更新日2011年2月28日

「冒険」 (ADVENTURE)

本文テキスト

 アリス・ハイドマンは、ジョージ・ウィラードがほんの子供だった頃、す でに27歳の女性で、ワインズバーグには生まれてからずっと住んでいた。 彼女はウィニー衣料品店に事務員として働き、二度目の夫と結婚した母親 といっしょに暮らしていた。

アリスの継父は馬車の塗装職人で、酒飲みだった。彼の経歴は変わっていて、 いつか語る価値があるだろう。

 27歳の頃のアリスは、背が高く、ややほっそりしていた。身体のわりには 頭が大きかった。肩は幾分前かがみで、髪と目はとび色だった。彼女はと ても落ち着いていたが、おとなしい外観の内側では、絶えず感情が逆巻い ていた。

 アリスが16歳の少女で、衣料品店で働き始める前、若い男性と深い仲 になった。ネッド・カリーという名のその男性は、アリスよりも年上だっ た。彼もジョージ・ウィラードと同様、ワインズバーグ・イーグル紙に勤 めていた。長い間、彼はほぼ毎晩アリスに会いに行っていた。

 二人は街の並木道をいっしょに歩き、将来について語った。アリスは、当時、 とても可愛い少女だった。ネッド・カリーは、彼女を腕に抱きキスをした。彼は 胸が高まるあまり、思ってもないことを言った。アリスも、どちらかというと息 がつまるような生活の中に、すばらしい何かを入りこませたいという思いにから れ、胸を高鳴らせた。彼女もしゃべった。彼女の生活の外面の殻も、もって生ま れた内気で控え目なすべても、どこかへいってしまい、彼女は愛の情熱に身をゆ だねた。

 アリスが16歳の年の晩秋、ネッド・カリーはクリーブランドへ去って行った。 彼はそこで都市の新聞記者としての地位を得て、世に出ようとした。アリス はネッドといっしょに行きたいと思った。震える声で彼女は彼に思いを打ち 明けた。

「私も働くから、あなたはあなたの仕事ができるわ」彼女は言った。

「あなたの仕事の妨げになるような生活の負担をかけさせたくないの。今は 私と結婚してはだめ。結婚しなくても生活できるし、いっしょにやっていけ るわ。いっしょに住んでても、誰も何も言わないわよ。都会では私たちのこ とを誰も知らないし、誰も気になんかしないわ」

ネッド・カリーは、アリスの決意や奔放さに戸惑うと同時に、深く心を打 たれた。彼はアリスを愛人にしたいと思っていたが、考え直した。彼は彼 女を守り、大事にしたいと思った。

「きみは自分が何を言っているのか分かってないね」

彼ははっきりそう言った。

「いいかい、ぼくはきみに絶対そんなことをさせやしないよ。ちゃんとした 就職口を見つけたらすぐに戻ってくる。きみは当面、ここにいるんだ。ぼく たちにはそれ以外、方法はないんだ」

ネッド・カリーは、都会で新しい生活を始めるためにワインズバーグを去る前 の晩、アリスを訪ねた。二人は1時間ばかり通りを歩き、ウェスリー・モイヤー 貸馬車で馬車を借りて郊外をドライブした。月が出ていた。二人は話す言葉が 見つからなくなっていた。悲しみにのあまり、若者は少女への自分の行動につ いての決心を忘れてしまった。

二人はワイン・クリーク川の土手へと長々と広がる草原で馬車を降り、薄明 かりの中、愛し合った。真夜中に街に戻った時、二人は幸福な気持ちだった。 将来に横たわる何ものも、今経験したすばらしさや美しさを消し去ることは できないと感じていた。

「これでもう、ぼくたちはいっしょでなければだめだ。何が起きようとも、 そうしなければいけない」

ネッド・カレーは、アリスを自宅の玄関前に降ろす時、そう言った。

若い新聞記者は、クレーブランドの新聞社で職を得ること ができず、西のシカゴに行った。しばらくは彼も孤独を感じ、ほとんど毎日 アリスに手紙を書いた。それから、都会の生活にはまってしまった。友達が でき、人生に新しい興味を見い出したのだ。

