就職 〜被害者への道


推理小説の陰の主役、それは被害者である。 被害者がいて初めて事件は成立する。逆にいえば探偵が乗り出すためには事件が必要であり、事件には被害者が必要なのだ。 事件がないのに探偵がいても話は進まないではないか。

もし「被害者なんて誰でもできるじゃないか。アッサリ殺されたり騙されればいいだけなんだから」 という認識をお持ちの方がいらっしゃれば己の不明を恥じて歴代の被害者に謝罪していただきたい。 そんな簡単に勤まるものではないのだから。

まず被害者を大まかに分けると二種類になる。殺される人と騙される人だ。 小説やドラマなどで圧倒的に多いのがやはり前者のタイプであろう。基本中の基本ともいえるプロットだ。 今回は基本でありながら奥が深い殺される被害者に焦点を絞ろう。 彼ら、殺される被害者はただ黙って殺されたら終わりというものではない。 被害者の務めをおろそかにしてはストーリは成り立たないのだ。

殺されるとき、まず心がけなければならないのはダイイングメッセージである。 即死でもない限りはダイイングメッセージ、つまり死に際のメッセージを残しておくのが被害者の義務である。 しかもいくら出血多量や痛みで意識が朦朧としていても直接犯人を示すものはタブーである。 血文字で「はんにんはあおき」などと書き残しては被害者失格だ。 木の枝を握っていても木村、木ノ本、青木など木の文字のついた苗字の関係者が多い場合はこれまた失格だ。 ダイイングメッセージは適度に複雑で謎めいていて、しかも瀕死の状態で考え出せるものでなくてはならない。 「あたおたきた」の文字とタヌキの絵を併せて残しておく程度でもいけない、 被害者には頭脳明晰な探偵を悩ませる義務があることを常に心がけよう。

また毒殺される時に犯人が毒を混入するところを見ても、被害者は毒入りのそれを口にしなければならない。 そして死に際に「誰がこんなことを」と訊かれたら最後の力を振り絞って犯人が誰か伝えなければならない。 無論ダイレクトに名前を言うのはいけない、 抽象的に謎めかしてしかし謎が解ければ的確に特定の人物を指している表現が求められる。

死ぬ前に弁護士や探偵に依頼するのも被害者の一つの役目だ。 ここで注意するべきは義理堅く人情に厚く頭のいい人間に依頼しなければならないということである。 死んでしまった相手から依頼料は取れないとばかりに契約を破棄してしまう人を選んでは死に損である。 有名でなくてもよいから確実な人を選ぶべきである。

更に注意すべきは、被害者となった場合調査がなされるということである。 当然だと切り捨てるなかれ。調査がなされるということはプライバシーが晒されてしまうということである。 過去の過ちも暴露されるかもしれない。それを覚悟しておかなければならないのである。

さて肝心の被害者になる条件とは一体何であるか。 サイコパスに出会ってしまった場合もあるが、これだと被害者の義務はほとんど求められることがない。 楽ではあるが、その代わり影の主役という立場も放棄せざるを得ない。単なる不運な脇役で終わってしまう。 やはり同じ殺されるからには頭脳派の犯人を求めるのが人情というものだ。 もっとも簡単な手段は「恨みを買うこと」であろう。日頃から非情な手段で儲けていればおのずと犯人予備軍を招くこととなる。 身内にも人を人とも思わぬ扱いをしておけば更に可能性は高まる。しかも財産がたっぷりとあれば言うことがない。

しかも「財産」はそれだけで動機となりえる。 贅沢をしても余りあるほどの財産があればそれを狙う人物が一人二人いてもおかしくはなかろう。 財産はあるが身内には高潔な人物しかいないと残念がるのであれば、突如極悪非道な人柄に成り下がるしかないが。

「余計なことを知ってしまった場合」も被害者となれる。 この場合財産は必須ではないが通り魔や事故と勘違いされないよう手を打っておかなければならない。 前述の通り、弁護士や探偵に謎めいた依頼をしたり、自分が死んだ場合は手紙を投函してくれと頼んでおくのがよいだろう。 ここで気をつけなければならないのは、犯人となる人物の名は伏せておくほうが望ましいということである。 「私はあることを目撃してしまったために殺されるかもしれない、だが確信はないのでその人物の名は明かせない」 といった感じの依頼や文面のほうが、以後のストーリの展開にふくらみを持たせることができる。

逆に知ってしまったことをネタに「恐喝」するのもよいだろう。 恐喝の基本は無理のない金額を何度も、であるがそんなケチくさいことを言っていてはいけない。 一度にふっかけることで、進退窮まった被恐喝者が犯人に転ずることはままある。 この場合は犯人が手がかりを消滅するよう心がけるので、依頼などの前準備は必要ないだろう。

以上、サラリとではあるが陰の主役、被害者に焦点を当ててみた。 被害者の重要性は理解していただけたのではないだろうか。 探偵や犯人になれるほどの頭脳を持ってないとお嘆きの方は被害者を目指してみてはいかがだろうか。

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