このシリーズは1981-1984の発行です

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私の油彩作品二点

旧北海道道庁
(油彩F−60)                
中ノ島公会堂
大阪(P−50)

切手で見る
日本の近代洋風建築

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旧睦沢学校校舎
旧睦沢学校校舎(藤村記念館)は、明治8年、中巨摩郡敷島町亀沢(旧睦沢村)に建築された。設計・施工者名は松木輝殷。、県令・藤村紫朗が勧奨した藤村式と呼ばれる擬洋風建築の一つである。建設当時藤村紫朗は数百にのぼる洋風建築を奨励したという。昭和32年から5年間は睦沢公民館として使用され、老朽化により撤去寸前のところを保存委員会の手で41年、現在地の武田神社の境内に移築復元された。インキ壷学校 という愛称で慕われている。昭和42年に国の重要文化財に指定された。

旧済生館本館
明治初年の洋風建築として名高いこの建造物は、明治11年(1878)に竣工した当時の公立病院済生館の本館であります。文明開化の推進者として著名な三島通庸(鹿児島県人)が山形県の初代県令として赴任するや、県庁、郡役所、学校をはじめ公共物等の洋風による新築工事を急速にすすめました。この建物も係官を上京させて、東京、横浜等の各病院を視察させ、それに当時の学者や権威者の指導助言をうけ、明治11年2月着工、同年秋9月竣工したものであります。

旧尾山神社神門
 慶長4年(1599)に加賀藩初代藩主前田利家を合祀して創建された卯辰八幡宮を、明治6年(1873)に卯辰山から現在地に移し、尾山神社とした。神門は、明治8年(1875)11月25日に竣工したもので、和漢洋の三洋式の折衷様式とも見える異様な形で、竜宮城を思わせるといわれ、石積みのアーチなどは、当時大いに新風を誇ったものであったろうが、一方では文明開化の西洋かぶれともいわれた。しかし長谷川準也の趣意書によれば、ことさらに珍奇をめざしたものではなく、強いて伝統を踏襲せず、堅固をめざしたものであるという。

聖ヨハネ教会堂
 この教会堂が建設されたのは、明治40年。 明治22年に建てられた建造物の建替えとして、京都の河原町に建てられました。 前身の教会堂が、英語学校兼幼稚園として使用されていたため、聖ヨハネ教会堂竣工当時は同じように使われていたと想像します。 竣工当時の名前は、「京都五条教会」といい、その後改称され「京都聖約翰教会」となりました。(約翰はヨハネの漢字表記)。 

大浦天主堂
フランス人プチジャン神父によって元治元年(1864年)に建てられた日本最古の木造ゴシック造りの教会である。この教会は西坂の丘で殉教した26聖人に捧げるために建てられた教会で正式名称は「日本26聖殉教者聖堂」と言います。この教会ができてまもなく、浦上村の潜伏キリシタンがこの教会を訪れ、プチジャン神父にひそかに「私どももあなたと同じ信仰をもつ者です」と打ち明けた。この「信徒発見」のニュースはローマへ伝えられ、世界カトリック史上に残る「東洋の奇跡」として、教皇ピオ9世を感激させた。天主堂へ向かう坂の左手には、慶応元年(1865)3月17日の潜伏信徒発見を記念した公園がある。







桜宮公会堂
造幣局の正面玄関として、これもまた明治4年に建てられたものです。その後、造幣局の改修にともない、当地へ移設。昭和31年に、泉布観とともに重要文化財に指定されました。これと同じように造幣局の応接所として明治4年に建てられたコロニアル風の泉布観も明治天皇が名付けられたもの。以来、皇室や外国使節の宿泊所としても活用されてきました。重要文化財に指定されています。

旧五十九銀行本店
 明治37年11月19日、弘前市親方町19番地に、第五十九銀行本店として完成したものである。棟梁は名匠の誉れ高い堀江佐吉で、時に59歳であり、それまでに彼が修得したすべての技法と精力を投入した建造物である。 総工費67,711円、工期2年半、この優れた様式は広壮、虚飾を排して、堅牢にして疎略に堕せずと讃えられたという。 木造2階建て、用材は県内のヒバとケヤキ、内部の壁面は瓦を張り、その上を漆喰で塗りつぶして釘を使わないという工法は、実に独創的で東奥のルネサンス建築といわれる。

