クリスマス・キャロル(A Christmas Carol)


〜 クリスマスキャロルを終えて 〜

 3回にわたって村岡花子訳の「クリスマスキャロル」についてお送り しましたが、今回は集英社、中川敏訳の「クリスマスキャロル」について お送りします。

 初版は1991年11月25日発行。発行所は集英社で、編集は綜合社。1991年 の発行なので用語や表現が現代的かというとそうではない。文脈から判断 せずに、辞書に載っている意味をそのまま使ったのではないかと思える訳 文が随所にある。たとえば shroud 。「帷子」(かたびら-薄い布のこと) と訳されているが、私などは「帷子」が何のこととかピンとこない世代だ から、意味があいまいなまま読み進むことになる。「衣」とせずに「帷子」 としたのは、古典の名作だからだろうか。

こんな訳文もある。

「玄関の間にマーレーの弁髪がつき出て…」

 19世紀のイギリスにどうして弁髪(pigtail)をした人物が登場するの だろう。弁髪とは「北アジア諸民族の男子の風習で、頭髪の一部を編んで 垂らし、他をそり落とす髪型」(大辞林)だ。イギリスは北アジアではな いし、マーレーの幽霊は、頭髪の一部を編んで垂らし、他をそり落として はいないはずだ。ちなみに弁髪の弁の字は旧字。私のワープロソフトには なかった。

 大騒ぎしている子どもたちを「ジャリども」と表現している個所もある。 原文は brood(ひとかえりのひな)。くだけた表現にしようとしたのかも しれないが、読んでいて違和感を感じる。「ジャリ」という表現は子供へ の罵り言葉の一種ではないか。クリスマスを祝うという善意に溢れた作中 その場の雰囲気に、「ジャリ」と表現されるべき子供たちは登場しないは ずだ。読んでいて混乱するばかりだ。村岡花子訳では「ひよっこ」になっ ていた。こちらの方が子供たちに対して愛情を感じる。

 作品を通して善良な人間の代表だったボブ(Bob)を村岡花子訳では 「きちがい書記」としていたが、中川訳では「頭のおかしい書記」 (lunatic)になっている。他の箇所では中川訳は「小男のボッブ」 (little Bob)と訳している。小男という言葉から受けるいイメージはあ まりいいものではない。それに Bob は「ボブ」で、「ボッブ」ではない。




 中川訳では、スクルージの若い頃の恋人ベルのことを、彼女の夫が 「あんた」と呼んでいる。「あんた」という言葉には突き放した響きがあ り、夫婦間の愛情は感じられない。幽霊もスクルージを「あんた」と呼ぶ など、この作品には「あんた」という言葉が頻繁に出てくる。それだけで 作品世界をぶちこわしている気がする。

 以下その部分。スクルージの若い頃の恋人ベルは結婚をして家庭を持って いる。そのベルの夫が、彼女に話しかける場面だ。

「今日午後ね、あんたの昔の友だちを見かけたよ」

「I saw an old friend of yours this afternoon.」

 村岡花子訳では「お前の昔の友人にきょう逢ったよ」となっている。 「お前」の方が愛情を感じる。




 中川敏訳の「クリスマスキャロル」は、訳語が作品に馴染んでいないだ けでなく、表現にも一貫性がない。

以下は幽霊のセリフです。

「座れるさ」
「そうだよ!」
「信じち ゃいないさ」
「ばかばかしいじゃないいか」
「見えるよ」
「ひどく重い鎖 になっているんだぜ!」

などなど、会話表現はとても軽い。まるで漫談だ、と 思っていたら

「なぜ私を苦しめるのだ?」
「下俗な心の男よ!」
「わたし の衣に触るがいい!」

などなど、仰々しい表現が合間を縫って出てくる。幽霊が「見えるよ」「あんたのためになるようにさ」などといったら、 もう幽霊としてのリアリティはなくなる。幽霊の言葉の調子の一貫性のな さには、読んでいて少し苛立つ。

「見えているのさ」
「亡霊なのだよ」
「まだ足らんというのかね?」
「一緒に来るがいい!」
「あてがっておく から大丈夫」
「心配無用じゃ」

などなど。2ページ内で幽霊の語調は極端 に変わっている。ちなみに村岡花子訳では「幽霊」、中川訳では「精霊」 だ。

 


中川敏訳の訳には直訳が多い。

「子供らしい熱心さで(in her childish eagerness)」

「真剣な喜びで(serious delight)」

など、直訳表現が随所にある。大学入試の英文解釈では、日本語らしく訳 すために、形容詞は副詞的に、名詞は動詞的に訳すのが鉄則だから、その 鉄則に従うと、ここは「子供のように熱心になって」、「真剣に喜んで」 となる。この方が少しは日本語らしくないだろうか。ただ、これはあくま でも受験レベルの英語であって、名作の翻訳は英文解釈のレベルを超えて もらいたい。




 また well、so、my dear など、雰囲気を出すだけの英文をあまりにも 原文通りに訳しているので奇異な感じを受ける。and も「そして」と必要 もなく訳され、読書の流れを妨げている。このような語句を原文に忠実に 訳すと、雰囲気はぶち壊しになるのではなかろうか。このような訳では物 語の流れがとぎれ、物語の世界に没入する喜びは得られない。

例えば次の訳だ。

「そこは教会の墓地だった。そのとき、ここで、彼がいまやその名前を教 えてもらうことになる哀れな男が土の下に横たわっていたのである。」

A churchyard. Here, then, the wretched man whose name he had now to learn, lay underneath the ground.

