更新日2009年10月8日

「敬神」(GODLINESS)

本文テキスト

「敬神」 4部の物語

  第一部

ベントレー農場では、いつも3、4人の年寄りが、玄関ポーチに座っているか、果樹園でのんびり仕事をしていた。その中の3人は女性で、ジェシーの姉だった。彼女たちは、ありふれた、穏やかな声の持ち主だった。それから、薄くなった白髪の、無口な男性もいた。ジェシーの伯父だった。

 その農家は、丸太の骨組みに板を覆った、木造だった。実際は、一軒ではなく、 数軒の家を、あまり考えずにつなぎ合わせた、家の寄せ集めだった。家の中は、 意外なことばかりだった。リビングからダイニングへは、ステップを上って行 った。部屋を移動するには、決まってステップを上るか下りるかした。食事時は、 まるでミツバチの巣だった。一瞬間静まり返っていたかと思うと、あちこちのド アが開き、階段にガタガタと足音がして、穏やかなささやき声が聞こえ、あちこ ちの意外な場所から人々が姿を現した。

これまで話した年寄りの他にも、多くの人がベントレーハウスに住んでいた。 雇っている男が4人、家事を担当しているキャリー・ビービ小母さんという女、 ベッドメーキングをしたり、搾乳を手伝ったりしているエリザ・ストートンと いう頭の鈍い少女、馬小屋で働く少年、それから、この農場の所有者であり、 ここでは絶対的な権力を持っているジェシー・ベントリーその人だ。

南北戦争が終わって20年たった頃には、ベントレー農場のある北オハイオのこのあたりは、開拓者生活から抜けだそうとしていた。ジェシーは、この頃には、穀物を収穫する機械を持っていた。彼は近代的な納屋を建て、耕地のほとんどは、入念に敷かれた土管の排水溝で排水していたが、ジェシーという人物を理解するためには、時をさかのぼって話をしなければならないだろう。

ベントレー家は、ジェシーの時代になるまで、何世代にもわたって北オハ イオに住んでいた。一家はニューヨーク州からやってきて、この地方が新 開地で、土地が安く手に入った頃に土地を所有した。長い間、ベントリー 家は、他のすべての中西部の人たちと同じように、とても貧しい暮らしを していた。彼らが移住した土地は、樹木がうっそうと茂り、倒木や低木に おおわれていた。長年にわたって、倒木や低木を取り除き、森林を伐採す るという厳しい労働をしても、まだ取り除かなければならない切り株があ った。畑にすきを入れると、隠れていた木の根に引っかかったし、石はあ ちこちにごろごろしていたし、低地では、水がたまっていた。トウモロコ シは成長しないうちに黄色くなり、病気にかかって枯れた。

ジェシー・ベントレーの父やその弟たちが農場を所有した頃には、開墾のより困難な仕事は、大部分終えていたが、彼らは昔からのやり方にこだわり、追い立てられた動物のように働いた。彼らは、実際、当時の農民のすべてが暮らしていたように暮らした。

春や冬のほとんどは、ワインズバーグの町に通じる主要道路は、泥の海に なった。ベントレー家の若者4人は、畑で一日中懸命に働き、粗悪な、脂 っこい食事をがつがつと食べ、夜はわらのベッドで疲れ切ったけだものの ように眠った。彼らの生活には、粗悪でも、野蛮でもないものは、ほとん どなかった。見たところ、彼ら自身、粗悪で野蛮だった。

土曜日の午後、ベントレー家の若者4人は、3人乗りの馬車に馬を繋ぎ、町に 出かけた。町では、店のストーブを囲んで、他の農夫や店の主人と立ち話を した。彼らはオーバーオールを着ていたが、冬になると泥がまばらについた 厚手のコートを羽織った。ストーブで暖をとる時に延ばした腕は、ひび割れ、 赤くなっていた。

彼らは話すのが苦手だったため、ほとんど、しゃべらないでいた。肉、小 麦粉、砂糖、塩などを買うと、ワインズバーグの酒場に入り、ビールを飲 んだ。酒に酔うと、新地を開拓するという勇敢な労働に抑えられていた、 内に秘めたありのままの激しい欲情が、解き放たれた。彼らは、荒々しい、 動物のような、淡い情熱の虜になった。

帰路、彼らは馬車の座席に立ち、星に向かって叫んだ。時には長々と激しく喧嘩をしたり、大声で歌い出したりした。長男のイーノック・ベントレーが、父親の老トム・ベントレーを、御者ムチの柄で殴ったことがあり、老人は死ぬかと思われた。エノクは何日も納屋の屋根裏の藁の中に隠れ、かっとなってやったことが殺人になったら、いつでも逃げられるようにしていた。彼は母親が運んでくる食べ物で生きていた。母親はイーノックに、傷ついた父親の状態も知らせた。すべてがいい方に向かうと、イーノックは隠れた場所から姿を現し、何もなかったかのように、開拓の仕事に戻った。

南北戦争はベントレー家の運命を大きく変え、末子のジェシーを浮かび上 がらせることになった。ベントリー家のイーノック、エドワード、ハリー、 ウィルが軍に志願し、長く続く戦争が終わる前に、皆戦死した。息子たちが 南部で戦っている間、老トムは農場経営に努めたが、上手くいかなかった。 4人の息子の最後のひとりが戦死すると、老トムはジェシーに帰って来いと手 紙を書いた。

それから、1年ほど前から身体をこわしていた母親が、突然亡くなった。父親 はすっかり元気をなくした。彼は農場を売って、町に引っ越そうと言い出した。 彼は一日中頭を振り、ぶつぶつ呟いていた。畑仕事はほったらかしになり、ト ウモロコシ畑は雑草が高く伸びていた。老トムは作男を雇ったが、頭を使って 働かせることはなかった。朝、男たちが畑に出ると、彼は森にぶらぶら入って行 き、丸太の上に腰をおろした。時には夜家に帰ることを忘れ、娘のひとりが探し に行かなければならない始末だった。

ジェシー・ベントレーが家に戻り、農場経営を始めた時、か細い繊細そうな22 歳の青年だった。彼は学者になるために、18歳の時に家を出て学校に行ったが、 結局、長老派教会の牧師になった。少年時代を通じて、彼は、この地方の言い 方だが、「変な羊」と呼ばれ、他の兄たちとの仲もしっくりいっていなかった。 家族のなかで、母親だけが彼を理解していたが、その母親は今は亡くなっていた。 当時600エーカー以上になっていた農場を経営するために彼が家に戻ると、近くの ワインズバーグの町や周囲の農場の誰もが、彼の4人の屈強な兄たちがしていた仕 事を彼が引き受けるなどという考えを笑った。

実際、笑われる原因は十分にあった。当時の標準では、ジェシーは一人前の 男には全く見えなかった。小柄で、ほっそりしていて、身体は女性のようだ った。若い牧師のしきたりをきっちり守り、長い黒のコートを身に着け、細 い黒の紐ネクタイをしていた。近所の者たちは、久しぶりに彼を見た時は、 面白がっていた。彼が都会で結婚した女性を見た時は、もっと面白がっていた。

実際、ジェシーの妻は直ぐにこの世を去った。恐らくジェシーのせいだろう。 南北戦争後の厳しい時代、北オハイオの農場に虚弱な女性のいる場所はなかっ た。キャサリン・ベントレーは虚弱な女性だった。ジェシーは当時、周囲のす べての人間に対して厳しかったように、彼女にも厳しかった。彼女は隣人の奥 さんの誰もがする仕事をしようとした。ジェシーは彼女がそうすることを止め なかった。彼女は搾乳を手伝い、男たちのベッドメーキングや食事の準備など、 家事もいくつかこなした。1年間、日の出から夜遅くまで、彼女は毎日働いた。 そして、子供を生んだ後、彼女は死んだ。

ジェシー・ベントリーはというと、彼もきゃしゃな体つきをしていたが、簡単 には死なない何かが彼の中にはあった。彼の髪は茶色の巻き毛だった。目は灰 色で、きっとなって見つめる時もあれば、ぼんやりと視線が定まらない時もあ った。身体がほっそりしていただけではなく、背も低かった。口は、感じやす くむきになった子供の口にそっくりだった。ジェシー・ベントリーは狂信者だ った。その時代とその土地が生み出した人間で、そのために自分も苦しみ、他 の人も苦しませた。欲しい者を手に入れたことは一度もなかったし、何が欲し いのかも分かっていなかった。

彼がベントリー農場へ帰って日がたたないうちに、農場の誰もが彼をいくらか恐 がるようになった。彼の妻は、彼の母親が彼に親しみを持っていたように、彼に 親しみを持つべきだったが、同じように恐れていた。ジェシーが帰った2週間後、 老トム・ベントリーは、農場の一切の所有権を彼に譲り、引退して身を引いた。 誰もが引退して身を引いた。ジェシーは若く、経験がなかったが、彼の下にいる 人の心を支配する術を心得ていた。彼は言うことなすことすべてにあまりにも真 剣だったため、彼を理解する者は誰もいなかった。彼は農場のあらゆる人を、か つてないほど働かせたが、そこには労働の喜びはなかった。物事がうまくいけば、 それはジェシーにとってうまくいったのであり、彼の下にいる人にとってでは決 してなかった。