旧ハンター住宅
  旧ハンター住宅は、もと神戸市中央区北野町3丁目にあった建物を昭和38年に現在地に移築したもので、現存する神戸の異人館の中では最大の規模のものの1つです。 最初に作られたのがいつかは、はっきりとわかっていませんが、明治22年頃ドイツ人のA.グレッピー氏が英国人の技師に依頼して作ったものといわれています。 その後、英国人のE.H.ハンター氏が、北野町背後の高台に居宅を作るにあたり、この建物を買い取り、改造して現在にみる建造物に仕上げたもので、棟札に「上棟式範多氏」「40年5月吉日 棟梁芝嶋吉 建」と墨書きされています。

旧北海道庁庁舎
 「赤れんが」の愛称で親しまれている北海道庁旧本庁舎は、1888(明治21)年にアメリカ風のネオ・バロック様式で建てられました。 日本の明治期を代表する建物とともに、緑豊かな前庭は札幌市のオアシスとなっています。 現在の「赤れんが」は実は二代目。最初の建物は煙突の不備により焼失してしまいました。 庁舎の北側には「開拓使本庁舎跡」を示す石碑が立っています。また、内部は北海道の古文書などが収蔵された北海道立文書館として一般開放されています。
下段に油彩作品あります

旧開智学校校舎
開智学校は、 1873年(明治6年)5月に松本藩学(廃藩置県後は筑摩県学)を継承して開校されました。 開智の校名は『学制序文』の「人々…其身ヲ修メキ才芸ヲ長スルハ学二アラサレハ能ハス」から命名されたといわれています。この校舎は、学事を施政の中心にすえ、 文明開化政策を強力にすすめた当時の筑摩県権令・永山盛輝(ながやま・もりてる)によって計画され、 松本の大工棟梁・立石清重(たていし・せいじゅう)が設計施工しました。






旧グラバー住宅
長崎を代表する観光施設「グラバー園」の核となる洋館。安政6年(1859年)に長崎に来て貿易業を営むかたわら、日本の近代化に大きく貢献した英国人トーマス・ブレーク・グラバーの遺構で日本最古の洋風木造建築として昭和36年に国の重要文化財に指定されました。昭和14年から三菱重工長崎造船所の所有となっていましたが、昭和32年に同社創業100周年記念事業の一つとして長崎市に寄贈されました。また、「グラバー園収蔵検索システム」で貴重な収蔵品をスピーディに閲覧することができます。

日本銀行本店本館
明治29年(1896)竣工の石造及び煉瓦造、地上三階地下一階建の建築。屋根は鉄板及び銅板葺。正面に回廊を廻す。外装は石積。窓は両開き硝子戸欄間付(サッシュ使用)。ネオ・バロック様式にルネッサンス意匠を加味する。辰野金吾の設計による明治洋風建築中最重要な遺構。
石及び煉瓦造三階建、地下一階、鉄板及び銅板葺、正面・回廊及び中庭附属
建築面積2,684.6平方メートル

同志社礼拝堂
同志社大学の校舎はアマースト大学と大変よく似た造りになっており、赤煉瓦の礼拝堂も、明治時代の重要文化財というよりも、アメリカ東部の臭いがしないでもない。一部は中二階となっており、面積は316.8平方メートル。簡素ながら美しい曲線を描く、エキゾチックな礼拝堂は同志社大学のシンボルであるばかりでなく、不思議と京都の街に溶け込んでいる。明治十九年の建築で、設計はアメリカ人の宣教師のグリーンと伝えられている。烏丸通りに面した門より入り、正面の塔のある建物は旧神学館、左手には礼拝堂、礼拝堂の東にあるのが理化学館である。

