監獄生活二ヶ月後に祖母エリザベス・ディケンズが死亡。その遺産(450ポンド)のおかげで父親ジョンは、5月28日釈放される。出獄後、一家はサマズ・タウンの借家に居を移す。
チャールズ・ディケンズの靴墨工場での労働期間は、せいぜい5ヶ月程度であったが、その間の孤独感と苦痛は一生精神的外傷としてつきまとい、生涯を通して牢獄の暗い影の脅迫観念に取り付かれることになる。チャールズ・ディケンズは、この精神的苦痛から強靭な意志の力ではい上がるのだが、この意志の力と「浮浪児」としての自分に対する憐憫の情とが、ディケンズの人生と作品世界を特徴づけることになる。
6月、ウェリントン・ハウス・アカデミーに通う。チャタム時代のウィリアム・ジャイルズ学校の一年間と、このアカデミーでの三年足らずが彼の正規の学歴のすべてだった。
ディケンズは国会記者になろうとしていたが、その資格が得れる年齢(20歳)まで待ちきれず、活気と刺激を求め、俳優として名をあげようと決意する。根っから芝居好きで、法律事務所に勤めていた時、足繁く劇場通いをしたこともあり、俳優業にはかなりの自信をもっていた。ところがオーディションの当日、悪性の風邪で出かけることができなかった。
4月1日「ピクウィック・ペイパーズ」の第一号を発行する。これは翌年1837年の11月に所定の第二十号をもって完成する。この時期、ディケンズは作家と編集に専念するようになる。
4月2日、キャサリン・ホガースと結婚。ケント州クレヴセントで1週間のハネムーンを楽しむ。
1858年4月から始められたディケンズの朗読活動は、ロンドンから地方巡回公演へと発展し、スコットランド、アイルランドにまで及んだ。この公開朗読活動の超ハードスケジュールがディケンズの健康に悪影響を及ぼすようになる。ディケンズの死後に残された遺産9万3000ポンドの約半分は公開朗読による収益だった。
6月9日、脳出血のため死去。臨終の場には、二人の娘と長男チャーリー、主治医フランク・ベアド、女優エレン・ターナンがいた。
1869年5月12日付で書かれた遺書には、いかなる種類の顕彰をも固辞した上で、「私は国に対しては出版された私の作品をもって、そして友人諸君に対しては、それら作品に加えて私との交友経験をもって、私の思い出としてくれることを望むだけである」という一文が含まれている。