後年、アメリカに出現した大勢の強者と同様、ジェシーも中途半端な強者だっ た。彼は他人を支配することはできたが、自分自身を支配することはできなか った。今までにないやり方で農場を経営することは、彼には簡単なことだった。 学校にいたクリーブランドから家に帰った時、彼は家の人間すべてを遠ざけて、 計画を立て始めた。夜も昼も農場について考え、それが彼を成功に導いた。彼 の回りの農場の者たちは、働き過ぎて、あまりにも疲れ、考えることができな かったが、ジェシーにとっては、農場のことを考え、その経営を成功させるた めに果てしなく計画を立てることは、ひとつの救いだった。それは彼の烈しい 性格に潜む何かを、ある程度満足させた。

家に帰ってからすぐに、ジェシーはそれまでの家を建て増し、西向きの大き な部屋に、納屋の周りが見える窓や、遠くの畑を見渡せる窓をいくつか作っ た。彼は窓の側に座り、考えごとをした。何時間も何日も座って、目の前の 土地を見渡し、人生における自分の新たな立場をじっくりと考えた。彼の中 で烈しく燃えているものは、炎となって燃え上がり、目がきつくなった。彼 はそれまでこの州のどの農場も上げたことのない生産を、自分の農場で上げ たいと思った。そしてそれから、別なこともしたいと思った。彼の中にはえ たいの知れない飢えがあり、そのために視線は定まらず、人前では、いつも、 それまで以上に無口になった。安らぎを得るためには、彼はどんなことでも しただろうが、自分が得られないものは、安らぎだという不安が彼にはあった。

ジェシー・ベントレーは、全身が活気に満ちていた。彼の小さな身体には、 屈強な男たちの血統であるエネルギーがこもっていた。農場で過ごした小さ い頃も、学校で過ごした若い頃も、いつも異常なほど活気に満ちていた。学 校時代には、全身全霊で神や聖書について学び、思索をした。時がたち、人 間についてもっと知るようになると、彼は自分を特別な人間、周囲の者とは 別種の存在だと考えるようになった。彼は自分の人生を、特別に重要なもの にしたと激しく願った。自分の回りの者たちを見回した時、彼らが土くれの ように生きているのを見て、自分が同じようにああいう土くれになるのは耐 えられない気がした。

ジェシー・ベントレーは、自分と自分の運命に夢中になり、彼の若い妻が、 妊娠しておなかが大きくなった後も、丈夫な女のする仕事をし、それが彼 女を死の危険にさらしているということに気づかなかった。だが、彼は妻 に冷たくしようとしたのではなかった。年老い、過酷な労働で腰の曲がっ た父が、農場の権利を彼に譲り、満足して片隅にひっこみ、死を待ってい るような状況でも、彼は肩をすぼめ、年老いた父親のことを頭から消し去 った。

部屋の中で、ジェシー・ベントレーは、受け継いだ土地が見渡せる窓辺に座り、 自分自身のことを考えていた。納屋からは、馬のひづめの音や、牛が絶えず 動く音が聞こえた。畑を見やると、牛の群れが緑の丘に歩く姿が見えた。ジ ェシーのために働く作男、その声が、窓越しに聞こえた。牛乳加工場からは、 知恵の遅れたエリザ・ストートンが動かす撹乳器が、休みなくゴトゴトと音 を立てていた。ジェシーの心は、同じように土地と家畜を所有していた旧約 聖書時代の人々に帰っていった。神が空から降りてきて、これらの人たちに 語りかけたことを思い出し、神が自分にも目をかけ、語りかけて欲しいと思 った。それらの人々を包む深い存在感を、自分の人生の中にもなんとかして 得たいという、ある種興奮した少年のような情熱に、ジェシーはとらわれた。 祈りを欠かさない人間だったので、ジェシーはそのことを声に出して神に話 した。その言葉の響きは、彼の情熱を強め、いっそう高めていった。

「私は新しい人間です。この地を所有することになりました」ジェシーは宣言した。

「神よ、私に目を向けて下さい。私の隣人にも、この地の私の全ての先祖にも、 目を向けて下さい。神よ、かつての あの方 と同様に、私の中にも新たなジェシー を誕生させて下さい。そして、人々を統率し、王となる子孫の父にして下さい」

ジェシーは、大声で話すにつれて興奮し、ぱっと飛び上がり、部屋の中を歩き回った。 空想世界では、彼は古き時代の古き民族の中にいた。彼の前に広がる大地は、圧倒的 な存在感を持っていた。自分の中から出現した、新しい人種のいる、空想の世界だっ た。ジェシーには思えた。かつてのあの古の時代と同じように、自分の時代にも、神 の国がつくられ、選ばれた下僕を通じて語る神の力によって、人々の生活に、新しい 衝撃が生まれるだろう、と。彼は、そのような選ばれた下僕になりたいと願った。

「私がこの地にやってきたのは、神の御技を成し遂げるためなのだ」

彼は小柄な身体 をまっすぐに伸ばし、高らかに宣言した。神が認めた光輪のようなものに包まれてい ると、ジェシーは思った。

ジェシー・ベントリーを理解するのは、現代の人には少しむずかしいだろう。 この50年、われわれの生活には、すさまじい変化が起きた。つまり、革命が 起きたのだ。ところかまわず鳴り響くごう音やガラガラという音をともなっ て、工業化が到来した。海外からわれわれのところにやって来る何百万とい う新たなる声のけたたましい叫び、列車の往来、都市の発展、町をくねって 出入りし農家のそばを通る都市間路面電車の建設、そして今日、自動車の出 現が、中部アメリカの人々の生活やものの考え方にとてつもない変化をもた らした。

今の時代の慌ただしさの中、内容も文章もお粗末かもしれないが、書物は あらゆる家庭にあり、雑誌は何百万部も発行され、新聞はどこにでもある。 今では村の商店のストーブにあたっている農夫は、頭の中を他人の言葉で あふれるほど一杯にしている。新聞や雑誌が、それほど注ぎ込んでいるの だ。かつての野蛮ともいえる多くの無知は、どことなく子供のように美し く純真でもあったのだが、永遠に消えた。ストーブにあたっている農夫は、 都会人の兄弟であり、耳を傾けると、彼が生粋の都会人に劣らないほど、 ペラペラと意味もなくしゃべっているのに気づくだろう。

ジェシー・ベントレーの時代、南北戦争後の中西部全域の農村地帯では、事情 は違った。人々は過酷な肉体労働をし、疲れ切って読書どころではなかった。 彼らには、紙に印刷された言葉に対しての欲望がなかった。畑で働いている時、 あいまいで、中途半端な考えが人々を捉えた。彼らは神を信じ、神の力が自分 たちの生活をコントロールしていると信じた。日曜日には、小さなプロテスタ ントの教会に集まり、神と神の業績に耳を傾けた。教会はその時代の社会と知 的生活の中心だった。神の姿は人々の心の中に、大きな地位を占めていた。

そのような社会状況であり、生まれつき空想に浸りがちな子供で、内に大 きな知的欲求を持っていたため、ジェシー・ベントレーは、誠心誠意、神に 心を向けていた。戦争が兄たちを奪った時には、彼はそこに神の手を見た。 父親が病気になり、農場経営に関心を持たなくなった時にも、それを神のし るしと捉えた。都会で、その知らせを受け取った時、夜、そのことを考え ながら通りを歩き回った。実家に戻り、農場の仕事が軌道に乗っている時 にも、同じように、夜、出かけて、森の中や、小高い丘を歩き、神のこと を考えた。

歩いているうちに、彼の心の中で、神の計画において自分という人間の重要性が 大きくなっていった。彼は強欲になり、自分の農場がたった600エーカーしかない ことに我慢できなかった。牧草地のはずれの柵のすみでひざまずき、彼は静寂の中、 言葉を発した。見上げると、星が自分に向かって輝いているのが見えた。

ジェシーの父が死んで数ヶ月経った、ある夕方、彼の妻のキャサリンが、出産 ですぐにも床に就かなければならない時に、彼は家を出て、長い散歩をした。 ベントレー農場は、ワイン・クリークが流れる小さな谷にあった。ジェシーは、 小川の土手を自分の農場の端まで歩き、隣の農場の畑の中に入っていった。歩 くにつれて、谷は広くなり、また狭くなった。広大無辺な畑や森が、彼の目の 前にあった。月が雲間から姿を現した。低い丘を登ると、彼は座り、思索した。

ジェシーは思った。神の真のしもべとして、自分が歩いてきた見渡す限りの 土地は、すべて自分が所有すべきだったのだ、と。彼は死んだ兄たちを思い、 もっと働いて、今以上の土地を所有しなかったことを非難した。目の前には、 月明かりに照らされた小川が、岩の間を流れていた。彼は、彼のように、家 畜や土地を所有していた太古の人間に想いをはせた。

ジェシー・ベントレーは、恐怖心のような、激しい欲望のような、奇怪な 衝動におそわれた。旧約聖書の中で、神が 別のジェシー(エサイ) の前に 現れ、息子のダビデを、エラ谷でペリシテ人と戦っているサウルとイスラ エルの兵士のもとへ送るように命じたことを思い出した。ジェシーの心の 中に、ワイン・クリークの谷に土地を所有しているオハイオの農家のすべ てが、ペリシテ人であり、神の敵だという確信が生まれた。 「たとえば」ジェシーはひとりささやいた。
「彼らの中から、ガテ出身のペリシテ人、ゴリアテのように、私を打ち負か し、私から財産を奪うような人物が現れるとすると」
空想の中でジェシーは、ダビデが現れる前に、サウルの心に重くのしかかっ たに違いない、ぞっとするような不安を感じた。

