山形米沢の12ヶ月

5月 森の生活

 米国の作家ソローは、ウォールデン湖のほとりに小屋を建て、森の生活をした。 「僕が森へ行ったのは思慮深く生きたかったからだ。死ぬときになって自分は生きて いなかったなどと思いたくなかった」という彼の体験は本になり、古典として読まれ ている。

 森の生活を始めた私は、ハンモックに揺られながら、文庫本にして450ページにも なるこの大作を繙いたが、なかなか読み進まない。「森の中の生活は、外とは違って 緑の光が多く目に優しい。木々の葉が風にそよぐ音、小鳥のさえずり、せせらぎの音 が心を和ませる。木漏れ日を浴び、木々の間を歩き、自然と向き合ううちに自分を見 つめさせられる」などと読んでいたら、いつの間に寝入ってしまう。これはいかんと また読み進めるが、いつの間にかうとうとして、森の生活とは昼寝のことかと思った りもする。 

 この本が出版された19世紀半ばは電信が開通し、情報革命の時代だった。「通信に 値するほどの情報を持ち合わせていないし、思慮深く語るよりも早口に語ることの方 が肝心と言わんばかりだ」というソローの文明批評は、ネットと携帯がもてはやされ ている現代そのままだ。

 日本の森とは山のことで、国土の70%が山というこの国は、森が至る所にある。日 本に来る環境保護関係の外国人は、緑豊かな日本を見て驚く。大量の木材を輸入して いるのは、日本には木がないからだと思っていたようだ。自国の環境は保護をし、海 外の環境を破壊していると憤るが、この種の人たちは経済のことを理解しようとしな い。

 東北の山々は自然がそのままだ。去勢されていない自然といってもいい。ただ、そ れだけに厳しく、中に入るとある種の恐れを感じる。山菜や筍を採りに山に入って死 ぬ人も毎年いる。美しく雄大な自然も、暮らしの中では別な顔がある。

 ソローは理屈をつけて森の生活を始めたが、理屈をつけて森をあとにする。彼の場 合は、森の生活というよりも、森の旅だろう。生活とは日常であり、旅とは非日常だ。 生活という日常だけではせつないが、旅という非日常だけだと破綻する。日常と非日 常に片足ずつ置いて、バランスを取りながら暮らすのが理想的なのだ、などと思って いたら、小鳥の鳴き声が間近に聞こえた。また寝入っていたのかと青空を見上げる。 森の生活とは、やっぱり昼寝のことだ。




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