 原文の then を「そのとき」と訳したのだろうが、この訳は不自然だ。 埋葬され横たわっているのは「そのとき」だけではない

 ちなみに、村岡花子訳では次のようになっている。

「墓地だった。ではここにこれから名前を知ろうとするあの哀れな男が埋 葬されているのだな。」




 訳は原文に忠実なのだが、村岡花子訳のクリスマスキャロルのような抜 けがざっと数えただけで5カ所あり、つけ加え部分もかなりある。また、 誤訳ではないかもしれないが、分かりづらい表現が多々ある。




 村岡花子訳の「クリスマスキャロル」は古臭い表現や分かりにくい表現、 意味不明な文などが多く、読みづらかったが、作品全体の調子は一本で、 クリスマスキャロルの雰囲気は伝わっていたし、作品に対する愛情のよう なものが感じられた。この中川敏訳のクリスマスキャロルには物語作品と しての雰囲気は感じられないし、作品のトーンが一貫していない。テレビ のバラエティ番組の語りを聞いているような、NHKの教育テレビを見てい るような、報道番組のナレーションを聞いているような、水戸黄門を見て いるような、そんな感じだ。

 中川訳は原文に忠実だが、それだけに英文解釈の英訳文という気がした。 ただ、原文に忠実ということは字句通りに訳すということではないと思う。 翻訳や通訳など言葉を他国語に変換する場合、字句に囚われずに文脈に則 して訳さなければいけないと思う。電話をかけてる日本人の日本語の「も しもし」を「if if」と英訳すれば笑い話だ。中川敏訳はこれに近い(と 思っていますが、こんなにケチつけてごめんなさい)。

 中川敏という訳者が実際に訳したのか、下訳の方たち数人が訳してこの 人がまとめたのか分からないが、この人の訳文には村岡花子訳にあったク リスマスキャロルの世界というものがない。作品に対しての愛情がないか らではないか、と勝手に判断してはいけないかもしれないが、私はそう感 じた。言葉を扱う人が、これほど言葉に感性がなくていいのだろうかとい う疑問も感じた。それを集英社という大出版社が出版していることに大い に驚いた。担当者はこの訳文を通読したのだろうか。

 中川敏と Google で検索するとその人のホームページが出たのでこれら の点を質問したら、同姓同名の方だった。申し訳なかった。




〜 苦労話 〜

 1999年12月11日、クリスマスキャロルを始めて、正直、しまったと思い ました。あまりにも難しすぎる。長く受験生に英語を教えていた私として は、昔教えた用語や用法が随所に出て、なつかしいなあと時々思いはしま したが、それらの用語や用法は今日ほとんど使われていないものばかりな ので、こんなのやっても、読者にはなんのメリットもないんじゃないかと いう気がしていました。英文が現代向きではない。購読者数はどんどん減 っていく。あれこれじたばたしても減っていく。読者からはほとんど何の 反応もなくなる。知人からは早くやめればといわれる。ただ、そんな中で も、やめようとは思いませんでした。この作品には何かそういう魅力があ るに違いありません。

 原文と訳文を併記する時、形容詞の羅列の多さにはまいりました。日本 語の場合、形容詞を並べられるのはせいぜい3語ではないかと思います。 この作品では、5語や6語の形容詞の羅列はざらにありました。

例えば以下。

「クリスマス・キャロル」vol.216

From the foldings of its robe, it brought two children; wretched, abject, frightful, hideous, miserable.

(幽霊は裾の間から二人の子供を取り出した。汚らしく、おどおどしてい た。ぎょっとさせる、見たくないようなみじめな子供たちだった)

〜 wretched, abject, frightful, hideous, miserable 〜

これでもかこれでもかと形容詞が並べられています。




また、挿入が多く、文章が複雑な一方、省略も多く、これらを逐語訳とし て処理するのには苦労しました。
その他、no more - than、とか no(not)so - as 〜 など、比較級が多 く、このような原文と訳文とを合わせるのには苦労しました。読者の方も 読みづらかったのではないかと思っています。




 次回からはシャーウッド・アンダーソンの「ワインズバーグ・オハイオ」 (http://www.ne.jp/asahi/fogbound/journal/anderson.html)をやろう と考えています。

 4年半年ぶりで新しい作品を始めることができ、ある種の開放感を感じ ています。クリスマスキャロルはとにかく厄介な作品でした。

 「ワインズバーグ・オハイオ」はいくつかの短編で構成された作品で、 それらの短編が全体としてオハイオ州のワインズバーグという町の雰囲気 を描いています。独立した物語が、単なる短編の寄せ集めではなく、ひと つの世界を総合的に描くというこのような形式を「ワインズバーグ形式」 と呼ぶ人もいます。短編なので、途中から読む人にも簡単に入れ、メルマ ガには適しているのではと思っています。購読者が増えるといいな。

ああ、「クリスマスキャロル」を終えることができて、本当によかった…。


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