ジェシーは突然立ち上がり、夜の中を走り出した。走りながら、彼は神に呼 びかけた。その声は低い丘を越え、遠くまで届いた。
「万軍の主、エホバの神よ」彼は叫んだ。
「今夜、キャサリンの子宮から、息子をお授け下さい。あなた様の恩寵が私 に降りますように。
最後にはペリシテ人の手からこのすべての土地を奪い取り、彼らをあなたに 仕えさせ、あなた様の地上の王国建設に奉仕させようとしている私を助ける、 ダビデという名の息子をお授け下さい。

第二部

 オハイオ州ワインズバーグのデイビッド・ハーディは、ベントレー農場の オーナー、ジェシー・ベントレーの孫息子だった。彼は12歳の時に古いベ ントレー農場に移り住んだ。彼の母、ルイーズ・ベントレーは、ジェシー が神に向かって、息子を授けて下さいと叫びながら畑を駆け抜けたその夜 に生まれた娘で、農場で成人し、銀行家になったワインズバーグの若きジ ョン・ハーディと結婚した。ルイーズと夫の仲はうまくいってなかったが、 彼女に責任があるというのがみんなの一致した意見だった。彼女はきつい 灰色の目をした、黒髪の小柄な女性だった。子供の頃から彼女はよくかん しゃくを起こした。怒っていない時には、しばしば不機嫌で黙りこんでい た。ワインズバーグでは、彼女は酒飲みと噂されていた。銀行家の彼女の 夫は、慎重なやり手の男で、彼女を幸福にしようと一生懸命だった。彼は 儲け始めると、彼女のためにワインズバーグのエルム通りにレンガ造りの 大きな家を購入した。この町で、妻の馬車を御す男の召使いを雇ったのは、 彼が最初だった。

だが、ルイーズを幸福にすることはできなかった。彼女は気がふれたように かんしゃくを起こした。その間、黙り込んでいる時もあれば、口やかましく なり、食ってかかる時もあった。怒りに駆られると、口汚く罵ったり、わめ いたりした。台所から包丁を持ってきて、殺すと夫を脅したこともあった。 一度、わざと家に火をつけたこともあったし、しょっちゅう、何日も自室に 閉じこもって、誰にも会わないことがあった。彼女の生活は、世捨て人と変 わらないため、彼女について、あらゆる種類のうわさ話がみだれとんだ。彼 女は薬をやっているとか、隠せないほど頻繁に酔っぱらいっているので、人 前には出ないのだ、などと噂されていた。

夏の午後、ルイーズは、時々、家から出て馬車に乗り込んだ。御者を追い払 うと、両手で自ら手綱を握り、全速力で通りを駆け抜けた。歩行者が目の前 にいても、彼女はまっすぐ進んだので、轢かれそうになった人々は、何とか して逃げなければならなかった。町の人には、彼女は歩行者を轢きたかった のか、と思えたほどだった。彼女は、角を急に曲がり、馬にムチを入れ、通 りをいくつも走り抜けると、田舎道へと走り去った。

田舎道に来て、建物が見えなくなると、彼女は手綱をゆるめ、馬を普通に 歩かせた。荒れ狂った、見境のない感情は、消えていた。彼女は物思いに 沈み、ぶつぶつと呟いた。時には目に涙を浮かべた。それから、町に戻る と、彼女はふたたび静かな通りを猛烈なスピードで駆け抜けた。彼女の夫 が有力者で、尊敬されていなければ、彼女は町の保安官に何度も逮捕され ていただろう。

デイヴィット・ハーディ少年は、このような女性と同じ家で育ったのだから、 子供時代はあまり楽しいものでなかったことは十分想像できる。彼はその時 は幼かったので、周囲の人たちについて自分の意見は持っていなかったが、 自分の母親であるこの女性については、時にははっきりした意見を持たない わけにはいかなかった。デイヴィッドは、いつもおとなしい、従順な少年だ ったので、ワインズバーグの人たちから、長い間少し頭が鈍いのではないか と思われていた。彼の目は茶色で、子供の頃、何かを見ているとは思えない のに、人や物を長い間じっと見ている癖があった。

母親がひどくいわれるのを耳にしたり、母親が父親をこきおろしているのを 聞くと、デイヴィットは怯えて逃げ、どこかに隠れた。隠れる場所が見つか らず、うろたえることもあったが、木に顔を向け、室内にいる時には壁に向 け、目を閉じて、何も考えないようにした。彼には声に出してひとりごとを いう癖があり、幼少の時から、静かな悲しみにとりつかれていた。

ベントリー農場に祖父を訪ねた時には、デイヴィットはこの上なく満ち足 りた幸福な気持ちになった。町に戻らなくていいならと何度も願ったが、 長く滞在して農場から家に戻ると、彼の記憶に永久に刻まれるようなこと が起きた。

デイヴィットは農場の雇い人のひとりと町に戻った。雇い人は自分の仕事が あり、急いでいたので、ハーディ家のある通りのはずれで彼と別れた。秋の 夕方の暗くなりかけた頃で、空は雲でどんよりしていた。デイヴィットに何 かが起きた。彼は父と母のいる家に入るのが耐えられなかった。衝動的に彼 は走って家から逃げることに決めた。農場の祖父のもとに帰ろうとしたが、 道に迷い、おびえて泣きながら、何時間も田舎道をさまよった。

雨が降り始め、稲妻が空に光った。デイヴィットの妄想はふくらんだ。暗闇の 中に奇妙なものが見え、奇妙な声が聞こえる気がした。今まで誰も足を踏み入 れたことのない恐ろしい空間を自分は歩き、走っているのだと思わずにはいら れなかった。辺りの闇は、どこまでも広がっていた。木々に吹く風の音に、身 をすくませた。彼の歩いていた道を馬車がやって来ると、彼はおびえて柵に上 った。

デイヴィットは畑を駆け抜け、別の道に出ると、ひざまずいて指で柔らかい土 の感触を確かめた。祖父の姿がなければ、この世界は完全にからっぽだと思っ た。その祖父に会っても、この暗闇では気づかないのではないかと不安になっ た。町から家に歩いて帰っていた農夫が、デイビッドの泣き声を聞いたので、 彼は家に帰ることができた。極度の疲労と興奮で、彼は自分に何が起きたのか 理解できなかった。

デイヴィットの父は、デイヴィットが行方不明になったのを偶然知った。彼は 通りでベントレー農場の雇い人に会い、息子が町に戻ったことを知った。デイ ヴィットが家に帰らないので、警戒態勢がしかれた。ジョン・ハーディは、町 の男を何人も連れて町の外に探しに出かけた。デイヴィットが誘拐されたとい う知らせは、ワインズバーグ中に広まった。デイヴィットが戻った時、家には 明かりは灯っていなかったが、母が出てきて、両腕で彼をひしと抱きしめた。 母は突然別人になったのではないかとデイヴィットは思った。

デイヴィットは、こんなに嬉しいことが起きようとは、思ってもみなかっ た。ルイーズ・ハーディは、自分の手で疲れている幼いデイヴィットを風 呂に入れ、食べ物の用意をした。彼女は彼を寝かせず、彼が寝間着に着替 えても、明かりを吹き消し、彼を腕に抱いて椅子に座った。彼女は1時間、 暗闇の中に座って彼を抱き、低い声でずっと話し続けた。デイヴィッドは 何が母をこんなに変えたのか、理解できなかった。母のいつもの不満そう な顔が、見たこともないほど、やすらかで、美しいものに思えた。

デイヴィッドが泣き始めると、彼女は彼をいっそう強く抱きしめた。彼女は 話し続けた。その声は夫に話す時のように、とげとげしくもなければ甲高く もなく、雨が木々に降り注ぐかのようだった。やがて男たちが戸口にやって 来て、デイヴィッドが見つからないと伝えたが、彼女は彼を隠し、黙らせた ておいて、男たちを追い払った。母と町の男たちが、自分とゲームをしてい るのにちがいないとデイヴィッドは思い、おもしろがって笑った。

デイヴィッドは、道に迷い、暗闇で脅えたことなど、全く取るに足りないと 思った。長く暗い道の果てに、母が突然変わってしまったような優しい存在 が見つかるのなら、何千回でも喜んで怖い目に合おうとデイヴィッドは思っ た。

少年時代が終わる頃の数年間、デイヴィッドは母に接することはあったが、 それほど頻繁にではなかった。彼にとって母は、いっしょに住んでいた女性 になっていた。だが、デイヴィッドは、母の姿を記憶から消すことはできな かったし、年をとるにつれて、その姿ははっきりしていった。12歳の時、彼 はベントレー農場に移り住んだ。老ジェシーは町に出かけ、デイヴィッドの 面倒は自分がみると強く主張した。老ジェシーは興奮し、自分の思い通りに しようと決心していた。彼はワインズバーグ貯蓄銀行の事務室で、ジョン・ハ ーディと話をした。それから2人は、ルイーズと話をするためにエルム通りの家 に向かった。

老ジェシーとジョン・ハーディは、ルイーズが騒ぎ立てると思ったが、 そうはならなかった。彼女はとても静かだった。ジェシーが用件を説 明し、デイヴィッドを屋外に連れ出し、昔ながらの農場の静かな雰囲 気の中で過ごすことの利点を長々と説明すると、彼女は頷いて同意し た。

