更新日2005年03月01日

「手」(HANDS)

本文テキスト

オハイオ州のワインズバーグという町の近くには峡谷があった。そのそばに 小さな木造の家が立っていた。その家の半ば朽ちたベランダで、ひとりの小 柄な太った老人が、落ちつきなく行ったり来たりしていた。そのベランダか らは、クローバーの種を蒔いたが、黄色いカラシナだけがびっしりと生えて しまった細長い畑を越えて公道が見えた。その道を畑から帰る苺摘みの人々 をいっぱいに乗せた荷車が通った。苺摘みの若者や娘たちは、けたたましく 笑ったりわめいたりしていた。青いシャツを着た少年は荷車から飛び降り、 娘たちのひとりを引きずりおろそうとしたが、娘は悲鳴をあげ、甲高い声で 文句を言った。道路に降りた少年の足からは土埃があがり、沈みゆく太陽に 漂っていた。細長い畑から、少女のようなか細い声が聞こえた。「まあ、ち ょっとウイング・ビドルボームさん、櫛を入れたらどう、髪が目に垂れ下が ってるじゃないの」とその声は老人に命令した。老人は禿げていて、小さな 手でせわしなくむきだしの白い額をなでまわしていた。まるでふさふさのも つれた巻き毛を整えるかのような仕草だった。

ウイング・ビドルボームは、年がら年中漠然とした、さまざまな不信感にと りつかれ、怯えて暮らしていたので、二十年間暮らしたこの町の生活のどれ をとっても、自分がそこの一員だとは思えなかった。ワインズバーグのすべ ての人の中で、彼と親しかったのは、たったひとりだった。ニュー・ウィラ ード・ハウスの経営者、トム・ウィラードの息子、ジョージ・ウィラードと は、友情のようなものを築いていた。ジョージ・ウィラードは、ワインズバ ーグ・イーグル紙の記者で、時折夕方など、公道を通ってウイング・ビドル ボームの家に足を向けていた。老人は手をせわしなく動かしながら、ベラン ダを行ったり来たりしていたが、ジョージ・ウィラードがやって来て、夕方 を共に過ごしてくれればと願っていた。苺摘みの人々を乗せた荷車が通り過 ぎると、彼は伸びたカラシナの間をぬって畑を横切り、柵に登り、町へと通 じる道を、待ち遠しそうにじっと見た。少しの間、そんな風に突っ立って、 両手をこすったり、きょろきょろと辺りを見回したりしていたが、しばらく すると不安にかられ、走って帰り、自分の家のベランダの上を、さっきと同 じように行ったり来たりした。

ジョージ・ウィラードの前では、町の謎として20年間生きてきたウイング・ ビドルボームも、内気な人間ではなくなり、不信感の渦の中にあった彼の影 のような性格が、世の中を眺めようと、前面に出てきた。若い新聞記者がそ ばにいると、興奮した声で喋り、明るい中、メインストリートに思い切って 出たり、自分の家のぐらぐらする玄関先のポーチを大またで歩き回ったりし た。いつもは小さく震えがちだった声は、甲高い大きな声になった。曲がっ た背中もしゃんとした。漁師に小川に戻してもらった魚のように、勢いを取 り戻し、黙り屋のビルドボームは話し始め、長年の沈黙の間、心に積み重ね てきた考えを言葉にするため、努力奮闘した。

ウイング・ビドルボームは、多くを手で語った。ほっそりした彼の手は、表 情豊かで、絶えず動き回り、ポケットの中や身体の後ろで人目に触れないよ うにしているかと思ったら、目の前に出てきて、表現機械のピストン棒のよ うに動いた。

ウイング・ビドルボームの物語は、手の物語だった。休みなく動く手が、鳥 かごの鳥の羽ばたきのようだということで、彼にはその名がついた。街の無 名の詩人が、その名を思いついたのだ。ウイング・ビドルボームの手は、警 報装置だった。彼は手をいつも隠しておきたがっていた。そして、畑で自分 の横で働いている男たちや、眠そうな馬を駆り立てて、農道を通り過ぎる他 の男たちの、表情のない、黙りこくった手を、驚きの目で見た。

