山形米沢の12ヶ月

6 月 田舎暮らし考

 田舎暮らしの元祖といえば「大草原の小さな家」だろう。その日本版が「北の 国から」だ。便利な都会の生活を捨てて、不便な田舎に移り住む。そこには都市 が持つ物にあふれた華やかな生活はないが、全身で生活に取り組む生の実感があ る。便利な生活の中で失った人と人とのきずながあり、生活の根というものがあ る。都市生活の中で窒息しかかっていた心は、大自然の中で本来の姿を取り戻 し、癒される。これらの物語は、現代という時代に疲れた人々の原風景であり、 見果てぬ夢だろう。だからアメリカでも日本でも今尚根強い人気があるのだ。

 田舎暮らしに憧れる人が求めているのは、自然とともにある生活だろう。そこ には豊かな人間関係があり、その土地固有の文化がある。太陽が時を刻む生活で は、時間はゆったりと流れる。晴れた日は屋外作業で汗を流し、雨の日は読書や 創作活動に励む。心と身体がひとつになった生活。誰もが憧れる田舎暮らしだ。

 田舎暮らしは都市から田舎への空間の移動ではない。都市生活に疲れたからと いって、場所の変化に救いを求めていては、何も得ることはできない。時が経つ につれ、自然の風景も色あせ、田舎の生活にも疲れてくるかもしれない。絶えず 移動していても、どこにも行けないのが人というものだ。田舎暮らしには、自然 だけでなく、自分を高めてくれる「田舎」という文化が必要なのだ。

 米沢の町外れを車で走っていると、時々以前住んでいた松戸の郊外を走ってい る錯覚に陥る。広いバイパス沿いにはマクドナルド、ユニクロ、吉野屋など馴染 みの店が並ぶ。このような開発が進むと田舎文化は消え、田舎は「田舎」ではな く、不便なだけの場所になる。不便なだけの場所に住みたい人はいない。若者が 都会を目指すのはそういうことだろう。

 田舎暮らしを始めても求めている田舎暮らしや田舎文化がすぐに得られるわけ ではない。現代という時代は特にそうだ。それらは土地が与えてくれるものでは なく、そこで暮らす人が作り出すものだ。不便なだけの場所か「田舎」かは住む 人の生き方による。それは都会で暮らそうが田舎で暮らそうが同じだ。都会の田 舎暮らしもりっぱな田舎暮らしだろう。

 「青春とは年齢ではなく心のありようだ」とはウルフマン、青春の詩の一節。 田舎暮らしとは、田舎文化の中で、青春を生きるということではなかろうか。


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