「私がいるために雰囲気が乱れるってこともないでしょうし」と彼女 はとげのある言い方した。彼女の肩は震え、今にもかんしゃくを起こ しそうだった。

「あそこは男の子の場所よね。一度だって私のいる場所ではなかった けど」

彼女は続けた。

「お父さんは今まで、私にいてもらいたいと思ったことはないでしょう。 もちろん、あの家の雰囲気は私には合わなかったし。まるで血の中の毒の ようでした。でも、あの子の場合は違うでしょう」

ルイーズは、くるりと背を向けて部屋から出て行った。後に残された男二人 は、ぎこちない沈黙の中に座っていた。彼女にはよくあることなのだが、そ の後何日も部屋に閉じこもっていた。デイヴィッドの衣類を荷作りする時に も、出発するという時にも、彼女は姿を見せなかった。息子を失ったことで、 彼女の生活に、はっきりとした変化が現れ、夫と口げんかをする気もなくな った様子だった。ジョン・ハーディは、すべてが本当に良い結果になったと 思った。

そういういきさつがあって、年少のデイヴィッドは、ベントレー農場で ジェシーと暮らすようになった。老ジェシーの姉妹の中で、二人が生き ていて、農場に住んでいた。二人はジェシーを恐れていたので、彼がい る時には、めったに口をきかなかった。そのひとりの女性は、若い頃、 燃え立つような赤毛で評判だったが、根っからの母親であり、デイヴィ ッドの世話係になった。毎夜、彼が寝る時、彼女は彼の部屋に行き、彼 が寝入るまで床に座っていた。彼がうとうとすると、彼女は大胆になり、 何かささやいたのだが、彼は後で、そのことは夢だと思っていた。

彼女はやわらかい声で、デイヴィッドを愛情のこもった名で呼んだ。彼は 母が自分のところに来て、しかもその母は人が変わっていて、常に自分が 家から逃げた時の母になっている夢をみた。彼も大胆になり、手を伸ばし て床にひざまずいている婦人の顔を撫でたので、彼女はうっとりとした幸 福感に浸った。少年が来てから、この古い家の誰もが幸福になった。家人 を黙らせ臆病にさせていたジェシー・ベントリーの過酷で強制的な性格は、 娘のルイーズがいても消えることはなかったが、少年が来ることで一掃さ れた。あたかも神が静まり、息子をジェシーに授けたかのようだった。

ワインクリーク谷全域で唯一我こそが神の真の僕(しもべ)だと宣言し、 キャサリンの子宮から息子を授けることで、神に同意のしるしを送って欲 しいと思っていた男は、自分の祈りは遂に聞き届けられたのだと思い始め た。当時、彼はわずか55歳だったが、70歳に見えた。しじゅう頭を使い計 画をを立ててきたので、精根尽き果てていた。所有地を広げる努力は実を 結び、この谷で彼の地所ではない農場はほとんどなかったが、デイヴィッ ドが来るまで、彼は恐ろしいほど失意の人だった。

ジェシー・ベントレーの内部には、二つの勢力が働いていた。彼の頭の中は 生涯を通じて、これらの勢力の戦場だった。その勢力のひとつは、彼の中 にある古さだった。彼は神の僕(しもべ)となり、その中でも指導者にな りたいと思っていた。夜中に畑をを歩き、森を抜けることで、彼は自然に 近づいた気持になった。そこには、自然の力に向かって走り出す熱狂的な 宗教心を持った男に潜む力があった。キャサリンが、息子ではなく娘を生 んだ時の失望は、目に見えない手で打ちおろされた打撃のように彼を打ち のめしたが、その打撃によって、彼の尊大さはいくらか和らいだ。

神は今すぐにも風や雲の中から姿をお現しになるかもしれないと、ジェ シー・ベントレーはまだ信じていたが、もはやそのようなことは要求し なかった。その代わりに、そうなるよう祈った。時に彼は不信感に完全 に陥り、神は世界を見放したと思った。空にかかる異様な雲の手招きで、 自分たちの土地や家を捨て、新たな種族を創造するために荒れ地に乗り 出して行った素朴で甘美な時代に生きることができなかった運命を、彼 は悔やんだ。農場の生産性を高め、農地を広げようと夜も昼も働き続け る一方、休むことを知らない自分の精力を、神殿の建設、不信心者の殺 害、地上に神の名を讃える通常の仕事に使えないことを悔やんだ。

これこそジェシーが切望していたことだった。だが、彼が切望していたこ とは他にもあった。彼は南北戦争後のアメリカで成長したのだが、この時 代に育ったすべての人と同じように、近代工業主義が生まれようとしてい たこの時代の、この国を動かしていたさまざまな影響を強く受けていた。 彼はより少ない人手で農場の仕事ができる機械を購入し始めた。彼は時々、 自分がもっと若ければ、農業経営をきっぱりとやめ、ワインズバーグで機 械工場を始めたいと思った。

ジェシーは新聞や雑誌を読む習慣を身につけた。ワイヤーからフェンスを 作る機械を発明した。彼は、おぼろげながらも、自分の中で常に培ってき た古き時代や場所の趣(おもむき)は、他の人の中で育っているものに対 しては奇妙であり、異質であると気づいた。愛国心なしで戦争するように なり、道徳基準に注意を払うだけで神が忘れられ、権力の意志が奉仕への 意志になり、美は所有に向かう人類のすさまじい猛進の中でほとんど忘れ 去られようとしている。神の僕(しもべ)であるジェシーにも、彼の回り の人間にも、史上最大の物質主義の始まりは、自明のことだった。

ジェシーの中の貪欲さが、土地を耕して得るよりも早くお金を稼ぐことを 求めた。ワインズバーグの町に行って、娘婿のジョン・ハーディとそのこ とについて話をしたのは、一度ではなかった。
「お前は銀行家だから、俺にはなかったチャンスがめぐってくるだろう」
ジェシーは言った。その目は輝いていた。
「俺はそのことをいつも考えてるんだ。大きなことが地方でもやれそうだし、 夢にも思わなかったほどのお金が稼げるんじゃないか。お前はそれをつかめ るんだ。俺ももっと若くて、お前と同じようにチャンスがあったらと思うよ」
ジェシー・ベントレーは、銀行のオフィスの中を歩き回り、話すにつれてま すます興奮していった。

彼は一時期中風にかかったことがあったので、左半身が幾分不自由だった。 話す時には、左のまぶたがぴくぴくと引きつった。銀行から馬車で家に戻 り、夜になって星が出ても、頭上の空にいて、今にも手をさしのべて彼の 肩に触れ、彼に英雄的な任務を授けてくれるかもしれない身近で人間的な 神を、かつてのように感じることがだんだんとむずかしくなっていた。

ジェシーの心は新聞や雑誌で読んだことに釘付けになっていた。売ったり 買ったりする抜け目のない男たちが、ほとんど何の苦労もせずに稼いだ富 のことだ。ジェシーにとって、少年デイヴィッドが来てくれたことは、新 たな力でかつての信仰を甦らせることに大きな助けとなった。神はついに 好意を持って自分を見てくれたのだと彼には思えた。

農場でのデイヴィッドはというと、彼の前に生活が、新しく愉快な無数の 様相で姿を現し始めていた。周囲のあらゆる人の親切な態度のおかげで、 彼のおとなしい性格は広がっていった。人に対していつも、やや臆病で、 おずおずしていたが、それがなくなった。夜、馬小屋や畑での長い冒険の 1日の後、あるいは祖父といっしょに農場から農場に馬車で出かけた後、 寝床に入る時、彼は農場の誰も彼もを抱きしめたいと思った。

毎夜、ベッドの傍らで寄り添ってくれる女性、シャーレー・ベントレーが すぐにやって来ないと、デイヴィッドは階段の上に行き、大声で叫んだ。 彼の若々しい声は、細長い廊下じゅうに鳴り響いた。そこはずいぶん長く 静寂に包まれているのが当たり前の場所だった。朝、目覚め、まだベッド に寝ている時に窓から聞こえる音は、彼を喜びで充たした。彼はワインズ バーグの家での生活や、いつもびくびくしていた母の怒った声を、身震い しながら考えた。この田舎では、すべての音が楽しい音だった。

明け方、デイヴィッドが目を覚ますと、家の裏手の納屋周辺も目を覚まし ていた。家では人々が動き回っていた。知恵の遅れたエリザ・ストートン は、作男に脇腹を突かれて、騒々しくあえぎながら笑っていた。遠くの方 では牝牛が大声で鳴き、厩舎の牛がそれに答えて鳴いていた。作男のひと りは、厩舎の入り口で、馬の手入れをしながら馬を叱りつけていた。デイ ヴィッドは、ベッドから飛び出して窓に走った。動き回っている人たちの すべてが彼の心を興奮させた。町の家ではお母さんは何をしているだろう かと彼は思った。

デイヴィッドの部屋の窓からは、作男たちがみんな集まって朝の雑用をし ている納屋周辺を直接見ることはできなかったが、男たちの声や馬のいな なきは聞くことができた。作男のひとりが笑うと、デイヴィッドも笑った。 開けた窓から身を乗り出して、デイヴィッドは果樹園を覗き込んだ。肥え た牝豚が、小さな子豚をぞろぞろ連れて歩き回っていた。毎朝彼は豚の数 を数えた。
「4匹、5匹、6匹、7匹」彼はゆっくりと数え、指をぬらし、窓の出っ張り に縦にまっすぐ印しをつけた。