ウイング・ビドルボームは、ジョージ・ウィラードと話をしている時、その手を握りしめ、自分の家のテーブルか壁を何度も叩いた。そうする方が落ちついたのだ。二人が畑を散歩している時に、話したい欲求にかられると、彼は切り株か、フェンスの天板を見つけて、我が意を得たりとばかりに、せわしなく叩きながら話をした。

ウイング・ビドルボームの手の物語は、それだけで1冊の本にする価値があった。 共感を持って語るとするならば、それは無名の人々の中にひそんでいる、多く の不思議な美しい資質にひびくだろう。だが、それは詩人の仕事だ。ワインズ バーグでは、手は実用という点だけで注目を集めた。ウイング・ビドルボーム は、その手で、1日に140クオートものイチゴを摘んだ。その手は彼の顕著な特 徴となり、それによって名が広まることになった。また、ただでさえグロテス クであり、とらえどころのなかった彼の個性を、いっそうグロテスクなものに した。ワインズバーグの人々は、ウイング・ビドルボームの手を自慢にしてい た。それは、銀行家のホワイト氏の新築の石造りの家や、ウェズリー・モイヤ ー氏の、クリーブランドの秋のトロット・レースに優勝した、鹿毛の種馬、ト ニー・ティップを自慢にしているのと同じ感情だった。

ジョージ・ウィラードも、ウイング・ビドルボームの手について聞いてみた いと思ったことが何度もあった。時には、ぜひそうしようという好奇心にか られたこともあった。不思議なほど実用的なのも、いつも隠しておきたがる のも、理由があるに違いないと、彼は思っていた。だが、ウイング・ビドル ボームに対する敬意が募っていたために、しばしば心に浮かんだ疑問をうっ かり口にすることはなかった。

1度など、もう少しで聞くところだった。ある夏の午後、二人は畑を散歩していたが、草深い土手の所で立ち止まり、腰を下ろした。ウイング・ビドルボームは、霊感を受けた者のように、午後の間、ずっと話していた。柵のそばにくると、足を止め、大きなキツツキのように、柵の天板を叩きながら、君は人のことを気にし過ぎるところがあると、ジョージ・ウィラードに向かって大声で非難した。
「自分を駄目にしているんだぞ」
ビドルボームは叫んだ。 「君には孤独癖や夢想癖があるのに、夢想することを恐れている。この町の他の人間と同じようになりたいと思っている。町の連中が言うことを聞き、それを真似しようとしている」

草深い土手の上で、ウイング・ビドルボームは、またしても切々と訴えた。 彼の声はやわらかく、なつかしい響きがあった。彼は情愛のこもったため息 をつき、夢の中にいる者が語るように、とりとめもなく話し始めた。
ウイング・ビドルボームは、ジョージ・ウィラードに、夢の中の物語を語っ た。そこでは人々は、かつての牧歌的な黄金時代に暮らしていた。広々とし た草原をやってくるのは、すらりとした若者だった。徒歩で来る者もいれば、 馬に乗って来る者もいた。若者たちは大勢でやって来て、小さな庭にある樹 の下に座っている老人の回りに集まった。老人は若者たちに語りかけた。

ウイング・ビドルボームは、すっかり夢中になっていた。この時だけは、手のことを忘れていた。彼の手は徐々に前に出て、ジョージ・ウィラードの肩にかかった。話す声に、どこか新しく、大胆なものが宿ってきた。
「君は今まで学んできたことのいっさいを忘れようとしなければいけない」と老人はいった。
「夢みることだ。これからは、喧噪には耳を閉ざすことだ」