豊平館
 明治文化の薫りが漂う豊平館は、北海道開拓使が洋風ホテルとして建築し、明治天皇北海道行幸の行在所となった明治14年8月30日に開館しました。 当初北1条西1丁目にあった建物は、その後公会堂を付設し、長く札幌の文化活動の拠点となりましたが、都市の膨張と市民会館建設の必要性に迫られて、昭和33年現在地の中島公園に移築されました。昭和39年には国の重要文化財に指定、昭和61年には老朽化と移築などで失われた創建時の姿を復元する修復工事が完了。館の白い外壁を縁取る美しいウルトラマリンブルーは、創建当初の様子を再現したものです。

旧日本銀行京都支店
この建物は設計者辰野金吾がで1903年(明治36)9月に着工され、1906年(同39)6月に竣工した。日本銀行京都出張所は1894年(同27)4月に東洞院通御池上ルに開設されたが、1906年7月にこの地に新築移転され、1911年(同44)6月に出張所から支店に名称が変更となった。その後、銀行は1965年(昭和40)10月に河原町通二条に移転し、建物は1967年(同42)4月から財団法人古代學協會の所有となり、翌年5月から平安博物館として開館した。1969年(同44)3月に国の重要文化財に指定される。1986年(同61)4月に京都府に寄贈され、修理・復元の後、1988年(同63)10月に博物館別館として公開された。2005年(平成17)5月には、リニューアル工事が実施された。






旧札幌農学校演武場
ご存知の通り「時計台」としてよく知られているこの建物は明治11年札幌農学校演武場として2代目教頭ホイラー博士の構想に基づき完成した。現存する時計塔としては日本最古のものである。時計塔正面下部の「演武場」と書かれた古びた木額は明治維新の元勲岩倉具視の筆で、文武両道を兼ねた当時の建物として最もふさわしい名であったと言われている。内部では時計台の歴史の史料が展示されている。

表慶館
  皇太子殿下嘉仁親王(大正天皇)の御成婚記念に、国民から奉献された美術館である。宮内省の片山東熊に設計が委嘱され、明治34年8月に着工し、明治41年10月に竣工した。ネオ・バロック様式と鉄骨、石材などの材料には、同じく片山が設計した東宮御所(現・迎賓館)と類似の点が多くみられる。石張り煉瓦造2階建てで、中央部に大ドーム。両翼に小ドームをもち、左右対称となっている。内部は、中央ドーム下のホールが1・2回吹き抜けをなり、ドーム天井周り、2階ギャラリーを回るイオニア式列柱やてすりなどは、ゆるぎない整然とした比例構成など、雅致深い建築である。昭和53年5月、重要文化財に指定。 

旧岩崎家住宅
この建物は、 旧三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎(いわさき・やたろう 1834-1885)の長男で、 三代目・岩崎久弥(いわさき・ひさや 1865-1955)が、 J.コンドルに設計を依頼して建てられました。17世紀初頭の英国ルネッサンスのジャコビアン様式を採用し、 装飾には多種多様のモチーフが駆使されている、明治期の邸宅を代表する洋風木造建築です。 洋館南側には列柱の並ぶベランダがあり、 ベランダの床にはサラセン風デザインのタイルが敷き詰められ、 1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の装飾が施されています。 東側のサンルームは、1907年(明治40年)に増築されたものです。
下段に水彩作品あります

旧学習院初等科正堂
正堂は1899(明治32)年,東京四谷尾張町に建てられた。1937(昭和12)年,印旛郡遠山村(成田市)に払い下げられ,遠山尋常高等小学校(現,遠山中学校)の講堂として使用された。建物は木造1階建で,中は広間になっており,正面には階段によって演壇が設けられ,演壇中央は半円形に張り出している。

旧西郷従道住宅
 木造2階建銅板葺き、1棟、建築面積253.2m2
 もと東京上目黒の西郷従道の別邸にあった西洋館であり、明治10年代の建設で当初から迎賓のための施設としてつくられたものであろう。工事には、建物の耐震処置に関する研究者でフランス人建築技術者のレスカスの参加があると推測され、構造的配慮がなされていることもこの建物の特徴である。意匠も洗練された質のよい建物であり、明治前期の西洋館として数少ない遺構の一つである。

現在は犬山市明治村に移設






スケッチ 旧岩崎家住宅  水彩
南庭ベランダ 玄関側