「手」 (HANDS)

〜 あとがき 〜

 アメリカ・インディアンは文字を持たないが、ある部族のある人物が文字のようなものを発明したことがあるらしい。誰かに話させ、それを文字にして紙に書き、別の場所にいた息子の所に持っていくように言った。父親が発明した文字を教わっていた息子は、紙に書かれた文字を読んだ。話が聞こえない場所にいたその息子が全く同じことを言うのでみんなは驚いた。紙に書かれた文字を見て、言葉の缶詰だと大騒ぎになった。大発明をしたその人物は大いに尊敬されて当然なのだが、悪魔が取り付いたとみなされ親子共々殺された。

 赤鼻のトナカイは赤い鼻がおかしいといってみんなからいじめられたが、サンタクロースから赤い鼻が暗い夜道には役に立つと認められ、大いに鼻を高くする。欠点だとみなされていたものが実は大きなメリットだったという否定が肯定になる良い話しだ。

 ウイング・ビドルボーム、あるいはアドルフ・マイヤーズの場合は手だ。

 「ウイング・ビドルボームの手の物語は、それだけで1冊の本にする価値があった。共感を持って語るとするならば、それは無名の人々の中にひそんでいる、多くの不思議な美しい資質にひびくだろう。」

 だが、その手が原因で、アドルフ・マイヤーズはペンシルバニアでリンチにあいそうになる。その後遺症からか、彼は怯えて暮らし、さまざまな不信感に取り付かれ、二十年間暮らしたワインズバーグの生活のどれをとっても、自分がそこの一員だとは思えなくなる。

 ウイング・ビドルボームは世間との唯一の接点であるジョージ・ウィラードにこういう。

 「君は人のことを気にし過ぎるところがある。君には孤独癖や夢想癖があるのに、夢想することを恐れている。この町の他の人間と同じようになりたいと思っている。町の連中が言うことを聞き、それを真似しようとしている。」

 他の人と同じであることで共同体での自分の居場所が決まる。違うことは身を危うくする。閉塞社会では特にそうだ。目立ちたがり屋が目立たせようとすることは、人に受け入れられることで、これは人との違いではなく、同じだということを強烈に主張することだ。ブランドものがもてはやされるのもそういうことだろう。

 人は誰もがウイング・ビドルボームの「手」を持っているはずなのだが、多くの人は、せっかくのそれを活かそうとしないで、みんなと同じという多数派の中に安住したがる。その方が安全で楽だからだろうが、楽をし過ぎると自立心は失せ思考停止になってしまう。自分で考えなくなると、安易に世間の尺度で人を裁くことになる。こうして「手」を持った人は疎まれ、断罪されることになる。人々はますます「手」をかくして生活するようになり、不信感は募る一方だ。

 「手」を否定されたウイング・ビドルボームは、さまざまな不信感にとりつかれ、自分がワインズバーグの一員だとは思えなくなる。不信感のために自分がそこに生きているという現実感がなくなるのだが、このことは、リストカットで流れる血を見ながら生きている実感をかろうじて得ている現代の若者にも共通している気がする。





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