シカゴでは、彼は数人の女性が住んでいる家に下宿した。 その中のひとりに彼は魅かれた。そしてワインズバーグに残してきたアリス のことを忘れた。1年がたとうとした頃には手紙を書かなくなり、ごくたま に、孤独を感じたり、街の公園に行き、あの夜、ワイン・クリーク川のほ とりの草地で輝いていたように月が芝生を照らすのを見た時など、アリス を思い出すこともあった。

愛されていた少女は、ワインズバーグで、大人の女性になっていた。彼女が 22才の時、馬具修理店を経営していた父親が突然死んだ。この馬具職人は退 役軍人で、数カ月後、彼の妻は寡婦年金を受け取った。彼女は、最初に支給 されたお金を機織り機を買うために使い、絨毯の機織りを始めた。アリスは ウィニー洋品店に勤め口を見つけた。何年たっても、ネッド・カレーはもう 自分のもとには戻らないのだと、彼女はどうしても信じることができなかっ た。

アリスはよろこんで働いた。衣料品店で毎日くたくたになって働くことで、 待つ時間を長いと感じなくなったし、気を紛らわせることができた。彼女 はお金を貯め始めた。200ドルか300ドル貯めれば、恋人を追ってシカゴま で出かけ、会うことで彼の愛を取り戻せないか試せると思ったのだ。

アリスは月明かりの草原で起きたことについてネッド・カレーを責めはし なかったが、別の男性と結婚することはあり得ないと思った。今でもネッ ドだけのものと思っているものを他の男性に与えることは、考えるだけで もひどいことだった。他の若者が彼女の気を惹こうとしても、彼女は関心 を示さなかった。

「私はネッドの妻だし、彼が帰って来ようが来まいが、そうあり続けるのよ」

彼女は自分にそうささやいた。自分で生きて行こうという意欲は持っていたが、 女性が自立し、自分自身のために社会で生きていくというその頃広がりつつあ った考えを、彼女が理解していたわけではなかった。

アリスは朝の8時から夕方の6時まで衣料品店で働いたが、週に3回は店にまた戻って、 7時から9時まで店番をした。時が流れ、ますます孤独になるにつれて、彼女は孤独な 人々が共通してする工夫をし始めた。夜、2階にある自分の部屋に戻ると、床にひざ まずいて祈った。祈りの中で、彼女は恋人に言いたいことをささやいた。彼女は 物に愛着を持つようになり、自分の部屋の家具でも、それが自分のものだと思うと、 他の誰かに触られることに耐えられなかった。

目的を持って始めた貯金は、ネッド・カレーを探しに街へ行く計画をあき らめた後も続いた。それは習慣として根付いていた。新しいドレスが必要 な時も、彼女は買わなかった。時々、雨の午後など、彼女は店で銀行の通 帳を取り出して目の前に広げ、利子で自分と未来の夫とが生活するために、 十分なお金を貯めるという見果てぬ夢を思い描いて何時間も過ごした。

「ネッドは昔から旅行が好きだったわ」彼女は思った。

「私がかなえてあげよう。私たちが結婚したら、彼のお金と私のお金とを 貯金できるから、私たち、お金持ちになるわ。そうしたら、二人で世界中 を旅行するの」

衣料品店では、アリスが恋人の帰りを夢見ながら待っている間に、何週間も、 何カ月も、何年も経っていった。彼女の雇い主は、白髪の老年男性で、入れ歯 をし、口に垂れ下った白髪の薄い口ひげをしていたが、口数が少なかった。時々、 メインストリートに嵐が吹き荒れる雨の日や冬など、お客さんがひとりも来ずに、 長い時間が過ぎた。アリスは商品を並べたり、並べ直したりした。

アリスは人けのない通りを見渡せる正面の窓の近くにすわり、ネッド・カリー と散歩をしたさまざまな夜のことや、彼が語った言葉を思い出した。

「これでもう、ぼくたちはいっしょでなければだめだ」

その言葉は大人になろうとしていた女性の心の中で何度も響いた。涙が彼女の 目に溢れた。時々、雇い主が出かけ、店でひとりになった時など、彼女はカウ ンターに伏せて泣いた。