ウイング・ビドルボームは話すのをやめた。そして、ジョージ・ウィラード を、長い間、まじまじと見た。その目は燃えていた。ビドルボームは、再び 手を上げて、ジョージ・ウィラードの肩を撫でた。恐怖が彼の顔をさっと過ぎった。

身体がビクッと動き、ビドルボームはさっと立ち上がった。彼は両手をポケ ットにぐいっと突っ込んだ。目からは涙が出ていた。
「家に帰ることにしよう。君に話すことはそれだけなんだ」
ビドルボームは落ちつきなくそういった。

老人は振り返りもせず、急いで、丘を下り、牧草地を横切って行った。ジョ ージ・ウィラードは、草地の斜面で、途方にくれ、怯えた。不安になって、 震えながら、少年は立ち上がり、町の方へ歩き出した。彼が見た、ビドルボームの目に浮かんだ恐怖を思い出し、心が痛んだ。
「手のことを聞くのはよそう」彼は思った。
「何か事情があるのだろうが、それが何か知りたいとは思わない。僕やあら ゆる人を恐れるのも、あの手と何か関係があるのだ」

ジョージ・ウィラードの考えた通りだった。その手のことについて、少しだけ考えてみよう。その話をすると、おそらく、詩人は創作意欲を駆り立てられ、人の心を動かすような、不思議な秘話を語ろうとするだろう。人の心を動かすという点では、手は、はためいている約束の小旗に過ぎなかったのだが。

ウイング・ビドルボームは、若い頃、ペンシルベニアのある町で、学校の先生をしていた。その時は、彼はウイング・ビドルボームではなく、もっと響きの悪い、アドルフ・マイヤーズという名前で通っていた。アドルフ・マイヤーズとして、彼は学校の男子生徒から、とても慕われていた。

アドルフ・マイヤーズは、若者の教師になるように生まれついていた。彼は、 かたくなさがとても優しく表れるので、それが愛すべき弱点だと思われてし まう、世間にはあまり理解されない、珍しい人間のひとりだった。そのよう な人たちの、受け持ちの男子生徒に対する感情というものは、感情の細やか な女性の、男性に対する愛情と似ていなくもない。

だが、これは雑な表現にすぎない。ここでも、詩人の言葉をまつしかない。 アドルフ・マイヤーズは、男子生徒と、夕方散歩をしたり、校舎の踏み段に 座って、夢見心地になって、夕暮れまで話し込んだりした。彼の手はあちこ ち動き、生徒の肩を撫でたり、もつれた髪をいじったりした。彼が話す時、 その声は優しく、心地よく響いた。ここにも愛撫があった。ある意味、声や 手、肩を撫でたり髪に触れたりすることは、若者の心に夢をもたらそうとす る教師の努力の一環だった。指にこもった愛撫によって、彼は自分を表現し ていた。生きる力が一つのことに集中するのではなく、拡散してしまう人が いるが、アドルフ・マイヤーズもそうだった。彼の手で愛撫されると、少年 の心から疑念や不信感が消えてなくなり、彼らも夢見始めるのだった。

それから悲劇が起きた。間抜けな男子生徒が、この若い先生にすっかり夢中になった。その男子生徒は、夜、ベッドで、言葉では言えないようなことを想像し、朝、ベッドから出て、それを事実のように語った。だらりと垂れた唇から、奇妙でゾッとするような告発の言葉が飛び出した。ペンシルバニアのその町に、戦慄が走った。アドルフ・マイヤーズについて、それまでみんなの心にひそんでいた、ぼんやりとした疑惑が、一気に確信に変わった。
悲劇はぐずぐずしていなかった。ぶるぶる震えている子供たちがベッドから引っぱり出され、尋問を受けた。
「先生は両腕で僕の身体を抱いたよ」とある子供は言った。
「先生の指はいつも僕の髪をいじっていた」と別の子供がいった。