デイヴィッドは走り出してズボンとシャツを身につけた。外に出たいという 興奮を抑えることができなかった。彼は毎朝、騒々しい音を立てながら階段 を下りたので、家事をしているカーリーおばさんは、家をぶっ壊すつもり、 と言ったりした。ドアをバタンバタンと後ろ手で閉めながら、長細く古くさ い家を走り抜けると、納屋の前に行き、何が起きるのかわくわくしながら辺 りを見回した。

このような場所では、夜の間にすごいことが起きているかもしれないと デイヴィッドには思えたのだ。作男たちは彼を見て笑った。ジェシーの ものになってから農場にずっといる、ジェシーが来る前は冗談を言った こともなかったような年老いたヘンリー・ストレイダーは、毎朝同じ冗 談を言った。デイヴィッドは面白くて手をたたいて笑った。

「ほおら、来て見なされ」爺さんは大声で呼んだ。
「ジェシーおじいさんの白い雌馬が、足に履いている黒いストッキング にぺこぺこしていますぞ」

ジェシー・ベントレーは、時々デイヴィッドを見ては嬉しそうにほほえん だ。かと思うと、長い間、少年の存在を忘れたかのように見えることもあ った。彼の心は、日々ますます、都会から戻った最初の頃、この地に根を おろした時に心を充たしていた夢に立ち戻っていった。ある午後、彼はす っかりその夢にとらわれてしまい、デイヴィッドをびっくりさせた。少年 を立会人にして、儀式を執りおこない、育っていた二人の間の親密な関係 をあやうく壊しそうな事故を引き起こしたのだ。

ジェシーと彼の孫は、牧場から数マイル離れた谷間のはずれを馬車で走って いた。森が道まで迫り、ワイン・クリークは、森を抜けて数々の岩をくねっ て遠くの川へと流れていた。ジェシーは午後の間ずっと瞑想的な気分にひた っていたが、この時話し始めた。彼の心は、自分の財産を奪い、略奪するた めに巨人がやってくるという考えに脅えたあの夜へと戻っていき、息子を授 けてくださいと叫びながら畑を走り抜けた夜と同じように、彼は狂気に近い 興奮状態になっていた。

ジェシーは馬を止めて馬車から降り、デイヴィッドにも降りるように言った。 二人はフェンスを越え、小川の土手沿いに歩いた。少年は祖父がぼそぼそ言 うのを気にとめなかったが、並んで走りながら走り、これから何が起きるの かと思いを巡らした。

ウサギが飛び出して、森の中を逃げて行くと、デイヴィッドは手をたたき、 飛び上がって喜んだ。高い木を見て、自分がびくびくすることなく空高く よじ登る動物でないことを残念がった。彼は屈んで小石を拾い、祖父の頭 越し、低木の茂みに投げた。

「動物さん、目を覚ますんだ。木のてっぺんに登っておいで」

彼は甲高い声で叫んだ。

ジェシー・ベントレーは、木の下を進んで行った。頭は下げ、気持は高ぶっ ていた。その真剣さは少年にも伝わった。デイヴィッドは黙り込み、いくら か恐怖心を抱いた。老人の心の中に、今こそ神が言葉をかけてくれるだろう、 あるいは、空から何かの兆しを示してくれるだろう、森の中の寂しい場所に ひざまずいた少年と自分の姿は、ジェシーが長く待ち望んでいた奇蹟をもた らすに違いない、という考えが浮かんだ。

「父がやって来てサウルのもとに行けと命じた時、あっちのデイヴィッ ド(ダビデ)が羊の番をしていたのも、丁度このような場所だった」

ジェシーはぶつぶつ呟いた。

彼はデイヴィッドの肩を多少荒々しくつかみ、倒木を乗り越えた。木々に 囲まれた開けた場所にやって来ると、彼はひざまずいて大きな声で祈りは じめた。

デイヴィッドは、今まで感じたこともなかったような恐怖にとらわれた。 彼は木の下にしゃがみ、地面にひざまずいている目の前の祖父をじっと 見た。膝ががくがく震え始めた。目の前にいるのは祖父だけではない、自 分を傷つけるかもしれない誰か、思いやりのない、危険で残忍な誰か、そ んな別の誰かがいるような気がした。デイヴィッドは泣き出し、手を伸ば して木切れを拾い、指でしっかりと握った。

自分だけの考えに夢中になっていたジェシー・ベントレーが、突然立ち上 がり、歩み寄ると、デイヴィッドは恐怖にとらわれ、全身を震わせた。森 の中では、息づまるような静寂がすべてをおおっているようだっ た。その静寂のなかを、突然、年老いた男の耳障りなねちねちした声が響 いた。ジェシーは、デイヴィッドの両肩をつかむと、顔を空に向けて、叫 んだ。

ジェシーの顔の左半分はピクピク引きつっていた。少年の肩にかけていた 手もピクピク引きつっていた。

「神よ、私にお示し下さい」彼は叫んだ。
「私はここに、少年であるデイヴィッドと立っています。空から私のもとに 降りてきてください。私にお姿をお見せください」

デイヴィッドは、恐怖のあまり叫びながらふり返り、つかまれていた両手を ふりほどくと、森の中を逃げた。

デイヴィッドには、空に顔を向け、耳障りな声で叫んでいた男が、祖父だ とは思えなかった。その男には、祖父らしいところはなかった。何か奇妙 で恐ろしいことが起こったのだ。信じられないようなことが起き、別の危 険な人物が親切な老人の身体に乗り移ったのだ。デイヴィッドにはそうと しか思えなかった。

デイヴィッドは、丘の斜面を下り、すすり泣きながら、どこまでも走って いった。木の根につまずき、倒れて頭を打ったが、起きあがってまた走り 続けた。頭が痛み、彼は倒れ、動けなくなった。ジェシーに抱かれてバギ ーまで運ばれ、気がつくと、老人が自分の頭をやさしくなでていた。よう やく恐怖が去った。

「ぼくをつれて逃げて。森の中には恐ろしい男がいるんだ」

ジェシーは木々のてっぺんに視線をやり、神に向かって唇で再び叫んだが、 デイヴィッドは、しっかりしたとした口調でそう言った。

「わたしの願いを受け入れてくれないとは、わたしが何をしたというのです」

ジェシーはそっとささやいた。血の流れている少年の頭や傷口を肩でやさし く抱きながら、ジェシーは何度もその言葉を繰り返し、馬車を急がせた。

第三部

「身をまかす」

 ジョン・ハーディと結婚し、ワインズバーグのエルム通りにあるレンガ造り の家に夫と暮らしているルイーズ・ベントレーの物語は、誤解の物語だ。

ルイーズのような女性が理解され、普通に暮らせるようになるには、多くの ことがなされなければならないだろう。思いやりのある本が書かれ、人々が 彼女たちのような人間に対して、思いやりのある暮らしをしなければならな いからだ。

ルイーズは、身体が弱いが働き過ぎる母と、衝動的で過酷で空想家の父の 間に生まれた。父は女の子が生まれたことを好ましく思っていなかった。 彼女は子供の時から神経症を患い、傷つきやすいという女性に特有のひと りだった。後年、工業化はそのような女性を、大量にこの世に生み出すこ とになる。

彼女は、幼い頃はベントレー農場で暮らした。無口で気まぐれな、何より も愛情を求める子供だったが、それを得ることはできなかった。15歳にな ると彼女はワインズバーグの町に出て、アルバート・ハーディ一家の元で 暮らすようになった。アルバート・ハーディは、軽装馬車と荷車を扱う店 を経営し、町の教育委員会の委員だった。

ルイーズはワインズバーグ・ハイスクールに通うために町に出たわけだが、 ハーディ家で暮らすようになったのは、アルバート・ハーディと彼女の父 親が友人だったからだ。

馬車や荷車を商っていたハーディは、この時代の多くの男がそうであるよ うに、教育問題に熱心だった。彼は書物から学ぶことなしに、人生を切り ひらいてきた男だったが、自分に学問さえあれば、物事はもっとうまくい っていただろうと思っていた。彼は店に来るあらゆる者をつかまえては、 そんなことを話した。自分の家でも、同じことを絶えずくどくどと話した ので、家族の者は気が変になりそうだった。

アルバート・ハーディには、娘が二人と、ジョン・ハーディという息子が 一人いた。二人の娘は一度ならず、学校をやめてやるとおどかし、原則と して、学校では罰を受けない程度にしか勉強しないことにしていた。

「本なんか大嫌いだし本が好きな人間も大嫌い」

妹の方のハリエットは、怒りを込めてそう言った。

ルイーズは、ワインズバーグの町に出てからも、農場にいた時と同じように 幸福な気持にはなれなかった。彼女は何年も前から、世の中に出た時のこと を夢みていたし、ハーディ家に移り住むことは、自由に向かっての大きな前 進だと期待していた。このことを考えるたびに、町ではすべてが華やかで活 気に充ち、男も女も幸福で自由に生き、頬に風を受けるように友情や愛情を 与えたり与えられたりしているものと思っていた。

ルイーズは、ベントリー家で楽しみのないひっそりとした生活を送ってい ただけに、人生と現実にわくわくする、温かい雰囲気の中に入ることを夢 みていた。実際、町に来た時に間違いを犯さなければ、彼女はあこがれ求 めていたものをハーディ家で多少は得られたかもしれなかった。