「ああ、ネッド、私は待っているのよ」

彼女は何度もささやいた。そんな時はいつも、彼は二度と戻ってこないのではな いかという忍び寄る不安が、彼女の中でだんだんと大きくなっていった。

春、雨の季節も終わり、長く暑い夏が訪れる前、ワインズバーグは住みよい 場所になる。街はひろびろとした畑の真ん中にあるが、その先には所々に美 しい森が広がっている。樹木が茂った場所には、人目につかないこぢんまり した場所がたくさんあった。静かな場所で、日曜の午後には、恋人たちはこ こで過ごした。木々の間からは畑が見渡せ、納屋の辺りで作業している農夫 や、馬車で道路を行き来している人たちが見えた。街では鐘が鳴り、時々汽 車が通過し、遠くから見るとおもちゃのように見えた。

ネッド・カリーが去ってから数年間、アリスは日曜日に他の若者と森に行くこと はなかったが、彼がいなくなって2、3年たち、孤独に耐えられなくなったある日、 彼女はよそ行きの服を着て出かけた。街やひろびろとした畑が見える木々に囲ま れたささやかな場所を見つけると、彼女は座った。

むなしく年をとっていくことへの不安が彼女をとらえた。じっと座っているこ とができず、立ち上がった。立ったまま景色を眺めていると、何かが、おそらく、 移りゆく季節の中に現れている、絶えることのない生命のようなものだろう、彼 女の心を過ぎ去った年月へとはっきり向けさせた。不安に震え、自分にはもう青 春のもつ美しさも新鮮さもないのだと悟った。彼女は初めて騙されたと気づいた。

彼女はネッド・カレーを責めなかった。何を責めていいのか、わからなかった。 悲しみが一気に広がった。彼女はくずれるようにひざまずくと、祈ろうとした。 だが、彼女の口から出てきたのは、祈りではなく抗議の言葉だった。

「もうやってこないのだ。私は幸せにはなれないのだ。なぜ自分を欺くの」

彼女は叫んだ。日々の生活の一部となっていた不安に、初めて大胆に立ち向かお うとし、彼女は奇妙な安心感を覚えた。

アリス・ヒンドマンが25歳になった年に、退屈で何も起こらなかった彼女 の日常をかき乱す、二つのことが起きた。彼女の母親がワインズバーグの 馬車塗装職人、ブッシュ・ミルトンと結婚し、彼女はといえば、ワインズ バーグ・メソジスト教会の会員になった。アリスが教会活動に参加したの は、自分が陥っている孤独におびえていたからだ。母親の二度目の結婚は、 彼女の孤独感をいっそう深めた。

「年を取って、だんだん変な人間になっていくわ。ネッドが帰ってきても、 私に魅力を感じないわ。あの人が暮らしている都会では、人は永遠に若いま まよ。いろんなことが起きるから、年を取る暇がないのよ」

 彼女は険しい顔で、ほほ笑みながら自分に言い聞かせ、何かに憑かれたよう に知り合い作りを始めた。毎週木曜日の晩は、店が終わると、教会の地階で 行われる祈祷会に出かけ、日曜日の晩は、エプワース同盟という団体の集ま りに参加した。

同じ教会の信者で、ドラッグ・ストアで働いている中年男性のウィル・ハーレイ が、家まで送ろうと申し出た時、彼女は拒まなかった。

「もちろん、いつも一緒になんてことさせやしないわ。だけど、たまに私に会いに 来るくらいなら、なんてことないのよ」

彼女は自分に言い聞かせた。ネッド・カレーを忘れないという決心に揺るぎはな かった。

アリスは、起きていることを考えることもなく、最初はしとやかに振る舞っていたが、 だんだんと決心が固まり、人生の新たなスタートラインに立とうと思った。彼女は、 ドラッグ・ストアの事務員のかたわらを黙って歩いたが、時々、二人が暗闇の中を ただ歩いている時など、手を伸ばして彼のコートの端にそっと触れた。彼女の母の 家の門のところで別れた時に、彼女は中へ入らず、ドアのそばにしばらく立っていた。 ドラッグ・ストアで働いている彼に声をかけ、家の前の暗闇になっているポーチのと ころでいっしょに座らないかと誘いたかったが、彼が誤解するかもしれないと思った。

