ようと思うんだ」彼は言った。
「どこへ行き、何をするのか自分でも分からないんだけど、出て行くつも りなんだ」

椅子の彼女は、じっと震えていた。彼女は衝動に駆られた。
「目を覚ました方がいいと思ってるよ」彼女は言った。
「そう思ってるのかい? 都会に出て、お金儲けをしようとしてるんだろ?  実業家になって、きびきびとした、粋で活発な人間になった方がいいと思ってるんだろ?」
彼女はじっと震えていた。
息子は頭を振った。
「お母さんには理解してもらえないかもしれないけど、だけど、理解しても らえたらと思うんだ」
彼は熱を込めて言った。
「お父さんにはこのことを話せないからね。話そうとも思わないけど。無駄 だからね。どうしていいか、自分にも分からないんだ。ただ、ここを離れて、 いろんな人に出会って、いろいろ考えてみたいんだ」

息子と母が共に座っている部屋を沈黙が支配した。この時も、いつもの夕べと同じように、二人はぎこちない気持ちになった。しばらくして、息子はまた話し出した。
「出て行くのは1年や2年にはならないと思うけど、そのことはずっと考えていたんだ」
彼はそう言って立ち上がり、ドアに向かって歩き出した。
「お父さんが言ったことで、出て行かなきゃならないって、そう思ったんだ」
彼はドアノブを探った。母にはその部屋の沈黙が耐え難いものになった。息子の口から出た言葉で、彼女は嬉しさのあまり叫びだしたいほどだったが、彼女には喜びを表現することができなくなっていた。
「お前は出かけて、若い人たちと過ごした方がいいよ。お前は家の中にいすぎるからね」母は言った。
「僕もちょっと散歩に行ってこようって思っていたんだ」息子は答えて、ぎこちなく部屋を出て、ドアを閉めた。

「母」終わり





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