ルイーズは学校の勉強の対応で、ハーディ家の二人の娘、メアリーとハリ エットの不興を買ってしまった。彼女がハーディ家にやって来たのは学校 が始まるその日だったため、彼女たちが学校の勉強をどう思っているか何 も知らなかった。ルイーズは内気だったので、最初の1ヶ月、知り合いがで きなかった。

毎週金曜日の午後、農場から作男のひとりがワインズバーグに馬車でやっ てきて、週末のためにルイーズを家に連れて帰った。そのため、彼女は土 曜日の休日を町の人々といっしょに過ごすことがなかった。ルイーズは町 の生活に慣れていなかったし孤独だったので、絶えず勉強をしていた。そ れがメアリーとハリエットには、ルイーズが良い成績をとって自分たちを 困らせようとしているように思えた。

ルイーズは自分のことを良く思ってもらいたい一心で、先生がクラスのみん なに出す質問のすべてに答えようとした。彼女はサッと立って、サッと席に 着いた。その目はキラキラ輝いていた。クラスの誰も答えられない質問に答 えた時には、嬉しそうにほほえんだ。

「どう、みんなのために私が答えてあげたのよ」

彼女の目はそう言っているようだった。

「あなた達はこんなことに煩わされることはないのよ。私がすべての質問に 答えてあげる。私がここにいるかぎり、クラスの誰もが気楽になれるのよ」

夕方、ハーディ家では夕食の後にアルバート・ハーディがルイーズを褒め だした。先生のひとりが、ルーズのことを絶賛したので、彼は嬉しかった のだ。

「うん、また褒められたよ」彼はそう言い、自分の娘たちをキッとにらん だ後、ルイーズの方を笑顔で振り向いた。

「別の先生もルイーズは成績が良いと言っていたね。ワインズバーグの誰 もが彼女はなんて頭が良いんだろうと言ってるよ。誰も私の娘にはそんな こと言ってくれないので恥ずかしい気はするがね」

彼は立ち上がって、室内を歩き回り、夕方に吸うことにしている葉巻に火 をつけた。

二人の娘は顔を見合わせ、うんざりしたように頭を振った。彼女たちが関 心を示さないので、父親のアルバート・ハーディは、腹を立てた。

「いいか、お前たち二人も考えてみろ」彼は二人をにらみつけながら怒鳴 った。

「このアメリカにだな、大きな変化がやって来ようとしているんだ。次の 世代の唯一の希望は学問にあるんだ。ルイーズは金持ちの娘だが、勉強す ることを恥ずかしがっちゃいない。彼女がしていることをみれば、お前た ちが恥ずかしいと思わなけりゃいけないんぞ」

アルバート・ハーディはドアの側の帽子架けから帽子を取り、夕方の外出 の支度をした。彼はドアのところで立ち止まると、ふり返ってにらみつけ た。その態度がとても険しかったので、ルイーズは怖くなり、二階の自分 の部屋に逃げていった。ハーディの娘たちは、自分たちだけのおしゃべり を始めた。

「こら、ちゃんと聞いているのか」ハーディは怒鳴った。

「お前たちは怠けている。知識に無関心だから、性格まで悪くなるんだ。 そんなことじゃろくなものになれないぞ。いいか、父さんのいうことをき ちんと聞くんだ。そのうちルイーズはお前たちが追いつけないほどはるか 先にいってしまうぞ」

アルバート・ハーディは取り乱したまま家を出て、怒りに震えながら通り を進んだ。彼はぶつぶつと悪態をつきながら歩いたが、メインストリート にさしかかると腹立たしさは消えていた。彼は立ち止って、商人や町にや ってきた農夫と天候や収穫のことを話し、娘たちのことはすっかり忘れて しまった。たとえ思い出したとしても、肩をすぼめただけだっただろう。

「ま、そうだな、しょせん女の子なのだから」彼はあきらめたようそうに つぶやいた。

ハーディ家では、ルイーズが二人の娘のいる部屋に下りて行ったが、彼女 たちは彼女を相手にしようともしなかった。ある晩、ここに来てから6週 間以上たつのに、彼女に接する態度が相変わらず冷たいままなので、たま らない気持にいなっていた彼女は、ワッと泣き出した。

「うるさいから泣くのはやめて。自分の部屋に戻って勉強すれば」メアリ ー・ハーディはきっぱりとそう言った。

ルイーズが使っていた部屋はハーディ家の二階にあり、窓からは果樹園が 見渡せた。部屋には暖炉があり、ジョン・ハーディ青年は毎晩、薪を一抱 え持って上がり、壁ぎわの箱に入れた。この家に来て2か月が過ぎようとし ていた頃、ルイーズはハーディ家の娘たちと仲良くなることをきっぱりと あきらめ、夕食がすむとすぐに自分の部屋に戻った。

ルイーズはジョン・ハーディと仲良くなろうと考え始めた。彼が薪を抱え て部屋に入ってくると、勉強に没頭しているふりをしながらも、彼をしき りと見た。彼が箱に薪を入れ、向こうを向いて出て行こうとすると、彼女 はうなだれて顔を赤らめた。何か話そうとしたが、何も言えなかった。彼 が出て行くと、自分の愚かさに腹が立った。

田舎育ちの女の子の心は、この青年に近づこうという考えでいっぱいにな った。彼の中には自分が人の中にずっと探していた性質があるかもしれな い、と彼女は思った。彼女には、彼女と世の中のあらゆる人との間に壁が あるように思えた。そして自分は、温かな内面世界のはしっこで生きてい ると思った。その世界は、他の人にも開かれているし、理解できるはずな のだ

ルイーズは、自分が勇気を持って行動しさえすれば、他の人との付き合い もすっかり違ったものになるし、そのような行動で、人がドアを開けて部 屋に入るように、新しい生活をスタートさせることができるのだという考 えに取りつかれていた。

ルイーズは、昼も夜もこのことを考えた。だが、彼女が一心に求めてい たものは、色ごとに近いようなものだったが、まだ性を意識したもので はなかった。そのように明確な形になっていたわけではなく、彼女の心 がジョン・ハーディという人物に向いただけだった。なぜなら彼は身近 な存在だったし、彼の姉たちと違って、彼女に冷たくはなかったからだ。

ハーディ姉妹のメアリーやハリエットは、二人ともルイーズより年上だった。 世間的なある種の知識にかけては、はるかに年上だった。彼女たちは、中西 部のすべての若い女性たちと同じように生きていた。その頃の若い女性たち は、町を出て東部の大学に行くことはなかったし、社会階級という考えも、 ほとんど芽生えていなかった。労働者の娘は、農夫や商人の娘と同じ社会的 地位にいたし、有閑階級というものはなかった。

女性の評価は「いい女」か「そうでない女」か、だった。いい女だと、日 曜と水曜の夜に家に会いにくる青年がいた。時には、その青年とダンスに 行ったり、教会の集まりに行った。彼女が彼を自宅に招き、そのために居 間が使われるということもあった。誰も彼女に干渉しなかった。二人は何 時間も、ドアを閉め切って過ごした。時には明かりを暗くし、若い男と若 い女は抱き合った。頬が火照り、髪が乱れた。1年か2年たっても、二人の 間に衝動が消えず強まっていくようだったら、二人は結婚した。

ワインズバーグに来て初めての冬の夜のことだった。ルイーズは危険な賭 けに出たが、それは彼女とジョン・ハーディとの間に立ちはだかっている と思っていた壁を壊したいという衝動を、新たにすることになった。水曜 日のことだ。夕食のすぐ後、アルバート・ハーディは帽子をかぶって外出 した。ジョン青年は、ルイーズの部屋に薪を運び、箱の中に入れた。

「熱心に勉強してるんだね」

彼はぎこちなくそう言いうと、彼女が返事をする間もなく、出て行った。 ルイーズはジョンが家を出る物音を聞くと、後を追って行きたい衝動に駆 られた。彼女は窓を開け、身を乗り出し、そっと呼んだ。

「ジョン、お願いジョン、戻ってきて。行かないで」

星のない夜だった。闇が広がり、何も見えなかった。しばらくすると、かす かな音、果樹園の木々の間をつま先立ちで歩く、誰かのそんな音が聞こえた ような気がした。彼女は脅え、窓をすばやく閉めた。1時間の間、彼女は気を 高ぶらせ、ふるえながら部屋の中を行ったり来たりした。待つことにもう耐 えられなくなると、ゆっくりと廊下に出て、階段を降り、居間に通じる押入 れのような部屋に入って行った。

ルイーズは、何週間も思い描いていた勇気ある行動を実行しようと決めた。 彼女はジョン・ハーディが窓の下の果樹園に潜んでいると確信していた。 彼女は決心した。彼を見つけ、言おう、と。そばに寄ってその腕で私を抱 きしめて欲しいと、私にさまざまな思いや夢を語って欲しいと、私が語る さまざまな思いや夢を聞いて欲しい、と。

「暗闇の中だと、言いやすいわ」彼女は狭い部屋の中で、手探りでドアを 探しながら、ひとりささやいた。

その時、ルイーズは、はっと気づいた。家の中に他にも誰かがいる、と。 ドアの向こうの居間に、男の穏やかな声がすると、ドアが開いた。ルイー ズが、階段の下の小さな隙間に身を隠すと、すぐにメアリー・ハーディが 青年を連れて、狭い真っ暗な部屋に入ってきた。