「私が求めているのは彼ではない」彼女は自分に言った。

「私はなるべくひとりでいたくないのだ。気をつけないと、人といることが不慣れに なってしまう」

27歳になった秋の初めに、アリスは怒りっぽく落ち着かない感情にとらわれた。 彼女はドラッグ・ストアの事務員といっしょにいることに耐えられなくなり、 ある夜、彼が散歩に誘いに来た時、彼を追い帰した。彼女の心は非常に冴え、 店のカウンターに長く立ち、くたくたになって家に帰り、ベッドにはうように 入っても、眠れなかった。彼女は眼を凝らし、闇の中をじっと見た。長い眠り から目覚めた子供のように、彼女の想像力は、部屋の中を遊びまわった。彼女 の心の奥深くには、空想ではごまかされない、人生の確かな回答を求める何か があった。

アリスはまくらを両腕でつかみ、胸にしっかりと抱いた。彼女は、ベッド から出て、毛布を丸めた。毛布は、暗闇の中では、シーツに横たわる人の ように見えた。ベッドのそばにひざまずき、彼女は、リフレーンのように 何度も繰り返しささやきながらそれを撫でた。

「どうして何も起きないの。なぜ私はここにひとり取り残されているの」

彼女はそうつぶやいた。ネッド・カレーのことを時々思い出してはいたが、 もう彼に期待はしていなかった。彼女の望みはぼんやりとしたものになっ ていた。彼女はネッド・カレーも他のどんな男も、必要とはしていなかっ た。彼女は愛されたかったし、自分の中でますます大きくなっていく叫び に答えてくれる何かを求めていた。

それから、ある雨の夜、アリスは冒険をした。その突飛な行動に彼女は困惑し 怯えた。彼女が夜お店から帰ると、家には誰もいなかった。ブッシュ・ミルトン は町に出かけていたし、母親は近所の家に行っていた。アリスは2階の自分の部屋 に行き、暗闇の中で服を脱いだ。しばらくの間、彼女は窓際に立って、窓ガラスに 打ち付ける雨音を聞いていた。すると、奇妙な欲望にとらわれた。自分がしようと していることをよく考えもせず、彼女は階下に下り、暗闇の家の中を抜け、外に出 て雨に打たれた。家の前の狭い草地に立って冷たい雨を身体に感じていると、裸で 通りを走りたいという狂った欲望にとらわれた。

彼女は、雨が創造的なすばらしい効果を自分の身体にもたらしてくれるのではないか、 と考えた。この何年間、若さと勇気をこれほど存分に感じたことはなかった。彼女は 飛び跳ね、走り回り、叫び、誰か孤独な男を見つけ、抱きしめたい欲求に駆られた。 男が家の前のレンガの歩道をよろよろと歩きながら家に向かっていた。アリスは走り 出した。彼女は狂気じみた自暴自棄的な感情にとらわれていた。

「誰だろうがどうでもいいことよ。彼はひとりなんだから、彼の所に行くのよ」

彼女はそう考えた。それから、彼女の突飛な行動がどんな結果をもたらすかを、立ち 止まって考えることなく、彼女は優しい口調で声をかけた。

「待って!」彼女は大声で呼んだ。

「行かないで。誰でもいいから、待ってちょうだい」

歩道の男は立ち止り、耳を傾けた。彼は年老いた男で、少し耳が遠かった。彼は口に 手を当てて叫んだ。

「な、何だ?」彼は大声でそう言った。

アリスはへなへなと地面にくずおれ、横たわったままわなわなと震えた。彼女は 自分のしたことを思ってぞっとしていたので、男がそのまま遠ざかった時も、立ち 上がろうともせず、両手と両膝で芝生を這って家に戻った。自分の部屋に入ると、 ドアに閂をかけ、戸口へと化粧台を引きずっていった。彼女の身体は寒さで震える ようにぞくぞくと震えた。両手も震えていたので、寝間着を着るが大変だった。 ベッドに入ると、彼女はまくらに顔をうずめ、悲しみに打ちひしがれて泣いた。

「いったい、どうしたというの。気をつけないと、とんでもないことをしそうだわ」

彼女はそう思った。そして壁の方に顔を向け、多くの人はひとりで生きなければなら ないし、ひとりで死ななければならない、ワインズバーグでもそうなのだという現実 に、勇気を奮い起して向き合おうとし始めた。

- 了 -







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