教育 〜想像力を育む教科書


高校のときに物理で「慣性の法則」を習った。 覚えておいでの方もいらっしゃるだろうが、大雑把に言えば物体は現状維持を続けようとしているということである。 例えば停車中の電車に私が立っている。 発車すると電車が動き出し電車との設置面である足も電車の動く方向に引っ張られる。 しかしどこにも接していない頭は留まりつづけようとする力(=慣性)が働く。 そして電車の進路方向に足がすくわれるような形で転ぶという結果となる。

つまりである、電車の中にゾンビがいたとする。 このゾンビは頭部が切断されて、それがあるべき場所に収まっているとする。 見かけは五体満足なゾンビであるが、実は首の部分で切断されているということである。 この切断面の摩擦係数を考慮しない場合、発車すると首が徐々にずれていき一定時間後にはゴトンと床に生首が転がるのである。 これに思い至ったとき、私は世界が広がった気がしたものである。

かように、高校の授業とは難度は上がるが世の中の現象と密接に関わったことを学ぶことができるので結構興味深いものである。 それを理解するには小学校、中学校で培った基礎知識が必要なのだが、この基礎知識の習得は結構つまらないものである。 特に小学校、現在はどうか知らないが私の知っている範囲で文章問題に出てくる果物は必ずミカンとリンゴであった。

ミカンとは出題者の意図から言えば、いわゆる「コタツとTVとミカン」のミカンであろう。 それならミカンとリンゴがあった場合、リンゴのほうが得ではないか。 「リンゴとミカンを配りました」とあれば、ミカンを配られた子はリンゴを配られた子よりも不公平ではないのか。 私なら断然リンゴをもらいに行く。 だがその反面、リンゴを5個も6個ももらってしまったら邪魔にならないだろうか。 文章問題には袋を配ったという記述がないからどうやって持って帰るのだろうか。 そもそも何でリンゴとミカンを配るのだろうか。

このような疑問が当時の私には渦巻いていたのだが、さすがに教師に質問することははばかられた。 かといって親に質問して「意地汚い」と言われるのも癪なので黙っていた。 小学生でもそれくらいの矜持は持ち合わせているのである。

小学生の生活において、誰かがミカンだけならともかくリンゴをいくつも分けてくれることは非日常的な出来事である。 これに対する対応がまったくなされていない教科書は駄作と断言しても差し支えなかろう。 そしてこの駄作を何の疑問も差し挟まずに淡々と教える教師は、サラリーマン教師と言われても反論する権利はない。 ましてや「算数の時間は算数だけ教える」など苦しい言い訳をしてはならない。 時間割に「算数」とあれば確かに児童は算数モードにはなる。 しかし「算数モード」とは算数を学ぶ心の準備がやや大きいだけで、国語やそれ以外の知識の吸収がおろそかになるわけではない。 「面倒だからサンタクロースがクリスマスだから子供に果物をくれるんだよって話にしてしまおう」というのもいけない。 時期には目をつぶるとしても「サンタクロースは希望も聞かずに果物を配る存在なのか」という疑問を作るだけの話である。 「果物が欲しいと言った子供にくれる」と加えるなら納得がいかなくもないが。

逆に「何で果物を配るんだろうね」と子供たちの思考を刺激するだけにしておくのもよい。 文章問題とは「問題のための文章」であるわけだから下手なストーリを作ると子供たちにすら突っ込みを入れられる羽目になりかねない。 それよりはまだ想像力をかきたてさせるような手法のほうが有効であろう。 総合学習が叫ばれる今、教師の想像力までもが試されてると言っても過言ではない。

ところで電車に乗ったゾンビの首が発車と同時にずれて落ちるというのはB級ホラー映画にありそうな映像である。 私は映画には明るくないが、どなたかご存知であればその場面を教えていただきたい。 勇気を振り絞って見てみたい。

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