Charles John Huffam Dickens について

年譜


1812(チャールズ・ディケンズ誕生)
2月7日、父ジョンと母エリザベスの長男として、イギリス南部ハンプシャーの港町ポーツマスのランドポート、マイル・エンド・テラス一番地(ディケンズ生誕地博物館となっている)で生まれる。

1815(3歳)
海軍経理局事務官だった父親の仕事の関係でロンドンに移り住む。

1867(5歳)
ケント州チャタムへ再び居を移す。それから5年間、チャールズ・ディケンズはかけがえのない幸せな子供時代をこの地で過ごす。チャタムとその近くの大聖堂の町ロチェスターは、彼の心のふるさととしてしばしば作品の中に登場する。

1822(10歳)
父親がサマセット・ハウス内の事務室に転勤になったため、一家はロンドンのキャムデン・タウンに引っ越す。
父親ジョンは、生来陽気な性格の持ち主で、仕事にも熱心だったが、経理局に勤めながらまるで経済観念がなかった。そのため相当な借金をかかえていた。ロンドンに移った少年時代のチャールズ・ディケンズは、父親の使い走りや質屋に通うなど、貧困の辛酸に身をさらすことになる。

1824(12歳)
2月、父親の借金が原因で、ストランドのハンガーフォード・ステアーズにあったウォレン靴墨工場に働きに出ることになる。人一倍感受性が強く、勝ち気なチャールズ少年にとって、この時の苦痛と屈辱は、とても筆舌につくせるものではなかった。その上、父親ジョンが借金のために、マーシャルシー債務者監獄に収監されてしまい、家庭的な愛情から完全に見放されてしまう。

「債務者監獄について」
債務者監獄の内部はいくつもの部屋に分かれていて、家庭生活ができるような仕組みになっていた。家族がマーシャルシー監獄に移ってから、ディケンズは近くのラント・ストリートに下宿生活を始めた。ディケンズは、早朝にロンドン橋の辺りをぶらつきながら獄門が開くのを待って中に入り、朝食を取って靴墨工場へ出勤した。仕事が終わると、またマーシャルシーの監獄へ戻ったが、これが当時の彼の日課だった。チャールズ・ディケンズは、この危機的な時代を「もし神の加護なかったら、私はチンピラ泥棒か浮浪児になっていただろう」と回想している。

監獄生活二ヶ月後に祖母エリザベス・ディケンズが死亡。その遺産(450ポンド)のおかげで父親ジョンは、5月28日釈放される。出獄後、一家はサマズ・タウンの借家に居を移す。

チャールズ・ディケンズの靴墨工場での労働期間は、せいぜい5ヶ月程度であったが、その間の孤独感と苦痛は一生精神的外傷としてつきまとい、生涯を通して牢獄の暗い影の脅迫観念に取り付かれることになる。チャールズ・ディケンズは、この精神的苦痛から強靭な意志の力ではい上がるのだが、この意志の力と「浮浪児」としての自分に対する憐憫の情とが、ディケンズの人生と作品世界を特徴づけることになる。

6月、ウェリントン・ハウス・アカデミーに通う。チャタム時代のウィリアム・ジャイルズ学校の一年間と、このアカデミーでの三年足らずが彼の正規の学歴のすべてだった。

1827(15歳)
7月3日、家賃不払いのために一家は借家を追い出される。
ウェリントン・ハウス・アカデミーでの教育を終えたばかりのディケンズは、法律事務所の事務員となることで自活の第一歩を踏み出す。だが、法律関係の仕事が退屈この上ないことに嫌気がさし、ジャーナリストとしての活躍を夢みて「六ヶ国語をマスターするに匹敵する」ほど困難な速記術の独習に取りかかる。

1828(16歳)
11月、速記術をマスターすると民法博士会館のフリーランスの速記記者としての仕事につく。

ディケンズは国会記者になろうとしていたが、その資格が得れる年齢(20歳)まで待ちきれず、活気と刺激を求め、俳優として名をあげようと決意する。根っから芝居好きで、法律事務所に勤めていた時、足繁く劇場通いをしたこともあり、俳優業にはかなりの自信をもっていた。ところがオーディションの当日、悪性の風邪で出かけることができなかった。

1830(18歳)
2月8日、大英博物館の読書カードが取得できる年齢に達するとすぐにこれを申請し、以後ぼう大な数の書物を読みこなす。

1832(20歳)
満20歳になる少し前に、母方の叔父、ジョン・ヘンリー・バローの経営する「ミラー・オブ・パーラメント」紙の報道記者となる。この時夕刊新聞「トゥルー・サン」からも国会記者としての口がかかる。

1833(21歳)
1830年5月頃に初めて出会ったロンドンの銀行家の令嬢、マライア・ビードネルに失恋する。後年ウインター夫人となった彼女と再会し、手紙を交わすようになる。この一連の経験は、「デイビッド・コパーフィールド」、「リトル・ドリット」として作品化される。

