音楽 〜悲しい響きの真相


オペラで主役を張っている女性を『プリマドンナ』と呼ぶ。 何となく『プリ・マドンナ』と区切りたくなるが、これはイタリア語の『プリマ・ドンナ』であり直訳すれば『主役の貴婦人』である。 多分『マドンナ』も『マ・ドンナ』つまり『私の貴婦人』から転じたものではないだろうか。 私の理解できるイタリア語は「スパゲッティ」と「マカロニ」だけなのでやや心許ない出だしであるが、 聖母マリアのことを『我らの貴婦人』と呼ぶのは珍しくないのであながち的外れなことを言ってるものでもなかろう。 せむし男で有名なシテ島のノートルダム寺院も『聖母マリア寺院』のことである。

ちなみにフランスでタクシーの運転手に「ノートルダム寺院に行ってください」と言うと笑われる。 ノートルダム寺院はフランスのあちこちに存在しているのだ。 「どこそこのノートルダム寺院に行ってください」と言わなければ、首を振って降ろされるか、全部のノートルダム寺院巡りのすえに目の玉が飛び出るような額を請求されるかのどちらかなのでご注意を。

さて『マ・ドンナ』『マ・ダム』『ノートル・ダム』と続けば、皆さんも何となく思い浮かぶものがあるのではないだろうか。 おぼろげながらも「もしかしてアレのことか」と想像されているだろう。

そう、かの名曲『ドナドナ』である。 子牛が市場に売られていくのを見送る、物悲しく切ない歌である。 この「ドナドナ」は教科書に依ると「牛を引き連れるときにかける言葉」とある。 日本でいえば、馬に対する「はいどうどう」のような感じであろうか。

しかしこれは矛盾した話ではないか。 なぜなら歌詞を見ていただきたい、「荷馬車がゴトゴト子牛を乗せてゆく」となっているではないか。 荷馬車に乗せた牛を引き立てる必要性はない。 牛がふんばろうが気張ろうが、もう馬車に乗っているのだ。 敢えて言うなら馬に対する言葉かもしれないが、もう一度歌詞を見ていくと馬は我関せずとばかりに黙々と荷台をひいている節がある。 「ゴトゴト」という擬音がそれを端的に示しているではないか。 この馬には「明日は我が身」という言葉を進呈しておこう。

話が横道にそれたので戻す。 辞書を繰ると、やはりあった。 『Dona』、スペイン語で貴婦人に対する敬称もしくは貴婦人を指す言葉として存在している。 さっそく置き換えてみよう。

貴婦人貴婦人貴婦人貴婦人 子牛を乗せて
貴婦人貴婦人貴婦人貴婦人 荷馬車は揺れる

なかなか芸術的かつ含蓄のある歌詞となった。 やはり『ドナドナ』は子牛を見送るだけではなく、人生に対する含みを持った歌だったのだ。

まさかここまでお読みになって意味がわからないとおっしゃる読者もあるまいが、念のために解説をつけておこう。 詳細な歌詞は省略させていただくが、前述の通り『ドナドナ』は(一見)牛が売られてゆくさまを描いている。 そして哀愁漂う曲調が写実的な歌詞に感情を添えている。 ところでこの視点はいったい誰のものなのだろうか。 これは重要なポイントである。 音楽の教本の中には子供が荷馬車を見送るイラストが添えられているものもあるのではなかろうか。 それを覚えておられたら「牛をかわいがっていた村の子供」と答えられるかもしれない。 しかしそれは表面的な理解しかできなかったイラストレータの描いたものなのだ、しばし忘れていただきたい。

『ドナドナ』は純粋な悲しみを歌い上げた名曲である。 村の子供であれば、どれだけかわいがろうが牛の運命は想像がつくはずである。 牛を売ることなど日常茶飯事なのだから。 悲しみの中に諦めや牛が売れたことに対する安堵や羨望が織り交ざってこそ村の子供の心理描写となりえる。 逆にいえば純粋な悲しみを示すこの歌は村の者ではなく、牛を売ることが非日常であるヨソモノの心理なのである。 売られてゆく子牛をノンビリ眺めて悲しむことのできる人間といえば、おのずと範囲は限られてくるのではなかろうか。

それは村の支配者である貴族である。 しかも夫婦、もしくは母と子という組み合わせであろう。 ここまでは『貴婦人』という言葉から簡単に予想されたかもしれない。 では何故これが含蓄のある歌詞なのだろうか。

私はこの光景を眺めている二人を夫婦であると断ずることができる。 しかも貴族とはいえ、夫はもともと貧乏な家の出身であった。 ところが何が幸いしたか、彼は大貴族のところへ婿養子として入ることができたのだ。 金銭的に不自由のない暮らし、婿養子だからといって決して夫を蔑ろにはしない妻。 村の視察にも一人で行けとは言わず付いてくる妻である。 もしかしたら嫉妬や独占欲からの行動かもしれないが、とりあえず蔑ろにはしていない。 夢見ていたはずの生活であったが何かと息が詰まることも多く、スペインでは珍しくもないラテン気質な彼は貧乏でも自由気ままであった生活を懐かしがっているのだ。 そんな彼がふと目にした、子牛が売られてゆく光景に自分の境遇を重ねてしまって、横にいた奥方に呼びかけた。
「夫人よ、牛が売られていくよ」
俺もあの牛と同様に貴族という市場に売られた牛かもしれないなあ、と。 それでも俺は自分で望んだ生活だが、それすら自分の生き方を選べない牛はなおのこと哀れなのかもしれない。 そんな感傷をこめて『ドナドナ』は作られたのである。

ところで、蛇足ながら貴族である彼は何故四回も呼びかけているのだろうか。 奥方は耳が遠かったから、としか原因はありえない。 つまり奥方は彼より非常に年上であるか、耳が不自由であったのではなかろうか。 そしてそんな彼女に向かって厭うことなく四回も呼びかける彼は心のやさしい人であろう。 結局自由な生活を懐かしがることもあろうが、奥方を悲しませることはなかったのだろうということにしておきたい。

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