「グロテスク」 (THE BOOK OF THE GROTESQUE) 感想

以下はトップページの STUDY ROOM でのやりとりの一部を抜粋したものです。

「グロテスク」を考える時、老いという問題と切り離して考えた方がいいと思いま す。人は老いとともにグロテスクにはならないと思います。自分で考えない人がグロ テスクになるのではないかと思います。年を取った人にその傾向が多く見られるとい うだけです。自ら考え社会が作り上げるイメージ(地位とかお金とか名誉とか世間体と か)にとらわれない人は若者に多いので、若さが大きなポイントになっているのだと思います。

例えば愛というい言葉がありますが、愛のようなものがあって、それを便宜的に愛と いう言葉で表現しているだけで、愛という言葉が愛と表現されたものをきちんと表現 しているわけではないと思います。本来の愛のようなものが、愛という言葉で表現 された途端に、本来の愛のようなものは失われてしまいます。なぜなら、人それぞれ が勝手に愛というものを解釈してしまうからです。それぞれによって解釈された愛と いう概念はいつしか固定され、それが社会が作り上げる固定概念として一人歩きし ます。それらは皆本来の愛のようなものからずれ、ゆがめられているわけです。本 来の愛がゆがめられた姿、それをグロテスクというのではないかと思います。自分 で考えない人は、社会が作り上げた愛のイメージによりかかって愛を考えてしまい ます。これがグロテスクな姿です。

真理についても同じです。情熱の真理、貧富の真理等などは、愛と同じように情熱 とか貧富とか名づけられた途端にそれらはグロテスクになってしまうのです。情熱と いうようなものがあって、それを情熱という言葉で表現すると、本来の情熱とは違う ゆがんだものになってしまうのです。貧富にしてもそうです。情熱や貧富と聞いた 時、人々が思い描くことは、社会が作り上げた固定概念で、それらは本来の情熱や貧富 からずれた、ゆがめられたものです。自分で考えない思考停止の世界の住人は、社 会の既成概念によりかかって考えるので、ゆがめられた真理を真理と考えてしまいま す。こうして人々はグロテスクになってしまうのではないかと思います。

老作家は、それらについて書きましたが、表現しただけで、発表はしませんでした。 愛と名づけはしたが、それを公にせずに、自分の中にとどめおきました。愛という本 来のものを、社会の固定概念にさらさなかったので、愛は愛のままでゆがめられるこ とはなく、そのためにグロテスクにならなかったのではないかと思われます。

「沈黙は金」、「しゃべると大事なものが心から消えてしまう」、「黙って、あなた の声が聞きたいから」、などなど、これまで多くの人が作中の老作家のようにグロテ スクになるまいとしてきました。

ただ、グロテスクでない人は人間社会の中にはほとんどいないのではないかと思いま す。誰もが真理と呼ばれているものの本来の姿を自分流に解釈しています。自分流に解釈は しているのですが、その解釈の仕方は、社会の固定概念にとらわれた解釈の仕方です。先 入観や偏見でものを見ているといってもいいかもしれません。社会が認める価値基準 に沿ってものを判断しているという言い方もできるかもしれません。そのため、本来 の真理は人の手に触れた途端に別のものになり、グロテスクになるわけです。

人が動物と違う点は、現実に存在しない世界を作る能力、つまり想像力を持っていることです。これによって、現実に生き ているにもかかわらず、自分のお気に入りの世界を勝手に作り上げて、その中で生きることを可能にしています。思い出に 浸ったりするのもその一種だと思います。現実をありのままの現実として受け止めないその行為は、グロテスクなものだと 思います。

グロテスクという言葉のイメージは否定的なものですが、そうばかりではないのではないかと思います。例えば、神話で す。現実とはかけ離れたこれらの物語は、現実をゆがめたものですが、そこには現実にないそれを超えた世界を描いていま す。人の持つこれらの能力が、人を人にしているのではないでしょうか。想像力を持った人という存在それ自体がグロテス クなのではないかとも思いますが、それはそれですばらしいことだともいえるのではないでしょうか。

年老いた大工がグロテスクなのは、本来の愛のようなものを社会では愛と表現する ように、戦争の悲惨さなどの悲しみを悲しみとしか理解しないからではないかと思い ます。肉親の死は誰がなんといおうと悲しいのです。世の中のほとんどの人がそうで す。人の死は誰にとっても不幸です。ただ、「千の風」からも分かるように、ひょっ としたら悲しみではないかもしれません。それは誰にも分からないのです。でも、社会は どうしても固定した解釈を必要としますから、悲しく不幸という概念をそこに当ては めます。そして人々はその概念にそって悲しみます。これがグロテスクな姿です。

ひとつの出来事をひとつの感情でしか理解しない時、その出来事はゆがんでしまうの ではないかと思います。南北戦争は彼にとって悲しみをもたらしましたが、それを悲 しみだけで解釈した時、そこで繰り広げられた真実はゆがめられ、嘘になると作者は考 えたのではないでしょうか。

この大工が、あらゆるグロテスクな人たちの中で、理解できる、愛すべき存在に最も 近いとされたのは、自分が感じたことを素直に表現しているからではないでしょうか。 そこには世間の目や社会の評価などは考慮に入っていません。

この世で愛すべき存在でない典型は、人々に気に入られることだけしか考えていないマスコミ人などの類かもしれません。

私自身この問題をはっきり理解しているわけではありません。どう書いても考えてい ることをきちんと伝えられないもどかしさがありますが、ざっと思ったことを書いて みました。分かりにくいとは思いますが。作者自身もどう表現するか自分なりに消化 しきれていないのではないでしょうか。だから最後の部分で納得のいかないもどかし さが残るのだと思います。





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