妄想





 N君は都内の中堅どころのアプリケーションソフト開発会社でプログラマーとして働いている。

 入社してまだ5年だがプログラマーとしてすでに信頼を獲得している。N君の書くコードは美しくはないが堅牢なことで高く評されているのだ。優れた想像力を駆使して、あらゆる場面を想定して設計するので多少時間を要するが、今までバグを発生したことはない。

 N君には恋人がいる。社内恋愛だがまだ誰にも知られていない。恋人の玲子は同じ部屋の管理部門で働いているから遠目ながらN君を見ることができる。

 2人は関係を社内に知られないように細心の注意を払っている。会うのは土曜日で、それも会社から遠く離れた地域にある3か所の限っている。それぞれG、E、Cで区別し、社内で2人にしか分からない合図を送っている。合図は時々変えるようにしている。2人の密やかな楽しみにもなっている。

 某月某日、2人はG、つまりカフェ・ギャラクシーで待ち合わせた。天井に天の川銀河が描かれたおしゃれなカフェでランチを楽しんだ後、2人は森林公園に散歩に出た。

あれこれ話してちょっと間ができたとき、玲子がけげんな表情を見せてつぶやいた。

「どこか悪くない......」

「なぜ?」

「だって最近、突然立ち上がって、不思議そうに時計を見ることがあるじゃない」

「そう......見てたのか。最近ね、もうすぐ昼休みだなと思ってPCの時計を見るとまだまだなんだ、それで壁時計を見るのに立ち上がるんだけど同じなんだ、逆にびっくりするくらい早く時が進んでいるときもあるんだよ......」

「疲れてるのかしら、でも残業ももほとんどしてないのにね」と玲子は首をかしげた。

「こないだなんか、昼飯たべてて、そろそろ喫茶店行ってコーヒー飲もうとしたらもう1時になりそうで慌てて会社に戻たんだよ。時間の進みが早くなったり遅くなったり妙なんだ」

 それから一月あまりN君の脳内時間の進み、遅れは極端になってきた。ひどいときは走馬灯のように時間が過ぎてゆくのだ。これじゃあ早く死んでしまう、いや、遅いときもあるからそれで帳尻が合うのかななどと考える。

 そんなN君を見かねて、玲子は義理の兄で精神科医のF医師を紹介した。最初、N君は精神科に抵抗を見せたが、玲子の切なる勧めに応じた。

 某日、N君は休みを取ってF医師の勤務する病院を訪れた。病院というところは初めてなのでやや緊張していたが、事前に紹介状をもらっていたのでことはあっさり進み、ほどなくN君はF医師の診察室に入っていた。

「話は玲子ちゃんから聞いてます。確認のため少し質問に答えてくださいね」とF医師は笑みを絶やさない。

 N君は最近の症状詳しく説明した。

 F医師はN君の顔を見ながら何度もうなずき、話が終わると静かに言った。

「うん間違いない、タイムワーピングシンドローム、つまり時間伸縮症候群だね。略してTWSです。これは病気としてはまだ正式に認知されてないんだ。最初、中国のC博士が論文を発表したけど非難ごうごうでね、ただの躁うつ病に過ぎないというのが大方の見解でね、さらに悪いことに、治療法は座禅だというんだからますます非科学的だということになってC博士はペテン師扱いさ......」

「先生はどうなんですか......」

「ぼく?ぼくはもちろんC博士を信じてるよ、治療法以外はね。躁うつ病と診断された人の3割はTWSに違いない と思うよ」とF医師は続ける。

「今ぼくが試してるのは、チベット式の瞑想です」

「座禅と違うんですか?」

「長年にわたり瞑想を行ってきたチベット仏教の僧侶の脳をスキャンした結果から、瞑想は実際に脳を変化させることが証明されているんだよ。」

「どうです、時間はかかるかもしれないけど、試してみる価値はあるとあると思いますよ。これ以上悪化させないためにも......」

 N君はしばし考え込んだ。やがて決心した。

「やってみます」

「チベットのぼくが懇意にしてる高僧が山奥の寺に滞在してるんだ。紹介状メールしておくから来週の土曜日に行ってください」
「メールですか......」

「今どきはね」とF医師はニコッと笑みをこぼした。

 N君は玲子の運転で寺に向かった。玲子は大学時代ラリー部のマネージャーをやっていたくらいだから運転はもちろん好きであり確かだった。

  出発3時間後、山中に入り道なき道を鮮やかなハンドルさばき1時間余り行くと古ぼけた寺が姿を見せた。車が停止すると、あごひげの立派な老僧がにこやかに出迎えた。

 それから2時間あまり後、N君はチベット式瞑想の呼吸法の指導を受けて、瞑想に入っていた。

 翌週も寺に赴き、都合5回の指導を受けてようやく老僧の許可を得て、その後は自分で瞑想を行うことになった。

 朝30分程度、就寝前に60分程度、欠かさず瞑想を続けている。

 一月もすると効果を実感するまでになり、N君は現状報告を兼ねて老僧に会いに行くことにした。

 今度は一人で寺に向かった。 やがて目印として記憶しておいた大木の横を通り過ぎ多少緊張がほぐれた。

「もうすぐだ、よし......」

 だが隘路をいくら進んでも寺は姿を見せないばかりか、辺りが霧に包まれてきたのだ。不安が足元から......。 さらに、なんと勝手にスピードが増してきて何度もブレーキを踏み込んだが効き目がない。やがて踏み込む足がが膠着し、霧がますます濃くなり道が消えた......。