暗闇の中で1時間、ルイーズは床の上に座って耳をすませた。メアリー・ハ ーディは、何も言わなかったが、彼女と夜を過ごすためにやってきた男を通 して、この田舎娘に、男と女の知識をもたらした。ルイーズは頭を下げ、小 さなボールのように身体をまるめ、身動きひとつしなかった。ルイーズは、 神々の不思議な衝動によって、すばらしい贈り物がメアリーにもたらされた と思った。年上のこの女が、かたくなに拒んでいるのが理解できなかった。

青年はメアリー・ハーディを腕に抱き、キスをした。彼女は抗い笑ったが、 彼はもっと強く抱き締めるだけだった。彼らは1時間、そうやって過ごし、 それから居間に戻って行った。ルイーズはその場から逃れ、2階に上がった。

「あそこで、うるさかったわね。勉強してる小ネズミの邪魔しちゃだめよ」

すぐ上の廊下、自室のドアのそばに立っていたルイーズは、ハリエットがメ アリーに言ういうのを聞いた。

ルイーズはジョン・ハーディに手紙を書いた。その夜遅く、家の者が皆 寝静まると、彼女は階下にそっと下り、彼の部屋のドアの下に手紙を忍 び込ませた。すぐにしなければ、くじけてしまうと思った。手紙には、 自分が何を望んでいるのか、はっきり書こうとした。

「私は誰かに愛されたいし、誰かを愛したと思っています」

彼女はそう書いた。

「あなたがその誰かなら、夜、果樹園に来て、私の部屋の窓の下で音を 立ててください。小屋の屋根を這い伝って、あなたの所に下りて行くこ とは簡単です。私はいつもそのことばかり考えています。来るつもりが あるのなら、すぐに来てください」

ルイーズは、自分で恋人を得ようという大胆な行動がどういう結果をもた らすか、早くから分かっていたわけではなかった。ある意味、彼女はジョ ン・ハーディに来てもらいたいかどうかも分かっていなかった。時に、し っかり抱かれキスをされることは、性の神秘のすべてであるような気がし た。すると、別の衝動に襲われ、彼女はこの上なく不安になった。所有さ れたいという女性の昔ながらの欲望が彼女をとらえたが、性に対する彼女 の考えは、非常にあいまいだったので、ジョン・ハーディの手が彼女の手に触れ るだけで満足な気がした。彼がこのことを理解してくれるかだろうかと、 彼女は不安に思った。

翌日の食卓では、アルバート・ハーディがしゃべり、二人の娘がささやい たり笑ったりしていたが、ルイーズはジョンを見ないで、食卓ばかりを見 ていた。彼女はできるだけ早くその場を去った。夕方、ジョンが薪を部屋 に運び、出て行ったと確信するまでは家の外にいた。幾晩もじっと耳をす ませたが、果樹園の暗がりからは呼び声が聞こえないので、彼女は悲しみ に打ちひしがれ、人生の喜びから彼女を閉め出していた壁を打ち破る方法 は、自分にはないのだと思いこんでしまった。

それから、ルイーズが手紙を書いて2、3週間が過ぎたある月曜の夕方、ジ ョン・ハーディは彼女を求めてやって来た。ルイーズは、彼がやって来る ことをすっかりあきらめていたので、果樹園から呼ぶ声が、しばらくは聞 こえなかった。先日金曜の夕方、週末に農場に帰ろうと、雇い人のひとり に送ってもらっている時、彼女は衝動的に自分でもびっくりするようなこ とをしでかした。だから、ジョン・ハーディが窓の下の暗闇に立って、彼 女の名前を繰り返しそっと呼んだ時、部屋の中を歩き回り、新たなどんな 衝動が自分をとんでもないばかげた行動に駆り立てるのだろうかと思った。

農場の雇い人は、若くて黒髪の巻き毛だったが、その金曜日の夕方は、少 し遅れて彼女を迎えに来た。二人は暗い中を家に向かって馬車を走らせた。 ルイーズは、頭の中はジョン・ハーディのことで一杯だったが、間をもた せるためにいろいろおしゃべりをした。だが、田舎者の少年はまごついて、 何も話そうとしなかった。彼女の心に、子どもの頃の孤独がよみがえって きた。自分が最近感じている身を切るような孤独が、心の痛みとともに思 い出された。

「みんな大っ嫌い」

彼女は突然そう叫び、激しくまくしたてたので、田舎 者の少年は脅えた。

「お父さんも大っ嫌い。ハーディのおじさんも大っ嫌い」

彼女は力をこめ てそう言った。

「町の学校で授業を受けているけど、学校も大っ嫌い」

ルイーズは作男の方を向き、頬を肩にもたせかけ、彼をいっそうどぎまぎ させた。はっきり意識していたわけではないが、彼女は、メアリーと暗闇 の中に立っていたあの若者のように、彼が両腕で彼女を抱きキスをしてく れたらと思った。だが、田舎者の少年は、ただ、びっくりするだけだった。 彼は馬にムチをあて、口笛を吹き始めた。

「でこぼこの道だね、だろ?」彼は大きな声でそう言った。

ルイーズはひどく腹を立て、立ち上がって彼の帽子を頭からひっつかむと 道路に投げた。彼が帽子を拾いに馬車から飛び降りると、彼女は馬車を走 らせて彼を置き去りにし、農場までの残りの道を歩いて帰らせた。

ルイーズ・ベントリーは、ジョン・ハーディを恋人に選んだ。彼女が望 んでいたのはそういうことではなかったが、若いジョンは彼女が自分に 近づいてくるのはそう望んでいるからだと解釈したし、彼女としても何 か特別な達成感が欲しかったので、異存はなかった。数ヶ月後、ルイー ズに赤ちゃんができたのではないかと心配になり、ある晩、二人は郡役 所の所在地に出かけ、結婚をした。数か月の間、二人はハーディの家に 住んだが、それから自分たちだけの家に移った。

結婚した最初の年、ルイーズは、漠然とした不可解な渇望があり、それが あの手紙となったが、それが満たされたわけではないことを夫に理解して もらおうとした。彼女は何度も夫の腕の中に身体を滑り込ませ、そのこと について話そうとしたが、いつもうまくいかなかった。男女の愛という自 分自身の考えしか頭になかったので、彼はろくに聞こうともせず、彼女の 唇にキスをし始めた。彼女は戸惑い、ついにはキスをして欲しくないと思 った。彼女は何が欲しいのかは分からなかった。

二人をだますかのように結婚へと向かわせた警告が、根拠のないものだと 分かると、彼女は腹を立て、とげとげしい、人を傷つけるような言葉を口 にした。後に、息子のデイビッドが生まれた時、彼女には母乳が出なかっ たし、自分がこの子を望んでいたのかどうかも分からなかった。1日中デイ ビッドと部屋の中で過ごし、歩き回ったり、時折、そっと近づき、両手で やさしくふれたりした日もあれば、家の中に出現したちっぽけな人類のひ とつを見たくもないか、近づきたくもないと思った日もあった。ジョン・ ハーディが彼女の残酷なふるまいをなじると、彼女は笑った。

「男の子なんだから、どっちみち、自分で欲しいものは手に入れるわ」

彼女はつっけんどんに言った。

「この子が女の子だったら、私がしてあげなかったことは、何もなかった でしょうね」

第四部

「恐怖」

 デイビッド・ハーディが15歳の背の高い少年だった時、彼は母親と同じよ うに冒険をした。それが彼の生涯の流れを完全に変えてしまい、彼を静か な片隅の地から世間へと送り出すことになった。生活環境を覆っていた殻 は割れ、彼は外に出て行くしかなかった。彼はワインズバーグを去り、以 来町の者で彼を見た者はいなかった。彼の失踪後、母親と祖父が亡くなり、 父親は大金持ちになった。父親は、大金を使って息子の居所を突きとめよ うとしたが、これから語る話は、それについてではない。

ベントレー農場にとって、いつもとは違った年の晩秋のことだった。どこ もかしこも大豊作だった。その年の春、ジェシーはワイン・クリークの谷 に広がる細長い黒土の湿地の一部を買った。安く手に入れたが、土地改良 に多額の金を費やした。大きな溝が掘られ、何千枚ものタイルが敷かれた。 近所の農家の者たちは、その出費に首をかしげた。中にはあざ笑う者や、 その冒険でジェシーが大損することを望んでいる者もいた。だが、老人は 黙々と何作業を続け、相手にしなかった。

土地の水はけが良くなると、ジェシーはそこにキャベツや玉ねぎを植えたが、 隣人はまたもやあざ笑った。だが、作物は大豊作となり、高い値段をつけた。 ジェシーは、土地改良にかかった費用のすべてをまかなうのに十分なお金を 1年で稼ぎ、お金があまったので、さらに2つの農場を買った。彼は有頂天に なり、喜びを抑えきれなかった。農場経営の歴史を通して、彼は初めて笑顔 で作男たちと交わった。

ジェシーは労賃を節約するために、立派な機械を何台も購入した。また、 肥沃な黒土の湿地に残る数エーカーの土地すべてを購入した。ある日、彼 はワインズバーグの町に出かけ、デイビットのために自転車や新品の服を 買った。二人の姉には、オハイオ州のクリーブランドで開かれる宗教集会 に行く旅費を渡した。