ある午後、その町で酒場を経営しているヘンリー・ブラッドフォードという 男が、校舎の入口にやってきた。彼はアドルフ・マイヤーズを校庭に呼び出し、 握りこぶしで殴りだした。硬いこぶしで、アドルフ・マイヤーズの怯えた顔を 殴りつけるにつれて、ヘンリー・ブラッドフォードの怒りはますますひどく なっていった。動揺して悲鳴をあげながら、子どもたちは蜘蛛の子を散らす ようにあちらこちらと逃げた。
「おい、オレの息子に手を出したら承知しないぞ」
酒場の経営者は叫ぶようにそういい、殴るのに飽きていたので、アド ルフ・マイヤーズを校庭で蹴り回しだした。

アドルフ・マイヤーズはその夜のうちにペンシルバニアのその町から追い出さ れた。何十人もの男たちが手に手にランタンを持って、独り暮らしアドルフ ・マイヤーズの家にやってきて、服を着て出てこいと言った。雨の夜だった。 ひとりの男は、手にロープを持っていた。彼らはこの教師を吊すつもりだっ たが、どことなく貧弱で青ざめた哀れなその姿に心を動かされ、逃がしてや った。アドルフ・マイヤーズが暗闇に逃げていくと、彼らは自分たちの気の弱 さを後悔し、後を追いかけた。悲鳴をあげながら、必死になって暗闇を逃げ るアドルフ・マイヤーズに向かって、彼らは罵声を浴びせ、棒切れや、やわら かい泥の大きなかたまりを投げつけた。

アドルフ・マイヤーズはワインズバーグで、20年間独りで暮らした。彼はまだ40歳だったが、65歳に見えた。ビドルボームという名前は、彼がオハイオ東部の町を急いでいる時、貨物駅の商品の箱にあったものだった。彼にはワインズバーグに叔母さんがいた。歯が黒く、年老いていて、鶏を飼っていた。彼は叔母さんが死ぬまでいっしょに住んだ。ペンシルバニアのあの事件の後、一年間彼は病気だったが、回復すると日雇いとして畑で働いた。おどおどしながらもせっせと働き、努めて手を隠した。彼は何が起きたのか理解できなかったが、手が原因だと感じていた。少年たちの父親は、何度も手のことを口にしていた。酒場の経営者は「手は自分だけのために使いな」と叫び、校庭を怒りにまかせて跳ね回っていた。

ウイング・ビドルボームは、太陽が沈み、畑の向こうの道が薄暗がりにとけ 込むまで、峡谷のそばの自宅のベランダを何度も行ったり来たりした。彼は 家の中に入り、パンをスライスして蜂蜜を塗った。その日に摘んだイチゴを 載せた、急行貨物車両を連ねた夕刻の列車が轟音を立てて通り過ぎ、夏の夜 の静寂が再び戻ると、彼はまたベランダに出て歩き回った。暗闇の中では手 を見ることはできなかった。手はじっとしていた。彼はジョージ・ウィラー ドがいてくれることをまだ望んでいた。ジョージ・ウィラードは仲介者だっ た。彼を通して、ウイング・ビドルボームは人を愛していることを表現して いたが、その望みは再びウイング・ビドルボームの孤独感と待ちわびる気持 ちの中にとけ込んでいった。

ランプに火を灯し、ウイング・ビドルボームは質素な食事で汚れたわずかな皿を洗った。それからポーチに続く網戸のそばに簡易ベッドを作り、衣服を脱いで寝る準備をした。テーブルのそばのきれいに洗われた床の上には白いパンくずが幾つか散らばっていた。低い丸椅子の上にランプを置くと、彼はパンくずを拾い始め、信じがたい速さで、パンくずをひとつ一つ口に持っていった。明かりが濃い陰影を作っているテーブルの下で、跪いた彼の姿は、教会でミサを執り行っている牧師のように見えた。ぱっぱっと光と闇とを交錯するせわしなく動く表現豊かな指は、ロザリオの数珠を10個ずつすばやく動かす信者の指と見紛うほどだった。

〜 終わり 〜






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