機械 〜ねじに隠された本能


ソフトウエア業界に入った当初、もっとも驚いたことといえば用語のほとんどがカタカナであるということだった。 それまで学んでいた機械系の教科書では用語は漢字熟語でできていた。 なので専門用語といっても字面でなんとなく見当のつくものが多かった。 それがいきなりカタカナである。 なんとも落ち着かない気分になったのを覚えている。 最初のうちは用語が出てくるたびにいちいちスペルの見当をつけては英和辞典をひいて、自分なりのイメージを掴もうとしたものである。

長い時間をかけて入ってきた機械技術と違い、ソフトウエア技術は短期間に大量の技術が入ってきたことが原因なのだろう。 英単語を翻訳したり、新しい単語を作る時間がなかったであろうことは想像に難くない。 また、直接海外の技術に触れるときに、ほぼ原文のままの専門用語を知っておくほうが日本語と原文の専門用語と二度も覚える手間がなくなって楽なのだろう。 その代わりに初心者にとっつきにくい分野になってしまっていることは否めないだろうが。

さて、今回はソフトウエア用語の愚痴ではない。 機械技術の用語について少々引っかかる点があるのでそれを見ていきたい。 機械技術用語、と聞いて腰のひけた方もいらっしゃるかもしれないが、今回取り上げるのは『ねじ』についてである。 どうぞ気楽に読み進めていただきたい。

ねじと言われて皆さんはどのようなものを思い浮かべるであろうか。 聞くまでもないことかもしれないが、釘のような形状で尖った部分に溝がついている木ねじ、ビスやボルトなどが代表的なものであろう。 また、穴の内側に溝がついた、いわゆるねじ穴もねじである。 ナットはその代表といえよう。 このように、ねじの種類を大まかに分けると、溝が外側に付いているか内側に付いているかで分けることができるのである。 これを専門用語で『おねじ』『めねじ』という。 漢字で書けば『雄ねじ』『雌ねじ』である。

そこはかとなくエロチックである。 『雄ねじ』でもって『雌ねじ』に回し入れるわけである。 『雌ねじ』は『雄ねじ』を受け入れるのだ。 なぜPTAのミセスたちが「んまっ、何てお破廉恥ざます!これは青少年の発育に害を与えるざぁますっ!即刻変更するよう教育委員会に言わねばなりませんわっ」と青筋を立てないのか不思議なくらいである。 (教育委員会に言ってもどうしようもないが) そして、どうして『凸ねじ』『凹ねじ』などのようなありきたりで何の煩悩も生じない乾ききった用語でなく、『雄ねじ』『雌ねじ』というほのかにピンクな用語ができてしまったのだろう。

機械用語を訳して概念を理解した上で、日本語に当てはめたり新たな言葉を作るという作業は一夕一朝でなせるものではない。 翻訳者たる彼は何日も部屋に閉じこもり、英語やドイツ語の専門用語の解説書を読み、英英辞典や独独辞典、英語辞典、独和辞典、漢和辞典のページを繰って少しでもわかりやすい言葉を当てはめようと悪戦苦闘していたのだ。 このままカタカナで書き表せば確かに作業は楽になる、だが後世にこの優れた技術を学ぼうとする人のためにも簡単に理解できるような言葉を残しておいたほうがいい、今この苦労を惜しんで将来優れた技術者の素質を持った者が難解な言葉のためだけに技術者になることを諦めてしまっては日本の損失ではないか。 崇高な念を持って、一日でも早い完成を夢見て彼はひたすら作業を推し進めていた。

だが、いくら高い志を持っていても肉体の疲労が蓄積されれば頭脳にも悪影響を及ぼす。 どれほど忙しくても休憩はしっかり取らなければ逆にはかどらないものであるが、彼もその罠に陥ってしまったのだ。 真面目な性格であるが故の罠といえよう。 彼は確かに優れた頭脳の持ち主であったから、不眠不休で疲れきっていても着実に作業は進んでいった。 心配する家人を尻目に、ついにすべてを完成させると原稿を学会のしかるべき人物に持っていくよう言いつけて本人はそのまま倒れこんでしまった。 それまでの無理が祟ってしまったのだ。 不眠不休で衰弱した身体は病に蝕まれてしまい、彼が起き上がれるようになったのはそれから三ヵ月後のことだった。

完治とはいかないまでも、もう危険はないという状態になった彼のもとに一冊の本が届けられた。 彼の努力の結果は既に迅速に製本されて、翻訳の指標となりつつあるという。 それを聞いた彼は達成感に浸りながら、ページをめくっていった。 が、ふと彼はある項目で指を止めた。 そして我が目を疑ってしまった。 そこには紛れもなく『雄ねじ』『雌ねじ』という言葉が印刷されているのだ。 何だこれは、俺はこんなことは書いていない、誰がこんな恥知らずな言葉にすりかえやがったのだ。

怒りに目がくらんだ彼は、止める家人を振り切り学会に駆け込んだ。 俺が渡した原稿を出せとわめき、その剣幕に驚いた事務員が転げるように原稿を持ってきた。 彼は恐ろしいほどの勢いで原稿を繰って、例のページを見つけ出した。 しかしそれは紛れもない彼の筆跡だった。 誰も原稿をすりかえてはいない、彼自身が作り出した言葉だった。 呆然とする彼の脳裏に浮かんだのは、ねじの図を見たときの己だった。 睡眠不足と疲労で、日頃の彼には考えられないことだが理性のたがが外れてしまったのだろう。 妙に興奮してしまい、あらぬ妄想まで浮かべつつその単語を書き綴ったことを今になって思い出してしまった。

彼はその真面目さ故にブルブルと震え出した。 このまま放っておくわけにはいかない。 即座に責任者の部屋のドアを叩いた。 原稿のその部分を示して、これは間違いだったのだと力説する彼に、責任者は苦笑した。 真面目一徹の彼にもこんな洒落っ気があったのだなと、誰も不快に思うことなく製本に回してしまったというのだ。 現代ですら女性の少ない機械業界である、ましてや当時それをセクハラだ何だと訴える女性はいなかった。 いや女性自体が存在せず、男性ばかりの世界だったのだ。 多少セクシュアルな表現でもそれが洒落で通じたのだ。 それは本意でない、修正させて欲しいと言い張る彼に、責任者は無常にも首を振った。 もうこれはあらゆる翻訳の指標として発表してしまったものであり、ねじの種類という根本的な用語をいまさら変更することは余計な混乱を招いてしまうから修正はできないということだった。 彼はがっくりと肩を落として部屋を出ていった。

そう、『雄ねじ』『雌ねじ』という悩ましい言葉は翻訳者の疲労困憊から垣間見えた本能だったのである。 いたいけな青少年に楽しみと煩悩を与えてやれという意地悪からきたわけではない。 それを証拠に、機械用語辞典に目を通せばほとんどの単語にエロチックな響きはない。 ただ『雄ねじ』と『雌ねじ』、それだけが翻訳者の本意でない翻訳となってしまったのである。 だからこれを見てこっそり興奮するのはまだよろしいが、他の人に面白がって教えるのは死者に鞭打つ行為である。 ましてや女性に「何でこれを雄ねじって言うかわかる?言ってみ?」と迫ったりしては、草葉の陰で翻訳者も自責の念で涙するであろう。 くれぐれも死者に鞭打つようなことをせず、一人こっそり楽しむよう心がけていただきたい。 まあ、ここでこんなことを書いている時点で、女王様並みにビシバシと鞭打っている気がするが。

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