霜が降りるようになり、ワイン・クリークに広がる森の木々がキツネ色に 染まったその年の秋、デイビッドは学校のない時は、瞬時を惜しんで外で 過ごした。ひとりの時もあり、他の少年たちと一緒の時もあったが、午後 はいつも森に出かけ、木の実を集めた。それ以外の田舎の少年たちは、ほ とんどがベントレー農場で働く作男たちの息子だったが、銃を持ってウサ ギ狩りやリス狩りに出かけた。だが、デイビッドは彼らとは行動を共にし なかった。彼はゴムバンドとY字型になった枝でパチンコを作り、ひとりで 出かけて木の実を集めた。

遊んでいると、さまざまな考えがデイビッドの心に浮かんだ。彼は自分が もう少しで大人になることに気づき、人生で何をしようか思いをめぐらし た。だが、考えが形にならないうちに、それらは消え、彼は再び少年に戻 った。ある日、木の下枝に止まって、自分に向かって鳴いていたリスを殺 した。彼はそれを手に持って、走って家に帰った。ベントレー家の姉妹の ひとりが、その小さな動物を料理してくれ、彼は心から味わって食べた。 皮は板に鋲で留め、彼はそれを寝室の窓から紐で吊るした。

リスをしとめたことが、デイビッドに新たな転機をもたらした。それ以降、 森に行く時はいつもポケットにパチンコを入れ、木々の間の落ち葉に動物 が潜んでいると見なして、パチンコを打ち、何時間も過ごした。自分がい つか大人になるという考えは消え、少年の衝動を持った少年のままでいる ことに満足した。

ある土曜日の朝、デイビッドがポケットにパチンコを入れ、肩に木の実を 入れる袋を担いで出かけようとすると、祖父のジェシーに呼び止められた。 老人のまなざしの中には、デイビッドをいつもおびえさせていた、張りつ めた、真剣な目があった。そのような時には、ジェシー・ベントレーの目 は真っすぐ前を見ないで、揺れ動き、何も見ていないようだった。目に見 えないカーテンのようなものが、ジェシーと世界とを仕切っているようだ った。

「いっしょに来て欲しいんだ」彼は手短に言った。

彼の目は、デイビッドの頭を越え、空を見ていた。

「今日は大切なことをしなくてはいけない。木の実の袋を持って行きたいの なら、かまわない。それはどうでもいい。とにかく、わたしたちは、森に行 かなければならないのだ」

ジェシーとデイヴィッドは、白馬に引かせた4輪馬車で、ベントレー農場 を出発した。二人は長い道のりを黙って進み、羊の群れが草を食んでいる 農場の端で止まった。羊の群れの中に、季節はずれに生まれた子羊がいた。 デイヴィッドと祖父はこの子羊を捕まえ、小さな白いボールのように見え るほど、きつく縛り上げた。ふたたび馬車で走る時、ジェシーはデイヴィ ッドに羊を両手で抱かせた。

「昨日この子羊を見ていると、ずっと前からしたいと思っていたことを思 い出したのだ」彼は言った。

そして再び、さ迷うような、不確かなまなざしで、少年の頭越しに遠くを 見た。

その年が大豊作になったため、農夫としてのジェシーは有頂天になったが、 その後、別の精神状態にとりつかれた。長い間、彼は非常につつましく、 信心深く暮らしてきた。彼は神について考えながら、また夜一人、散歩を するようになった。歩きながら、彼はかつてのように、自分自身を古の時 代の人物たちに重ね合わせた。星空の下で、濡れた草の上にひざまずき、 彼は声を上げて祈った。

ジェシーは今や、聖書の至る所で語られる物語の人物のように、神にいけ にえを捧げることを決心した。

「これほどまでの豊かな実りがもたらされ、神はデイヴィッドという男の子 を授けてくれた」

彼はひとりささやいた。

「おそらく、もっと前にこのことをするべきだったのだろう」

彼はこの考えが、娘のルイーズが生まれる前に思い浮かばなかったことを残 念がった。森の中の人知れぬ場所で枝を組み上げて燃やし、焼かれたいけに えとして子羊の身体を捧げるのだから、今や必ず神は自分の前に現われてメ ッセージを授けてくださるだろう、と考えた。

ジェシーはこのことを考えれば考えるほど、デイヴィッドのことも考えた。 そして、彼の熱烈な自己愛は、幾分和らいだ。

「デイヴィッドも世に出ることを考える頃になった。神のメッセージは、 デイヴィッドに関することだろう」彼はそう決めつけた。

「神はデイヴィッドのために、進路を決めてくださるだろう。この世で どの位置を占めるのか、いつ旅路に出るさだめなのか、私にお告げくださるだろ う。デイヴィッドがその位置を占めるのは正しいことなのだ。幸運にも 神のお使いが現れれば、デイヴィッドは人間に明かされる、美と栄光を 見るだろう。そうすれば、デイヴィッドも真の神のしもべになるだろう」

ジェシーとデイヴィッドは、黙ったまま馬車で進み、かつてジェシーが神 に懇願し、デイヴィッドをおびえさせた場所にやってきた。その日は晴れ 渡り、気持ちのいい朝だったが、今は冷たい風が吹きはじめ、雲が太陽を 隠してしまった。自分たちのやってきた場所に気づくと、デイビッドは ゾッとして震えた。林間から流れ出る小川にかかる橋のそばで止まった時、 彼は馬車から飛び降り、逃げだしたい思いだった。

さまざまな逃走手段が、デイヴィッドの頭の中を駆け巡ったが、ジェシー が馬を止め、柵を乗り越えて森に入ると、彼もついて行った。

「恐れるのは馬鹿げている。何も起こらないのだから」

デイヴィッドは、両腕に子羊を抱き、前に進みながら自分に言い聞かせた。 彼の腕にきつく抱かれている小さな動物の無力さは、なんとなくデイヴィ ッドに勇気を与えた。彼は子羊の心臓の早い鼓動を感じ、それが自身の心 臓の鼓動を静めた。彼は祖父の後ろを足早に歩きながら、子羊の4本の足を きつく縛っているひもを解いた。

「何か起きれば、いっしょに逃げよう」彼は考えた。

森の中を二人は、道路からかなり離れたところまで歩いた。木々に囲まれ た空き地に来ると、ジェシーは止まった。空き地は、低木が生い茂り、小 川まで続いていた。ジェシーは依然、黙ったままだったが、すぐに枯れ木 を積み上げ、火をつけた。デイヴィッドは両手に子羊を抱えたまま、地面 に座った。デイビッドには、老人のひとつひとつの動作に意味があるよう に思え、刻一刻と不安を募らせていった。

「子羊の血を少年の頭に注がねばならぬ」

枯れ木が勢いよく燃えだすと、ジェシーはぶつぶつつぶやいた。彼はポケッ トから長いナイフを取り出すと、向きを変え、空き地を横切ってデイヴィッ ドの方につかつかと歩いて行った。

恐怖が少年の心をとらえた。彼は恐怖で吐きそうになった。一瞬、じっと 座っていたが、身体が硬直し、さっと立ち上がった。彼の顔は、子羊の毛 のように白くなっていた。子羊は突然放されたとみるや、丘を駆け下りた。 デイヴィッドも駆けた。恐怖で飛ぶように駆けた。低木や倒木を半狂乱に なって跳び越えた。駆けながら彼はポケットに手を入れて、リスを撃つた めのゴムバンドがかかった、分岐した棒を取り出した。

デイヴィッドは小川まで走った。川底は浅く、水しぶきが岩に飛び散っていた。 彼は川の中へ突進し、ふり返った。祖父が手に長いナイフをしっかり持って、 自分の方へまだ走って来ているのを見ると、ためらうことなく、手をのばして 石を選び、パチンコに取りつけた。彼は力をふりしぼり、分厚いゴムバンドを 引いた。石はヒューと空中に放たれ、デイヴィッドのことをすっかり忘れて、 子羊を追っていたジェシーに命中した。顔の真正面だった。ジェシーは、うめ き声をあげながら、前のめりになり、デイヴィッドの足もと近くに倒れた。ジ ェシーが倒れたまま動かず、死んでいるようなので、デイヴィッドの恐怖は計 りしれないほど大きくなった。気が狂うほどのパニックだった。

デイヴィッドは悲鳴をあげ、身をひるがえして、森の中を駆けて行った。 せきを切ったように涙が流れた。

「かまうもんか。ぼくはおじいさんを殺してしまったけど、かまうもんか」

彼はすすり泣いた。

先へ先へと駆けながら、彼は、突然、ベントレー農場や、ワインズバーグの町 に戻らないことを決心した。

「ぼくは神のしもべを殺してしまった。今度は自分が大人になって、世の中に 出よう」

彼はきっぱり言った。駆けるのもやめ、曲がりくねったワイン・クリークの流 れに沿った道を足早に歩いた。川は畑や森を抜け、西の方向に向かって流れて いた。

ジェシー・ベントレーは、小川のそばの地面でおそるおそる身体を動かした。 うめき声をあげ、目を開けた。長い間、彼はじっと横たわったまま、空を見 た。ようやく立った時、頭は混乱し、デイヴィッドがいなくなっていても驚 かなかった。彼は道ばたの丸太に座り、神について語り始めた。みんなが彼 から聞き出したのは、ただそれだけだった。デイヴィッドのことが話題にの ぼると、ジェシーはぼんやりと空を見上げ、神さまのみつかいがデイヴィッ ドを連れていったのだ、と言った。

「わしが栄光を求めすぎたからだ」

彼はそう明言し、このことについては、もう話そうとしなかった。

〜 「敬神」 終わり 〜







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