建築 〜トイレ


大学生のとき、夜中に肝試しをしたことがある。 何人かで集まって店で酒を飲んでいたのだが、その時近所の今は廃屋となった病院の話題になった。 この世ならざるものが出るとか、見たことがあるやつも多いとか、あいつが最近学校に来ないのはそこで怪奇現象にあって神経衰弱になったからだとか、眉唾な話で盛り上がった。 が、どこにでも興ざめな人間はいる、私のことだが。 そんなのは噂だデタラメだ単にサボリ癖がついてこないだけだろうと鼻で笑ったから、笑われたほうはカチンとくる。 じゃあ今から見に行こう何も出ないというなら怖くはあるまいと挑発してきた。 当時は私も若かったから(今でも若い。そういうことにしておいて下さい)面白い何もなかったら焼肉でも奢れと受けてたった。

今にして思えば、言ったほうも本気で信じていたわけではなく、自分の言ったことをばっさり否定されたのが癪だったのだろう。

しかし当時はそんなことも気が付かず、私はその人(以降Aと呼ぶ)を噂や怪談を本気にする馬鹿だと内心嘲笑っていた。 面と向かって馬鹿にするほど馬鹿ではなかったが、そんなことを思いつつ噂の廃病院まで歩いていった。 それまで噂には聞けど見たことがなかったし、わざわざ見に行こうとも思わなかったが、自分の目で見てみると幽霊だのノイローゼだのという噂が立つのも無理はない。 上から見るとL字型のコンクリート三階建てで建物自体はしっかりしており、少し補修をすればまだ使えるかもしれなかった。 だが、窓ガラスが全部割られて破片がそこいらに散乱している。 コンクリの壁にも錆の混じった水が流れたような跡がついていて、実際の築年数より古臭い印象を与えてくれる。 塀と建物の間の敷地は土が剥き出しになっていて、草が所々に生えている。 ぼうぼうに生い茂っているのではなく、ちょびちょびと生えているのがまた侘しい。 かつて門扉があったらしい場所にはフェンスが張られているが、私でも簡単に乗り越えられるような代物だった。

私とA,あと一緒に飲んでいた男Bと女Cの計四人でフェンスを乗り越えて病院に入っていった。 街中なので懐中電灯がなくても結構明るい。 扉は鍵がかかっておらず、スンナリと入ることができた。 前に来た誰かが壊したのかもしれないが、そこまでは知らない。 中は普通の病院のようで、一階は待合室のような広いスペースや診察室らしき部屋がいくつかあった。 いくら普通の病院のようとはいえ、夜中に見ると不気味なものがある。 ましてやゴミがあちこちに散乱して壁や床にナイフやドライバらしきもので引っかいた跡があるのを見つけると何だか落ち着かなくなってくる。 そわそわしだした私を見てAは嬉しそうに「もう帰るか?」と訊いてきた。 「何もないって納得したんやね?」と言い返すと「怖がってるくせに」と言われ、さらにこっちはムッとなった。 角を曲がると階段があったので私たちは取り合えず二階に上がった。 多分入院患者の部屋だと思うが、広いのや狭い部屋が並んでいた。 ここまでくるとゴミにも傷にも慣れてきて普通に部屋をのぞいていた。

角を曲がって待合室の上あたりにきたときだろうか、何かの物音が聞こえてきた。 それは階段のほうから聞こえてきた。 ガタガタ、ガタガタと何かがぶつかるような硬質の音がするのである。 私たちは顔を見合わせた。 他の誰かが入り込んできたのだろうか? 私たちは恐る恐る曲がり角まで戻ってそこから覗いた。 すると廊下の向こうから銀色のワゴンを押してくる白い影が見えたのである。 ぎょっとしてよく見ると、その白い影は看護婦の格好をしている。 病院に看護婦はごくあたりまえの組み合わせだが、ここは廃院のはず、シャレになっていない。 看護婦が来るまでに階段を駆け下りて外に出なければいけないと思った。 多分、それは皆が一斉に同じことを感じたのだろう、ほとんど同時に階段に向かって駆け出した。 こちらに来る看護婦のほうは絶対に顔を向けず、下を向いて息を止めて一気に走った。 皆がいっしょに出口に向かっていると思ったのに、背後でCの「あっ」という声とその直後こけた音がした。