1834(22歳)
8月、「モーニング・クロニクル」紙に報道記者として迎えられ、スター記者たちの仲間入りをする。大物政治家の演説を報道したり、地方選挙を報じたり、特技を活かして充実した生活を送る。
ペンネーム「ボズ」として、マンスリー・マガジン」に「下宿屋」(後の「ボズのスケッチ集」が掲載される。

1836(24歳)
2月8日、「ボズのスケッチ集」がジョージ・クルクシャンクの挿し絵入りで発行される。

4月1日「ピクウィック・ペイパーズ」の第一号を発行する。これは翌年1837年の11月に所定の第二十号をもって完成する。この時期、ディケンズは作家と編集に専念するようになる。

4月2日、キャサリン・ホガースと結婚。ケント州クレヴセントで1週間のハネムーンを楽しむ。

1838(26歳)
1838年4月〜1839年10月、「ニクラス・ニクルビー」発表。この小説からボズの名前は消え、チャールズ・ディケンズが表に出てくる。

1840(28歳)
4月4日、「ハンフリー親方の時計」が刊行され、目ざましい売れ行きとなる。

1841(29歳)
2月13日、から11月27日まで「バーナビー・ラッジ」が連載される。

1842(30歳)
1月から6月にかけて妻同伴でアメリカを訪問し、至る所で引っ張りだこの歓迎を受けるが、ディケンズはアメリカに大きく幻滅していた。このアメリカ旅行について書いた「アメリカ見聞記」にそれがうかがえる。

1843(31歳)
10月5日、マンチェスターの労働者の教育とレクレーション施設を作るために組織されたアセニーアムに招かれ、募金のための講演を行う。この後にひらめいたインスピレーションが「クリスマス・キャロル」(12月19日刊行)になる。

1844(32歳)
7月、家族とともにイタリアをまる1年間旅行する。最初の地、ジェノバで鳴り響く鐘の音を聞いて「貧者のための一大鉄槌」となる作品を構想し、「鐘の音」を完成させる。これは12月16日に「クリスマス・ブックス」の第二作として刊行される。
「クリスマス・ブックス」は、「炉端のこおろぎ」(1845)、「人生の戦い」(1846)、「憑かれた男」(1848)をもって完結する。

1846(34歳)
「ドンビー父子」刊行

1850(38歳)
「デイビッド・コパーフィールド」刊行。

1852(40歳)
「荒涼館」の連載開始(1852年3月〜1853年9月)。この作品でイギリス大法院法廷が、イギリス社会制度の諸悪の象徴として描かれる。

1854(42歳)
「ハード・タイムズ」の連載開始(1854年4月1日〜8月12日)。この作品で産業界における自由競争の原理と立身出世主義が告発される。

1855(43歳)
「リトル・ドリット」の連載開始(1855年12月〜1857年6月)。コレラ、住宅の不備、犯罪の原因となっていた無教育などの国内問題や、クリミア戦争(1853-56)など、政府の無能無策ぶりに対しディケンズの失望感は頂点に達し、この作品が書かれた。

1856(44歳)
3月、ロチェスターの北西約2マイルにあるギャズヒル・プレイスを買い取り、子供時代の思い出を取り戻そうとする。だが、この邸宅はスイートホームにはならず、ディケンズの夫婦仲は急速に冷めていく。

1858(46歳)
5月、夫婦は正式に離婚する。これには1857年に出会った女優エレン・ターナンの存在が大きく影響している。エレン・ターナンはこの時18歳、ディケンズは45歳だった。二人の関係はディケンズが死ぬまで続いた。

1859(47歳)
「二都物語」の連載開始(1859年4月30日〜11月26日)。

1860(48歳)
「大いなる遺産」の連載開始(1860年12月1日〜1861年8月3日)。

1858年4月から始められたディケンズの朗読活動は、ロンドンから地方巡回公演へと発展し、スコットランド、アイルランドにまで及んだ。この公開朗読活動の超ハードスケジュールがディケンズの健康に悪影響を及ぼすようになる。ディケンズの死後に残された遺産9万3000ポンドの約半分は公開朗読による収益だった。

1870(58歳)
3月15日、セント・ジェイムズ・ホールにおいて、通算472回目の、最後の公演朗読をする。この時選んだ作品には「クリスマス・キャロル」がある。

6月9日、脳出血のため死去。臨終の場には、二人の娘と長男チャーリー、主治医フランク・ベアド、女優エレン・ターナンがいた。

1869年5月12日付で書かれた遺書には、いかなる種類の顕彰をも固辞した上で、「私は国に対しては出版された私の作品をもって、そして友人諸君に対しては、それら作品に加えて私との交友経験をもって、私の思い出としてくれることを望むだけである」という一文が含まれている。






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