聖書 〜ホテルに置いてある訳


ちょいと洒落たホテルに泊まってサイドテーブルの引出しをあけると聖書の置いてあることがある。 海外ではホテルにベッドがあるような感覚で置いてあるのだろうが、日本では聖書に用がある人は少ないのではなかろうか。

この聖書はいったい何のためにおいてあるのか気になるところである。 敬虔なキリスト教徒がホテルでも祈りをささげるため、と思われるかもしれないが考えてみて欲しい。 そんな人なら自分専用聖書を常に持ち歩いているのではなかろうか。 それに毎日の祈りくらい覚えていないだろうか。 毎日違う祈りの言葉を二時間ほどつぶやくのなら話は別だが。

では懺悔のために置いてあるのだろうか。 それはいろんな意味で疑問である。 第一に前述の通り、毎日懺悔を欠かさない御仁ならマイ聖書くらい持ち歩くだろう。 第二にそもそも懺悔に聖書が必要なのだろうか。 私自身はクリスチャンでないのでよく知らないが、教会にわざわざ懺悔室を設けるということは、懺悔に必要なのは聖書でなく聖職者ではないのだろうか。

敬虔なキリスト教徒には必要ないように思える。 では誰にとって必要なのだろうか。

逆に考えてみよう。 聖書を持ち歩かないような人間に必要ということになる。 聖書を持ち歩かない人間と言われて、まず思い浮かぶのが非キリスト教徒である。 日本人なら大抵そうであろうが、明確な信仰を持っていない者やキリスト教から見た異教徒がある日突然キリスト教に目覚めたとする。 しかも旅先でである。 おお神よってなことで旅先のホテルの聖書をむさぼり読む。 ありえないことではないが、非常に稀な話ではなかろうか。 年に何回あるのかわからない事に備えて全室に聖書を置くのも解せない話である。 それならフロントに一冊置いておけば事足りる。 改宗に対応しているわけでもなさそうだ。

ではやはりキリスト教徒のためなのだろうか。 彼らが聖書を必要とするときとは何が考えられるのだろう。 あまり敬虔でない人でも聖書を必要と感じる時、しかもフロントではなく、わざわざ部屋に備えている理由とは何か。

答えは一つしかない。 それは死に備えているのだ。 たとえ敬虔でなくともキリスト教徒であるなら、最期は神の御許に行きたいと思うものだ。 今までの懺悔を行い祈りを捧げようとするのだろう。 その時は神の言葉である聖書が欲しいと願うのは自然なことである。

それならば、いよいよ危篤だという時にフロントに借りに行けばよいではないかと思われる方もいらっしゃるだろう。 ホテルで危篤状態になるのと改宗者が出るのとどちらが多いのかはわからないが、どのみち年に何回あるのかわからないような稀な出来事である。 各部屋に一冊は多すぎるのではないか。

答えはノーである。 一度にそれだけの冊数が必要になるときがある。 それはホテル火災などで多くの人が逃げられなくなった場合である。 しかもそうなれば、フロントに聖書を取りに行く暇も道もない。 フロントに行けるのなら、そのまま逃げてしまったほうが得策である。 なので部屋に置いておく必要性があるのだ。 そして、『その時』には皆が一度に聖書に向かって罪を悔いて助けを求めるのである。 それに備えてホテルでは各部屋に一冊置いておき、災害が起こったときに心安らかに逝けるよう配慮しているのだ。 まさにサービス業ならではの細かい心配りと言えよう。

日本のホテルでもたまに聖書を置いているところがある。 私も一度そういうホテルに泊まったが、その聖書は道行く人に無料で配布してくれるものであった。 書いてあることは有料でも無料でも変わらないから別にいいけど。 しかし日本人であるならやはり仏教徒が多いのではなかろうか。 特に葬式を見ればわかるように、死にゆく日本人は仏の救いを求めるように思う。 故に日本のホテルであるならば、引き出しに経典を置くのが筋というものであろう。 その結果「あのホテルは『出る』らしいよ。全部の部屋にお経が置いてあるんだって」という評判が立って、閑古鳥が鳴くかもしれないが。

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