でも私は立ち止まれなかった。 AもBも立ち止まらなかった。 建物の扉のところまでたどり着いて、ようやく私たち三人は肩で息をしながら戸惑い顔で互いの顔を見詰め合っていた。 私は何も言いたくなかった。 他の誰も何も言い出さなかった。 このまま帰りたくて仕方なかったが、そこまで薄情なこともできなかった。 「Cは…」と誰かがかすれた声で言った。 「階段のとこ…」と私が言った。

しばらくためらった後、さっきまでの勢いが嘘のようにとても慎重にゆっくりと入っていった。 Cが「みんな、薄情やわっ」と怒って来るのを期待していたが何も動く気配がない。 私たちは一段一段踏みしめながら二階に上がっていった。 階段を上りきったところにCのバッグが落ちていた。 けれど彼女の姿はどこにもない。 ワゴンも白い影も何もない。 誰も何も言わなかった。 一言もないまま足を擦るように歩いていった。 角の向こうも何かあるようには思えない。 けれどとにかくCを探さなければいけない。 私たちは角を曲がった。 私はAかBの服をしっかり握り締めて、ほとんど目をつぶって後をついていっていたのだが「あ」という声に反射的に目を開けた。 廊下の少し向こうにコップみたいなものが落ちていた。 光に反射していたので目の悪い私でもすぐにわかった。 何となく、そこに向かって歩いていった。

そこはトイレの前だった。 目をこらすと奥に銀色のワゴンがある。 だらしなく開け放たれたドアが並ぶ中、一番奥のドアだけがピッタリ閉められている。 耳の奥でドクドクと鼓動が響いているのを感じていた。 見たくはなかった。 でもCはそこにいるのではないか。 心臓が敗れそうな程動いて、ひどく息苦しさを覚えた。 緊張で涙がにじんでくる。

その閉ざされたドアの前に立って私たちは囁くようにCの名を呼んだ。 返事はなかった。 しかしかすかに衣擦れの音がしたような気がした。 AとBが私を見た。 嫌だと言いたかったのに、どうしても言えなかった。 渋々うなずいて、二人の膝の上に登って個室のドアと天井の隙間から中を覗いた。 暗闇の中かすかに人影が見える。 隅っこにうずくまっているようだった。 どうやらCのようだ。 少しばかり安堵しながら私はさっきよりもしっかりした声で「C、C」と呼びかけた。 彼女はビクッと肩を揺らし、ノロノロと顔を上げた。 血の気がなくなった歪んだ顔をこちらに向け、私は一瞬彼女が泣き出すのではないかと思った。

けれど。

彼女は恐怖に引きつった顔で、かすれた悲鳴をあげたのだった。

Cが大学に顔を見せたのは、それから一ヶ月後のことだった。 けれど、あの時廃院に行ったことは知らないと言い張った。 だから私とAとBは、あの時彼女に何があったのか、何を見たのか、未だに知らないでいる。


と、前振りが長くなったが、トイレの素朴な疑問である。 何故に天井とドアの間には隙間があるのだろうか。 誰かが覗いているのではないかと不安になってしまうではないか。 以前はそこから針金だか棒だかでぶら下げている鞄を盗む窃盗犯もいたらしい。 天井までぴったりとくっつけて欲しい。

ずっと不思議で仕方なかったが、ある日ふと気がついた。 トイレのことはトイレで考えるがよろしいらしい。 つまりは換気なのだ。 お尻から出る気体には硫化水素やメルカプタンが含まれている。 メルカプタンの比重は0.89で空気より軽い。 当然、上部に隙間があればそこから外に流れ出ていくわけだ。 ちなみに硫化水素の比重は空気に対して1.19なのでやや重い。 これを個室から排出するには足下にも隙間が必要になる。

すなわち、トイレのドアの上下に隙間があるのは建築費の節約でも怪談の温床になるためでもなく換気のためであると結論づけられる。 しかし私としては目的はどうであれ隙間には感謝している。 それがあったからこそCを見つけることができたのだから。

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