小雪舞う草木も凍える師走の夜、マジシャンNは、存在しない赤く燃える暖炉とふかふかのベッドを目指してトボトボ歩みを進めていた。
かつてはマジシャンとして大仕掛けな人体浮遊マジックや脱出マジックで人気を博し、やがて世界に羽ばたき、数十年に及ぶ華やかな生活を謳歌していたのだが、驕りにより人間関係が破綻しさらには酒色に溺れ体を壊し、没落の一途をたどった。
ここ数年は街頭でささやかな手品を披露して糊口をしのいでいる。
次第に視界が怪しくなってきた。と同時に足が地につかない感覚におそわれ、やがて仰向けに浮遊している心地よさが体を包んだ。
オレはマジシャンだぞ、自分が浮遊してどうする......
モスクワは最高だったな、大観客を前にしてやったマジックは多分人生で一番の出来だった。演出も最高だった。いつまでも拍手が鳴りやまなかった。キャビアとウオッカとロシア美人、あの頃はまさに酒とバラの日々だったな。
なんだこの感覚は、乳色の天の川の流れに運ばれていく......流れがきついな......
N氏が意識を取り戻したのは暖かい病院のベッドの上だった。しばらくは事態が呑み込めずぼんやりしていたが、「お目覚めですね」というやわらかい女性の声に、とにかくは意識が明瞭になった。それは美しい女医の声だった。
N氏が通りで意識を失っていたところを救急車で病院に搬送され手当てを受けたことなどを説明した。そこでようやく身に起こっている事態を理解したのだった。
それから1週間ほどは検査づけ日々であった。
やがて女神の口から、余命3か月ですね、というふくよかな冷言がもれた。N氏はしばらく思考停止が続いた。が、意外なことに全身に活気がみなぎるのを覚えたのだ。
なんだこの高揚感は......
病室に戻ってからもそれは続き、N氏は久々に時を忘れ新しいマジックを考えていた。
最後に一花咲かせよう、この病院で。脱出マジックだ。よし。
あれこれ考えを巡らせているうちにN氏は深い眠りに落ちた。
看護師が昼食を持ってきた。仕切りカーテンを開けるとN氏が燕尾服姿で屹立しているではないか。看護師は茫然とその場に立ちすくんだ。声も出なかった。
よし、目を丸くしてるな。
N氏はカーテンを閉じた。
いよいよ脱出だ。壁をすり抜けるんだ。まず壁と一体化して......そうだいいぞうまく溶け込んでいるぞ......もう少しですり抜けられる。カーテンを開けたら看護師は卒倒するかもしれないな、最初で最後の仕掛けのないマジックだ。
ややあってから看護師が正気を取り戻しておそるおそるカーテンを開けると、そこにはうつろな眼差しで遠くを見つめるN氏の姿があった。
どうだすごいだろう。看護師の驚きようったらないな、阿呆みたいだ......